【閑話】 勇者ジュウロウとうつけの城
注意:シリアスというよりも、単純にジメジメと暗いです
※桶狭間の戦いの裏話みたいなものなので、飛ばしても大丈夫です
白波を立てて走る船に、その姿はあった。
長良川の下流域を拠点とする楠家の正統後継者、十郎正賢である。といってもまだ家督を譲られていないので、皆には「楠の若様」と呼ばれている。父より長島屋敷を任されて以来、煩悶する日々を過ごしていた。
「それというのも、尾張のうつけが全て悪い!」
ガツンと縁を叩いて、痛みに悶絶した。
涙は流さない。英雄・楠木正成の子孫たる誇りがそうさせない。
毅然と胸をそらして立てば、なんとも立派な若武者ぶりであった。緋色の胴巻に黒の紐を締め、要所に施された金糸が輝く。傷一つない新品同様の武者鎧をまとった十郎はこれが初陣となる。
見送りに来た証恵は、最後まで心配そうな顔をしていた。
何を白々しい、と十郎は腹を立てる。
彼女を密かに逃がした張本人であるくせに、十郎を気遣うふりなどしなくてもよろしい。門徒を案じる慈愛の裏で、愚かな奴よと嘲笑っているに違いないのだ。
「奈江……どうして、私の助けを待てなかったのだ」
愛しい女。伴侶として、傍らに立っていたはずの幼馴染。
失って初めて、奈江という存在が何よりも代えがたいものであると知った。伊藤重清などにくれてやるつもりも更々なかったのに、奈江は長島を越えて伊勢国からも逃げ出したのだ。
木曽川周辺を縄張りとする川並衆は、荒っぽい賊の集団だ。
斎藤家に従っているという噂もどこまで本当か分からないし、川並衆に襲われたという商人たちも少なくない。大事な荷物がなければ、商売ができない。品物に見合った等価交換で取引が成り立つのだ。荷を奪う川並衆は間違いなく、下劣な悪党であった。
奈江は、そやつらに攫われたらしい。
だから諦めろと言われた。愛妾にもらう予定だった重清も、川賊なら仕方ないと笑った。奈江のことなど、本当にどうでもいいと思っていることに怒りを覚えた。
「だが、奈江は生きていた」
攫われた女たちは、花廓などに売られる。
伊勢国に近くて廓がありそうな町といえば、津島が思い当たった。商人のふりをして何度も足を運んだが、奈江らしき女を見つけることができなかった。楠家はもう、奈江が死んだものとして受け入れている。十郎には新しい女があてがわれる。
奈江しかいらないと言っても、父は冷めた目で見返すだけだ。
死んだ女をいつまでも追いかける腑抜けと笑われた。ますます楠城に戻りたくなくなって、長島屋敷にこもりっきりになった。毎日、奈江のことばかり考える。
状況が変わったのは、長島に風変わりな青年が訪れた頃からだ。
茶と織物を求めて、はるばる津島からやってきたという。なんでも尾張国では、美味なるものをこぞって求める風潮にあるらしい。随分と贅沢なことである。日々の糧は平等に分け与えられるものであり、美味くないからといって文句を言うのは大間違いだ。
しかし青年は言う。
美味なるものは心を豊かにする。
高価なものが美味であるとは限らない。むしろ心を込めて、丹念に世話をしたものは何でも美味なるものである。何故なら苦労した過去が己に報いるからである、などと禅問答のように説く。
いつしか源五郎、という青年は長島に馴染んでいた。
無類の茶好きである彼に喜んでもらおうと、誰もがいそいそ足を運ぶ。茶の良し悪しなど十郎には分からない。誰が淹れても同じだろうに、源五郎の淹れる茶は格別だと評判になった。
とうとう源五郎は茶畑も作り始める。
原点回帰がどうのこうのと難しい問答は聞きたくない。
そいつは三郎の弟だった。死んだはずの奈江を側室に召し上げた憎き男、織田三郎信長の異母弟だったのだ。それを知った時の十郎はすぐさま源五郎に襲いかかった。
騒ぎを聞きつけた者らに止められたが、源五郎は尾張の間者だ。
尾張のうつけめが、この長島を手に入れるべく送り込んだに違いない。伊勢茶だの茶渋染だのを大いに気に入った様子だった。気に入ったから欲する。権力者にありがちな心理だ。
信長も重清も同じだ。
「待っていろ、奈江。もうすぐ助けに行くぞ」
忌々しい過去から現実に立ち返り、十郎は決意を噛みしめる。
「十郎様、そろそろ中へ入られたらいかがですかな」
「ああ、左京か」
やってきたのは腰の低い男だった。
人を騙すという狐の方が可愛げがあるだろう。明らかにあやしい、と感じさせる空気を纏っている。そんな男と協力することになったのは、今の十郎が未熟だからだ。
家督を譲られれば、せめて楠の精鋭を連れてくることもできたろうに。
十郎についてきたのは長島屋敷で働いていた数名と、奈江のことを同情してくれた一向宗の同志たちである。民に圧制を強いる領主は悪だ。信長は己の欲を満たすため、よく分からない道具を使わせて無理矢理に働かせている。
そんな暴挙が許されてなるものか。
得体の知れない男だと思っていたが、人の皮を被った魔物だった。
十郎は魔物退治をすべく、長島の地を出発したのである。
「今日はひときわ風が強いようです。うっかり海に投げ出されますと、命を落としかねません。大義を成す前に、そのような悲劇に遭うのはこちらとしても」
「少し頭を冷やしたかっただけだ。もう戻る。心配させてすまないな」
「いえいえ」
両手を擦り合わせながら、にこにこと応じる服部友貞という男。
油断のならない相手だというのは承知の上で、わざと口車に乗ってやっている。というのも服部党は、駿河他三国を統治下に置く今川氏と懇意にしていたからだ。海道一の弓取りと名高い守護大名とどうやって知り合ったかは、どうでもいい。
その今川氏と織田弾正忠家は敵対関係にある。
服部党が西の河内一帯を、今川氏は東の知多郡を支配していた。戦によって奪い取ったものだが、信長はそれが気に入らないらしい。そもそも織田弾正忠家は清州三奉行の一つにすぎなかった。伊勢国でいうなら、国人衆の一つである楠家と同じくらいの地位だ。
それが、だ。
同族を悪辣な手で滅ぼし、一度は助けて恩を売り、用がなくなったからといって代々守護職を担ってきた斯波氏を追放し、あろうことか自らが守護職を名乗ってしまった。恥知らずどころか、武士の風上にも置けない。
うつけ、とは大馬鹿者の意味だという。
いや、馬鹿に失礼だろう。悪党同士、蝮の道三と仲良くしていたのも頷ける。
「若様」
「ん? 与助まで来たのか。分かった、今すぐ戻る」
いつの間にか友貞はいなくなっていた。
長島屋敷に移り住んでから、ずっと一緒にいる与助が周囲を気にしている。そわそわと落ち着かないのは、もうすぐ熱田に着くからだろう。長い船旅であった。
「あの服部左京進という者、やはり信用なりませぬ」
「何度も聞いた」
「今川治部大輔と親しいなどと、本当でしょうか」
「嘘かどうかは関係ない。信長が軍を率いて、熱田に向かっているのは本当なのだ。十倍近い兵力差でも戦いを挑もうという神経が理解できん。民を無駄に死なせるだけだというのに」
「その尾張の民をも救うために、若様が出向くことになったのでありましょう」
奈江のためだが、ここは頷いておく。
憎き信長が死ねば、織田家は終わる。嫡男はまだ幼く、何人もいる弟たちは清州から遠ざけていると聞く。源五郎のように、小者のような酷い扱いをしているのだろう。
そう思うと、源五郎が哀れに思えてきた。
本懐を遂げて奈江を迎えに行ったならば、源五郎を楠家に加えよう。短期間で人心をとらえる徳の高さは、将としての器にも等しい。話せば分かる男だ。真摯に訴えれば、十郎の片腕として知恵を絞ってくれるようになるやもしれぬ。
「今は熱田、だな」
「はい」
信長は神速を貴ぶ。
もしも熱田で接触を図れずとも、背後を突く腹積もりだと友貞は言う。攻め手の今川軍と挟み撃ちにするのだ。十郎には卑怯な策に思えるが、戦とはそういうものらしい。
奇襲戦もちゃんとした軍略だ。
十郎は納得して、ここに立っている。
愛妾から逃げ出して側室になった奈江は、信長の子を生んだ。その報せを聞いた時には目の前が真っ暗になったが、まだ生まれたばかりなら救いはある。赤子には十郎のことを父だと思わせればいい。血の繋がりなど関係ない。楠家を背負うに相応しい武将に育て上げてみせる。
与助に従って、十郎は船倉に入った。
狭くて臭くて仕方ないが、海に投げ出されるよりはいい。グラグラと揺れる船内で耐えること数日、ようやっと陸地へ下りることができた。ふらつく足に、友貞の忍び笑う声がする。
「左京」
「あいや、これは失礼を。十郎様、ご案じなされますな。船の揺れに慣れますと、陸でも揺れているように錯覚するものでございます」
「ふむ、そういうものなのか」
じきに妙な感覚も消えるということなので、十郎は頷いておく。
信長と戦う時には万全の状態にしておかなければならないのだ。織田軍の様子を探るために出した斥候が戻るまで、しばらくかかるという。その間、体を休ませておこう。
どこか腰を下ろすところはないだろうか。
周囲を見回していた十郎は神宮らしき建物を見つける。この熱田には、草薙剣を奉る神社があった。おそらくあれが、その熱田神社であろう。この辺りの人々は、神道に傾倒しているようだ。
「十郎様!」
「ん? どうした、血相を変えて」
「大変です。今すぐ長島にお戻りくださいっ」
与助は周囲を警戒しつつ、早口で告げる。
そのただならぬ様子に十郎も落ち着かなくなってきた。そういえば、十郎と一緒に上陸した服部党はどこへ行ったのか。気が付けば、誰もいなくなっている。斥候を出しただけなら、ここで待っているべきだ。散開したままでは織田軍の返り討ちに遭う。
「左京は」
「早くここを離れましょう! 御身が危のうございますっ」
「ちゃんと説明しろ、与助。私に逃げろと言うのか」
「今川治部大輔様が討たれたのです。今川軍は総崩れ、織田軍の大勝利と――」
慌てて立ち上がる。
乗ってきた船がいない。どこにも見えない。友貞も、長島からついてきた同志たちもいない。熱田の浜に、与助と十郎が二人っきりだ。取り残された、と理解するのに時間はかからなかった。
「逃げる? はは、どこへ逃げるというのだ」
ここは尾張国だ。
わざわざ海路を辿ってきたのは、織田軍に見つからないためだ。陸路をゆけば、遠からず織田軍に見つかってしまう。長島屋敷からほとんど出ていない十郎だが、津島には知っている者もいるだろう。今川軍を討ち果たした信長に遭遇したなら、楠の十郎だと知れてしまう。
異母弟の源五郎を長島に留め置いているのもバレてしまう。
彼は清州城へ何度も文を送っていたようだが、十郎はその全てを握りつぶしていた。長島の内情を知られるわけにはいかない。美濃国の前に、長島を飲み込んでしまおうと考えるかもしれない。
今更、震えが来た。
「与助」
「大丈夫です、十郎様。私めがついておりますれば、命に代えても若様を伊勢にお返しいたします。海沿いの道をゆけば、織田軍には見つかりますまい」
「あ、ああ」
「急ぎましょう。皮肉なことですが、我ら二人だけならば人の目も誤魔化せます」
十郎は一、二もなく頷いた。しかし与助の予想は少し外れていた。
どんな気まぐれか、今川軍を下した信長は海側に目を向け始めたのだ。十郎が尾張国へ来ているのを察しているとしか思えない。津島へ向かうのは止めて、まっすぐ北を目指した。
尾張国では信長を称える声ばかりが聞こえてくる。
頭がおかしくなりそうだった。十郎が伝え聞いた話と全く違う。誰よりも民を想い、民と共に喜びを分かち合う稀有な領主として好かれている話は、何度聞いても信じられなかった。一番信じたくなかったのは、奈江のことだ。
正室である濃姫の人気は高く、二人の側室への評価は低い。
馬借の娘は女だてらに商売上手で、伊勢から来た女は刺繍が得意。美しい藍色をいくつも考案し、それを使った手ぬぐいや織物を作らせては売りさばいている。その金は全て清州城へ集められ、あろうことか庶民のために開かれた寺子屋の運営費に賄われる。
尾張国の子供は五歳になると、月一回の集会に参加する。
十歳になると、寺子屋に入る。もちろん無料ではないが、とても安いらしい。しかも寺子屋に子を預けている家は、優先的に仕事を融通してもらえる。役人から割り当てられるのではなく、自分のやってみたい仕事をまず問われるのだそうだ。
最初は戸惑っていたが、やりたい仕事ができるのは楽しいと人々は言う。
何でもいいから稼ぎたい者は労役に課せられる。この労役もおかしなことになっていて、頑張れば頑張るほど金がもらえる。眉唾物だろうと笑っていた商人も、信長様なら本当かもしれないと言い添える始末だ。
「……与助、あれが清州城か」
「はい」
「大きくて、立派な城だ。縄張りも広くあるのだろうな」
「眺めている場合ではありませぬぞ、若様。早く北へ向かわねば。この春日井は特に、信長めの影響が強いと聞きます。誰かに見咎められぬうちに早く参りましょう」
「そんなに急いで、どこ行くんだ?」
二人はビクッとして立ち止まる。
急に空が陰ってきたかと思えば、見上げるような大男が朱槍を抱えて立っていた。反射的に与助が十郎の前に出る。いざとなれば、その身を盾にするつもりだ。
しかし大男は不思議そうに首を傾げる。
「ふうん、ワケありみたいだなあ。俺には関係ないけど」
「見逃してくれるのか?」
「若様っ」
「アンタたちを突き出してあの人が喜ぶなら、俺ぁやりたかないね」
「あの人?」
「そう。アンタたちが見ていた城の持ち主さ」
大男は意外に若かった。
顎をしゃくってみせる方向には清州城がある。城主は誰かと問うまでもない。見事な朱槍を抱えた青年は、信長のことを快く思っていないようだ。領民が口を揃えて褒めているのに意外なことだった。
十郎は思う。この青年を誘ったら、長島屋敷まで来てくれるだろうか。
尾張守護職の地位を得た信長に比べて、十郎はあまりにも非力だ。家督を継いだだけでは足りない。国人衆をまとめ上げ、一致団結する勢いが必要だ。民は強いものに弱い。この大きな青年が十郎の隣に立てば、民は大いに奮い立つだろう。
「じゃあな。無事におうちへ帰れることを祈っとくよ」
「あ……っ」
「ん?」
「名は、何と言うんだ? 私は」
「十郎サマって呼んでたよな、そっちは与助。俺は慶次。慶次郎ってのがホントの名前だけど、どっちで呼んでくれてもいいぜ」
「分かった、慶次」
また会おう、とは言えなかった。
慶次と名乗った青年はさっさと踵を返してしまったからだ。悠然と歩いているように見えて、あっという間に後ろ姿が小さくなる。不思議な存在感のある男だった。
尾張国には色々な者がいる。
それから十郎は半月以上かけて、ようやく長島屋敷に帰り着いた。長く不在にしていた十郎を案じて、皆が機嫌伺いにやってくる。その表情に裏があるような気がしてならない。良く言えば純朴、悪く言えば愚直な民を同志などとは思えない。
疑心暗鬼に陥った十郎は、屋敷にこもりがちになった。
しびれを切らした正具が城へ呼び戻すまで、長島屋敷は暗く陰鬱な時間を費やすことになる。
どうでもいい補足:慶次の朱槍は、犬千代時代から利家が愛用していた朱色の三間槍をかっぱらったものです。他にも槍を所持していたので気にしなかった利家ですが、浪人生活をするようになって朱槍を惜しんだという余談があります、ハイ
この頃から傾奇者のケが出つつありました(いわゆる反抗期)
利家気に入りの羽織(派手)を借りたり、利家がノブナガからお下がりでもらった(下賜ともいう)何故か女物の着物を着てみたり、と悪戯の範疇を越えませんでした。数年して利家よりもデカくなり、自分流を確立していったとかそういうの(出奔)