112. 別れの盃
一益の嫁のことを忘れていたんじゃなくて、とっくに結婚していたんです!(言い訳)
那古野城下に戻ってきた俺は、おまつたちの歓待を受けてから城へ戻った。
浪人の格好では、また城門で止められる可能性を危惧したのもある。屋敷で茶をすすりつつ、影武者が戻ってくるのを待ってから、入れ替わりに那古野城へ入った。勝家と信広を従えているので、門兵もビシッと姿勢を整えて迎えてくれる。
ちなみに武将髭は剃られた。
「やっと揃いかけてたのに」
「まだ言うか。似合わんから止めておけ」
「我が殿は、その小さきもので十分」
「ちっちゃいって言うな!!」
これでも平均身長より上なんだぞ。
どいつもこいつもニョキニョキ伸びて、ムキムキ膨張するから、俺が貧相に見えるだけなのだ。モヤシじゃない、細マッチョと呼ぶがいい。モテすぎて、また帰蝶に嫉妬されたら怖いので心の中だけにしておくが。
は? 股の下? 立派に決まってんだろ。
可愛い嫁たちが撫でてくれると、それはもうスゴイことに――。
「うぉっほん、うぉっほん」
「ワザとらしい咳を止めろ、権六。俺は何も言ってねえ」
「顔に出ているぞ」
信広にまで言われて、俺はちょっと赤くなった。
少し会えないだけで家族が恋しくなる俺は、こんなに寂しがり屋だったろうか。娘が欲しいのは本当だし、気持ちいいことは大好きだ。閨のことは子孫繁栄の大事な儀式なわけだから、せっせと励んで何が悪いのか。褒められても責められる筋合いはない。
「……清州へ戻るか」
「嫌そうに言うんじゃない。今までと違うんだぞ、三郎」
「いちいちうるせえよ、脳筋兄貴」
そっちこそ前線に出たくて仕方がないくせに。
愛娘を長秀にやってから、どうにも小舅っぽくなってきた。それも俺に対して過保護というか保守的というか、とにかく「俺が前に出るから、お前は後ろにいろ」みたいなことを言う。いや、以前からそうだった。庶子の生まれを恥じて拗ねていたはずが、どうしてこうなった。
ジロッと睨めば、信広がフッと笑う。
「砦構築に関しては、佐久間一族に一日の長がある。鳴海城の近くには天白川も流れているからな。今川方の動きは逐一報告させているのだろう? それまで英気を養っておけ」
「あー!!」
「な、なんだ!?」
一益の嫁のことを忘れていた。
慌てて私室へ走っていって、一益を呼ぶ。この那古野城に住んでいた時は、いつもこうして呼びつけていたものだ。この私室には小さな箱庭がある。庭師の真似事なんかをして遊んでいたのも、今はただ懐かしい。
「殿」
「おお、一益! ちょっと遅かったな」
「申し訳なく」
深々と頭を垂れる一益に、月代と髷を見つけた。
あれ?
そういえば庭じゃなくて、縁側に片膝をついている。普通に歩いてきたよ、忍者なのに。しかも草袴じゃなくて、武士らしい裃の袴姿だ。せめて平服姿なら驚かなかったのに、どうしてこうなった。ぽかんとしている俺に、一益は再び頭を下げる。
「御用を」
「あ、ああ。そうだった。一益にも嫁をやろうと思ってな」
「不要か、と」
まさか断られると思わなかったので、少なからずショックを受ける。
一益はハッキリと物を言う性格だった。そういうところを好ましく思っていたし、とにかく主に従順な犬は利家だけで十分だ。しかし俺も引けない。嫁を勧める理由だってある。
「後継者は必要だろ。一益は滝川一族の筆頭なんだから」
「本日、元服」
「はああぁ?! 聞いてねえぞっ」
「不要か、と」
「絶対必須だっつの。いつの間に生まれてんだよ。いつ生まれたんだよ。俺とお前の仲だろ。誰よりも多忙を極めて、寝る暇もないくらいのお前の子供が真っ先に元服しちゃったとか、想像の域超えすぎてて声も出ねえわ!」
「三九郎一忠」
「へ? あ、名前な。元服した嫡男が一忠っていうのな」
こくり、と頷く一益。
それなら裃をつけていても納得だ。忍の一族だったとはいえ、滝川家はもはや織田家臣の一つとして数えられている。大事な儀式の時に呼びつけた俺の方が悪い。そのことを詫びると、もう一通り済んだと言われた。だから、なんで俺に言わねえんだよっ。
「殿、不在」
「……ハイ、俺が悪かったです。焦っていたとはいえ、勝手に城飛び出して知多郡まで行ってたもんな。首尾は上々、策は滞りなく、だ」
「御意」
「まあ、それも一益なら全部知ってるか。三九郎一忠、なあ。いい名だ。よし、奇妙丸の最初の家臣にしてやろう」
「…………」
「なんだよ、不満か?」
一益は答えない。
俯き加減の無表情で何を考えているかは読み取れなかった。忍の一族であることを引け目に感じているのなら俺は、一益を叱らなければならない。子の一忠が、既に奇妙丸の警備についているのなら正式に面通しも必要だ。
とりあえず、その日は一益を帰らせた。
無理を言ったのは俺の方だ。息子を元服させるにしても、十に満たない年頃じゃなかろうか。初潮もまだの娘が嫁いでいく時代だが、一益も未来に不安を抱いているのかもしれない。
義元を討ち取ると言った。尾張国を守るには、それしか方法がないからだ。
ぶっちゃけて織田方の勢力は、今川方の勢力の三分の一しかない。普通に考えて勝ち目のない戦だ。勝率がゼロじゃないというだけで、正面攻撃すれば確実に負ける。だから思いつく限りの小細工や何やらを仕掛けて、わずかな可能性に賭ける。
それでも多くの兵が死ぬだろう。家臣も何人か失うだろう。
俺が信包を保険として那古野城に置いたように、一益は息子を元服させたのだ。
「死にたくねえなあ」
遺言書は書かない。
あんなものを用意してしまうと、本当に死亡フラグが立ったような気がするから。
翌日、俺たちは清州城へ帰還した。
鳴海・大高城を包囲する砦建築は敵地の工作になる。どんな小さな動きでも見逃さないように過去最大規模の人数を動員した。向こうに情報が漏れないように殺した斥候の数も、隠さず報告させる。斥候の増加はそのまま、今川方の意志を表すものだ。
開戦前に、信盛たちを殺させてなるものか。
俺は那古野村にあった古寺を、清州城下に移築させた。
冗談まじりに信純が提案した観音堂を作るため、というのは建前で、造酒丞信房が余命いくばくもないと聞いたからだった。彼のおかげで美味い酒が飲めるようになったのに、信房の酒はもう飲めなくなる。
古寺の地下にあった甘味蔵も潰し、新たに観音堂の下へ移した。
長益の考案した罠は効力が切れてしまった、というのもある。後を受け継いだお清にはそういう罠作りはできないし、那古野城下町に甘味処も多く出店している。苦労して隠さなくても、お金を払って楽しむことができるのだ。
信房秘蔵の酒は、信房の次男・長頼が受け継ぐ。
長男の清長は生母の縁で、信光叔父貴の遺児である信成の臣下だ。小瀬家の養子に入ったので、織田姓は名乗っていない。長頼もまた、織田姓は父だけに許されたものだとして菅屋九右衛門長頼と称する。
その長頼が初めて父に認められたという酒を、蔵から引っ張り出した。
「飲め」
「頂戴仕ります」
「ありがたく」
二つの声が、短く応じる。
俺が注いだ盃は、三人同時に一息で干した。じろりじろりと音が聞こえてきそうな睨みをきかせ、互いの顔を窺いながらの一献はそう経験できるものじゃない。誰が先ともなく盃を置けば、どこかで木のきしむ音がした。
大学助盛重が、ふと視線をやる。
観音堂をじっくり眺めて、一周した顔が正面に据えられた。
「不思議なものですな」
「そうか?」
俺は二杯目を注ごうとしたが、横から出てきた手が代わりを務める。
にこりと笑ってみせたのは久六盛次だ。この二人が信行の臣下であった過去は、人々の記憶から薄れかけている。信盛に言われるまま東奔西走、戦以外でも多くの成果を挙げた。
「この観音堂は、ほのかなぬくもりを感じまする。まるで春の暁のような」
「おいおい、大学助。詩人を気取るつもりか? らしくもない」
「建てたばかりとは思えぬ古びた感じが、何とも言えぬ」
からかい気味の盛次に応えず、盛重はまた観音堂を眺めている。
畳6畳ほどの小さな本堂に古い観音像が立っているだけだ。風雨がしのげればいい、と小さな隙間があちこちに出来ている。床板を踏めば、ぎしぎしと音がする。瓦だけは新しく焼いたものを使ったが、コーティング代わりに古い瓦を細かく砕いたものを塗った。
効果はともかく、俺の個人的なこだわりで作られている。
「古いのは当然だ。古寺の木材をそのまま使った」
お返しとばかりに盛政へ注いでやれば、盛重が催促してきた。
黙々と飲み干す酒はひどく苦い上に、喉を熱く焼いていく。それでも俺たちは顔色一つ変えずに酒盛りを続けた。軽く炙った魚の身は、隙間から差し込む月光で淡く輝く。最初は見慣れぬ料理に遠慮していた奴らも、一枚ずつを大事に味わっている。
「ううむ、この黒い酢がたまりませんなあ。ほのかに香る爽やかな果実の風味がまた格別で」
「ポン酢な」
「おい、生姜を山盛りにして風味を語るな。酢も漬けすぎだ」
「まあまあ、好きに食べりゃあいいだろ。久六こそ、ほとんど何もつけてないじゃねえか」
「その方が魚本来の味を堪能できますゆえ」
大きな口を開けて、小さな切り身をぱくりと食べた。
咀嚼しながら口元が緩んでいるのは、美味しいと感じている証拠だ。それでいて話す時には、なんだか不機嫌そうになるのが不思議である。
「鰹のタタキ、と申されましたか。……ゲン担ぎにはこれ以上ない品でござる」
「勝つ男だぞ、大学助。そして、酒は今河だ」
信房が造酒丞として、何を考えて名付けたのかは分からない。
見舞いに行こうとしても断られ、長頼から代わりに酒を託された。俺が訪ねてきたら、渡すように言われていたらしい。自分が作った酒だと告げる長頼は、どこか誇らしげであった。
今河を飲み、勝つ男を食らう。
会話が途切れると、異様な空気が戻ってきた。
酒と肴は食うほどに減ってゆき、とうとう空になる。徳利と盃のぶつかる音が、虚無僧が鳴らす鈴の音のように物悲しく響き渡った。食うものも飲むものもなくなれば、必然的に手が止まる。俺は二人の視線を感じながら、古い床板を睨んでいた。
言いたくない。だが、言わなくても変わらない。
既に佐久間一族の長である信盛から、大体のことは聞いているはずだ。完成したばかりの観音堂へ呼びつけたのは俺の自己満足にすぎない。ただの独善だ。
「大学助、久六」
「はっ」
「ははっ」
「尾張国のために、死んでくれ」
今の今までずるずると引き延ばしたのに、告げてしまえば一瞬だ。
ほう、ほう、と鳥の声がする。夜行性の鳥はフクロウしか知らない。どこぞの木に止まって鳴いているフクロウ以外は、誰も何も言わなかった。
俺は盃を見つめ、くるりと回す。
「空城の計というものがある」
「は、はあ」
「敵兵を無人の城へなだれ込んだところを、一網打尽にする計略だ。重要なのは、無人だということを敵方に知られないように仕掛けを作ることにある。重要な拠点であればあるほど、空っぽにしておく意味がない。頭のいい奴は、意味を考える」
そして判断する。拠点に守備兵がいないのは罠である、と。
罠を警戒した敵将は、そこに兵を送らない。遠回りになっても迂回する。結果として、空城の計は失敗に終わって罠は無駄になる。潜ませておいた兵は待ちぼうけを食らい、罠を張るために割いた兵の数だけ不利になる。
だから信純は、俺の案は使えないと言った。
今川方には歴戦の猛将たちが数多く存在している。氏真でなく、義元に従っている者が今川軍に組み込まれているはずだ。包囲された鳴海城、大高城を救うために必ず今川軍が出てくる。
何故なら――。
『何故なら、先に出発した松平元康殿は兵糧の補給だけで動けなくなるからさ』
三河の乱を鎮めたばかりで、松平軍は疲労している。
それでも義元から「包囲網を突破して救援に向かえ」という下知が来れば、元康は逆らえない。兵糧攻めで苦しむ大高城に物資を運ぶだけで精一杯だ。動けないので城の守備に回る。織田本隊の相手はできないと訴えれば、義元も今川本隊を出す。
『だって格下の相手に後れを取ったら、格好悪いからねえ』
プライドのために軍勢を動かす心理は理解したくない。が、納得はできる。
村木砦が完成するまで俺が待ったように、義元も周辺の砦を完成前に妨害してくる可能性は低いだろう。城への包囲網を完成させることが織田軍勝利の布石だ。
それでも義元は、砦の完成を待つ。
先んじて妨害に出れば、格好悪いからだ。国力においても三分の一しかない織田軍にビビッて、慌てて砦を潰したと笑われる。政略結婚による三国同盟を結んだとはいえ、相模の獅子と甲斐の虎は老獪な曲者と評判だ。守護大名の矜持は、結構危ういものらしい。
確実に織田軍を潰すため、義元が信頼する武将が選ばれる。
だから空城の計も見抜かれてしまう。元康の訴えで今川本隊を引きずり出すだけでは足りない。上質な餌を食わせ、悦に入って油断させる。そこまでしてやっと、織田軍の勝利が現実味を帯びてくる。餌はもちろん、織田軍の兵だ。松平や水野ではダメなのだ。
決断したはずなのに実行に移せないまま、年が明けてしまった。
もう猶予がない。
「大学助盛重、久六盛次…………お前たちは! 俺たちの、織田の誇りだっ」
「殿、顔を上げてください」
「一国の主がそのように頭を下げるものではありませぬ」
「義元なんぞに、大事な家臣を死なせたくないんだ!! 俺は、守るためにっ」
守るために戦ってきたはずだった。
最初から、何でも守れるなんて思っていない。自分の器は自分が一番良く知っている。この体が織田信長だとしても、生まれ変わって前世の俺とは違う存在になっていたとしても、せめて手が届く範囲の人たちは守りたいと思っていた。守れると信じていた。
どれだけの死を見てきただろう。
何人の命を見殺しにして、この手で切り捨ててきたのだろう。
「ちくしょう!! お前ら、俺を恨め。心底憎んでいいっ」
「殿、その言葉だけで十分。身に余る光栄でござる」
「我らは佐久間一族に名を連ねる者でありますが、間違いなく織田の家臣です。他でもない主君にそこまで惜しまれて、恨むことなどできましょうか」
「……物分かりのいいこと言ってんじゃねえよ。死んでいい奴なんかいるわけねえだろ。誰だって死にたくないはずなんだ。今回の戦で、どれだけの兵が死ぬと――」
俺はそれ以上続けることができなかった。
腹に重い一撃をくらったせいで、酒と肴がリバースしそうだ。
「これで名目が立ったな」
「お、い」
「主君に手を上げた罪は重い。小姓殿を斬りつけただけで前田殿は清州を追われた。我らは信長様に手を上げてしまったのだから、死を以って償うより他あるまいぞ」
「うむ。仕方なかろう」
「こ、の……勝手、に」
ドカッと更なる一撃で、とうとう嘔吐した。くそ、勿体ない。
アルコールの効果もあって、あっという間に体が重くなる。文句を言おうにも舌は動かず、去っていく二人を追いかけることもできない。信盛はこうなることを知っていたのだろうか。盛重と盛政はいずれ劣らぬ猛将で、発展していく尾張国に必要な人材であるはずだった。
『信盛。砦と運命を共にする将が要る』
『ならば、わしに妙案がござる』
あいつに相談しなかったら、他の側近たちが自分の配下を差し出しただろう。
他に誰もいなかったら、俺は信成たちを死地に送っただろう。最前線の砦を守るために、一定以上の地位を持つ将が必要だからだ。秀吉では低すぎる。蜂須賀たちはまだ新参者だ。今では家老衆のことも頼りにしているが、その配下までは信頼できない。絶対に裏切らない保証があるのは、側近たちしか浮かばなかった。
溢れた涙を、古い木板が吸っていく。
ああ、俺は信長なんかに生まれ変わりたくなかった。存在そのものがチート武将なのに、どうして守りたいものが守れないんだ。やっぱり俺はダメ人間だ。しょーもない人間の魂が入ったばかりに、大事な家臣を死に追いやる。
信長なんか、嫌いだ。大嫌いだ。
筆者は信長、大好きですよ。本当ですよ。
あとカツオに関するツッコミはしないでください。お願いします…
菅屋長頼...造酒丞信房の次男。父子ともに武将だけど、ノブナガのために酒造りの極意も受け継いだ人。菅屋姓を名乗り、津島と清州を中心に酒蔵を量産させていく
小瀬清長...造酒丞信房の長男。小瀬三右衛門尉の養子に入って、乳兄弟の縁から信成に仕えている。兄弟仲が悪いわけではないが、信成がノブナガと文通したくて長頼に繋ぎをとる際、清長を使おうとするのが不満の種