154. 蒲生三代+α
野郎どもが裸でキャッキャウフフしています、注意
かぽーん、と音がする湯気立ち込める空間。
ぼんやりと見える男三人の姿以外には誰もいない。濡れた木目は濃い茶色へ染まり、磨きぬいた天然石とのコントラストが美しい。贅沢をいうなら、露天風呂仕様なら最高だった。
「ちと温くはないか?」
「これくらいがちょうどいいんだよ。熱すぎたら、のぼせて浮くぞ。どこぞの虎みたいに」
「……その虎殿ですが、やはり病を得ているようです」
しゃがれた声が文句を言い、落ち着いた声が極秘情報を漏らす。
湯の中から飛沫をあげて子供が出てきた。
「父上、その虎は死ぬのか?」
「人はいずれ死ぬものですよ、鶴千代殿」
「ふうん」
つまらなさそうに、また湯の中へ沈む。
泳ぐほどに広い大浴場は、山科卿の屋敷にあった。小牧山城で体験して以来、どうしても専用の風呂が欲しくなったらしい。細川様に温泉の話をしていたら、屋敷へ招待された。側近の代わりに連れてきたのは蒲生姓を名乗る三人である。
いわゆる裸の付き合いだ。
熱いのが好きらしい定秀は温度に文句を垂れるし、広さが気に入った鶴千代は泳いでばかりだし、蒸し風呂の方が好きな賢秀は早々に上がって椅子に座っている。
垢すりには麻の手拭いの他に、へちまタワシがあった。
思わず歓声を上げてしまったが、どこで手に入れたものかを山科卿に聞いておこう。ウリ科の植物であることは間違いない。ついでに南瓜と胡瓜と――。
「ぶあっ」
湯をぶっかけられて、思わず顔を振る。
赤ら顔の少年がこっちを睨んでいた。
「起きろ、うつけ」
「これ、お止めなさい」
「信長殿、何を考えておられた。嫡男のことが心配か?」
便宜上として叱責の言葉を述べただけの賢秀はともかく、定秀は俺の脳内が気になるらしい。老いを感じさせない鋭い視線に背筋が伸びる。蒲生家は肉付きがいい家系らしく、全盛期を過ぎた定秀も筋肉の張りがいい。
鶴千代も成長すれば、あんな風にマッチョマンになるのだろう。
羨ましいとか思っていないぞ、断じて。
「奇妙丸なら風邪で寝込んで……」
「岐阜城にいなかった、うぶっ」
思わぬ反撃を受け、鶴千代が湯に沈む。
「ふはは! 二度も食らうか」
「なんだ、その技は!?」
「俺の必殺技」
素早く手を解いて、フッと笑う。
水鉄砲はコツさえ掴めば、誰でもできてしまう。至近距離だからこその命中率だ。鶴千代がすごい目で睨んでくるのも、賢秀の生温い眼差しも気にならない。
「うちの子たちは皆、優秀だから心配してねえよ」
「知っているぞ。そういうのを親馬鹿と――」
鶴千代に二発目を命中させ、定秀に向き直った。
途端に湯の一撃を食らう。
「……おい」
「なかなか面妖な技であるな」
「話を戻すぞ。俺が考えていたのはヘチマ…………じゃねえ、虎のおっさんのことだ。病を得ると、思考まで老いやすくなる。死への恐怖や焦りといったものが、本来のらしさを損なわせるんだ。あとは……そうだな。家臣が勝手に動いているとか、か」
「やれ、耳の痛いことだ」
「本当ですねえ」
「君主たる器がなかっただけだ。お爺様が負い目を感じることではない」
「そうだぞ、定秀。最後の奉公したんだから、十分だろ」
「伊賀甲賀の軋轢に巻き込まれなければいいのですが」
「誰が?」
「いえ、愚問でしたね」
賢秀がひょいと肩を竦める。
浅井軍が六角軍残党を片付けてから十日ほど経った。さすがに観音寺城から落ち延びた承禎も、息子と再会していることだろう。定秀が俺のところへ来たのは、蒲生家が織田傘下に入ったからだ。捕虜として捕らえた後に、長政がこっちに送ってくれた。
「甘いかと思えば、容赦がない。その線引きがはっきり見えないのが、敵にとって恐怖を抱かせるのでしょう。浅井殿は、いい選択をしました」
「ふふ、死にそびれたわ。おっと、そう睨むでない。戯言よ」
「けっ」
「俺はやはり、信長殿は甘いと思う」
濡れ髪を鬱陶しそうに払いながら、鶴千代は言う。
「勝手に国から逃げ出した義治と違い、承禎は城を枕に死ぬ覚悟が出来ていた。それを何故、お爺様に脱出の手引きをさせる? しかも甲賀へ逃がすなど……、伊賀との関係が悪くなってもいいのか」
「それだけではありませんよ。長島には一色龍興が、若狭国には織田信安が、そして甲斐国には織田信清が潜伏しているそうではありませんか」
「信安は死んだが、信清の弟が元気にやっているようだぞ」
「周りに敵を作って楽しいか?」
今度は賢秀も定秀も止めなかった。
鶴千代はじっと目を凝らして、俺の反応を見定めようとしている。普通のつまらない男だと思っていたら、そうじゃなかった。何を考えているか分からないと言われて、人質とは思えないくらいに始終付きまとわれている。側近には小姓に迎えたのかと呆れられたくらいだ。
違うと言っても信じてもらえなかった。
鶴千代がにっこり笑って肯定するせいだ。
「敵かどうかはまだ分からんだろ」
「敵対し、戦で負けて、国の外へ逃げていった。織田の敵だ」
「俺の敵じゃない」
「それは敵わないという意味か? 奴らが再び戦を挑んでくるかもしれないのに?」
「あのなあ、於鶴」
「妙な名で呼ぶな、信長いでっ」
さすがに定秀の鉄拳が入った。
勢いあまって湯の中に顔を突っ込んだが、恨めしげな孫にもどこ吹く風だ。
「再戦を望むなら、相手をするだけだ」
「だったら逃がす意味はない。お前はおかしい!」
「考えてみろよ、於鶴。再戦を挑むには何が必要か?」
「兵力」
「それから」
「金。装備や兵糧…………基本中の基本だ。何が言いたい?」
「落ち延びる時にはほとんど失ったモノを、もう一度戦えるくらいに取り戻すには並大抵のことじゃあ無理だ。手を貸す奴も、俺と戦いたい奴じゃなきゃあ無理だな。死の商人なら別だが」
「なんだ、その恐ろしい商人は」
この時代では使わない単語だったらしい。
不穏な言葉に眉を寄せる三代目を、大人たちが微笑ましく見守る。定秀たちはとっくに答えを見つけているが、鶴千代に教えてやる気はないようだ。随分長い間湯に浸かっているし、そろそろのぼせそうな気もする。
「あがるか」
「待て! 話が終わっ」
ざぼん、と飛沫が上がった。
「鶴千代!?」
「風呂で泳ぐからだろ。水分補給して、頭から冷やせば治る」
「分かりました」
「水分補給か。冷えた酒が良いな」
定秀がニヤニヤしながら俺を見る。
何か用意してあるのを全く疑っていない顔だ。賢秀に子供を任せ、俺たちは湯殿から出た。待ち構えていた者らに体を拭かれ、着替えを身に着ける。人に世話をされるのもすっかり慣れてしまったが、顔を知らない相手にあちこち触られるのは気分が良くない。
人払いしておくべきだったか、と今更後悔した。
聞かれて困るような話はほとんど出なかったからいいか。
気絶してしまった鶴千代は屋敷の女衆に預け、俺たちは風通しの良い縁側に出ていた。先客として、屋敷の主が待ち構えていたのには苦笑するしかない。
「山科卿」
「寛げたであろう?」
「おう。あんな広い風呂だとは思わなかった。相当無茶したんだろ」
「仕組みさえ分かっておれば、何とかなるものよ。兵部殿が悔しがっておったから、今頃はあちらの屋敷でも新しい湯殿が出来ておろうな」
「これだからお公家様は……」
額に手を当て、軽く呻く。
この時代の公家衆は貧困の極みにあった。働かずに遊んで暮らすのが貴族文化だ。あははうふふと優雅に笑っているうちに、各地の御料地は失われていった。管理人が土地を追われたり、失脚したり、傀儡化したりして、所有者が武家にとって代わっていったからだ。
それでも贅沢するのは身についた習性みたいなものか。
苦労するのは勘定方の皆さんで、資金繰りの大変さは朝廷の財務担当している山科卿も痛感している、はずだ。何とか、しちゃったんだろうなあ。風呂のために。
「雪で冷やしておいた。信長殿には温燗であったな」
「おっ、サンキュ」
雪蔵は天然の冷蔵庫だ。
雅だなあと思ったら、庭に小さなカマクラがあった。火がない代わりに、いろんな酒がずらりと並んでいる。なんで分かるのかって、徳利に名前が書いてあるからだ。
「全部俺んちのじゃねえか!!」
「怒るな怒るな。ほれ、温燗」
「先に飲むな! 俺ンだっ」
「やれやれ、心の狭い奴よの。酒を独り占めするなど造酒丞が嘆くぞ」
「……はあ」
信房のことを出されたら何も言えない。
出された盃を受け取り、ぐいっと一息に干した。俺たちが口喧嘩している間に、定秀たちもそれぞれに酒を試している。名前から推測して、思わぬ味に目を瞠るのがおかしい。
「ぐっ。こ、これは……!」
「なんと、甘いな。女が好みそうだ」
「父上、こちらをどうぞ。私には強すぎます」
「ふむ」
軽く咳き込み、涙目の賢秀はなかなか艶っぽい。
女がいなくてよかった。この中で一番モテそうなのは一番若くて色男の賢秀だ。山科卿も身分さえ気にしなければ楽しいオッサンだが、定秀はしかめっ面がデフォルトである。俺の地味顔が引き立つメンバーに、心の北風がしみわたる。
「米と麦と、他に何か混ぜておるな」
楽しげな山科卿の声に、蒲生の二人の手が一瞬止まった。
それでも吐き出さないのは武士の矜持か。
「毒じゃねえよ。柑橘やハーブ……薬草を何種類か使っている。甘い奴は定秀の言った通り、女にウケがいいな。ああ、アルコール度数は甘い方が高いから気を付けろよ」
「あるこおる、ですか?」
「酔いやすいと考えりゃあいい。賢秀、あんまり強い方じゃないだろ」
「恥ずかしながら、その通りです」
「水で割るといいんだが」
「雪ならあるぞ」
賢秀はふわりと微笑み、白い雪の塊を盃に浮かせた。
すぐに溶けていく儚いものと一緒に飲んで、口元を緩ませる。あの程度だと大して薄めたことにならないだろうが、違いが分かる色男は得だ。そして酒豪の爺どもは、あれやこれやと酒談義をしながら次々に徳利を空けていく。
「全部飲む気かよ! 俺にも寄越せ!!」
「まだ蔵にあるであろう? 暮れに仕込んだものは、もうじきと話しておったぞ」
「そっ、それは俺が楽しみに……ああもう!」
雪で冷やした酒は喉越しが良く、するする飲める。
案の定、真っ先に潰れた賢秀は湯冷めしないうちに寝所へ連れていかせた。頃合いを見て帰るつもりだったのに、このまま泊まることになりそうだ。
「悪いな、山科卿」
「なに、こうして話せるのも縁であろう。次があるかも分からぬ」
「俺は長生きする予定なんだが」
「孫が元服するまでは死ねぬわ。どこぞの虎が、そう思っておるかは別だがの」
「フン、あの者の考えることなど知れている。上洛だ」
「へえ……そうなん、どちら様!?」
いつの間にか呑み仲間が増えていた。
髭だらけの顔は厳めしいというよりも、普通に男臭い感じだ。年齢は俺と定秀たちの中間辺りか。中肉中背の特筆するところのない見た目の割に、纏う空気がちょっと違う。酒気に満ちた縁側で、全員が盃を手にしている状況じゃなかったら――。
俺が見ているのに気付き、男が声を立てずに笑った。
虎に反応して、上洛と断言する武将には一人だけ心当たりがある。
「上杉、謙信……?」
「輝虎と称す」
「お、おう。そうだったな。間違えた……って、越後の軍神ンンン!?」
酔いが吹っ飛んだ。
残っていた酒を飲み干して、歴史に名高い軍神様を舐めるように観察する。女じゃないし、長身でもないし、やっぱり見た目は普通だ。髭を剃ったら、そこそこイケメンじゃないかとも思う。上杉家の女は綺麗なのが多いだろう。この時代、美の基準がどこにあるのか知らないが。
想像していたほど、すごくはない。
鶴千代が俺を見て感じたのも、こんな拍子抜けした思いなのだろう。だが、しっかり鍛えている。やや小太り気味だった信玄と違い、最前線で突撃していくタイプの武将だ。一番強い酒を水みたいに飲んで、満足げに目を細めている。
ああくそ。謙信が来るんだったら、俺のとっておきを持ってくるんだった。
「美味いな」
「尾張の酒であるぞ」
「ほう」
じろり、と目が動いた。俺はひくり、と頬を動かす。
「さんざん呑んだから、ここにあるだけしかないっす!」
「それは残念だ」
謙信はしょんぼりしている!
酒を注がれた盃を見つめ、今度はちびちびと呑み始めた。なんなの、この人。どんだけ酒好きなんだよ。もっと呑んでいいのよ、と言いたくなる。ツマミも食べ尽くして、酒しかないのにチビチビ呑んでいる軍神がここにいた。
単なる呑兵衛のオッサンである。
「……上洛ねえ」
「他に考えられぬ」
意識を逸らすために呟けば、謙信が応じた。
「なんで急に上洛なんて」
「織田尾張守に触発されたのであろう。おそらくは」
「俺!?」
「分からんでもない。若造に先を越されると焦るものよ」
「定秀まで何を」
「諦めるのだな。其方は自覚が足りなさすぎる」
「そうか」
「いや、なんで軍神が頷いてんだよ。あと山科卿は、偉そうに諭してくんな! 平手の爺に言われてるような気分になるからっ」
「おかしいか?」
おかしいです、と言えない俺の臆病者。
返事をしないことをどう受け取ったか、謙信は再び酒をチビチビやり始めた。山科卿は楽しげに笑い、定秀もなんだか口元が緩んでいる気がする。酔っているんだな、相当に。
「しかし信長殿、岐阜へ戻った方がよいぞ。大和国のことなど、放っておけ」
「そうもいかねえんだよ。蜂蜜のために」
「幻の蜂蜜飴かの」
どうせ噂を広めたのは山科卿だ。
信包は頑として製造法を言わないし、用心深い弟はほとんど一人でやりきった可能性が高い。あるいは関わった人間が「蜂蜜飴」を作った自覚を持っていない。砂糖が原材料のべっこう飴ですら、商人が飴だと思わなかったくらいだ。
「山科卿、まさかと思うが。堺で売られているのはべっこう飴の方か?」
「雨は降るものよの」
「まあいいや。虎のおっさんが本気なら、俺も応じるしかねえ。松姫との縁談は場合によっちゃあ、破談ってことになりそうだな。奇妙丸も臥せっているし、ちょうどいい」
「病なのか?」
何故か不思議そうな謙信。
「ああ、ある意味で深刻な病だ」
「そうか。……山科の、何故笑う」
「笑ってはおらぬぞ。笑っては」
「肩が震えている」
「ふ、っくく」
それを見ていた定秀も、どうやら話がおかしいと気付いた。
俺に胡乱な目を向けてきても答えられない。表向きは「臥せって」いるし、奇妙丸が「深刻な病」にかかっているのも本当だ。好奇心という名の病である。
ここで呼び戻すのは得策じゃないな。
とっくに甲斐国へ入っているのなら、俺よりも早く情報を掴んでいるはずだ。信清辺りが東美濃にちょっかい出していたとしても、信清と奇妙丸に面識がない。というか、同行している者が全員、信清の顔を知らないかもしれない。
甲斐国で死ねば、そこまでの男だ。
他の奴らも同じだ。恨みで人生を棒に振るか、新天地で活を見出すか。
しかし各地で一斉蜂起したら、ノブナガ包囲網の完成だなあ。勝てる戦なら便乗するっていう奴らも出てくるかもしれないし、不安定な伊勢国に志摩国人衆の手が入るのは面倒だ。茶筅丸たちを婿に出したのは早計だったか。
ちなみに謙信が上洛したのは、義昭から関東管領の認可をもらうためだった。
信玄の上洛は「侵攻」だ。
それでも織田と武田は同盟関係にある。上杉と手を組むのは状況をややこしくしかねないので、山科卿がこっそり呼んだのだという。山科卿の客同士が酒宴で顔を合わせただけ、と言い張るつもりだ。
しかし俺と謙信は、個人的な繋がりができた。
また呑み交わそうと笑う男に、俺がノーと言えなかっただけとも言う。
だって軍神コワイし!