161. 過ぎたるもの
煙管をふかしつつ、澄み渡る空を見上げる。
「帰りたい」
将軍主催の宴を途中で帰ったもんだから、宴嫌いという噂が立った。
まあ、それは別にいい。細川邸に居候しているもんだから、茶の湯ならイケると二日を置かずに招待されるのは勘弁してくれ。白塗りお化けどものおかげで京言葉にも慣れたが、腹芸だけは未だに上手くなった気がしない。そして言葉に詰まるお公家様を見るのは、ちょっと楽しい。
二度目以降の応対は側近たちに任せた。
貞勝がよく参加しているのは、落雁目当てだろう。
『違います。情報収集が本来の目的です』
と舶来物の眼鏡をクイッと上げて反論していたが。
フロイス経由で堺商人から買い付けた眼鏡は、大変よく似合っていた。今までの功績に報いたい俺の気持ちだと言って、何とか受け取ってもらった経緯がある。物がはっきり見えるようになった、と喜んでくれたので何よりだ。目が飛び出るような値段だったのは言わないでおこう。
「この屋敷も静かになったなあ」
義昭はもう細川邸にいない。
二か月後の完成を待たずして二条城入りを果たした。
正当なる将軍として、再び諸大名へ号令をかけたのが数日前。
返事が来るまでまだかかるとはいえ、二度目の上洛命令に応じる奴がどれだけいるか。畿内はともかく、武田と上杉は懲りずに交戦中である。いい加減にしろよと言いたいが、水と油みたいな関係なのだろう。今は本人たちの意志よりも別の要因がありそうなので、義昭が調停役に出る予定だ。
お手紙公方らしく、御内書で。
「三郎殿」
床板をきしきし言わせて、信純がやってくる。
貞勝と同じ頃に畿内入りしてすぐ、あちこちを飛び回っていたのだ。動けないのがこんなにも辛いと思わなかった。仕事が大量にあるので退屈しない反面、癒しがなさすぎて泣ける。公家衆から、娘を妾にどうぞと差し出されては断っている。
そのせいで、帰蝶が悋気を起こす鬼嫁と誤解されてしまった。
帰蝶に会いたい。野郎は見飽きた。
「おー、又六郎。ごくろー」
「想像以上に疲れた顔をしているね。松永弾正から大和国落ち着いた、って報せが来たよ」
「花火が効いたか?」
「空砲と抱え筒で盛大にやらかしたからね。本当に三郎殿の考えることは常道を外れているというか、型破りというか……面白いからいいけど」
「成功したんだからいいじゃねえか。何度も使える手じゃないしな」
「戦用じゃなくて、花火大会がやりたかっただけでしょ」
返事の代わりに特大の煙を吐く。
騙されただ何だと騒いでいたものの、勝手に俺がそう思い込んでいただけだ。大和国には貴重な文化遺産がたくさんあるし、寺を壊すと仏教関係者の機嫌が下がる。いずれ僧兵なんていうヤクザ者は排除したいと考えているが、根来衆のように使える奴らもいる。
乱世が終わるまでは、仕方ない。
俺の退場と道連れにできればいいと思っているが、まだまだ先のことだ。
「筒井軍はどうした?」
「降伏したよ。筒井城と国人衆としての地位を安堵するって言ったら、アッサリと。……そうそう。お探しの島左近が三郎殿に会いたいって言っているんだけど、止めておく?」
「は!?」
思わず体ごと振り向いた。
「又六郎さんや、そこんとこ詳しく」
「絶対会いたがるだろうから、全員連れてきたよ」
「全員?」
やれやれ、とばかりに溜息を吐いた信純が踵を返す。
状況が飲み込めずに呆けている俺は、ぞろぞろとやってきた男たちに目を見開いた。慌てて体裁を取り繕うにも、煙管を片手に胡坐を崩した姿勢をがっつり見られた。薄らと生えたすね毛は隠したものの、松永弾正に「そのままで」とジェスチャーをされる。
ご威光どころか威厳の欠片もないんだが。
「お初にお目にかかる。松永家臣、柳生但馬守宗厳でござる」
「陽舜房順慶でございます」
「筒井家臣、島左近尉清興と申します。噂に名高い織田尾張守様に拝謁が叶いまして、感謝の念に堪えません」
「織田上総介信長である」
他人の屋敷で拝謁も何もあったもんじゃないな。
この中で一番若い左近の言葉を皮肉に受け取りながら、一人だけ禿――もとい、剃髪した男をまじまじと見つめた。どこか気の弱そうな兄ちゃんであるが、大和国の所有権をめぐって松永弾正とやり合っていた武将だ。見た目通りじゃないのかもしれないと思いかけて、外した頭巾を揉んでいる様子に微妙な心地になった。
そして白髪混じりの男は柳生といったか。
有名な柳生十兵衛の親か、祖父にあたると思われる。一人だけ風格が違って見えるのは、親父殿を彷彿とさせる厳めしい顔だからじゃない。此奴、できる。見ただけで分かるようになった俺も成長したかなあ、なんて甘いことを考えてみた。ちょっと腕に自信のある奴は抜き身の刀みたいなオーラを出しているが、本当に強い奴は鞘に納めた名刀と同じだ。
抜かなきゃ安全。抜いたら死亡。剣豪コワイ。
「面白い奴らと一緒だな、ばくだ……久秀」
うっかり爆弾正と言いかけた。
松永弾正の目が細くなって、背筋がひやっとする。諱で大丈夫なら、今後はそれでいくか。平手久秀の方は通称で呼んでいるし、間違えることはないだろう。
「殿の興味を満たせましたかな」
「うむ」
にやにやと笑い合う俺たち。
分かっていないのは大和国の男たちだ。
特に順慶は落ち着かなさげに頭巾をニギニギしては、左近に軽く窘められている。やっぱり大したことないのか、順慶。豊臣以前の島左近が筒井家臣だと判明した時、幼い順慶を傍で支えてきた忠臣という話も聞いた。松永弾正と義継の関係に似ている。
「まあいいか。そのうち分かる」
「え?」
「殿は独り言が多うござるゆえ、気にせぬのが織田の常識である」
「なるほど」
「信長様は変わっていらっしゃるんですね」
「さ、左近!」
「左様。殿は変わり者であらせられる。大筒の策も、殿から授けられたものと話したはずだが? よもや信じておらなんだか、島左近」
「いや、だってアレは戦用じゃないでしょう。畿内統一の祝いに使われるものを、無断で運んできたのかとイテッ」
「左近!! 場を弁えよっ。尾張守様、申し訳ございません」
「申し訳ありません」
久しぶりの主従漫才だ。
左近を叱った後にすぐさま、俺へ謝ってくる順慶は好感が持てた。大和国にいた他の四家や興福寺のことも気になるが、松永弾正に任せておけばいいだろう。柳生の爺さんはほとんど喋らないまま、ずっと俺のことを観察していたのだけは覚えている。
この爺さんはその後、柳生谷へ帰る途中で落馬して重体という報せが届いた。
年寄りが無茶しやがって……、養生しろよ。
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さて大和国が落ち着いたので、畠山氏の問題である。
河内国を遊佐氏から奪い取って守護代を務めていたようだが、あくまでも本拠地は紀伊国だ。紀州で唯一、織田領と呼ばれない地域ともいえる。二条城のある京、山城国に近い河内国はまだマシだ。細川様の説得もあって、守護代・畠山秋高が上洛命令にも応じている。
義昭の将軍擁立にも関わったらしいので、どこもおかしくない。
負けた遊佐氏が裏で糸を引いているらしいという噂もあるが、秋高本人を見る限りは傀儡政治のにおいがしなかった。どちらにせよ、大人しくしているなら何でもいい。
再び細川邸に松永弾正が顔を見せた時、厄介事の予感しかしなかった。
「義継に所領を渡せって?」
「虫のいい話であることは重々承知しております」
「河内が妥当だな。藤孝が二国も管理できんと泣きついてきたから、ちょうどいい」
「よろしいのですか?」
「ヨロシもワロシもあるか、ド阿呆。大事な坊ちゃんなんだろ」
すると松永弾正が変な顔になった。
喜怒哀楽を一緒くたにした複雑怪奇な表情を浮かべるという器用な真似をして、深々と頭を垂れる。大和国の件と同じように朱印状を書きつけ、松永弾正に持たせた。何かと俺へ顔を売るようなことをしてきたのも、息子や元主君を守るためだと知っている。俺の采配が紙一枚の軽さで終わらないことを祈るばかりだ。
細川様の負担が軽減されるかどうかは……、今後次第だろう。
「信長様」
そのまま去っていくと思いきや、神妙な顔の松永弾正がいる。
「何だ? まだ何か用件あったか」
「ずっと……言いそびれていたことが一つ、ございます」
「おう」
何かなー、厄介なことじゃないといいなー。
落ち着かなくなってきたので煙管を取り出した。
人前で無作法な気もするが、相手は松永弾正である。今更気を遣うこともないだろう、と煙草盆を引き寄せた。大きな煙管に合う特注品を信包が贈ってくれたのだが、帰蝶の黒髪を思わせる漆黒だった。
「弟の命を救ってくださったこと、深く感謝しております」
「ゴフッ」
「とうに気付いておられると思いますが、丹波の内藤備前守は我が弟にございます。信長様の救援がなくば、弟は黒井城の戦いにて討ち取られていたことでしょう。我ら兄弟、この恩義を一生忘れませぬ。そして義継様への寛大なお言葉、必ずやお伝えいたします」
「あ、うん。あんまり、気にすんな」
「実に信長様はお優しい」
ちっとも褒められた気がしない。
さっきとは違って確かな微笑を浮かべる松永弾正も、目が全然笑っていなかった。いるんだよなあ、こういうの。山科卿・細川様辺りがその筆頭だ。腹の探り合いが得意な奴は、言葉の裏を探ろうする。俺がそんなタイプじゃないって分かっていても、何かあるんじゃないかと疑ってしまう。
というか、本当に知らないんだって!
一回目の将軍暗殺(未遂)があった年、丹波で国人衆と守護代との抗争も起きていたのは知っている。丹波といえば黒豆だよなあ、なんて呑気なことを考えていたくらいだ。あの頃の俺にとって、まだ対岸の火事だった。
誰がやらかしたかは大体、予想がつく。
黙って煙管をふかし始めた俺にもう一度頭を下げて、松永弾正は書状を手に去っていった。
「よ! 暇そうだなあ、信長サマ」
入れ替わりに慶次がやってきて、軽口をたたく。
「って、何だ。サボり中か」
「代わりに書状の山を片付けてくれ」
「あいよ」
冗談だったのに、二つ返事で応じてしまった。
前言を撤回しようとしたら、びっくりするような達筆で仕上げていく。しかも早い。花押までソックリだ。机に向かう姿勢はお手本みたいに綺麗で、前田家で厳しく躾けられたのだと分かる。
「でかい戦やると聞いたのに、まだ先だっていうからさ」
「仕方ねえだろ。海の向こうにいるんだ」
「尾張のうつけも船酔いには勝てねえってか」
「ふん」
結局、サインが必要なものは全て片付けてくれた。
お礼に火を分けてやれば、慶次は笑って煙管を掲げてみせる。
「さーんきゅ! って言うんだろ、こういう時」
「サボタージュみたいに広めるんじゃねえぞ」
「へいへい」
ほどなくして黒と赤の長い煙管が並んだ。
縁側に腰を下ろしながら、隣にいるのが義輝じゃなくてよかったと思う。将軍暗殺の実行犯は三好三人衆だけじゃない。松永弾正の息子・久通と三好義継もいた。そもそも御所に守備兵がいなかったとは考えにくい。一万の軍勢が接近してくるまで、全く気付かないなんてありえない。
政治面でぎくしゃくしていても襲撃の危険は感じなかった。
要するに、そういうことなのだろう。
俺が間に合わなかったら、史実通りに義輝は死んでいたはずだ。あの一件で完全に三好家から敵視されるに至り、新しい将軍を支える立場になってしまった。細川様の願いをきっぱり断っていたら畿内統一なんて面倒なことにならなかっただろうが、俺は美濃や尾張を失っていたかもしれない。
だが将軍側が一方的な被害者とも言えない。
繰り糸を断ち切るために、義輝は暗黒面に手を出した。
「薬と毒は表裏一体だ」
ふはーっと煙を吐く。
「どこまで真実か、そうでないかは重要じゃない。事実は変わらなくても、人の心は移ろうもんだ。そいつにとっての真実が、他の奴にとっての真実とは限らない」
「昔のことを掘り返すなんて、あんたらしくもねえな」
「勝手に調べた奴がいるんだよ。そんで報告してきた」
「知らない方が良かった?」
「いや……、どうだろうな。知らないよりは、マシだろう。俺が『知っている』だけで、奴の動きは慎重になる。今は」
三好家と将軍家の因縁は深い。
義継と義輝は全く知らないことで、周囲の自発的行動かもしれない。少なくとも畿内の様子を見る限り、三好家の統治下で繁栄していたとは思えなかった。兵農分離も進んでいないし、兵の練度にばらつきがありすぎる。摂津三守護を中心に、長秀が軍隊指導を行っているようだ。
あちこちで小競り合いが続いていたため、田畑の状況も悪い。
鎧を脱ぎ捨てて農耕集団と化した織田軍は今、広大な丹波国で奮戦している。城や砦の修復、兵の鍛錬、田畑の改善が終わるまで一年と定めだ。そこから先は各自でやってもらわなければならない。畿内が潤えば、公家衆もちょっとは楽になるだろ。
ただ海側の警戒度を上げると、三好三人衆を追い詰めにくくなる。
いくら巨大な鉄甲船でも、一度に乗せられる人員は限られるからだ。大船団を造るには資材と年月と金が莫大なものになる。堺に停泊中の南蛮船、中見せてくれないかなあ。
「誘い込めば?」
「どこに」
「堺に」
「…………」
「…………」
「岐阜に帰りたいんだろ。帰ったら、また来ると思う」
唐突に三国志を思い出した。
泣く子も黙る合肥伝説、遼来来である。張遼の勇猛さを象徴する話と、本隊が去るのを待っている三人衆を同列に並べるのは英雄に失礼だとは思う。どこに来るか分からないから怖いのであって、出現ポイントが特定されていれば対処できる。
「じゃあ、俺だけいなくなっても大丈夫だよな」
「へ?」
「ちょっと出かけてくる。細川様によろしく言っといてくれ」
「え、ちょ……! おいっ、どこに行くかだけでも――」
俺、ノブナガ。
疲れたので少し旅に出る。そのうち戻るから心配するな。
とうとう脱走した
※落雁とは...室町時代、中国(日明貿易)から伝わった軟落甘のことです。製法はほとんど同じで、軟落甘から「軟」がとれて落雁になったとか(参照:wikipedia)
※細川邸に居候...織田信長は上京にある寺を宿所にしていたと伝わっていますが、毎日風呂に入りたいがために細川邸に滞在していました(他の織田家臣は宿所に泊まった)