117. 鴨が葱を背負って来た話
まだ尾張国が大勝利に浮かれていた頃のこと。
末森城の信興が遊びに来ていて、珍しい顔に興奮しまくった茶筅丸たちが全力でじゃれついている。二人の娘はとっくに疲れて眠ってしまった。いやあ、助かるわー。奇妙丸はもう大きくなって聞き分け良くなってしまったが、小さいのが四人もいると大変なのだ。
乳母も手を焼く暴れん坊揃いに、何故か俺へ非難の目が集まる。うむ、解せぬ。
「そういや、彦七郎」
「はい」
「熱田の沿岸部に来ていたっていう不審船の話を知らないか?」
「服部党のことですか」
俺は扇子を落っことした。
「はああぁ!?」
「義元討ち死の報を受け、すぐ帰ったそうです」
信興の羽織に覆われた茶筅丸と三七がウゴウゴしている。
俺が叫ぶのを察した信興が、甥の耳を守るために守ってくれたようだ。もちろん、子供たちはそんなこと関係ない。新しい遊びだと思って、信興の羽織にじゃれつき始めた。奇妙丸が同じ年頃の時は、もうちょっと理性的だったはずなんだが。
なんかこう、二匹の子犬がコロコロしているようにも見える。
「……詳しく調べさせますか」
「いや、大丈夫だ。それよりも上陸させちまったんだな。熱田からは何も言ってこないし、ご利益の礼を言いに訪問するか?」
「水軍、欲しいですね」
「欲しいな」
それきり会話が途切れた。
信興は饒舌な方じゃないので、他の兄弟がいないと大抵こうなる。なんとなく子犬たち、もとい茶筅丸と三七を眺めていた。羽織の紐が絡まりそうになると、信興がさっと解いてやる。それにも気付かない子供たちは鈍いのか、遊びで夢中になりすぎているのか。
まあ、まだ幼いからなあ。慌てることはない。
少なくとも嫡男が有能で、次男と三男がそれに続くくらいでちょうどいい。奇妙丸に好意的な者も多く、跡目争いに発展する心配もないだろう。親父殿の二の舞、俺と信行みたいな醜い喧嘩だけは経験させられない。
静かになった部屋に、足音が近づいてくる。
俺たちが身構えた時、ひょいと姿を見せたのは末弟・長利だった。
「あにうえー……あ、彦にぃ。ヤッホー」
相変わらず眠そうな顔をしている。
ぽよんぽよんしていた子供時代よりは痩せたものの、休暇になると太る。今は少しスリムなので、何かしら仕事をしてきたのだろう。伊賀流の技を身につけたというが、師が誰なのかは未だに誰も知らない。
「又十郎、その挨拶はどうにかならないのか」
「無理」
「そうか」
会話終了(二度目)。
万事がこの調子なので、二人の不仲を疑われたこともある。信包や長益が饒舌な方だから、余計にそう見えてしまうのだろう。信治はそうでもないが、信行や信広もよく喋る方か。紅一点のお市は喋っていても喋っていなくても可愛い。幼い娘たちもあんな風になると思うだけで、ニヤケが止まらない。
長利は俺を見て、ふにゃりと笑った。
「朗報」
「おお、いいな」
「と悪い話、のどっちを先に聞きたい?」
「……悪い話を先に」
「ん」
信興が先に答え、長利が部屋に入ってきた。
抜け目なく棚に隠してあった甘味を発見し、もきゅもきゅと食べ始める。実に幸せそうな顔をするので怒れない。それ、徹夜明けの糖分補給用だったんだが。まあいいか。
「ふぃらはらいふんろ」
「伊賀が内紛!?」
「よ、よく分かったな、彦七郎」
「ふぇいふぁくりら、ふぉれのほろ……」
「ええい、呑み込んでから話せ!」
「んぐんぐ」
「兄上。此度のことは又十郎が忍術の技を身につけたことに、端を発するようです」
「師匠ぴんち。へるぺすみー」
「Help meだぞ、又十郎。俺以外で英語が分かるのは内蔵助くらいだが、余所でうっかり使ったりするなよ。妙な誤解を生むと厄介だ」
「らじゃー」
眠そうな顔で敬礼されても、不安しかない。
伊賀の里は、織田信長とも因縁があったのは知っている。確か奇妙丸じゃない方の息子がポカやらかして、伊賀流の助力が全く受けられなくなったのだ。それでも徳川家臣になっていた服部半蔵が、主のために伊賀越えを勧めた――というのは本能寺の変が起きてからだ。
「伊賀国には仁木氏が守護についています。ですが忍の里としては上忍三家の発言力が強く、彼らの承認なくして何もできないといわれています」
「ほう」
「また『惣』という組織――甲賀も同じですが――による合議制もあって、何かあると長老や上忍たちで集まって話し合うそうです。又十郎の師である下山甲斐守も、上忍の一人でした」
「でした?」
俺は眉を寄せた。なんだか嫌な予感がする。
「織田と繋がってる奴ぁ、ついほーだー。もともと師匠のことを嫌ってた奴が追手を使って、師匠を殺そうとしてる」
「内輪揉めしてる場合かよ!」
「兄上の言う通りです。下山甲斐守を通じて、伊賀の里を手に入れる計画が台無しになりました」
「いやいやいや、彦七郎。初耳だぞ、それ!」
それじゃあ何か?
織田が伊賀忍を抱えようとする意図が知られて、それを不満とするグループに長利の師匠が殺されかかっているということか。信興の説明からして、伊賀の里も団結力があるようでないような感じだ。滝川一族も、伊賀流の端っこくらいだと聞いている。
「下山とやらはどうしている」
「この城に匿った」
「聞いてねえぞ!?」
「今言った」
しれっと答える長利。ああ、それで悪い話。
「朗報の方は何だ?」
「美味しそうな名前の人が、兄上に会いたいって。もてもて?」
「……彦七郎、通訳」
「おそらく食べ物に似た名前だと思われます」
信興もすぐに思い当たらないようだ。
女にモテモテなら悪い気はしないが、たぶん面会希望者は男なんだろうなあ。追い返すのも可哀想なので、とりあえず会ってみることにした。長利が「朗報」と言うくらいだから、きっと俺にも織田にも悪い話じゃない。
そして謁見のために用意された広間にて。
「九鬼右馬允嘉隆だ」
「か、海賊大名!?」
「そんな名前で呼ばれたのァ初めてだな。まあ、悪くねェ」
いかにも海の男っぽい日焼けした顔を歪め、九鬼嘉隆は笑った。
彼の不遜な態度はいっそ新鮮だ。俺が織田信長だと分かっている上で謁見を求めておきながら、媚びる様子が全くない。俺が嘉隆を観察するのと同じように、嘉隆も俺を観察している。
使えるかどうか。信を置くに値するか否か。
あれほど欲しかった九鬼水軍の棟梁の方からやって来た。諸手を上げて歓迎したいところだが、側近の一人として控えている信純の表情が固い。身内枠として並んでいる信興と長利も、なんだか好意的な態度に見えない。
何を企んでいるんだ、こいつら?
「アンタが上総介信長サマか」
観察し終えたらしい嘉隆がフンッ、と鼻を鳴らす。
「どんなスゲェ人かと思えば、面構えは大したことねェな。ほっそい体しやがって、そんなんで刀振れるのか? 大将らしく後ろで控えてただけじゃねェの? 陸じゃあ強いかもしれねェが、海から攻められたら終わりだろ。俺を臣下に加えてくれりゃァ、役に立つぜ」
「尾張が終わり……プフッ」
マズい、信純のツボに入った。
約一名が早くも戦線離脱し、他の側近を呼ばなかったことを後悔する。弟に頼ることも考えたが、ここは兄らしいところを見せておきたい。そうとも、尾張守護職は終わってねえ!
「右馬允嘉隆、質問してもいいか?」
「ああ? まだるっこしいことは嫌いなんだ。……まあ、一つくらいなら答えてやってもいいぜ」
「九鬼水軍に鉄甲船はあるか」
「は、あ?」
「まずこれが大前提なんだよなあ。普通の船は嵐になると危なすぎて使えない反面、壊して砦の建材に流用できる。だが陸からの攻撃には弱い。これからは大砲や鉄砲、中距離以上の火器が戦を左右するようになる。海岸線に船を並べても、盛大にキャンプファイヤーしてくださいって頼んでるようなもんだし。明やおきな……、琉球とも直接取引できれば中間マージンが減って儲けやすいんだよ。贅沢を言わせてもらえば、生け簀つきの遠洋漁業船とかいいよな。やっぱりマグロは新鮮なものに限る! 解体ショーなんかは民衆を集めるイベントに」
「兄上、兄上、あにうえー」
「なんだよ、又十郎。マグロ談義なら、後でしてやるから」
「うん、分かった」
「違うでしょう、長利様。三郎殿、海賊大名が完全に置いてかれてるから」
笑いの発作は収まったらしい。
信純がこめかみを揉みつつ、嘉隆の方を示している。
あ、なるほど。真夏の海でサーフィンボードを抱えたら似合いそうな白い歯を見せているのに、口が閉まらないんじゃあ格好がつかないな。視線が集まっているのに気付いて、嘉隆はようやく我に返った。ゴホン、ゴホンと咳払いをする。
「風邪か?」
「ちげェよ!! おめェ……いや、アンタはその…………ちがくて、信長様は途方もないことを考えているってのだけは、分かった。陸のことしか知らねェと勝手に思い込んで、馬鹿にしてた俺が恥ずかしいぜ。琉球との貿易か、考えもしなかった」
「海賊なんだから、貿易船を襲ったりするだろ」
「やらねェよ!! こちとら熊野水軍の流れをくむ正統派の水軍だ。海賊と呼ばれて悪い気はしねェが、商人どもから荷を奪うほど落ちぶれてもいねェ」
熊野水軍といえば、源平合戦に活躍していたアレだ。
信広といい、嘉隆といい、あの時代に憧れる奴は結構多い。現代日本で戦国時代が人気を博しているようなものだろう。デカい軍艦や小型戦闘機がばんばん出てくる近代戦争の方が派手でそれっぽいと思うが、前世の俺はどっちも興味がなかった。
源平合戦にまつわる知識も、転生してから学んだことばかりだ。
「熊野水軍か。熊野別当の湛増はカッコイイよなあ」
「バカヤロウ! カッコイイなんてもんじゃねェぞ。あの人は、熊野の英雄なんだ。湛増がいなかったら、壇ノ浦における源氏の勝利はありえねェ!」
しまった、別のツボを押したっぽい。
唾を飛ばして熱弁をふるう嘉隆をぼーっと眺めた。
確かに熊野別当を信奉するなら、略奪行為はできない。俺に言わせれば海賊のお仕事が略奪行為なんだが、この時代ではニュアンスが違うのかもしれない。
「ま、こんなとこだな」
「おう」
ひとしきり湛増の素晴らしさについて語り倒した嘉隆は、満足げに息を吐いた。
長すぎて飽きたらしい長利が寝ている。姿勢崩さないまま熟睡するとか、えらく器用だな。俺に気付いた信興が起こそうと頑張っている。おーい、無理するなよー。
「しっかし、噂以上に変わった殿様だなァ。気に入った! アンタの力になってやる」
「言ったな! 嘉隆、俺と一緒に伊賀へ行ってくれ」
「ああ、わか……はああぁ!?」
驚き方が劇的だ。のけぞって叫ぶとか、オーバーリアクションすぎだろ。
俺は耳をほじりつつ、言った。
「水軍はこれから強くするとして、率いる人間がどんな奴か知らねえもん」
「だから何で、伊賀なんだよ」
「美濃には海がない」
「意味分かんねェよ!」
「兄上、通常運転」
「うんうん、いつもの三郎殿だねえ。慣れれば気にならなくなるから、本気で織田軍に加わるつもりなら腹を据えた方がいいよ。伊賀かあ。忍の里なんて初めてだからワクワクするな」
「てめェも来るのかよ!?」
「さすがに一人で行かせるわけにいかないでしょ」
続いて長利も「いくよー」と手を上げたが、頭を抱えた嘉隆には見えていない。
織田は万事こんな調子だとも。早く慣れてくれよ、海賊大名。
熊野別当の末裔なら、伊勢・伊賀とも縁があるだろうっていう強引な理屈によります
九鬼家の仇になる北畠氏については考え中
九鬼嘉隆...通称は右馬允。志摩国内の乱で兄が戦死し、その息子・澄隆と共に朝熊山へ逃れる。今川軍を破った織田信長の噂を聞いて、臣下の名乗りを上げた。
クッキー☆嘉隆、と呼んではいけない。