152. 再上洛へ(2)
現代感覚で一週間、7日くらいで引き上げようと思っていた。
伊勢国での幸運が何度も起きるとは思っていない。戦の目的と相手の意思をはっきりさせたかっただけだ。俺はいつまで親父殿の影に囚われているんだと笑いたくなるが、親の影響力に悩んでいる奴がいたら手を貸したくなる。
どれほどの力も持っていないくせに、おかしな話だ。
そして俺は今、父の影に囚われない男に初めて会っていた。
「蒲生左兵衛大夫が一子、鶴千代と申す」
本物だ。
その瞳に宿る強い光を認めて、俺は心が震えるのを感じた。久しく会っていない本物の戦国大名がそこにいた。北畠具教が負け犬になっていなかったら、こんな圧迫感を味わえたのか。
おそらく年頃は奇妙丸と同じくらいか、その下辺りだ。
これは将来が楽しみでたまらない。
是非とも父親の顔が見たくなったが、何もかもが終わってからになるだろう。鶴千代は蒲生家の人質として、俺の前に現れたのだから。
「織田上総介信長だ」
互いに名乗り合い、沈黙が辺りを包む。
小姓衆と具盛が息を呑んで見守っていた。義輝と慶次もいるが、お冬はいない。あの馬鹿娘は本当に予想外のことばかりしてくれる。連れてきたのは慶次だろうとアタリをつけたが、どうせ弁舌で勝てる気がしない。奴には奴の考えがあってお冬を連れてきたのだろうし、その目論見は大当たりした。
慶次は賭け事にめっぽう強いのだ。
しばらく観察していたらしい鶴千代が、目を細める。
「……拍子抜けしました」
「どんな噂を聞いてきたか知らんが、これが本物だ」
ぺちぺちと己の頬を叩いてみせた。
世間の評判は極端すぎる。やはり瓦版の作成は急がねばならない。噂はある程度操作できてこそ価値があるのであり、過剰な評価は今後もやりづらくなる一方だ。過大評価して、強く警戒し、がっつり身構えている相手を崩すのは面倒だし、疲れるのでやりたくない。
信純や半兵衛たちが軍略を考えてくれても、指揮をとるのは俺だ。
とはいえ、軍団単位で遠征させてもいいかもしれないな。必要な時に不在なのはとっても困るが、ある程度重要な局面でも俺が出なくて済むパターンを作る。そうすれば、家族と長い間会えないという苦痛を回避できる。
「殿、また思考があちらに飛んでおられます」
「む」
「尾張守殿は目を開けたまま、寝る趣味でもおありですか?」
「無礼な!」
俺に注意した小姓とは別の小姓が、身を乗り出す。
咄嗟に懐を探ったがツッコミ用のハリセンがなかった。代わりに短筒用の弾を投げようと思ったが、当たると痛いどころじゃ済まないので義輝に頼む。白頭巾から月○仮面に戻った男は、警策でビシィッと肩を叩いた。声もなく悶絶する小姓。うん、痛そうだ。
場が静まったところで、俺は意識を戻した。
確かに人質を寄越すという覚悟を見せた相手に、失礼な態度だったかもしれない。鶴千代が将来、どんな武将になるかと思うだけでワクワクしてくるのは不謹慎かなあと思ったんだが。
本末転倒である、反省。
「蒲生は織田に降る、ということでいいのだな?」
「違います、義父上」
「あん?」
今なんつった。
別の意味で場が静まり返り、俺の肩がビシィッと鳴った。思わず振り向けば、いつの間にか義輝が背後に立っている。警策の持ち方が刀と同じになっている点は、スルーしていいよな。
「痛いじゃねえか、雨墨」
「落ち着け」
「落ち着いているだろ、これ以上もなく。落ち着いて、これからやるべきことを考えてんだよ。さすがに人質として寄越されたもんを傷物にするわけにはいかんが、二度と愚かな考えに至らぬように適切な処置を施すのは当然のことだろ。要するに教育的指導」
「だから落ち着け」
「痛いわ!! 警策やめれ!」
俺のことを父と呼んでいいのは、俺の子供だけだ。
家康の子供はさすがにそう呼ばないだろうが、伊勢国の小さな嫁たちには是非呼んでもらいたい。織田一族大集合とでも銘打って、盛大に宴でも開催するか? 色々落ち着いた後に。
じろりと睨めば、ふてぶてしい顔が視線を合わせてくる。
さすがは将来の戦国大名、俺の娘を狙うとは――。
「おいコラ。織田に降るんじゃなかったら、何だって言うんだ? コラ」
「織田氏を名乗る他にありますまい」
肘置きが飛んだ。
「ふっざけんなあああぁ!! 誰が許すかああぁ!」
「殿、お気を確かに!」
「落ち着いてくださいっ」
「あーあ、またこうなるのか。お約束みたいだなあ」
聞こえているぞ、慶次。
そんなことよりも大事な娘を、こんな奴にやれるか。英雄色を好むという。元服してから功を立てまくって出生街道まっしぐらで、あちこちから縁談が殺到して、正室が霞むくらいにご立派なハーレムでウハウハ生活するに違いない。お冬がこいつに嫁げば、正室確定だ。血筋的にも立場的にもおかしくはない。
だが将来は分からない。
蒲生鶴千代なんて知らないが、秀吉が天下人になるくらいに数万石の大名になっている感じだろう。俺は俺の大事な奴らが幸せになるために、必死でやってきているのだ。もちろん本能寺の変後も、俺が生き延びる前提である。
「絶対に、許さん」
「誰が何と言おうと、彼女は私がもらいます」
本当に人を殺したくなった時、思考はどこかへ飛ぶらしい。
戦続きで人殺しに何も感じなくなったのとは、また違った感覚だ。敵兵は殺したくて殺しているんじゃない。殺す必要はなくても、俺は死ねないから殺す。こっちの方面で現代の感覚はとっくに消えた。罪悪感もない。
本気で殺したい相手に、そんなものを感じるわけがない。
「ったく、世話の焼ける……!」
苛立たしげな声はたぶん、慶次だ。
俺の記憶はその直後から途切れている。
**********
目を覚ましたら知らない部屋だった。
頭痛が痛いので朝の鍛錬は止めて、用意された朝餉を平らげる。水が合わないのか、どこか違和感があって完食するのに時間がかかってしまった。少々の毒なら耐性がついているので、そっちの心配はしていない。
肩が痛くて、首が回らない。不快だ。
いつになく口数の少ない俺に怯えながら、利之が報告をした。
「義治は逃げた、か」
「いかがいたしましょう」
「長政に早馬を送れ。とっとと南近江を手中に収めろ、と」
「……それで、よろしいのですか?」
「お前の言いたいことは分かる。浅井は労せずして近江一国を得ることになる。それが気に食わんのだろう? だが藤八郎、伊勢国のことを思い出してみろ。国人衆の一部は敵対意志を隠さないし、伊勢国全体へ織田の統治下に入ったことを浸透させるのには時間がかかる」
「殿はお膳立てをしただけ、ということですね。近江国をきちんと統治できるかどうかは、浅井殿の手腕次第」
利之が納得してくれたようなので、俺もホッとする。
長政ならできると思う。独立したいだけなら、寡兵で主君に挑むわけがない。家康は桶狭間以後の混乱をうまく利用して独立を果たした。それでも三河国内を落ち着かせるのに何年もかかった。
国一つを統治するというのは、簡単なことじゃない。
戦を仕掛けたわけじゃないから論功行賞を考えなくてもいい。浅井に恩を売れたという点でも十分な成果だ。とはいっても上洛関連の戦いはまだ始まったばかりだ。今度こそ将軍を連れて、京を目指さなければならない。
岐阜城へ戻った後の日程を考えていると、お冬が顔を見せた。
利之が気を利かせて、親子だけにしてくれる。
「父上」
「お冬、珍しいな。朝が苦手なくせに」
「がんばったの」
ほんのり顔を赤くする娘に手招きをした。
素直に足の間へ収まった愛するものを、ゆるく腕で囲んでやる。頑張ったのは早起きすることか、それとも蒲生家へ降伏を促すことか、佐和山城までこっそりついてきたことか。聞きたいことは山ほどあったが、俺の方こそ言わなければならない。
「お冬」
「なあに?」
「お前は、俺の自慢の娘だ」
「え……怒って、ないの」
神妙な顔をしていたのは、叱られる覚悟をしていたからか。
俺の言葉に戸惑う娘が可愛くて、小さな頭をぐりぐりと撫で回した。
「この馬鹿娘」
「……っ」
「危ないことをしたことなら、怒るよりも怖くて仕方なかったな。子供が親よりも先に死ぬことよりも親不孝な話はない。だがなあ、お冬。危ないことだと分かっていても、やり遂げたかったんだろう?」
「うん」
「俺に黙ってやらかしたのも、蔵人に無理を言ったのも、褒められたことじゃない。そこは父として、織田家当主として罰を与えなきゃならん。それでも、お冬のおかげで戦をせずに済んだ。近江の民は、お前のおかげで死なずに済んだんだ」
「あ、うん。そうだ、そうなんだ。織田のみんなだけじゃなくて、近江の人も守りたかったんだ。わたし、そんなこと分からなかった。やっぱり、父上はすごい」
すごいすごい、とお冬が繰り返す。
反復しすぎて「すごい」がゲシュタルト崩壊しそうだ。イスゴって何だろうな。ゴイスとダイスは似ている気もする。ダイズも品種改良したら、違う味の味噌ができるかもしれない。信包によると、同じ種を異なる土地で育てると微妙に違うものができるそうだ。
栄養や水などの要因はいくらでも思いつく。
信包が楽しそうで何よりだが、あの弟は一体何を目指しているのか。
「お冬」
「ん~?」
「鶴千代はどうだ」
「………………イヤ」
たっぷりと間を置いて、小さな「嫌」いただきました!
ざまあみろ、鶴千代!! ふはははは!!! と、笑っている場合でもない。伊勢国と同じようにやるなら、蒲生家にお冬を嫁がせるのが手っ取り早いのだ。六角家当主・義治が逃げ出したとはいえ、六角家臣は残っている。
いや、任せると言った以上は任せるべきだ。
後始末が面倒だからじゃない。長政が統治するのに、六角家臣を織田へ引き抜くのはよろしくないからだ。その辺の匙加減も長政が判断する。殺すも生かすも、あの男の自由だ。ただし義治の逃亡先次第では、六角軍との戦闘もありうる。
「明日、岐阜へ帰る」
「ほんと!?」
「鶴千代も一緒にな」
「…………えー」
本当に嫌そうだな。何をやらかしたんだ、あのガキ。
おっとりした性格の娘がはっきり拒絶を示すくらいだから、俺様キャラ全開で押しまくったのかもしれない。柳に風と流せなかったのは、お冬がまだ幼いからだろう。早く成長しろとは言わないが、男のあしらい方くらいは覚えるべきだ。
帰蝶たちに相談してみるか。
という俺の考えはちょっと甘かった。
奇妙丸の時と違い、お冬は本当に誰にも言わなかった事実が発覚。冬の岐阜城には、雪の女王が降臨していた。性懲りもなくお冬に会おうとした鶴千代は、ちょうどブリザード吹き荒れる現場に突入したと後から聞いた。
これで少しは大人しくなればいいな!
ノブナガ、南近江の後始末を長政に丸投げ!!
具盛さんは今後、三七とお冬にぶん回される運命です。それにしても家臣に殴られて気絶する主君ってどうなんだろう。そのまま御命頂戴☆にならないのが、織田クオリティ…