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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
飛翔編(永禄2年~)
138/284

114. 桶狭間決戦(前)

 もうすぐ夜が明ける。

 変わり始めた空の色を眺め、扇子をぱしっと開く。


  ダンッッ


 足を踏み鳴らせば、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」

 小鼓も軽やかに、俺の「敦盛」を後押しする。

 そうして、ひとしきり舞った。

 かろうじて残っている前世知識から、ここで踊らなければと思ったわけじゃない。言葉の一つ一つがひどく沁みる。叫んで喚いて暴れるよりも、確実に俺の心を捉える詞だ。

 くわっと目を見開いた。

「具足を持て!」

 奥の襖がスパンッと開いた。

「はい、上総介様っ」

「全部用意できてるから」

「貝を鳴らしなさい、国中の者が聞こえるように。上総介様のご出陣ですよ」

「吉乃、奈江、お濃」

 驚いて名を呼ぶしかできない俺に、彼女たちは笑顔を返した。

 いつもの動きやすい格好で、てきぱきと支度を進めていく。湯漬けを渡されるまま、夢中で貪り食う。そういえば、夕餉も何も食べていなかった。バリバリと音を立てているのはたくあんだ。汁を吸って柔らかくなった米と一緒に咀嚼する。

 嫁たちを裸に剥くことはあっても、剥かれることはなかった。

 お濃には一度襲われたが、いわゆる着衣エロだったとだけ述べておく。女たちの手で具足をつけるというのもオツなものだ。反応しかけたアレを見て、吉乃が妖しい笑みを浮かべる。

 すすっと撫でられ、続きは帰ってからだと囁かれた。

「あなた」

「いってええぇ!」

「無事を、祈っています」

「お、おう」

 涙目である。アレをナニされた。

 はっきり言おう、義元よりも嫁が怖い。

 必ず生きて帰らなければ、何が起きるか分かったもんじゃない。急いで城を飛び出せば、橋介たちがついてきた。馬廻衆も何もない、六騎だけで夜明けの街道を疾走する。

 ローマン・コンクリートがいい仕事をしてくれた。

「なんだこれは。走りやすい……!」

「よし、速度を上げるぞ。ついてこい!!」

「はっ」

 鞭を振るえば、愛馬が勇んで蹄を鳴らす。

 飛ぶように走る俺たちに、あちこちから合流してくる集団がある。

 死んだ信光叔父貴が来てくれたと思ったら、息子の信成だった。信昌もいる。信治と長利は、もう何も言うまい。来てしまったものは仕方ない。他にも完全武装した家臣うつけどもが、ほぼ単騎で加わってくる。赤塚・萱津の戦いを彷彿とさせる様に、思わず笑みが浮かんだ。

 爆走状態の俺たちに、徒歩の足軽が追いつけるはずもない。

 ふと思いついて、熱田神社で小休止することにした。

「戦勝祈願ですね!」

「うむ」

 後続を待つためなんだが、ぼーっとしているよりは格好もつくか。

「おお、信長様。お久しぶりでございます」

 6年前ぶりに会った宮司は少しだけ老けて見えた。

 戦勝祈願の旨を伝えると、何故か宮司までが戦装束で現れる。こんなこともあろうかと準備をしていたと胸を張る。一緒に来たいというのなら止めない。俺に祈る神などないし、宮司が血生臭いことをしたからといってご利益が減るとも思わない。

「我が軍はどれくらいになった」

「ざっと二百ほどかと」

「今川軍はどれくらいだったか?」

「…………」

「勿体ぶるなよ、早く言え」

「よ、四万五千の大軍であるという報告が来ております」

 そうかと頷きかけた時、切羽詰まった声が俺を呼んだ。

「あちらをご覧ください!」

「煙が……っ」

 ほぼ全員がそれを見たはずだ。

 弥三郎が指を差す方向には鳴海城がある。寄り添うように立ち昇る二条の煙はつまり、そういうことだ。俺たちは暫しの間、無言だった。

 盃を交わした二人の顔を思い出して、ぐっと目を閉じる。

「往くぞ」

 5月といっても、早朝はまだ寒い。

 白い息を吐き出しながら、陸路をひたすら突き進む。満潮だと分かっていて、海を目指す馬鹿はいない。漁師と交渉している暇はないし、上陸した途端に大軍と鉢合わせして終了だ。

 鳴海城が陥落したとは考えにくい。

 俺たちはまず丹下砦に入った。忠光が待ちかねたように出迎えてくれたが、丸根・鷲津両砦が落ちたという確定情報を聞くだけに終わった。次に信盛が守る善照寺砦へ向かう。

「今頃ご到着ですかな。早起きの殿にはお珍しい」

「半介、皮肉は後でたっぷり聞いてやる。状況を報せよ」

「井伊軍、朝比奈軍の猛攻を受けて砦が二つ落ちましてござる。敵将は井伊直盛いいなおもり朝比奈泰朝あさひなやすとも。いずれも今川軍が有数の猛将にて……大学助、飯尾近江守様が討ち死。尚清様は負傷し、奥で休んでおられます。久六の行方は分かりませぬ」

「松平軍はどこにいる?」

「大高城から動く気配がござらぬ」

「はて、妙ですな。これは罠を疑うべきでございましょう」

 俺が清州から出てきた以上、籠城策を言い出す者はいない。

 そうはいっても二百かそこらで突撃する勇気もなかった。それこそ蛮勇にすぎない。盛重と定宗の犠牲が無駄になってしまう。俺はじりじりする気持ちを抑えながら、時を待った。


『必ず時は来る。焦らないで、皆の報告をちゃんと聞くんだ。大丈夫、三郎殿なら』


 こんな時でも信純の助言を思い出している俺は、冷静なのか不安なのか。

 二つの砦が落ちて、俺は決戦の地のすぐ近くまで来ている。罠を張るべき土地を予測しろと言われた信純は、迷うことなく「桶狭間」を言い当ててみせた。今川軍は万を超える大軍なので、ある程度の広さがないと陣を敷けないのだ。

 そして桶狭間は谷が入り組んだ複雑な地形で、谷底には水田が作られている。

 攻め手に不利な難所に思えるが、今川軍にとっても同じことが言えた。谷が入り組んでいるために、大軍が移動するには向かない。移動する気がないから、そこに本陣を置いたのだ。

 ちょうど物見が戻ってきた。

「申し上げます! 今川軍は休息に入った模様」

「は?」

「今川治部大輔は上機嫌で、舞を…………その、謡っておりました」

 報告している本人にも信じがたい光景だったとみえる。

 俺はいきり立つ家臣どもの抑える役を小姓たちに任せ、信盛を連れて砦の外に出た。それこそ中島砦まで駆け抜けたいところだが、清州方面から追いかけてきた部隊も放っておけない。どう見ても不利な状況なのに、俺を信じてくれる奴らを無視できない。

「半介、俺を殴れ」

「那古野村の時は、拙者も若うございました」

「殴らないのかよ」

「大学助や久六に怒られるのは勘弁願いたく」

「……っ、そうだな」

 なんとか謝罪の言葉を飲み込んだ。

 俺よりも信盛の方がずっと、悔しくてたまらないはずなのに笑ってみせる気概が眩しい。那古野村の思い出を共有できる相手を苦しめているのが、どうしようもなく辛い。

「名前、なんだったか」

「井伊直盛と朝比奈泰朝でござる」

「旗印は?」

「井伊は丸に橘、朝比奈は左三つ巴。そういえば、殿。珍しい無文字の旗印を見かけましたが、どこの者であるかご存じで?」

「俺だ」

 信盛はただ口の端を上げた。

 俺もようやくニヤリと笑った。

「あっ、信長様!! ここにおられましたか」

「もう義元が動いたのか?」

 兵を休ませるにしても短すぎる。

 だが、片膝をついた弥三郎は悔しそうに声を絞り出した。

「佐々政次、千秋四郎ら三十余りが中島砦を出て、今川軍へ突撃! 奮戦むなしく両名とも討ち取られました!!」

「あンのド阿呆どもが!」

「殿、口が悪うございます。阿呆に失礼でござる」

 信盛の軽口に反応する余裕もなかった。

 ずんずん歩いて行って、愛馬に跨る。兜の緒を締める暇ももどかしい。何やら騒いでいる奴らがいるとはいえ、俺が進むべき道ははっきりとしていた。よくよく考えてみれば、最初から埋めようのない兵力差だったのだ。

 しかも集まってきたのは雑兵どころか、織田軍が誇る勇将たちだ。

 俺がいちいち細かく指揮を執る必要などない。

「ええい、邪魔をするなあ!」

 鬱陶しい奴らを振り払い、中島砦へひた走る。

 今更戻れるはずもない。橘と巴の旗印を探したが、見つからない。剣術には自信がないから弓でもと思ったが、何もかも置いてきたことに舌打ちした。爆竹やスリングは、ある程度近づかなければ効果がない。

「の、信長様!? どうして、こちらに」

「貴様が梶川とやらか」

「はい。我が主・信元様の命で、この中島砦の守備についております」

「のーぶーなーがーさーまああぁ!!」

「チッ、うるさいのが来やがった」

 土煙を上げて、織田の後続がやってくる。

 また待たなければならないのか。単騎で突っ込んで、大将首プレゼントするのも馬鹿らしい。あの声を聞いて、すっかり普段のペースを取り戻したのも実に腹立たしい。

「信長様! オレ、やりました。敵将の首、ぐへっ」

「そんなもん捨てとけ!! 今はそれどころじゃねえんだ、馬鹿犬がっ」

 真っすぐ走ってきた馬鹿にエルボーの一撃。

 俺史上最高レベルの嵌り方も、全く高揚感を得られないのは利家のせいだ。清州から追放しただけなので、遠く離れた知多郡に来たところで責められない。ごろごろと転がった生首は森へ蹴飛ばしてやった。踏みつぶされるよりはマシだろう。

 未練がましく叫ぶ馬鹿は、もう一度殴っておく。

「ぎゃんっ」

「てめえのせいで台無しだ、くそ馬鹿犬が!」

「す、すいませんっ」

 ぺこぺこと謝る利家の後方から、ウンザリした声が聞こえてきた。

「だから言ったんだ、俺は。……最前線で犬と遊んでるとか、殿も余裕ですね」

「躾だ、躾! そんなことよりも内蔵助、どれくらい連れてきた」

「数百程度です。騎馬と足軽と弓、それから投石衆を借りてきました」

「上出来だ。信盛もいい加減に追いついてくるだろうから、お前らで兵をまとめさせろ。最後の号令をかける。世紀の大勝負をやるぞ」

「それ、勝てるんでしょうね?」

「負ける戦はしない主義だ」

「さすが信長様っす!!」

 調子のいい犬は無視して、俺は砦の物見櫓へ登った。

 足軽らしき兵が腰を抜かしかけているが、かまっている余裕がない。地図で見ていた通り、面倒くさい地形になっているようだ。かといって旗印をそのまま掲げていくと、俺たちの接近をお知らせしているも同然になる。

 砦二つに織田の将を次々討ち取って、今川軍はさぞ気分がよかろう。

 今のうちに、せいぜい浮かれていればいい。

「三郎殿なら大丈夫、か。確かに又六郎の言う通りだ」

 後世に伝わる歴史通りに奇襲戦で義元を討つ。俺にはそれができる。

 物見櫓から降りると、後続部隊の到着を知らされた。信盛は善照寺砦に残ったらしいが、代わりに尚清と長秀が来てくれた。長利の姿が見えないが、信治の「大丈夫」を信じよう。

 結局、二千の兵しか集まらなかった。

 想定の半分以下だ。

「やるしかない」

 俺は砦に集まった命知らずどもの前に、立った。

戦時で気が立っているため、言葉遣いが乱暴です

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