119. 美濃侵攻
永禄4年5月、家臣団の目を避けるように逃げ回っていた俺に急使が届いた。
斎藤義龍死す。
早すぎる家督相続も、己の死を見据えてのことだったのかもしれない。子の龍興は大々的に触れ回って、美濃国全体で喪に服す考えだ。前当主の死を悼む気持ちは大事である。俺なんか位牌に灰をぶっかけたせいで、一気に反勢力が活気づいたからな。
それは同時に、周辺諸国への隙を見せたともいえる。
斎藤家と血縁関係にある細川氏も、幕府の主導権を握る争いに負けた。この辺りは尚清からの情報だ。細川京兆家の娘婿である定宗が近江守と名乗っていたのも、案外ブラフじゃなかったんだなあ。この時代、どいつも適当に名乗っているんだか何だか分からない自称他称官名が多くてワケ分からん。
そうそう。その近江では頭角を現しつつあった六角氏も、従属させていた浅井家との喧嘩で忙しい。越前の朝倉家は浅井家と親戚だし、甲斐の武田家と斎藤家の交流はなかったように思われる。あー、伊勢の国人衆たちはよく分からん。十郎がその国人衆の血筋なんだよな、楠家だし。
そういえば義龍は、足利一門の一色氏の末裔であると主張していた。
油売りの父を嫌悪していたそうだから、由緒ある家柄を求めたとしても不思議じゃない。実際にどうなのかは別として、将軍義輝は一色姓を許可した。あの人、若い奴に甘すぎね? あるいは守護職に相当する武将なら何でもイイコイイコしたいとか、味方がいなさすぎて恩を売りたいお年頃とか、考えられる可能性は色々あってだな。
そんなことより、俺は声を大にして言いたい。
「出陣したくねー!!」
「そのような駄々をこねるものではありませんぞ」
「だって恒興! 奈江が、奈江が、悪阻って」
本格的に斎藤軍と戦うことになったので、国境から呼び戻したのだ。
たまには嫁の顔を見てやれと言っているのに、こうして俺の傍から離れない。国境の守りを任せたのは俺だが、家族を大事にするのは本人の意思次第だと思う。
「二度目のご出産ですし、母を含めた皆で万全の体制を敷いております。以前のようなことはないと断言できます。いつものように戦が終わり次第、迅速に撤収すれば間に合いますよ」
「てめえ恒興、分かってんのか。相手は美濃だぞ!?」
「ええ、問題ありません。乳兄弟として、信長様のお考えはよく分かっております。勝手に自滅するのを待ちきれなくなったんですよね」
「全っ然違うわー!!」
俺が吠えると、どこかでお五徳の雄叫びが聞こえた。
今日も元気だな、うちの娘は。赤ん坊は泣くのが仕事だとはいえ、茶筅丸たちがビビって近寄らなくなった。織田の次代の担う男が、赤ん坊の泣き声に怯えてどうするんだ。
ちなみに奇妙丸があやすと、お五徳はたちまち大人しくなる。
ニコニコ笑顔が可愛い、と長男はとてもかわいがっていた。
なんだか俺とお市を思い出すなあ。お市も赤ん坊の頃から超絶可愛かった。天使だった。今は天女である。帰蝶の説得で那古野城へ帰っていったものの、城の内外でファンが大勢いるらしい。さすがは俺の妹である。
「殿、出陣の用意ができましたぞ。内蔵助、やれ」
「へえへえ、失礼しますよっと」
「ぎゃああぁ!?」
長秀と成政の二人がかりで、柱にへばりつく俺が剥がされた。
またお五徳の鳴き声が聞こえて、すぐに収まる。部屋に奇妙丸が来ているのだ。出陣前に我が子の顔を見たくなったものの、余計に行きたくなくなるので止めた。
出産予定日は11月くらいだという。
そんな寒い時期にと文句を言ったら、種付けしたのは俺だろうと言い返された。俺の乳母は相変わらず元気で何よりだ。可能な限り長生きしてほしい。
生温い視線を浴びながら、俺は側近たちと共に外へ向かう。
何度、こうやって出陣していっただろう。小姓たちに具足をつけられるのも慣れた。移動中に終わらせてしまうと手間が省けるので、今はもう定番と化している。嫁たちの陣羽織に袖を通し、鼻水をつけてくれた長男のことを思った。
いつか、あれも信包のように「連れていけ」と泣くのだろうか。
幸や皆のように、役に立つからと訴えるのだろうか。
「殿、お下知を」
「まずは木曽川を渡るぞ。先行した蜂須賀たちの連絡を待ってから、本陣を定める」
「御意」
伝令に走る者、俺と一緒に出陣するための準備を整える者、その他様々な用事を抱えた人間が城内を走り回っている。人を殺しに行くのに、賑やかだなんて思う俺はどこかおかしい。
しかし清州から国境までは、少し遠いか。
「五郎左、岩倉城はどうなっている?」
「当時のままに。管理と警備のために最低限の人数のみ出入りの許可を与えております」
「壊せ」
「よろしいのですか?」
「目の前に小折城がある。周辺の砦も半数ほど潰してしまえ。維持費がバカにならん」
「承知しました。宗吉殿には、そのように伝えましょう」
「殿、岩倉の守りを生駒家宗に任せるんですか? 周囲の反発をくらいますよ」
家宗は実力で成長してきた商人であり、武士だ。
弓の扱いに長けており、流鏑馬の独自流派を作ってもいいと思っている。だが、吉乃のことがあるから難しいのだ。政略結婚が当たり前の時代、嫁の実家との関係は無視できない。寵姫と噂される吉乃の実家だから、家宗が重用されているのだといわれる。
逆に奈江は、後ろ盾のないお鍋の方として名が知られてしまった。
伊勢国とは大して交流がないせいもある。本当に長益、今頃どうしているんだ。生きてんだろうな? 滝川一族の者をつけているから、万が一っていうことはないと思うが心配だ。
連絡しやすくするためにも、美濃と伊勢に近い拠点が必要か。
とまあ色々思うところはあるのだが、今はこれでキメる。
「俺に考えがある。時を待て」
「そういう秘密主義なトコ、昔っから変わんねえよなあ」
「内蔵助! 以前の我々とは違うのだ。そのように気安く話しかけるものではないぞ」
「五郎左はいちいち細けえんだよ。俺なりにちゃんと敬意は払ってんの」
「そうは見えんから言っておるのだ!」
「恒興みたいに喚くなよ。でかい声なのは、姫様お一人で十分」
「内蔵助!!」
久しぶりに長秀の雷が落ちた。
「出陣前に喧嘩するな。兵が不安がる」
「申し訳ございません」
深々と頭を下げる長秀の横で、成政が肩を竦めている。
俺は別に気にしないんだけどなあ。むしろ、地位が上がっていくにつれて礼儀作法なんかを堅苦しくしていけば窮屈で仕方ない。また広間から逃げ出したらどうするんだ、俺が。
ともあれ、家臣団念願の戦である。
今川義元を討った桶狭間決戦より一年が経過した。騎馬についていけるように、足軽隊の足腰強化を目標として新たなトレーニングが組まれている。その成果を見せる時、と息巻いているのは主に馬廻衆だ。二つの母衣衆も、ジャンケンで出陣枠が決まった。
さすがに全力織田軍で攻め込むわけにいかんからなあ。
「この戦いで、美濃を併呑できるとは思っていない。準備が足りない」
「そうですか? 一気に稲葉山まで進めると思いますが」
真顔の成政に苦笑する。
俺の初陣、稲葉山城攻めだったもんな。その後も何度か、親父殿が稲葉山まで攻め上っていた。戦ばっかしてんじゃねえよと文句を言える立場じゃなくなったが、これだけは言える。
「帰れんだろ」
「ああ、お鍋の方様の出産」
「最重要案件だ」
馬を走らせながら、雑談も余裕な俺たち。
場面は変わって、真っすぐに国境を目指している。西美濃には墨俣がある。伝説かもしれない一夜城を期待して秀吉も連れてきたが、砦や城を作る予定はまだない。秀吉の方から進言してくるのか、俺の無茶ぶりによるものなのかも分からない。
まあ、なるようになるだろう。ケセラセラだ。
全力じゃないとはいえ、千五百の兵が川越えするのは手間がかかる。そこで蜂須賀隊の出番だ。川賊と言われるだけあって、操船術と運ぶことに関しては見事なものだった。さくっと渡河を済ませ、全員が揃ったのを確認して蜂須賀を呼んだ。
「殿、この先に勝村というところがあります」
「分かった。そこに陣を敷く」
うむ、美濃国に詳しい奴がいるのは助かる。
5月13日、織田軍は美濃国勝村に本陣を敷いた。
とっくに斎藤軍の警戒域を越えている。奴らがいつ攻めてきてもおかしくない状況だ。今までは受け身を貫いてきたが、ここで攻勢に出るとは思っていないだろう。義兄が死んだからといって、喪に服してやる義理はない。義を捨てたのは、向こうだ。
俺が本陣奥で休んでいると、ひょこっと秀吉が姿を見せた。
「あのう、信長様」
「猿の相手をしている暇はないぞ。功が欲しけりゃ、内蔵助たちについていけ」
「いや、その……利家の件でアダッ」
非常に言いにくそうにモジモジするのが気持ち悪いので、軍配を投げつける。
ちょうど額にぶつかったらしく、悶絶しながら軍配を拾う秀吉を睨んだ。またか、またあの馬鹿犬が無断出陣してきやがったのか。命令無視すればするほど、俺の追放宣言を撤回しづらくなるってことを理解していない。やっぱり馬鹿だ、馬鹿犬だ。
「もう知るか!! 勝手にしろっ」
「えっ、それでええんじゃろうか?」
「ええんじゃ」
「わ、分かりました。すぐ伝えてきますでのうっ」
何故か喜び、飛び跳ねるようにして天幕を出ていった。
猿の考えることはよく分からん。
「ありゃあ、秀吉か……? 野猿が紛れ込んだのかと思った」
「我は信長ぞ。敬え、ハチスカ」
「そんなことよりも地図持ってきてやったぜ。口煩い側近もいないし、別にいいだろ」
「ふん」
「二方面から攻めるんだったな。それなら森部がいい。……ここだ」
「まあ、何とかなるだろう。権六と可成なら、俺の意を汲める」
「本陣の守りはどうするんだ? 分かっているのか、相手は六千の兵だぞ」
「その兵力差がミソなんだよ。美濃との小競り合いは全戦全敗。舅殿の救援に向かった時も、俺は斎藤軍から逃げるしかなかった」
長良川の戦いは蜂須賀にとっても辛い記憶だ。
俺は一時行方不明となり、利家が影武者となって織田軍撤退を助けた。森可成が今回の戦いについてきたのも、長良川で俺を守り切れなかったと悔いているからだ。
勝家はほぼ間違いなく、戦いたかっただけだろうなあ。戦闘狂め。
「それにな、ハチスカ。千五百の兵に、俺の信頼する将が何人いると思う?」
「池田、丹羽、佐々、木下に柴田、森。それに犬、か」
「お前も含めとけ。一騎当千の将がこんだけ揃っているんだ。負けるわけがねえよな」
「ははっ、確かに七千もありゃあ織田の方が多い」
意外に蜂須賀は自己評価が低い。
ウジウジ虫は俺だけで十分なんだが、舅殿を守れなかったことは一生背負っていく傷になったのか。俺に言わせれば、死なぬと言ったくせに死ぬとか大嘘吐きだと罵りたい。親父殿の墓前にも行っていないが、舅殿の墓もどこにあるんだか。
「美濃攻略が済んだら、墓参りでもするか」
「勝手にしろ」
「お濃も連れていかなきゃならないから、ハチスカも同行しろ」
「はあ?」
「親の墓参りは人として当然だろ」
「尾張の殿様は気の早いことで」
蜂須賀は薄く笑い、地図をくるくると丸めた。
二方面作戦の説明をやってくれるつもりのようだ。俺の勘違いだったら非常に困るのだが、地図を持っていくからにはそういうことだろう。蜂須賀に対する嫉妬心は、かなり小さくなった。
森部に陣を移した翌14日、バシャバシャと激しい水音が近づいてきた。
「斎藤軍に動きあり! 長井甲斐守、日比野下野守の旗印を確認っ」
「墨俣を出発し、こちらを目指しております」
「うむ」
豪雨の中を突っ込んでくるか。
戦術としては並だな。なにしろ、時期が悪い。
5月は田植えの時期だ。冬の間に固くなった土を柔らかくするため、人口の沼地が大量に作られる。水稲は水田栽培だから当然だな。軍勢を率いるなら、森の中よりも平地を選ぶ。そして平地は水田だらけだ。尾張国では四角い水田も増えたが、ぐねぐねした水田が一般的だ。どこからどこまで水田なのか分からない上に、雨が降ると見事なぬかるみ地帯になる。
それで足を取られ、討ち取られた将は多い。
「早く帰れそうだ」
にんまりとほくそ笑む。
日比野という武将は斎藤六人衆と呼ばれている。名のある将を討ち取るが勝利条件だ。雑魚はどうでもいい。将の首を、確実に、刈り取る。
俺が腰を浮かせると、蜂須賀が地図を広げた。
全員の視線が机に集まる。秀吉が素早くブロックを配置し、俺は指揮棒を伸ばした。こんなこともあろうかと作っておいたのだ、ふははは。
「斎藤軍を迎え撃つため、兵を二分する。権六と五郎左、内蔵助と可成の組み合わせで再編成。小中規模に分け、密集形態で水田前にて待機」
「本陣の守りはいかがなされる?」
「そのことだがな。ここまで出張ってきた以上、本陣なんぞ空でもかまわ」
「今回は本陣に控えていただきます!」
「と、恒興が主張するので斎藤軍の相手は任せる」
「心得ましてござるっ」
「日比野らの首を楽しみにお待ちくだされ」
頼もしい返事の後、ぞろぞろと出陣組が本陣を後にする。
あれ? 俺は待機の続きを話していないのに、大丈夫なんだろうか。見逃し三振、サヨナラ負けなんて嫌だぞ俺は。心配になって追いかけようとしたら、すごい笑顔の恒興に椅子へ戻されてしまう。
「おい、恒興」
「任せると言った以上、任せるべきです」
「それは、そうなんだが」
声を張らないと聞こえないくらいに、雨音がやかましい。
桶狭間の奇跡はハナから期待していなかった。密集形態でもなければ、隣の顔も分からないくらいの豪雨は敵の接近を隠してくれると思うだろう。残念だったな、うちの側近たちは雨の日の水田も見慣れているのだ。田植えを経験しているから、ぬかるみにも強い。
どこをどう歩けば、足を取られにくいか知っている。
ワアアァーッ
突如として、鬨の声が上がった。
恒興が前に出て構えるも、本陣に何かがやってくる気配はない。俺は確信した。増水して沼地になった水田に、斎藤軍がかかったのだ。そこへ潜んでいた織田軍が襲いかかる。
大軍が最も効果を発揮できるのは、晴天時の何もない平地くらいだ。
「馬鹿みたいに突進してくる奴に負けるわけがない」
「殿、ものすごく悪い顔になっています」
「ぬかせ」
民のことを思うなら、水田を戦場にするのは間違っている。
だが向こうから突っ込んでくるものを迎え撃つは必定。俺は早く清州へ帰りたいので、まだ美濃国をどうこうする気はない。森部と勝村にはいずれ、織田流農法を優先的に用いることで勘弁してもらおう。
他国の民より、自国の民である。
「の、信長様!!」
「つまみ出せ」
「はっ」
恒興と小姓たちの手で、連行されていく馬鹿犬。
今回も敵将首を討ち取る戦功を挙げたせいで、俺はとうとう追放令を取り下げることになった。
ノブナガ「フッ、計算通りだ」
恒興(本当かなあ)