131. その名は岐阜城
永禄8年4月、新緑の大地を踏みつけて美濃へ進軍開始。
関城の長井道利ほか、龍興本人に従っている斎藤家臣はまだまだいる。美濃三人衆と半兵衛からめぼしい武将の名と特徴を聞き、木曽川から北上して各務野へ、更に西へ進んで新加納という所まで来たが敵軍の影が全くない。
「おい、半兵衛」
「おかしいなあ。この辺で一度、交戦すると睨んでいたんですけど」
「信長様に勝てんと分かって逃げたんじゃろか?」
「ええ、まさか…………いや、ありうるのかも」
こっちは小牧山城からの遠征軍だ。
兵を休ませるという名目で、加納口に陣を敷いた。斎藤軍を探し出すため、斥候はいつもより多く出している。空振り続きだからといって安心はできない。数日待つつもりで、周辺に柵と天幕も設置させる。
それにしても浅瀬を渡る時、どうしても足元が気になる俺は貧乏性なんだろうか。
川底に金の欠片がないかなーと思っているわけじゃない。蜆やウナギ、川魚がいっぱいいると思うだけで涎が――。
「信長様、何を考えとるんじゃ」
「おっと」
フキフキと口元を拭い、地図に視線を戻す。
そうそう、川並衆を含む蜂須賀隊は完全に秀吉が指揮する中隊へ編成した。
美濃国は織田軍にとってアウェイだ。長近や蜂須賀のように、美濃出身者を優先的に連れてきた。半兵衛を警戒する恒興、信純は自主的な従軍だ。赤母衣衆・黒母衣衆からも数名が志願し、馬廻衆も足して結構な大軍である。
安藤や氏家は見張られている感じが落ち着かないのだろう。
率先して、付近の城や砦を落としに行った。ろくに戦いもせず投降してきたのは、美濃国における三人衆の立場を偲ばせる。美濃攻略後も真面目に働いてくれるなら、何も問題はない。
「報告! 稲葉様が祐向山城を占拠。龍興の姿はなしっ」
「またかよ。もう聞き飽きたぞ」
「うーん。本当に逃げちゃったのかなあ、龍興様」
名軍師の頼りない台詞に、思わず半眼になる。
俺のいる本隊と荷駄隊が先に休憩している間に、周辺の索敵も兼ねた各隊が走り回っていた。二日目からはほぼ全部隊が片っ端から城や砦を落としにかかっている。一日で落とした数は十を軽く越えたぞ。どんだけ密集しているんだ、ビルと城は違うものだろ。半兵衛は「あれえ」ばかり言っているし、秀吉は「逃げ」の一択から譲らない。
祐向山城は、稲葉山城奪取イベントに驚いた龍興が逃げ込んだ城だ。
あくまで可能性、な? 稲葉が元主君を見逃した、匿ったというのじゃない限りは本当に「なし」なのだ。こうなってくると、最終手段が発動するかもしれない。
「信長様、信長様」
「一回呼べば聞こえる」
「わしが勝ったらご褒美をくださるっちゅう話、忘れとらんでしょうな?」
「ああ、覚えているとも」
こいつめ、何回確かめる気だ。
それは小牧山城を出立する前夜のことである。軍議の最中に何やら考え込んでいた秀吉を問い質せば、妙なことを言い出した。半兵衛に稲葉山城を奪われた龍興は、美濃から逃げたかもしれないというのだ。
そんな馬鹿な、と俺は一蹴した。
仮にも一国の主である。半兵衛がやらかしたことは前代未聞の珍事だが、龍興を殺す意図はなかった。その証拠に、奪ったばかりの城を放って俺の所へ来ている。今こそ信頼できる家臣に周囲を守らせ、稲葉山城に籠ればいい。まあ、本当に籠城を決め込んだら内側から崩すだけだが。
『命あっての物種ですからのう』
『……本当に龍興が美濃から逃げていたら、褒美をくれてやる』
『へっ?』
『逃げるとすれば、長島だろう。源五郎に伝令を出しておけ。今、あの地を乱されるのは困る』
『ご、ご褒美くれるんですか? 本当に、何でも?』
『大したものはやれんぞ』
と、釘を差しておいたのに朝から上機嫌の秀吉である。
話の仔細を聞き出した半兵衛が「美濃に残る」方へ賭けて、これまた褒美をねだられた。龍興の首級を狙っているわけじゃないにしろ、不謹慎極まりない話である。拡散防止に二人とも傍へ置くことにしたため、本陣は緊張感の欠片もない。
「それにしても」
猿がウキウキしていると、無性に叩きたくなる。
叩くのが当たり前になりすぎて、ヒョイと逃げられる時もあるから余計に腹が立つ。少年の頃はそんなに猿っぽくなかったのに、すっかり猿らしく成長してしまった。馬鹿犬も似たような進化を遂げたので、言霊っていうのはおそろしい。
あるいは尾張国限定で、ファンタジー現象が発生しやすいのだろう。
耳長族はいないが、鍛冶師はいる。
「ん? ドワーフで思い出した。関城に長井ナントカってのがいただろ」
堂洞の戦いを思い出してか、信純が苦笑した。
「関城は昨日、陥落したよ。城主の道利は逃げたのか、見つからなかったみたいだねえ。三郎殿が気にしているのは鍛冶工房の方でしょ。大丈夫、手を出すなって厳命してあるから」
「そうか」
加藤のおっちゃんに聞いたところ、鋼を溶かす竃は秘伝の一つらしい。
壊すのは簡単だが、もう一度作り直すのは不可能に近い。何でも色々な条件と方法と、あと一つ重要なナニカが揃わないと駄目なんだそうだ。竃がないと刀が作れない。大砲も作れない。戦でばんばん使いまくっているのは、大抵が無銘の刀――量産品だ。
俺のだけ無銘じゃなかったっていうオチがつく。
これがまた、左文字よく切れるんだなあ。今は国次、国重とローテーションして使っている。名前を知る前は適当に扱っていたんだから、俺も大概に現金なものだ。それでも刀にしろ、人間にしろ、実力主義なところは昔から変わらない。
「で、あっさり無血入城」
無血開城じゃなくて、入城である。
半兵衛が16人で奪い取ってから結局、龍興は戻ってこなかったらしい。城仕えの者たちは織田軍の襲撃に怯えきっていたが、それでも仕事優先で残る気概は見事だ。半兵衛のやんわりとした説明で、なんとか理解してもらえたかな。
「何年もかかったわりに、呆気なかったなあ」
「あれ? 合戦が起きなかった分、犠牲がなくてよかったって言うと思ったのに」
「分かってないねえ、竹中殿は」
「あはは。今年出会ったばかりの僕よりも、長い付き合いのある信純殿には敵いませんよ」
「ふふ、そうでもないよ。織田姓を名乗らせてもらっているけど、織田軍の中では新参者さ」
喧嘩するなら、俺のいないところでやってくれ。
ははは、ふふふと寒々しい笑い声が、とっても心臓に悪い。信純にしてみれば、甲斐や美濃に軍師クラスの頭脳派がいて嬉しいのだろう。頭がよすぎて、周囲と馴染めなかった過去をちらりと聞いたことがある。そういうこともあるよな、なんて聞き流していた。
俺には頭のイイ奴の悩みなんて分からない。
「おっ」
「どうしたの、三郎殿。地図に何か?」
「稲葉山城っていうから稲葉山かと思ったら、井口山っていうんだな。しかも、ここって岐阜じゃねえか。広い地図で見なきゃ気付かなかったわ」
「岐阜、かあ。やっぱり信長様、天下とっちゃおうよ」
「どうしてそうなるっ」
半兵衛ときたら、二言目には「天下とろう」である。
お役に立ちますアピールはもう飽きるほど見てきたので、今更何も感じない。そもそも俺には信純がいるし、史実通りに秀吉が三顧の礼で拝み倒せばいいのだ。歴史が変わって江戸幕府じゃない何かが爆誕しても困る。現代に戻れる可能性はもう信じていないが、俺は俺が死ぬ運命を変えたいだけだ。
しかし稲葉山城は長いので、岐阜城はいいかもしれない。
「ついでに美濃に住んじゃおうよ!」
「無邪気を装って、何を言い出すのかな。この青二才が」
「信純殿こわーい」
「三郎殿の後ろに隠れるんじゃない、この卑怯者!」
「え、嫌だよ。そんな怖い顔している人の前に出たくない。信長様もそう思いますよね」
「俺を巻き込むんじゃねえ!!」
戦支度にハリセンは入らないので、刀の鞘で二人とも殴ってやった。
喧嘩両成敗である。
「いったいなあ。織田家はすぐに手や足が出るって本当だったんだ」
「文句を言いたいだけなら、どこぞへ行ってろ」
「そんな冷たいことを言わないでくださいよ。お詫びに耳より情報を教えますから」
「竹中殿、それはっ」
「話せ」
「公方様、もうすぐ暗殺されちゃうみたいですよ」
天気予報の案内みたいな軽い調子で言われ、一瞬理解が遅れた。
「三郎殿!」
「後は任せる」
早足が駆け足になり、まだ厩へ入る前だった愛馬に飛び乗った。鞍が外されていても、乗り慣れた馬の背から落ちないように足を踏ん張る。止まれ、どこへ行くんだ、という叫び声は俺の内外から聞こえた。
俺自身、どうして城を飛び出していこうとしているのか分からない。
公方様が暗殺されるのは、知っていた。
詳しい経緯も裏事情も、暗殺が決行される日付も分からない。だが、体は勝手に京を目指していた。間に合うか間に合わないか、そんなことは関係ない。知っている人間が死ぬかもしれない現実を、受け入れられないだけだ。
龍興不在のまま手に入れた美濃を、織田家当主として何とかしなければならない。
山のような戦後処理と、美濃国の統治管理が残っている。
『確実に届くものだけを、俺は掴む』
『届かぬ先は如何』
いつかの問答を思い出した。
あの時、俺は「諦める」と答えた。行動の矛盾がどうしようもなく可笑しかった。
ノブナガは間に合うのか?!(長慶サンのこと忘れてた作者 ←懲りてない)