【閑話】 油売りの後継者
※本日、2話まとめて更新しています
城に戻った利政は、月を相手に酒を飲んでいた。
まんまるに太った白い光は柔らかく等しく、そして惜しげもなく降り注いでいる。こんな夜は闇に潜む生き物たちも大人しくなるのか、聞こえてくるのは風が木の葉を揺らす音くらいだ。
「うむ」
ちびりと酒を舐め、一気に呷る。
空になった杯を置くでもなく、新たに注ぐでもなく、利政は月を睨んだ。しかし口元には抑えきれない笑みが浮かんでいる。
「実に、惜しい」
思い出すのは昼のこと。
腹の読み合い、探り合いに慣れていた利政も初めて戸惑いを覚えた。言葉を弄するのは苦手だと言いながら、なかなかどうして尻尾を掴ませぬ。
よもや本命が罠にかかるとは思わなかった。
向こうも予想外だったろうに、平静を取り戻すのが早い。
まだ15歳になったばかりのはずだが、この美濃の蝮を相手に少しも怯まない。それどころか、ふてぶてしい笑みを返してくる。臣下もまだ若いせいか、血気にはやる傾向が強い。
それをハリセンとやらで叩く、その根性。
華奢な体躯からして、腕力には自信がないのだろう。武器らしい武器も装備しているように見えなかった。よほど供の者を信頼しているか、正真正銘のうつけであるかだ。
「いや、噂通りの大うつけではあったな」
縁談の話を聞かされて、利政の居場所を探りに来たのだ。
稲葉山まで来られては困るので、国境まで足を延ばさなければならなかった。手の者が何人か現れるだろうと踏んでいたのが、当の本人が出てきたのだから驚くなという方が無理である。
見た目こそ、どこにでもいそうな若造だった。
隠れていた際に額を強打したらしく、白い肌が真っ赤に腫れていた。さぞ女装が似合うであろう覇気のない優男、というのが第一の印象である。
それも、すぐに認識を変えることになったが。
「何度か殺気をぶつけてやったが、柳に風と流しおって」
それどころか鋭い目で睨んでくる。
次の瞬間には、人を食ったような笑みを浮かべる。
「……分からぬ。早々に帰すべきでなかったか」
あの織田信長という若造の考えていることが全く分からない。
結局、何のために利政のもとを訪れたのか白状せぬまま終わってしまった。怪我をさせるつもりなどなかったのだ。当然ながら避けると思っていたのに、微動だにしなかった。
鈍感ゆえに殺気にも気付かず、回避も間に合わなかったのかと考えた。
それでは供の者たちを宥める落ち着きぶりが説明できない。
「ふん。来たか、義龍」
どすどすと地を鳴らす音が、隣で止まった。
無意識に比較していた対象が現れて、噂すれば影という言葉も浮かぶ。とにかく昔から、こういう勘だけはいい。上手く伸ばせば面白くなったろうに。
「我が父に問う。尾張のうつけと会ったは、まことか!?」
「それがどうした。いずれ、貴様の義弟となる男ゆえに気になるか」
「戯れも大概にしていただきたい」
よほど腹に据えかねているのか、荒々しい鼻息が聞こえる。
義龍の大きな体躯が、庭先まで暗い影を落としていた。成長過程の子供らしく華奢な体つきであった信長に比べて、父親譲りの筋骨逞しい男に育った。もう少し絞った方がいいとも思うのだが、肉は多いほど良いと義龍は考えている。
そして人を見下ろすのが好きだ。
座したままの利政の隣で堂々と立ち、腰を下ろそうという気配は僅かもない。それでは相手の顔を窺うどころか、つるりと禿げあがった頭のてっぺんしか見えないだろうに。
「次男・信行殿ならいざ知らず! 日々、城を抜け出しては遊び呆けている輩に、我が妹を嫁がせるとは正気の沙汰とは思えぬ。どうせ父の策と思えばこそ、私はじっと耐え忍んでいたのだ」
「信行、のう」
「明朗快活にして視野広く、剣技は既に指南役を凌ぐという。まあ、刀に拘っているようではまだまだ若いが。難解な漢書を次々読み解く才は、当主として相応しかろう」
「随分と詳しいではないか、義龍」
「ふんっ。私にも有能な人材がいるということだ。安心して、家督を譲られるがいい」
その気概はいい。
だが才に溺れ、傲慢すぎるのはいけない。野心ある家臣は意のままに動いてくれる主を求め、保守的な家臣は安泰を与えてくれる主を求めるもの。どれだけ己に自信があっても、周囲の思惑を無視するような主君は長くない。
では、信長はどうであろうか。
思考に沈もうとする利政の心を知ってか知らずか、義龍が鼻を鳴らした。
「父よ。私も個人的な感情で、奴を嫌っているわけではないのだ」
「言うてみよ」
「当主に献上された鉄砲数丁をこっそり試し打ちしたどころか、勝手に鍛冶師へ持ち込んだという。種子島銃などと呼ばれているが、あのようなものを有り難がる気がしれぬ」
「ほお、鉄砲か」
「父も分かったであろう。奴は武士の風上にも置けぬ、腑抜けた大うつけよ」
うつけは貴様だ、と利政は内心で罵った。
相槌を打ってやっただけで調子に乗っている義龍は気付いていない。
南蛮より伝来した鉄砲は種子島銃の名を受けてより、格段に進歩しつつある。あれほどおそろしい武器はない。矢よりも早く、真っすぐに飛ぶ。音だけで馬は驚き、足軽たちは腰を抜かす。
鉄砲は戦の道理を覆す代物だ。
(あれを、信長殿が……のう)
織田の分家筋とはいえ、弾正忠家は尾張一帯で最も力をつけている。
先見の明がある商人によって、信秀へ鉄砲が渡ったのだろう。存在が周知されていない今、鉄砲は莫大な富を生み出す。信長はそこまで気付いているはずだ。実際に使うつもりがなければ、鍛冶師に預けるわけがない。
「尾張は終わりだ」
「……義龍、洒落か?」
「ち、違う!! あのようなうつけが家督を継げば、尾張国は滅びると言っている。だが、それは我が美濃も同じこと。老いたる蝮より、若き龍に任せるのも一つの決断だと私は思う」
己を龍、と称する我が子に失笑する。
周囲の煽てに乗って、この愚か者はどこまで登っていくつもりなのか。まだ早いと思いつつも、帰蝶の縁談を決めたのは幸いだった。
蝮の娘と呼ばれながらも父に似ず、美しく育った。
身内贔屓かもしれないが、女の色香も漂う年頃になったと思う。城内では帰蝶のことをそういう意味で見ている輩も多く、我が息子の嫁にと相談を持ち掛けてくる家臣もいた。
娘を与えれば、その一族との繋がりが深くなる。
美濃国における影響力を強めたいだけの家に、可愛い娘をやる気になれなかった。国内は最初から選択肢になく、隣国のいずれかを視野に入れていたのは本当だ。その中で興味をひいたのが「尾張の大うつけ」だった。
(帰蝶、我が愛しい娘よ)
息子である義龍がかわいくないとは言わない。
抑えきれない野心は、確かに蝮の血だ。
強くなるための努力も惜しまないが、少々武芸に偏りすぎたか。元商人である父に反発してか、勉学にはとんと力が入らない。内政は家臣の仕事であり、自分は奥の間で報告を待つだけでいいと思っている。
逆に勉学へ興味を示したのは帰蝶だった。
これを知った義龍が激怒したため、利政はこっそりと帰蝶に勉学を教えた。当主としての仕事が忙しく、子供たちにはろくに構ってやれなかったことが悔やまれる。
「しかと言い伝えたぞ」
「うむ」
鷹揚に頷いた利政に満足して、義龍が去っていく。
何やらうだうだと申し立てていたが、結局は信長のことが気に入らないだけだ。利政が殊の外気にかけている様子に、危機感を覚えたのかもしれない。義龍はあれで、かなりの小心者だった。尊大な態度は、臆病さの裏返しだ。
「あれなりに、察しておるのだろうな」
時代が変わろうとしていた。
応仁の乱以降、室町幕府の勢いは弱まる一方だ。
幕府がなくなれば、日ノ本はどうなってしまうのか。北は朝倉、南は今川の動きが活発化している。実質的な距離がある西国よりも、隣接する国の動向が気になるのは当然のこと。
そして甲斐国に武田、越後国に上杉、更に関東の北条。
今は同盟関係にあるとはいえ、危うい均衡の上に立っているのも事実である。信長ではなく利政が死んでも、やはり今川家が動くことになる。
美濃国は大きく揺れるだろう。
周囲の讒言に惑わされ、親を親とも思わない義龍ではダメなのだ。従順な織田家次男でも力不足だ。蝮の娘という異名に相応しく育った帰蝶と、その夫になる男にこそ国の未来を託したい。
(死ぬなよ、婿殿)
できれば情勢が落ち着いて、万全の状態にしてから譲りたかった。
義龍が蝮の子として、親を食い殺そうとも構わない。その気概のまま、各国とも渡り歩けるのならばいい。こうも不安に駆られるのは肉親の情か、あるいは下剋上を果たした男の勘か。
注いだまま忘れていた酒を干せば、苦さが咽喉を焼く。
今度こそ深い思考の海に沈んでいく利政を、白い月が静かに見守っていた。
斎藤道三から見た主人公。
ちょっと過大評価しすぎな気もします。
2/7 道三の名を利政に修正