【挿話】 松姫と奇妙丸
結局、甲斐・美濃国境を越えたのは新年を迎えた後だった。
「宴に参加したかったなあ」
「ばっか、於八。出奔した身で、のこのこ顔を出せるか!」
「謝れば許してもらえるかもしれないじゃないか。若様は美濃国に巣食う悪を潰したんだから、それで」
「私は戻らない」
「ほらみろ」
「うう」
何故か威張っている勝三はさておき、悪を潰したというのは誇張でもない。
誘拐事件を追っているうちに、比叡山にある延暦寺へ辿り着いてしまったのだ。甲斐国とは真逆の近江国境付近である。また東へ向かうことを考え、ウンザリしている平八の気持ちも分からなくはない。
だが、奇妙丸は意地でも甲斐国へ行きたかった。
偉大なる父・信長は、やると言ったら絶対やり遂げる人間だ。その息子として、織田家を率いる後継者として、何年かかっても本懐を遂げるつもりだった。
何故なら――。
「まさか南近江の前に、伊勢国を併呑しちゃうとは思わないよねえ」
「六角氏も当主を失っては、荒れるだけだ。後始末を浅井殿に任せる辺り、殿らしいと言わざるを得ないな」
「うんうん、このまま畿内統一して天下人になっちゃえばいいのに」
天下獲っちゃえ、は半兵衛の口癖だ。
信長なら太平の世を導けるという意見には、奇妙丸も大いに賛同する。父の背はどこまでも遠く、大きい。腐った僧兵どもを退治したくらいでは、全然近づけない。帰蝶の父・道三の遺言を聞かされたら、美濃国の安寧は義務の一つでしかなくなった。
母の故郷であり、祖父から託された地を守るのは当たり前のことだ。
なんて思っていたのだが、比叡山はそもそも寺領である。天台宗の総本山で、延暦寺の住職――天台座主と呼ばれる――が管理・運営する。しかも今代の天台座主は覚恕法親王といい、今上帝の弟だった。
朝廷の後ろ盾があるから、彼らは何も怖くないのだ。
さすがに四千人の僧兵とまともにやり合うつもりはなかったが、何度となく誘拐を阻止してきたせいで目をつけられた。そこで半兵衛が一計を案じ、まんまと延暦寺の内部へ潜入することに成功したのだ。
そして法親王を説得し、大規模な粛清をする約束も取り付けた。
数年経っても僧兵による暴虐がなくならない場合は、軍事力による制圧も厭わないという脅し付きである。念のため、山科言継の手を借りて朝廷から見届け人を出すよう頼むこともできた。
寺領の回復と引き換えだったが、仕方ない。
甚九郎の父・信盛から勘定方の貞勝へ連絡を取り、これに関する認可を得た。信長が不在だったのは幸か不幸か、複雑な心地で奇妙丸は延暦寺を後にする。潜入のために丸坊主となった勝三は不機嫌なままで、平八によく八つ当たりしては甚九郎が仲裁に入った。彼らが賑やかなのは、奇妙丸の心中を慮ってのことだ。
その年の寒さは、ひどく心に沁みた。
甲斐国に入ったのは雪の深い時期だったが、松姫と会う頃には桜が咲いていた。
「寄り道しすぎですよ」
「うるさい」
路銀を稼ぐ方法を知ってしまえば、長旅も苦にならない。
どちらかといえば、甲斐の虎が怖くて出会いを引き延ばしていたのである。痺れを切らした武田側の迎えに連行される形で、奇妙丸たちは躑躅ヶ館に入ったのだった。
そうして今、新館という屋敷に滞在している。
織田家との縁組にあたって、信玄が松姫のために建てさせたのだという。娘を想う気持ちの表れだと褒めそやす声に、奇妙丸は首を傾げた。嫁いでいく日まで傍にいてやる方が、子供は嬉しいのではないだろうか。
貝合わせに興じる姫を見やり、そっと息を吐いた。
かれこれ一月は経つが、彼女のことを妻として見る日が来るとは思えない。小さな女童が無邪気に遊んでいるようにしか見えないのだ。綺麗に着飾られた生き人形はとても上品に笑い、可愛らしく囀る。声が大きく、粗野な態度が目立つ勝三に驚いて気絶されたのは記憶に新しい。
この時ばかりは、帰蝶の厳しい躾に感謝したものだ。
「退屈ですか?」
「美濃の、…………妹たちのことを思い出していたんだ」
「まあ」
目聡い姫に、少しばかりの見栄を張る。
郷愁にかられるのは仕方ないにしても、父のことを持ち出すよりも弟妹を案じる兄を演じた方がいい。城仕えの者たちにもよく褒められていたし、幼い彼らの面倒を見るのは兄として当然のことだと思っていた。
だが姫は、小さな感嘆の後に何も言わない。
ことりと首を傾げただけで、興味を失ってしまったらしい。ちらちらと貝の絵を気にしている。嫡男の義信とは随分と年も離れているし、他の兄弟ともあまり話さないのだろうか。
暗に奇妙丸の家族になど興味がない、と言いたげな様子に不満を抱いた。
「私には弟が二人、妹も二人いる」
「ええ、存じておりますわ」
御文に書いてありましたもの、と松姫は微笑む。
「お五徳様は、三河へ嫁入りが決まったとか」
「男顔負けの気性の持ち主だから、竹千代殿を困らせやしないか心配なんだ。書物を読むよりも体を動かす方が好きだし、負けん気が強くて」
「まあ」
今度は顔をしかめている。
女として相応しからぬ、と感じたようだ。織田家での日常が当たり前だった奇妙丸は、武田家の生活が退屈でならない。勉学や鍛錬は男児だけに許されたものであり、女はどんな年頃であっても認められていない。信玄の継室である三条夫人が公家出身だからだろうか。
詩吟や雅楽の知識はとても高い。
楽器は何一つ扱えないと知った松姫に笑われて以来、奇妙丸は笛の練習を始めている。琴が得意な姫と合わせやすいからだ。こっそりとやるつもりが、勝三たちの不出来な音のせいで周知されてしまった。
それからというもの、皆で堂々と練習している。
よくよく考えてみれば、信長は草笛を好んでいたのだ。何度か見た猿楽での奏者は皆、男ばかりだった。信長が好んで舞う『敦盛』の主人公は、青葉の笛を大事にしていたという。桶狭間の出陣時には、帰蝶たちが奏者をつとめたというのも有名な話だ。
もしかしたら小姓衆も楽器が扱えるのかもしれない。
「姫、今日は琴を奏でないのか?」
「奇妙丸様が弾けと仰るのでしたら」
これである。
はんなりと微笑みつつ、あくまでも決定権は男に預ける狡猾さ。従順で大人しい姫だと言われているが、嫌なら嫌と言えばいいのに。一度だけ問い詰めたら、泣きそうな顔をされた。
『奇妙丸様、こわい』
ものすごく傷ついたので、二度と言わない。
織田家で大人しい性格といえば、信長の側室である吉乃が思い浮かぶ。お冬はのほほんとしているから大人しく見えるだけで、行動の予測がつかない問題児だ。思ったことが口をついて出るお五徳や三七を反面教師として、何でも心に秘める癖がついている。
叔母のお市だって、大人しい性格どころか快活な人だ。
教養の高さでは帰蝶が他の追随を許さない。
奇妙丸は見た目麗しく、内面も磨き抜かれた女たちに囲まれてきたせいで理想がとても高かったのである。自覚していないだけに、松姫に感じるイライラを理解できずにいた。
愛らしいと思う。
妻として大事にすべきだと思う。
だが信長と帰蝶のような関係になれるかと問われれば、どうしても答えられない。松姫は住み慣れた甲斐国から遠く離れた美濃国へ嫁いでくるのだ。頼るべき者は奇妙丸しかいないのに、奇妙丸自身が松姫を気遣ってやれないかもしれない。
「半兵衛の言ったとおりだな」
「え?」
「甲斐国へ来てよかった」
数度瞬きをした松姫は、すぐにふんわりと微笑む。
お冬と違って、彼女が何も考えていないのは明白だった。言葉通りに受け取って喜んでいる。姫らしい教養を身に着けているのに、中身が空っぽだと思う。いちいち身内と比べてしまうのは、奇妙丸の知る世界が狭すぎるからだ。
それは岐阜城を出た日から、何度も痛感した。
「姫、外へ出よう」
「……そ、それは」
「そこの庭なんだが」
「おからかいになるなんて、ひどいです! わたくしだって庭くらい、いつでも」
「ついでに颯斗のブラッシングをしたい」
「おうまは、こわいから……いやです」
「ぷっ」
「奇妙丸様!」
ひどいひどい、と怒る松姫にまた笑う。
人形めいた作り笑いよりも、こっちの方が人間らしくて好きだ。縁談が決まってから文や贈り物を届けてきたが、それも信長に言われたからだった。何もかもが与えられ、進む道すらも定められた中で、松姫に会うことは奇妙丸自身が決めたことである。
あれから何度か、信玄と話をした。
偉そうな爺という印象から、面白い爺に変わった。あの人を舅と呼ぶ日が来るのも不思議な感じがする。残念ながら、松姫は父親に似なかったようだ。
そういう様々な情報も、甲斐国に来なければ分からなかった。
本当に半兵衛の言う通りだ。
情報は重要。何が正しくて何が間違っているかを判断する以上に、自分で見聞きして得た情報ほど有益なものはない。
「そういえば、奇妙丸様はいつもお一人ですのね」
「私だけじゃつまらない?」
「そんなことっ、ありませんわ! ただ……奇妙丸様をお守りする立場ですのに、その職務を放棄するような者を傍仕えとして置いておくのはおかしいと思いますの。あ、あの、わたくしごときが差し出がましい口を申し上げました。お許しください」
最近の松姫は、こんな風にぽろりと口を滑らせるようになった。
奇妙丸は笑う。
「ああ、彼らはね。新館から出られない私の代わりに、あちこちで見聞を広めてくれているんだよ。せっかく甲斐国へ来たのだから、この国の素晴らしいところを見習いたいと思っている」
「まあ、そうでしたの」
納得した松姫に庭へ誘って、しばらく散策を楽しんだ。
それから数日後、勝三と平八が新館での謹慎を言い付けられる。どこぞでやらかした失態に対する処罰であった。同盟相手の、しかも元服前の子供ということで大目に見てもらえたというが、全然戻ってこない半兵衛と利治はどうなっているのか。
奇妙丸はうそりと笑う。
「得る物は、多い方がいいからね」
延暦寺には姉(半兵衛)と弟(勝三)を手土産に利治が正面から入り、雑事の手伝いをする子供として平八と奇妙丸が裏から入る、という策を用いました。信長の比叡山焼き討ちに関しては諸説あるようなので、この件は下準備のようなものです。
そして、実はマザコン疑惑の奇妙丸…。