113. 無文字の旗印
とうに賽は投げられた。
なーんて格好つける気もないが、事態は動き始めている。
俺がウダウダごねている間にも砦は着実に完成へ近づいていた。鳴海城から見て北東に位置する丹下砦には水野忠光を、東の善照寺砦には信盛、南東の中島砦には梶川高秀がそれぞれ入った。忠光と高秀は、水野家からの援軍だ。
信盛を通じて、信元の文が清州城へ届く。
コキ使っていいからヨロシク、というざっくりした文面に思わず笑った。この思い切りの良さは見習った方がいいかもしれない。主君の動揺は、家臣に伝わるものだ。
俺からは各砦へ、激励文を送った。
他に言うべき言葉はない。皆を信じて、戦う。かの地で誰が死のうとも俺は死なない。だが何が何でも、義元だけは討ち取る。奴の首が、勝利条件だ。
「殿! 丸根砦、鷲津砦からも文が届いております」
「うむっ」
盛重と盛次も揃って砦の完成を報告してきた。
鳴海城周辺の砦に数日ほど遅れてしまったのを悔しがっている。早く完成させた方に報奨を与えるなんて約束した覚えはないが、こういう冗句を言える余裕はありがたい。
盛重にはポン酢を、盛次には酒を添えて激励文を送る。
すると、間を置かずして信盛から「贔屓だ」と恨み言の文が飛んできた。清州まで往復する使者の気持ちも考えてやってほしい。二人の事情は分かっているくせに、こういう時こそ図々しくなるのが信盛らしい。何でもいいからくれ、とねだるので柑橘水の輸送を約束した。
砦建築に合わせて兵糧も運び込んでいるが、柑橘水は日持ちしない。
出陣する日だけ配られる限定品が『織田の柑橘水』として広まっているようだ。足軽たちの中には、これを飲むと負ける気がしないと言う者もいる。柑橘水のおかげで生き延びた、と宣伝している奴もいるくらいだ。
「そういえば、定宗と尚清はどうしているんだったか」
「はっ、久六と共に鷲津砦へ入っております」
「そうだったな」
いつ注進が来てもいいように、長秀は清州城に詰めていた。
成政は黒母衣衆と共に、戦支度に追われている。留守中の守備を頼んでいる貞勝はここのところ、全く見ていない。秀吉は那古野城で合流すると言っていた。それまでは、妻のねねと一緒に過ごすのだろう。利家のことは誰も何も言わない。
一益は相変わらず忙しそうにしているし、恒興には東春日井を任せている。
この機に美濃が動きを見せる可能性はゼロじゃない。6年前は援軍を寄越してくれたな、と懐かしむ余裕もなかった。どこから急使が来ても対応できるように、何度でも地図を確認する。
そして暦は皐月へと変わる。
「今川方に動きあり!」
たまたま広間に家臣団が集まっていたところへ、注進が来た。
ざわっと一同が反応する。
「義元が動いたか!?」
「いえ、先陣の松平軍のようです。数日以内に沓掛城に到着。兵糧がわずかになった大高城へ物資の輸送を試みるのではないか、と申しておりました」
俺は信純と目配せをする。
ここまでは予想通りだ。元康が救援物資を運ぶために動いた。砦建築は見逃しても、落城するのはいただけない。しかし義元は、後詰軍による救援よりも物資輸送を選んでしまった。
信元には、元康の大高城入りを見逃すように指示してある。
そうすれば義元は、水野家の従属を信じるだろう。大高城に無事入城した元康には、攻勢へ転じるように命じる。だが元康は、兵の疲労を理由にこれを固辞する。
「ご注進!! 大高城に松平軍が物資を運んでおりますっ」
「申し上げます! 今川本隊に動きありっ」
次々と駆け込んでくる兵に、柑橘水を与えて休息を取らせる。
日が落ちて、夜になった。
「殿! 今川軍は潮が満ちる19日に仕掛けるつもりです。我らも出陣いたしましょうっ」
「戦の準備はできております!」
「治部大輔など恐るるに足らぬ。我らには信長様がついておるのじゃ!」
「おおっ」
広間が熱気に包まれた時、気の抜けた声が割って入った。
「あ、しまった」
ぽむっと手を打ったのは俺、ノブナガ。
呆気にとられて見守る一同をぐるりと見返して、首を傾げた。いつでも出陣できるという言葉通りに、皆が揃って具足をつけている。命令一つで、全員が飛び出していける。
見事に落ち武者ヘアばっかりだ、と思うのは俺くらいだろう。
髷を外してしまえば、ロン毛集団の出来上がりだ。月代のせいで、河童が雁首並べているようにしか見えない。いや、前髪のある宣教師の方が河童らしいか。
「と、殿? いかがなされたのですか」
何も言わない俺に、おそるおそる問いかけてくる奴がいた。
「ん~、大したことじゃないんだが。俺の旗印を用意するのを忘れていたなあと、思ってさ。織田家紋といったら、五つ木瓜だろ? つまり織田家の者はみんな五つ木瓜だから、俺がどこにいるか分かんねーじゃん。それはちょっと困る」
「いや、今更そのようなことを仰られても」
「ダメだ! 久しぶりに俺が前線に出るんだぞ。尾張守護職織田上総介信長はここだー!! 大将首をはここだー! って、叫ばなきゃ分からないようじゃ困るんだよ。恒興いないし」
「池田殿は、美濃の抑えで動けぬはずでは」
「そうなんだよ。だから俺の旗印が」
「いい加減にせい!!」
突如として大喝が轟いた。
何とかして俺を宥めようとしていた家臣も、予想外のことに呆然としていた家臣も、とにかく広間に集まっていた全員が一点を見つめる。そこには髭と肩を怒らせた勝家がいた。
ふーっ、ふーっと息を整えてから俺を睨む。
「御免!」
「あ、柴田殿っ。どこへ行かれるんじゃ」
「気安く声をかけるでないわ、猿めが!」
「ひえっ」
立ち去ろうとした勝家に怒鳴られ、秀吉が腰を抜かした。
那古野城で合流するとか言っていたくせに、そろそろヤバイと聞いて清州城へ駆けつけたのだ。その無駄な行動力を別のところに活かせよ。本当に後世へ伝わる豊臣秀吉なんだろうか。
いや、そんなことよりも俺の旗印だ。
「藤八郎」
「は、はい!」
「又助を呼んで来い。あいつは速筆ができる。さくっと仕上げるよう伝えろ。そうだな、十枚もあればいいか」
「な、何を十枚……」
ぎくしゃくとしながら問い返すので、俺は思わず溜息を吐いた。
「話を聞いていなかったのかよ」
「申し訳ありませんっ」
「俺の旗印を作るの。おっ、閃いた! 無の文字がいい。白地に墨でばばーんと」
あちこちでガタガタッと音がした。
小姓たちが青ざめているので、振り向かなくても分かった。俺の態度に呆れ果てて、家老衆を含めた織田家臣が広間を去っていくのだ。軍議の最中に中座とか、不敬にも程があるぞ。
旗印の話だって、立派な作戦会議の一環なのになあ。
「やれやれ」
「……だ、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫じゃねえよ。さっさと無文字の旗印作ってこい」
「ええっ、本当に作るんですか!?」
「こんな時に冗談言ってどうするんだ。お前も馬鹿か」
冷めた目で見やれば、藤八郎は蒼白になってブンブン首を振った。
転がる勢いで走っていく背は「哀れ」の一言に尽きる。俺はもっと穏便に事なかれ主義で、流され系男子だったのに不思議なものだ。勝家を怒らせて、家臣たちにも見限られても、何にも感じない。寂しいとも、悔しいとも、辛いとも思わない。
「猿は、五郎左を追いかけていったか」
俺は一人、広間に残っていた。
信純も成政もいない。子供はとっくに寝る時間だ。こんな日だから、嫁たちも城奥で大人しくしている。襖を閉じる者がいないから、好き勝手に夜風が吹き抜けていく。
そうして、どれくらい待っていただろう。
「も、申し上げま……!?」
新たな注進が、不自然に途切れた。
俺がいることには気づいているのに、ものすごく挙動不審だ。他に誰もいないから当然か。相当に急いで来たらしく、武装は泥まみれだ。
「さっさと報告しろ」
「は、ははっ。今川方は桶狭間山に本陣を定め、鷲津砦および丸根砦を包囲! 今すぐご出陣をお願いいたします。どうか、我が主をお救いくださいっ」
声を枯らして叫び、這いつくばるように頭を垂れる。
俺はそれを静かに見下し、席を立った。
次は、いよいよ桶狭間の決戦です(たぶん)
水野忠光...通称は帯刀左衛門。
水野信元に仕えていたが、丹下砦の守備を担当する
梶川高秀...通称は平左衛門尉。信元の父・忠政の代から仕える水野家臣。
弟・一秀と共に、中島砦の守備を担当する