149. 狐と狸とうつけ
※本日より、通常投稿(毎日一話ずつの更新)に戻ります
朝廷の使者、将軍の懐刀、そして俺。
三竦みと呼ぶには一角が弱すぎるような気もするが、公家の二人が争う様子もないのは救いだった。お互いにかなり呑んでいるので、酔っ払いの大暴れとして片づけられると思う。
『けんかはだめよー』
可愛い娘の声がする。
そろそろお五徳も三河国へ嫁ぐ支度をしなければならない。奇妙丸が戻ってきてからでいいか? ざっくり二年くらい修行して、男を上げてこいよ! 長子から婚姻をしていくのが順当だもんな。うんうん、それなら仕方ない。
そうなると茶筅丸や三七にも、縁談話が出てくるわけか。
「山科卿よ」
「なんじゃ、信長殿」
「北畠に年頃の娘、いたか?」
「おりますよ。左近衛中将殿の妹姫で、今年で8つになるはずです。茶筅丸は11ですから、ちょうどいいかもしれませんねえ」
俺の知っている「年頃」と違う。
思わず半眼になれば、柔らかな笑みが返ってきた。
「細川様、話を聞いてたのかよ」
「上洛するどころか伊勢平定したという話はとっくに。信長殿ならば、新たな土地は自分の手で統治したいと思うはず。しかしながら美濃国内の状況は未だ不安定で、織田家の力が隅々まで行き渡っていない。伊勢に本拠を移せば、美濃が荒れるのは火を見るよりも明らかです」
「悔しいが、全くその通りだ」
「美濃と違うのは、伊勢国の国司だった北畠が健在であることです。国人衆が全て味方になっていないとはいえ、これを使わない手はありません」
誰でも思いつく策だと言わんばかりの細川様は、酒を所望してきた。
俺は黙って従いながら、山科卿を窺う。こっちはこっちで気にした様子もなく、肴に舌鼓を打っていた。葱味噌以下各種味噌、燻製した魚が数種類と、塩や酢で味付けした昆布、甘めの煮貝や柑橘ピール類といった感じに、辛党から甘党まで満足できる品揃えだ。節操無しともいうが。
冷蔵庫がないせいで、どうしても保存食の開発に力が入る。
「この煮貝は、とても柔らかいですね。そして甘い」
「お濃が好きなんだ」
「嫁に食べさせるのは感心せぬぞ」
「へ?」
「貝には水銀が含まれるのだ。水銀は堕胎の薬としても知られておる。もう子がいらぬのであれば別だが、其方の子を欲しがる者は多かろう。側室や妾に任せるのなら、それでもかまわぬが」
「なんでそれを早く言わない!?」
「其方があちこち飛び回っておるからであろうが! 好物であるのなら、水銀を取り除けば良い。せっせと励んでおれば、そのうち生まれるわ」
「年齢的に、少々厳しいのではありませんか?」
「お濃はまだ若い!! 体のラインも全然崩れてな――」
今、ぞわっとした。
素晴らしい曲線を描こうとしていた両手を慌てて下ろす。考えてみれば、彼女の美しさは俺が分かっていればいいのだ。新年早々押し掛けてきた公家たちに教える義理などない。
「む、この白いものは豆腐であるな。しかし、この深い味わいが何とも」
「焼くと漬けるのとじゃあ豆腐の風味も、微妙に変わる。理屈は知らん。目標は絹ごし豆腐なんだが、固いタイプもなかなか癖になるよな。そろそろ揚げ物にも挑戦したい」
「豆腐を揚げるのですか?」
「ガンモドキ、知らないか。潰した豆腐にヒジキ……海藻やキノコ、根菜の刻んだ奴を混ぜて、塊にしたやつをたっぷりの油で揚げる。あー、フライが食べたい。戦勝祈願にトンカツでゲンを担ぐとしたら、何枚焼けばいいんだ?」
いや、家畜としての豚がいない。
狩りで得られる獣肉を片っ端から食べてきたが、最初から食べるために飼育した肉は柔らかさが違うと聞いた覚えがある。牛や鳥から始めてみるか? 四つ足は大反対されそうだから国家事業にはできない、残念。
鳥も新鮮卵は大丈夫だったが、食中毒が怖い。
「だいたいなあ、高僧クラスしか知らない食文化や薬学知識があること自体おかしい。豊かな食生活は、豊かな精神を育むんだぞ! わざと飢えやすい環境を維持して、命令を聞くだけの従順な民を飼ってるだけじゃねえか。森の生き物の方がよっぽど自由に生きとるわ!」
「薬学の知識なら、知る限りのことを伝授してやろう」
「……やれやれ、貴方もですか。内蔵頭殿」
「何故と問われても答えられぬが、此奴には不思議と手を貸してやりたくなる。織田の将兵らも同じ気持ちなのであろう。鷺山殿(帰蝶の別称)にもな、言われた。打算や思惑で関わるつもりなら許さぬ、と」
「許さぬ、とは」
「我が前で胸を突いてやると言われた。そうすれば、必ず信長殿は報復する。朝廷は今後一切、織田家に関わることはできなくなるだろう」
「ええ、本当におそろしいのは信長殿ではなく。信長殿を慕う者たちです」
「ったりめえじゃねえか」
フッと笑う。
「うちの奴らはすげえんだ。すげえ奴らが俺のために命を張ってくれるから、俺は後ろを振り返っても前へ進むしかねえ。ちょっと立ち止まっても、すぐ走らなきゃならねえ」
今日の酒はやけに舌が回る。
どうせ隠し事なんかできない相手と飲み交わしているのだ。言葉を選ぶのだって苦手だし、貞勝は戻ってこないし、信純たちも城にいない。正月だけは休めよと言っているが、俺の見ていないところで何をしているか分からない。
俺も三日過ぎたら、机にかじりついているのだろう。
「そうそう。立政寺を知っていますか? 浄土宗のお寺なのですが、そこで人と会う約束しているのです。信長殿に付き添いをしていただけると、大変助かります」
「ああん、りゅーしょーじ? それなら城を出て、南へちょいと歩いて、ほいっと」
「兵部殿は其方に、寺までついてきてほしいそうだぞ」
「嫌だ。面倒事の予感がする!」
伊勢国人衆に信包を入れて、国司の養子に茶筅丸を入れる。
北畠具房や神戸具盛は近い将来、若い奴らを引っ張っていく力になるだろう。そうなるとやっぱり、今のうちに近江を何とかしておきたい。六角攻めを通達した以上、今年中に決着つけることになる。寺参りしている暇なんてない。茶筅丸やお五徳と遊んでやれるのは、今しかないのだ。
「子作りは後でもできるであろう」
「子供と遊ぶんだよ! なんで下世話な話に持っていくんだ。嫁とも遊ぶがな!」
「その寺では茶菓子として、かすていらを出すそうですよ」
「生臭坊主は好かん」
「え?」
「知らねえのか。カステラは、卵を使うんだ」
細川様はカステラの材料まで知らなかったらしい。
山科卿は苦笑しながら頷き、俺の言葉が正しいと証明してくれる。大方、堺の町でカステラを買いあさる俺たちの話でも聞いたんだろうが、材料さえ揃えば作れないこともないんだなあ。堺の町でモドキを売っていたのがいい証拠だ。
「……信長殿の知識は一体、どこから」
「それは聞かぬ方が良いぞ」
「内蔵頭殿はご存じなのですか?」
「いいや、知らぬ。信秀殿が認めた男である、というだけで十分よ」
なんだか山科卿に弟子入りしたくなった。
この貫禄と泰然とした立ち振る舞いは見習いたい。そうすれば、ちょっとはダメ君主から抜け出せるような気がする。あくまで気がする、だけな。
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俺はそいつを見た瞬間、大声で叫びそうになった。
「っだ……!」
「はいはい、どうどう」
大きな手で口を封じてくれた若造を、じっとりと睨む。
止めてくれたことは感謝しよう。だが俺は、男に触られて喜ぶタチじゃない。思いっきり振り払えば、ニヤリと人の悪い笑みが返ってきた。
「てめえ、慶次郎。この野郎」
「口が悪いですぞ、信長様。将軍様の御前です」
そんなことは分かっている。
本来いるはずのない「将軍様」が美濃国の寺にいる理由を知りたい。山科卿が仲介する形で細川様の依頼を承諾した翌日、ひょっこり現れた利太改め、慶次郎利益――ややこしいから以後は慶次とする――を供連れに立政寺へ向かったのだ。
ちなみに小姓数名と恒興もいるが、魂を飛ばしているかもしれない。
慶次の奴め、小牧山城下で知り合った阿呆どもと一緒に京で騒いだりしているらしい。堺や奈良の状況も把握しており、松永弾正が形勢不利であることも掴んでいた。ついでに山科卿とは飲み友達で、連歌仲間である。
急に垢抜けた感じになったのは山科卿の影響だろうか。
それはそうと、将軍様だ。
「織田尾張守、……しばらくぶりだな。会えて嬉しいぞ」
「上様におかれましてはご機嫌麗しく――」
つらつらと挨拶定型文を暗唱する。
山科卿に教えを乞うたからじゃない。一時的に忘れていただけで、沢彦と平手の爺に叩きこまれた礼儀作法は体が覚えていた。思い出そうとすれば、結構簡単に思い出せるものだ。
平伏した姿勢のまま、そっと気配を探る。
明智光秀はいて当然としても、風格の異なる人物がいる。細川様は森林の清水みたいな空気を持っているし、山科卿は広大な山そのものだ。光秀のイメージは省くが、そいつの纏う空気はちょっと見逃せない。
義昭の許可を得て顔を上げた時、その男と目が合った。
まるで生涯をかけて戦う相手を見つけたかのように、視線が固定される。俺にとって光秀がそうだと思っていただけに、初めて見る男の素性が知りたくなった。気配を探るなんていう、今まで自主的にやったことのない芸当を試したからか。
「三郎、男と見つめ合う趣味はないのであろう?」
「雨墨もいたのか」
影の英雄がすっかり気に入ったらしく、義輝は気配を隠して潜んでいた。
さすがに白マスクは嫌がられたのだろう。白頭巾の隙間から、確かな意志を秘めた目が見える。腰から異様な雰囲気をかもしているのは、例の三日月宗近だろう。足利の宝剣らしいので、受け取らなくて正解だった。
「其方が上洛を果たすまでは、将軍を守る。そう言っていたはずだぞ」
「元気そうで何よりだ」
「お互いにな」
「あー、こほんっ」
わざとらしい咳払いをして、光秀が前に出る。
「将軍である義昭様をお待たせするとはいいご身分ですね。相変わらず、貴方には恐れるものは何もなさそうで羨ましい限りです」
「怖いものはたくさんあるぞ」
「その筆頭が北の方」
「やかましいわ、慶次!」
「本当のことだろ。子供たちにまで『女に弱い父上』とか言われているくせに」
「貴様かー!! 余計な言葉を吹き込んだ奴ァ!」
「お止めください、殿!! 将軍の御前ですっ」
思わず立ち上がった俺を、恒興と小姓たちが止めにかかる。
慶次は昔っから生意気な奴だったが、青年期に入ってますます食えない男になった。やっぱりアレか。初恋の女を利家に奪われた八つ当たりをしているのか。確かにあれは俺が音頭をとったことになっているが、遠からず婚姻を結ぶことになっていた。
よって、明らかな逆恨みである。
「止めるのだ、尾張守」
静かな声に肩がぴくりと動いた。
俺の、じゃない。光秀の反対側に立つ男だ。将軍の言葉に反応する理由が分からず、またしても男を見つめるハメになった。今度は誰かに見咎められる前に視線を外す。
一体、誰だ? 俺が気になるくらいだから、信長に関係ある武将かもしれない。
俺が大人しくなったので、恒興たちが離れていく。
それぞれ元通りになるのを待ってから、義昭がゆっくりと話し始めた。
「余がこの地へ戻ってきたのは、理由がある。其方が先程から気にしている男は松永弾正忠だ。名前くらいは聞いたことがあるであろう」
「一応、面識もあります。京の御所でお会いしました。いや、あれは会ったとは言わないのかもしれませんね。織田殿、その節は失礼しました」
「……田舎者で悪かったな」
「ぶふっ」
すかさず噴き出した慶次には拳骨をくれてやる。
松永弾正は軽く下げた頭を戻して、目をすうっと細めた。
「根に持っておられるか?」
「いいや、畿内のゴタゴタで忙しいはずの御仁が将軍の御供を務めるとは……コイツ、ひょっとして暇なのかなあと思ったまでだ」
「……っ」
「十兵衛殿、良いのだ」
「しかし!」
「さすがに情報が早い。そこの方々からお聞きになられたのかな」
「そんなところだ」
伊賀衆の繋がりは匂わせる必要もない。
将軍の近侍を務めるくらいなら、公家と親しい様子を見せておいた方がいいだろう。実際、細川様と山科卿は今後も付き合いがありそうな感じだ。特に対応が面倒そうな朝廷サイドは、山科卿に全振りしておきたい。
面倒そうなのは義昭も同じか。
「尾張守。頼みがある」
「やなこった」
「ぶっふぉお!?」
「おい、慶次っ」
いつの間にか信純が乗り移っている。
盛大に噴き出して爆笑する馬鹿は放っておけ、と恒興たちに目配せした。不敬罪やら無礼討ちがあるなら、俺たちはとっくに死んでいる。いちいち構う方が時間の無駄だ。
「再上洛を手伝うついでに、畿内の動乱を収めろって? 無茶言わんでください」
「そなた、私の言いたいことが読めるのか?」
「上様っ」
「十兵衛は心配しすぎだ。さすがは兄上が認めた相手だけはある。だからこそ頼みたい。いや、尾張守にしかできるのだ。情けないことだが、他に頼れる者がいない……」
しょんぼりと肩を落とす義昭は、まるで幼子のようだ。
無理もない。将軍家に生まれたせいで寺に放り込まれ、還俗を強いられ、誰も見向きしてくれない将軍位に就いてしまった。義輝は相談して決めたと言っていたが、義昭本人はどこまで納得していたか疑わしくなる。
そんな俺の心を読んで、義輝が声を低くした。
「義昭様、弱気の将軍に誰がついてくるとお思いか」
「ですが兄上」
「兄ではない。雨墨である」
「だったら敬語で話せよ、雨墨。中途半端なことをするから、弟が覚悟を決められねえんだ」
「……む」
なんだかんだあって、13代将軍義輝は死んだことにされた。
後世にもそう伝わっている。義昭が室町幕府最後の将軍になることも俺は知っているが、本当にそうなるかは断言できない。少なくとも迷子のような顔をしている男には、無理だ。
「なれば、織田殿」
「あん?」
「東大寺の大仏の仇をとる、というのは如何かな」
松永弾正がそう言った途端、周囲の空気が変わった。
俺もハッとする。たった今、思い出した。そういえば、そういう事件があったような気がする。東大寺の大仏殿は戦国時代に焼失している。原因として考えつくのは戦火だ。
「織田殿は仏の教えにも深く通じていると聞く。民に分け隔てなく接し、飢える者には必ず手を差し伸べる。己が贅を尽くすよりも、国を豊かにせんと心を砕く」
「あーあー……分かった、やってやる。やればいいんだろ、やれば!!」
「義継様をお助けし、三人衆を討ち果たしてくださると?」
「まるで奴らのせいで大仏殿が燃えたみたいなことを言っているが、東大寺をはじめとする寺の密集地帯で戦なんぞするから燃えるんだろうが! ふざけんな!!」
俺は生臭坊主や僧兵が嫌いだ。
坊主は経だけ読んでいればいい。仏の御心云々言い出すなら、その詰め込んだ知識を民に分け与えてやればいい。そうしなかったのは仏教伝来からの朝廷、そして幕府のお偉いさんたちだ。造るのも燃やすのも人の仕業だが、失われた時間は戻らない。
「いいか、爆弾正? 将軍を助けるのは先約があるから、今更ひっくり返すことはねえ。大和国の件もついでに了解した。だがな……、細川様!」
「私か?」
「傍観者に徹してんじゃねえよ。あんたも手伝え。三対一で負けそうなら、三対三にすりゃあいい。義継とやらは知らん。勝手にしろ。慶次!」
「なんだよ、叫ばなくても聞こえてるって」
「大和国の特産品を述べよ」
「え? え、えー」
「大和茶、酒、蜂蜜。これでよいか?」
「と、殿……まさか」
「ベリーグッドだぜ! 大和国は任せろっ」
ふははは、素晴らしい。素晴らしいぞ、大和国。
神社仏閣しかないと思っていたが、奈良漬け以外にも特産品があったとは素晴らしい。古来より続く伝統ある土地だけはある。そこで戦をする馬鹿の気が知れない。火を使えば茶畑が燃えるし、アルコールは燃えやすい。逃げた蜂は集めるのが大変なのだ。
「養蜂技術も使えるな。人力以外で遠心分離機を開発させて、効率よく蜂蜜を採取できるようになれば砂糖の前に飴をつくれる。いや、砂糖大根と薩摩芋とサトウキビがあれば――」
「あーあ、また始まった」
「フフ、フハハハハハ!! いける、いけるぞっ」
「申し訳ございません、うちの馬鹿殿が……」
「つくづく見飽きぬわ。ついでに岐阜へ移住するかの」
「上洛の道中で、良さげな土地を探すのもよさそうですね」
「うむうむ」
すっかり自分の世界に入り込んでいた俺は気付かなかった。
何事かを考えながら、じっと見つめる視線が二種類あったことに。
登場人物が多いと長くなる
松永久秀...通称は松永弾正。戦国時代の三悪人に数えられる男だが、本作では数少ない常識人枠である。ノブナガにイラッとさせられたり、ムカッとしたりすることはあるかもしれない。着実に謀反ゲージを溜めつつある明智光秀のフォローをしつつ、将軍家や織田家と付き合っていくことになる。