136. この金柑は甘くない
首を垂れる二つの頭を眺めやり、岐阜城に拠点を移すことを考えてみた。
順調にいけば、来年には奇妙丸を元服させてやれる。しかし手に入れたばかりの美濃を預けるのは、少々問題があるようにも思う。かといって尾張小牧山城、あるいは清州城なら大丈夫かといえば、仕事の引継ぎ関係でややこしいことになる。
まだ真っ新な岐阜城の方が、学び甲斐もあるか。
「お初にお目にかかります、上総介様。私は細川兵部大輔様に仕えております明智十兵衛光秀、こちらの御方は一乗院門跡・覚慶様でございます」
「うむ、遠路はるばるご苦労。こちらも美濃を併呑して間もないゆえ、何かと行き届かぬこともあろうが了承願えると助かる」
「いえ、我々を快く受け入れてくださった慈悲に比ぶるものなどありませぬ」
最近さあ、なんでか「慈悲深い信長」像が定着しつつある。
一体、誰の仕業だ。尻が痒くて仕方ないし、事実無根にもほどがあるから止めてほしい。噂と違っててガッカリしたーというオチが勢揃いして待っているとしか思えない。
それはともかく、明智光秀来ちゃったよ?
細川様のご指名なら、信用できるんだろうな。光秀の謀反も、信長の勘気が原因だと言われている。かといって光秀に甘くしたところで、歴史が変わるとも思えない。今は織田家臣でもない奴を特別待遇したところで意味はないよなあ。
「覚慶殿」
「はっ」
「……とりあえず、頭を上げていただけませんか。便宜上、このような場を設けているからといって、臣下のような態度をとる必要はございません」
ああ、舌がもつれる。
本当は将軍位に就きたくなかったんじゃねえのかなあ、この人。あるいは織田に見捨てられたら人生の終わりだから、とにかく不快感を与えないように努めているとも考えられる。
喋りすぎるとボロが出るので、二人が姿勢を戻すまで待ってみた。
「上総介殿」
やっと顔を上げたか、とホッとしていたら名を呼ばれた。
「何でしょう」
「兄上も、こちらにいらっしゃると聞いたのだ。京御所で母や糸千代丸と亡くなったはずの兄上が、上総介殿と共に美濃へ逃れたと……」
そう言いながら、チラチラと視線を彷徨わせて姿を探している。
本当に気付かないのか? 明らかに怪しいのが一名、小姓の隣に座っているぞ。俺と一緒に入室してきた時に見つけてギョッとしていたのを、もう忘れたのだろうか。
「先代様なら、ホレ。そこにいまっせ」
ダメだ、舌噛んだ。敬語厳しい。
生まれ変わってから全然使わなかったわけじゃないんだが、家督を継いで以降は殺伐とした日々を送ってきたせいだろう。身内相手に丁寧な表現を使うこともないし、って言い訳している場合でもないな。お公家様や目上の存在に今後も会う可能性を考えたら、それっぽい言葉遣いもできるようにしておかねば。
あるいは側近任せにしてみるか? 長政との謁見シーンみたいに。
「三郎、よからぬことを考えておるのではあるまいな?」
「いやいや、そんな」
よからぬことじゃなくて、サボることを考えていたとも。
白マスクの男に鋭い指摘を受けても、平然とできるくらいには慣れている。開いた口が塞がらないのは本日のゲスト、未来の将軍様と明智光秀だ。特に光秀は俺と、白マスクを交互に見るので忙しい。そんなに首を振らなくても消えないぞ。残念だったな?
額に輝く三日月は、削除依頼が来そうなので自粛した。
おかげで白い頭巾姿が目立つわ、目立つわ。京から脱出する時は髷を歪めない形の頭巾だったので、頭髪の有無を心配したくなる白マスクは時代の最先端を行く。流行らんだろうな、うん。ものすごく目立つ割に、誰もが見なかったことにするのだ。よりによって義輝本人だとは思うまい。
ここでようやく明智十兵衛、再起動。
「貴様、義輝様に何という真似を!!」
「止めよ、十兵衛」
「ですがっ」
「余が納得しているのだ。其方にどうこう言われる筋合いはないぞ」
止めたのは覚慶、反論を封じたのは義輝。
なかなかに絶妙な連携だが、光秀の視線が突き刺さって痛い。普通に止めただけの覚慶よりも、明確に突き放してくれた義輝に傷ついたと見える。早くもフラグが立った、とか言わないでくれよ。彼の忠誠心は覚慶本人というよりは、将軍家に向かっている気がする。
線の細い優男が二人。
やんごとなき血筋が敵に追われて、俺みたいなのに助力を頼む不憫っぷりに薄い本が量産される予感がする。二人とも美形の部類には入るし、そういう関係でも気にしないさ。
男だらけの兄弟どんぶり……うむ、睡眠時間が足りてない。
俺が現実逃避している間に、兄弟喧嘩も終息していた。
「――…というわけだ。分かったか? 義輝は死に、ここにいるのは雨墨という男。織田弾正忠の覇道を助けるべく、刀一つで戦場に立つ士である」
「兄上」
「其方の兄は死んだのだ。三好が寄越した刺客によって、な」
「それ言っちゃっていいのか?」
「問題あるまい。与一郎の文によれば、既に将軍候補が選出された。三好三人衆は堺公方の息子・義親を傀儡に選んだようだな。将軍位に就くために必要な左馬頭へ叙任されるのも時間の問題であろう」
堺公方とは嫌な響きだ。
その堺とは尾張国、特に津島との軋轢が高まっている。
商人が流通を独占するやり方では経済発展は望めない。津島商人と交渉して流通の自由化を図ってきたが、堺商人には不満があるとみえる。あるいは単純に、いい儲け話として手を伸ばそうとしている。
良心的な取引だけなら、楽でいい。そうじゃないかもしれないから頭が痛い。
「三好三人衆をなんとかすれば、覚慶殿は京に戻れるか?」
「はっきりとは言えんな」
義輝は判断材料に乏しいと言いたげだ。
そこへ光秀が発言を求めてきた。俺が許可するとチラッと見ただけで、義輝の方を見つめながら喋り始める。いや、別にいいんだが。
「松永霜台殿(弾正忠の唐名)は一連の出来事に全く関与しておりません」
「は?」
「実行犯は三好長逸ら三人衆と、霜台殿の子・久通殿です。御所を襲った変事は、霜台殿が大和国滞在中に行われました。興福寺にて覚慶様が幽閉された際も、霜台殿から命までは取らぬという誓詞をいただいております」
「息子が実行犯に含まれているなら、黙認したようなもんだろ」
「私はそう思いません」
光秀は断言する。
「本当に義輝様を弑し、権力を我が物とする欲があるのなら覚慶様が脱出することも見逃さなかったはずです。兵部殿は琵琶湖から越前へ逃げると思わせておいて、美濃へ向かえと仰いました。ですが、追手もなく無事にたどり着けたのは」
「わざと追手を出さなかったから?」
「そうに違いありません」
この男は危うい。
前世知識とは関係なく、俺自身がそう感じた。直接会ったことがあるから、光秀はここまで爆弾正のことを信用できるのだと思う。互いに将軍家に関わる者として通じるものもあるだろう。だが光秀は言葉選びを間違えた。フォローしたい相手、つまりは爆弾正の人柄について言及していない。
親しくない相手を信じるタイプは、危うい。
思い込みで発言・行動する者は周囲の言葉を聞き入れないことがある。
「細川様の助言、ね」
「与一郎の判断は間違っておらぬぞ、三郎。其方なら、この者らを確実に守る」
「買いかぶりだ」
俺はとんでもない厄介事を抱え込んでしまったらしい。
稲葉山城を占拠した時にいらぬ情報をくれた半兵衛は、このことまで予測していたのか。少なくとも俺は幕府をめぐる陰謀と無関係ではいられなくなった。必然的に上杉を含めた戦国大名にも注目される。
あー、嫌だな。個人的には、虎よりも龍の方が好きなんだ。
美濃を得るためとはいえ、信玄と仲良くしたばかりに謙信――今はまだ輝虎と名乗っている――に睨まれなければいけないなんて辛すぎる。将軍家の味方だから、仲良くしてねってお願いしよう。そうしよう。情けないとか言うな。怖いものは怖い。
「覚慶殿もお疲れだろう。部屋を用意しているので、そちらで休まれよ。誰ぞ案内を」
「余に任せるがいい」
すっと立ち上がった義輝は、そのまま謁見の間を出て行ってしまった。
おいおい、何やっているんだ。案内するってのは、客人を伴わないとダメなんだぞ。慌てて尚清が立ち上がり、覚慶と光秀を連れて行った。大丈夫なのか、あれ。
それはそうと、俺たちには話し合うべきことがたくさんある。
何から切り出そうか悩んでいた時、小姓と俺の間に影が降りた。一益じゃない。だが敵でもないことは、周囲の反応で分かる。
「殿」
「甲斐守? ああ、お二人の護衛をしてくれたんだな」
「差し出がましい真似をいたしました」
「いや、いい。正直、そこまで手が回らなかった。山越えはキツかっただろうなあ」
「追手を片付ける暇ができたので、かえって良かったかと」
「めちゃくちゃ助かった。報酬は弾む」
「ありがたく。それと三好の動きについてですが」
下山甲斐守は耳にボソボソと囁いた。
「……分かった。引き続き何かあれば、頼む」
「承知しました」
京の状況は思ったよりも難しいことになっているらしい。
先触れがなく、元公方こと雨墨が教えてくれなかったというのもある。だが教えてくれないから知らなかった、では済まされないことも今後は増えてくる。下山甲斐守が自主的に動いてくれたのは、こちらとしても大変ありがたかった。
「それにしても三人衆と爆弾正が仲間割れ、ねえ」
「介入いたしますか?」
「美濃と畿内を一緒くたにするなよ、五郎左。突っ込んだ首ごと叩き斬られるのがオチだ」
不満そうな長秀も、実はアツイ男だ。
美濃平定でまともに戦えなかったせいで、鬱憤が溜まっているのかもしれない。投降してきた将兵を含めた再編成の件で、各部隊の鍛錬が辛すぎるという陳情が上がってきている。ただのシゴキで済んでいるうちに、何か考えなければならない。
手っ取り早いのは戦だが、すぐに「戦」が出てくる思考が嫌だ。
名目上の理由がないと戦を仕掛けられない。理由があっても、三好氏は大きすぎる。
「御所で皆殺しとか」
「義輝様以外は皆、亡くなったということでしょう。侍従以外にも侍女やご生母様もいらっしゃったはずです。殿は襲撃者どもの顔をご覧になりましたか?」
ああ、そうか。長秀は一緒に行かなかったもんな。
「外で待機していたであろう尚清と半兵衛はともかく、三十郎は顔を見られている可能性が高い。あと俺は目が合った奴は全員斬った。義輝もかなりの数を返り討ちにしていた。指示した奴らが直接、義輝を探して御所内をウロついていたんじゃない限り、会っても気付かれないと思う」
「では、信包様から織田の関与が引き出されたということですな」
「……三十郎には言うなよ。責任とって腹をつめかねん」
あいつは思い詰めると、誰の声も聞こえなくなる。
妻帯して命を大事にするようになったと思いたいが、嫡男が生まれると同時に逆戻りされても困るのだ。これから勢力拡大することも考えれば、一門衆の結束はいよいよ重要度を増す。信行が出てこない分、信包にかかる負担は大きい。
信広はなー、脳筋だからなー。戦には役立つんだけどなー。
顎に手をやろうとしてポン、ぽんと二度叩いた。
「腹を決めるか」
「殿?」
「書状を認めるから武田、松平と浅井に使者を送れ。それから今後の拠点を岐阜に移すにあたって、大規模な改築をするぞ」
「この城を作り直すの?」
「軍事拠点としては問題ないが、居城とするには足りない施設が多い」
「城下町の整備も同時に行った方がいいね」
「ああ、次の定例評議会までに概要をまとめろ。家臣団への通達もだ。兵の移動はおいおいで構わん。年が明けたら、奇妙丸を元服させる。ついでに半介の息子もな」
「いいの? 三郎殿、あれだけ嫌がっていたのに」
「そうも言ってられなくなった」
政略結婚など、と言っていられなくなった。
次期将軍をいつまで匿っていればいいのか分からない。細川様が三好をどこまで抑えられるか、周辺諸国の有力者たちとどう立ち回るのかも予測できない。ただ足利兄弟を織田に預けるという選択、その信頼に応えねばならない。
俺はたぶん――明智光秀が岐阜城に訪れて、心が定まったのだ。
明けて永禄9年、四つの国で三つの縁談が組まれた。
北近江の浅井家当主・長政とお市、三河の松平家嫡男・竹千代とお五徳、そして甲斐の武田家五女・松姫と奇妙丸である。
長政とお市以外はまだ幼いため、婚約するだけで祝言は挙げない。
お市の嫁ぐ時期に関しても信長の強い要望によって、一年間の婚約期間が設けられた。
秀吉「尾張の環境奉行たぁ、わしのことじゃあ!」
小一郎「兄上、殿から招致命令です」
秀吉「へ?」
小一郎「岐阜城下の整備を任せる、と」
秀吉「とほほ……」
環境奉行、それは普請奉行とは別に「町をきれいにする」ことを至上目的とした新部署である。勘定方と並んで、最も信長の寵を得やすくて、俸禄もチョイ高めだが、最も過酷なスケジュールを組まれている。
勘定方は秋冬に生きた屍がウロつき始める。
環境奉行は夏になると非常に臭う。
そして硝石部隊は環境奉行の管轄だったりする。ノブナガの「もったいない精神」から着想を得たリサイクル販売も始めており、側近たちの中で一番金持ちな猿。仕事の一環として硝石やコンクリートも扱っているので、織田軍団は秀吉に頭が上がらない。
……という裏話がある