121. あっち、こっち、そっち
時系列がゴチャゴチャしています。
読みづらかったらすみません。
今年の冬はやたら寒い。
吉乃の容体は安定せず、奈江も臨月を前に臥せっている日が増える。二度目だから安心だ、という言葉は聞き飽きた。嫁たちの中で一番元気そうな奈江が、三七を身ごもっていた時は大きい腹で駆け回っていた奈江が、苦しそうにしているのは見ていて辛い。
信純は書状を携えて、甲斐へ旅立った。
盛次は近江経由で朝倉家の使者として、もうすぐ清州城を出立する。龍興を封じ込めるためとはいえ、尾張の外は危険が多い。滝川一族か、重正の手の者に護衛させることも提案したのだが、二人ともこれを固辞してしまった。忍には忍の嗅覚がある。身を守るために妙な誤解を生むことになったら、それこそ本末転倒だという。
「それでも俺は、知ってる奴が死ぬのは嫌なんだ」
年月が経てば経つほど、守りたいものが増えていく。
もういっそ天下統一目指しちゃった方がいいんじゃなかろうか。一歩手前で終わったのも、本能寺の変で信長が死んだからだ。生き延びることができたら、天下統一も夢じゃない。美濃を手に入れても、更にその向こう側が敵に回ることだってある。
そうならないための使者なんだが、浅井の裏切りを忘れられない。
まだ起きていない話がトラウマになっているようだ。
「殿! お生まれになりましたよ」
いつの間にか奈江が産気づいていた。
城仕えの女中頭が部屋までやってくるのは珍しいことで、俺は思わず腰を浮かせかける。
「どっちだ!?」
「はい、元気な姫様です。お鍋の方も、ご無事です」
「そうかっ」
ほーっと息を吐いた。
彼女の案内で、奈江のところへ向かう。やっぱり清州へ戻ってきてよかった。あのまま墨俣にいたら、斎藤軍との戦闘で手が離せなくなっていただろう。信盛からの定期連絡に「事もなし」とあるので、特に対応策は講じていない。
だが春を待たずに墨俣城へ行くべきだ。
なんだか嫌な予感がする。
しばらくなかった感覚なので、何がヤバいのかは分からない。とにかく墨俣城に行けば分かるはずだ。ようやくお五徳が慣れてくれたのに、全く残念でならない。奇妙丸も一人で書物を読めるようになってきて、茶筅丸や三七は外で遊ぶ方が好きらしい。
そうそう、長益から文が届いた。
なんと長島に住み着いてしまったという。いつまでも待っているお清が哀れでならない。このことを伝えたら長島まで追いかけていきそうなので、俺の胸にしまっておいた。十郎のことも書かれていたが、伊勢国人衆にはまだまだ大人しくしていてほしい。
文を握りつぶしていた件はもちろん、きっちり落とし前をつけさせる。
「源五郎の奴、当初の目的を忘れてるだろ……」
伊勢国との取引、どうするんだよ。
呆れて溜息を吐いて、俺はハッとした。尾張国内では町を中心に流通している貨幣は、中国から輸入したものだ。さすがに数が足りないので、幕府が鋳造している。という話を聞いただけで、実際にどこで作られているかは定かじゃない。
問題なのは貨幣が全国共通か、否か。
村単位では貧しい家も多く、物々交換で取引が成立する。価値の等しいもの同士を交換するのが通例だ。貨幣も同じように枚数と重さで、価値が変わる。
「おいおい、マズイぞ」
生まれた赤ん坊を見に行くのも忘れ、俺は頭を抱えた。
道理で十郎たちが怪訝そうな顔をしていたわけだ。俺としては値段を教えてくれれば、値切るか何かして定期購入する取引交渉まで用意ができていた。貨幣が一般的じゃないのなら、物々交換するのが常識だ。茶や染物がほしいなら、それに見合う品物を提示しなくては。
「あああああ、マジかああぁ」
急いで長益に文を書いた。
長島の屋敷ではちゃんとした食事が出てきたから、それなりに豊かなのだと勘違いしていた。本当に豊かなら、一揆なんで起きるわけがない。奈江だって、尾張国の豊かさに驚いていたじゃないか。どうして気付かなかったんだ、俺の馬鹿! 大うつけ!!
「という経緯があって、お冬のことを忘れていたわけじゃないんだ」
その翌日、俺は寝所にて土下座していた。
「別に、いいですけど? 会いに来てくれたわけですし?」
「奈江……怒っているなら、普通に怒れよ」
「体に悪いので、怒れません」
ぎゃあぎゃあ泣きまくっていたお五徳と違い、お冬はきょとんとしている。
目が合えば笑うし、何やらお喋りまでしてくれる社交的な娘だ。同母兄の三七も愛嬌を振りまくのが得意なので、幼い頃の奈江は素直な性格だったのかもしれない。
冬に生まれたから冬姫。21日生まれの三七。
この時代の女は裳着を迎えても改名せず、嫁いだ先で通称がつくくらいだ。だからきちんと考えねばと思って「五徳」と名付けたのに、お冬はなーんにも思いつかなかった。
ネタもセンスもない俺が情けない。
結局、生母の奈江が「冬」と名付けたのだ。現代風なら冬子である。
「かわいいな」
「そんなこと言っても、絆されないんだから」
「奈江も可愛いぞ? 拗ねた顔とか」
「嬉しくなーいっ」
「ほら、怒らない怒らない。お冬がびっくりしてるぞ」
「ううう~」
唸り始めた奈江を宥めすかして、その日は終わった。
**********
織田家の次女・お冬は抱っこが大好きである。
特に目線が合うような高さにすると、上機嫌でお話をする。
「あ、あはっ、あはあ?」
「うちの娘、最高に可愛い!! 出陣したくないっ」
「父上、刻限を過ぎています」
「奇妙丸が出木杉君に育って、父は嬉しい!」
「…………」
「殿のアレはいつものですから、理解しない方が心の平穏が保たれます。若様もそのうち慣れますよ、きっと」
「慣れるのかなあ」
半信半疑の奇妙丸は茶筅丸の手を引き、お五徳を抱えていた。
茶筅丸は三七と手を繋いでいる。俺が墨俣城へ向かうと聞いて、皆で見送りに出てきてくれたのだ。なんという家族愛か。もう言葉にならないっ、まさに感無量である!
漫画なら、だばーっと滝のような涙を溢れさせているところだ。
「さあ、冬姫様。こちらへどうぞ」
「あーい?」
「お冬がっ、返事を!! というか、吉兵衛。何をさらっと俺の娘を誘拐してんだ、コラ」
「お久しぶりでございます」
「だからどこ見て挨拶してんだよおおお!!」
「父上、刻限が」
「はいはい、殿はこっちです。……城門を開けよ!」
成政がぽいっと俺を馬へ投げ、なし崩し的に出陣させられる。
後ろを振り向くと、貞勝に抱っこされたお冬が小さな手を振っていた。正確には貞勝がそうさせているのだが、眩しいくらいの笑顔が滲んで見える。心の汗が邪魔をする。
お五徳につられてか、茶筅丸と三七が号泣していた。
困った顔の奇妙丸が保父さんにしか見えない。苦労性の長男ポジションだなんて、第一子誕生時には思いもしなかった。帰蝶は基本的に見守っているだけで、子供たちに指示を与えることはない。ただし、作法についてはかなり厳しいようだ。
身も心ものびのび育ってほしいと思う。
そう、視界いっぱい広がる水田で揺れる稲のように――。
「結局は一年しかもたなかったか」
「もった方だと思いますよ」
平然と答える成政を睨む。
土木建築の大変さを知っているくせに、当然みたいな顔をするのが気に食わない。俺が言わんとしているのは城のことだ。砦じゃない、城だ。
「それに包囲網が完成していない。準備が不十分だ」
「じゃあ、俺たちは負けますか?」
「相手が弱い」
「じゃあ、勝ちますね」
「そうだな」
家臣たちは負け知らずの英雄、として褒め称える。
俺が出陣した戦はほぼ勝利しているからだ。長らく続いていた国境での小競り合いは、恒興に「適度に流せ」と命じてあった。ゆえに結果だけを見れば、織田軍の負け続きになる。
墨俣城には、対斎藤軍の大将に選んだ信盛が待っている。
そこは大丈夫だ。危ないのは、そっちじゃない。
「十四条まで接近を許しただと!? 物見は何をしていたっ」
「申し訳ありません!」
墨俣の北、2里先に斎藤軍が陣を構えた。
懲りずに大軍を用意してくる龍興の執念には頭が下がる。十四条と墨俣の中間に、広良が守る十九条城があった。斎藤軍の総大将は牧村何某という男である。普通に考えて、一番近い方から攻めるに違いない。俺なら間違いなく、そうする。
それにしても、信盛らしからぬ失態だ。
かといって叱責している暇も惜しい。俺たちはすぐさま墨俣から出陣しようとしたが、血まみれの伝令に足を止めた。背の指物も泥まみれで、死地を脱してきたと分かる。
「も、申し上げ……っ。広良様、討ち死!! 十九条城はっ、敵の……手に」
「おい、しっかりしろっ」
「すぐに手当てをしてやれ」
ぐったりした伝令兵を、数人がかりで連れていく。
これまで悪い予感は全て的中してきた。間に合ったことなど、一度もない。
「だから何だ」
「殿」
「墨俣を、放棄するっ」
俺の決断に、背後がざわっと揺れる。
せっかく改修した城を、そっくり敵へ渡すと言ったも同然だから仕方ない。いいや、まだ美濃国を攻めるのは早かったのだ。義龍の訃報を聞いてすぐに動いても、龍興は大軍を差し向けてきた。今回も同じように数で攻めてくる。
まるで敵は、尾張だけだと言わんばかりだ。
「納得いきません! このまま清州まで戻るのですかっ」
小姓組から声が上がる。
「ド阿呆、来たばかりなのに戻るわけねえだろ。墨俣城だってタダでやらん。もったいないから攻城戦で傷をつけたくないだけだ。城を出て、西へ向かうぞ! 広良の弔い合戦だ」
「おおっ」
俺たちは西軽海村へ陣を移した。斎藤軍はすぐさま反応し、北軽海へ移動する。
どうにも牧村ナントカっていう将は頭がキレるらしい。まだ斎藤家には有能な人材が残っている。あるいは竹中半兵衛が既に采配を振るっている可能性もある。今孔明の異名をとる名軍師相手に、俺たちがどれだけやれるか。
信純は、無事だろうか。ふと、そんな雑念が脳裏をかすめる。
「もうすぐ日が暮れますな」
「ああ、警戒を怠るな。半介、ひょっとしたら夜戦を仕掛けてくるかもしれんぞ」
「まさか」
「可能性はゼロじゃない。つべこべ言わず、斥候を出せ! 今夜は眠れないと思え」
「ははっ」
極度の緊張で、全身の産毛が総立ちだ。
ちょっと動くだけでピリピリする。死を覚悟した時は、いつもこんなのだ。桶狭間では今川軍が腑抜けになっていたので、敵軍の殺気みたいなものは感じなかった。
両軍は川を挟んで睨み合っている。
雨が降ればいい。増水して、辺り一帯がぬかるみになればいい。空を見上げても、月や星が分からない漆黒だ。せめて雲の動きさえ分かれば、ある程度の予測をつけられるのだが。
寒さに二の腕を擦った時、どこかで法螺貝が鳴り響いた。
織田軍じゃない。
すぐさま天幕に戻った。地図を睨んでいた側近たちが顔を上げる。
「恒興!! 敵軍が来るぞ」
「は?! し、しかし報せは何も」
「先陣はお任せあれ! 恒興、先に行くからなっ」
「あ、おいっ」
成政が飛び出していき、一気に本陣が騒がしくなった。
恒興も迷った挙句、俺に会釈してから出ていった。俺も続こうかどうか考え、視界の端に地図が割り込む。ゆっくりと近づいて、凸型ブロックを掴んだ。一つずつ置いていく。
夜戦は、奇襲になる。
昼のうちに可能性を示唆したのが、どれだけ助けになったか分からない。今はただ、織田軍の力を信じるしかない。何故なら夜戦は視界不良のため、突撃一択のケースが多いからだ。あるいは明るいうちに配置を決め、合図をもとに動く。
赤外線センサーはない。透視カメラや暗視ゴーグルもない。
夜目が効く奴はそうそういるわけもないから、夜戦での行動は限られる。月のない夜だから夜戦を仕掛けたのか、俺には判断がつかなかった。
「誰かいないか!」
「ここに」
素早く走り込んできたのは重休だった。
俺が考え事をしている間、そこに控えていたのだ。
「恒興たちに深追いしないよう伝えてくれ。この状況で追撃戦はかえって隙を作る。それから半介を見つけたら、本陣へ戻るように……これは命令じゃない。可能な範囲でいい」
「大丈夫ですよ、殿。お任せください」
「ああ」
にこりと微笑む気遣いに、迷いのない背に声をかけたくなった。
どうしてだろう。行くな、と言いたかった。重休は伝令として走るだけで、戦闘に参加しない。伝令とはそういうものだ。電話やメールが使えない時代、人間を介する伝言ツールほど重要なものはない。
そうして俺は本陣から出ないまま、夜明けを迎えた。
斎藤軍は日の出を待たずに退いていく。織田軍はなんとか持ちこたえた。成政と恒興が奮闘し、また新たな敵将首を持ち帰ってくる。これで、広良の仇は討てたことになるのか。
敵軍を指揮していた牧村牛介の名は、覚えておく。
「皆の者、よく守った。大儀である。……さあ、清州へ戻ろう」
言いたいことは全て胸にしまい、俺は帰還を命じる。
夜戦で疲弊しきった織田軍の足取りは重い。信盛の進言に従って墨俣で一日の休息をとり、それから清州城へ戻った。相手が弱いから負けない、などとよく言えたものだ。
俺の驕りが、広良たちを死なせた。
岩室重休はとうとう、戻らなかったのだ。槍がこめかみを貫き、即死だった。重休を殺した奴は分からない。だが俺たちはどうあっても、美濃国を手に入れるしかなくなった。
今孔明の影に怯えるノブナガ