【閑話】 偽信長現る!?
品野城の戦いは出てきません
那古野城下のとある武家屋敷にて。
いそいそと入浴の準備を進める利家の姿があった。帯を解いて、褌一丁で湯殿に至る戸を引く。なみなみと満たされた水に目を細め、鼻歌を歌いながら足を突っ込んだ。
「あんぎゃああぁ!!」
「お兄さ……じゃなかった、利家さまっ」
けたたましい悲鳴に、おまつが慌てて駆けつける。
利家は風呂に入ると言っていたので、真っすぐ湯殿へ向かう。那古野城下にある武家屋敷の中で、蒸し風呂ではない風呂が設置されている屋敷は二つしかない。煮えた湯に入るなどと抵抗していたおまつも、すっかり風呂の虜である。
一度入るとなかなか出てこないので、食事の支度をしていたところだった。
腕まくりをしたままの新妻が見たものは全裸の夫。ガタガタ震えて、どこもかしこも隠れていない。初心な少女はあっという間に限界を超えた。
「きゃーっ、いやーっ」
「さ、さぶ…………し、しぬ……っ」
妻は駆けつけた以上の速さで逃げていく。
待ってくれ、と引き留める間もなかった。実はあまりの冷たさに飛び上がったせいで、脱衣所まで水浸しである。着替えはもちろん、濡れて使い物にならない。冷え切った手で触っても分かる。これを身に纏うのは、水風呂に浸るのと変わらない。
寒行ではないのだ。
「うわー、叔父貴。そのままだと本当に死ぬぞ?」
「て、ててて、て、め、え」
慶次郎この野郎、と言いたいのに舌が回らない。
ニヤニヤ笑う顔を殴り飛ばしてやりたいのに、体は震えるばかりで動けない。
『出陣の前に、サッパリしてこいよ。俺が準備しておいたからさ』
目の前の青年はそう言って、利家に風呂を勧めたのである。
そもそも利太が前田屋敷にいるのは、嫁いで間もないおまつを案じてのことだった。前田の姫として大事に育てられてきたため、家のことは全く分からない。信長の勘気に触れて追放の身であるため、使用人も満足に雇えなかった。
炊事や掃除をしてくれる下女、護衛を兼任する下男の一人ずつだけだ。
おまつは途方に暮れた。利家の妻として家を守るという覚悟はあったが、こんな状況は予想もしていなかったのだから仕方ない。利家も今まで使用人任せだったので、役に立たない。
そこへ現れたのが勝家と秀吉、その妻・ねねだった。
野獣と美女が現れたので、おまつは物語みたいだと喜んだものである。その可愛らしさに目を細めるも、利家は勝家の大喝で引っくり返ることになった(おまつは耳に蓋をされていた)。
「まあまあ、怒るのは後にしてさ。隣の屋敷には、本当にあっつい風呂あるから」
「隣って、藤吉郎の屋敷じゃねえか」
「ねねに言って、風呂沸かしてもらった」
「お、お前っ、藤吉郎の嫁にまで手を出しやがったのか!?」
「出してないって。……怒らせると怖ぇし」
ぼそりと小声で足された呟きには納得だ。
一見して優しそうなお姉さん風なのに、ハキハキと何でもよく喋る。気が強くて男にも負けない。熊のようないかつい勝家にも、全く物怖じしない稀有な女なのである。おまつが心配だからと、わざわざ清州城下の屋敷から引っ越してきた。
今では四人一緒に飯を食う仲である。
「ったく、仕方のない子だね! 慶次郎様、ちゃんと謝ったの? ごめんも言えない男は、人間の風上にも置けないよ」
「ゴメン、叔父貴」
「棒読み!!」
「あいたあっ」
スパーンと小気味良い音を立てたのは、木下家の家宝『針戦』である。
信長愛用のハリセンがどうして木下家に伝わっているのかは分からないが、ねねは自在にそれを繰り出せる。あまりの早さに、槍の達人である利家や利太も避けられないのだ。この中で一番身分が下であるはずの彼女が一番偉そうなのは、錯覚でも気のせいでもない。
おまつはクスクス笑いながら、食卓の準備を進めていた。
「さあさあ、できたよ! さっさと飯を食べて、しっかり身支度して、きっちり務めてらっしゃい」
「そうですよ、利家さま。他でもない清州の殿さまからのご下命なのでしょう? まつは、ここで無事の帰りをお待ちしていますね」
「おう。ねねが一緒なら安心だな」
「任せてよ! 慶次郎様、頼りにしてるからねっ」
ねねに話を振られて、ぽかんとする。
「え、俺?」
「どうせ今回も戦に出ないで、フラフラしてるんでしょ。あたしたちは忙しいんだから。暇なら、色々と手伝ってもらいたいんだ」
「まあ、名案です。慶次郎、お願いできる?」
「…………仕方ねえなあ」
複雑そうな利太を横目に、利家は湯漬けをかきこんだ。
信長からそれとなく事情を聞かされているので、利太が那古野城下をウロウロしている件について何も言わない。利家自身が追放された身というのもあるが、男として同情する部分もなくはないのだ。おまつに対して、妹のような情しか持てないから余計に後ろめたく感じてしまう。
ふと橋介のことを思い出した。
目の前が真っ赤になって、気が付いたら斬りつけていた。勝家によれば、軽い怪我で済んだという話だ。もしも殺してしまっていたら、追放だけで済んだかどうか。
あの一言だけは、許せなかった。
利家のみならず信長すら侮辱する言葉だった。誰に聞かれても答える気はないが、あの場にいた人間は確実に聞いている。勝家は「忘れた」と言ってくれた。その短い返答がどれだけ嬉しかったか。
「きつくはないですか?」
「ああ、大丈夫だ」
具足をつけながら、やるべきことを反芻する。
先日、ひょっこり現れた信長がとんでもないことを頼んでいった。
『ちょっと半月ほど不在にするから、影武者やってくれ』
『はあ!? っていうか、どこ行くんすか。オレ、そっちをやりますから』
『やっぱり馬鹿犬だな、お前。俺じゃなきゃ殺されるぞ。おまつ置いて、死ぬのか』
ツッコミどころが多すぎて、利家は返事ができなかった。
成政たちの顔が次々浮かんだものの、きっと彼らにも相談していない。絶対に止めるかか、供をすると言い張って譲らないからだ。信長は自分を軽んじる傾向にあっても、死なないための努力は怠らない。
ヤバい橋を渡らなければならない状況になっているのだ。
今川軍が攻めてくる。再び尾張侵攻が始まる、とあちこちで噂になっている。信長は徹底抗戦を決め、去年から準備を進めていた。そんな時に追放の身となった己が情けなくてたまらない。
「利家さま?」
「行ってくる」
「あの」
信長がつけるはずだった具足は、秀吉が運んできた。
異母兄の信広以外は誰も知らされていない。勘の鋭い信包にバレないようにしろ、と言われたが全く自信がない。美濃からの撤退戦とは訳が違う。
あの時は信長の生死すら不明だった。
今回は半年ほどで帰ってくるが、尾張品野城を攻め落とさなければならない。赤母衣衆として配下の兵を率いるのと、信長の影武者として織田軍を率いるのとは全然違う。
足が震えているのを見て、おまつが顔を強張らせる。
「武者震いだ。心配いらん」
「は、はい」
「信長様はオレを信用して、この任をくだすった。オレはやれることをやるだけだ」
「まつは、まつは利家さまを信じておりますっ」
気丈にも泣くまいと堪える妻を引き寄せた。
きっと誰もが不安に思っている。
信長が急に合同結婚式なんて思いついたのも、ひょっとしたら今川軍との大戦を見据えてのことだったかもしれない。妻を迎えて、後継者を育てろと説く信長の真意を、もっと早く気付くべきだった。成政や利家は家督を継がなくていいので、まともに取り合わなかったのが悔やまれる。
信長が求めていたのは、家柄ではない。
側近たちの血を引く者だったのだ。忙しすぎて妻を探すどころじゃなかった、というのは言い訳にしかならない。おまつは前田の家に帰らず、追放された利家についてきてくれた。
前田の三男坊としてでなく、前田利家として己を認めてやるべきだ。
「おっ、なかなか似合うな。馬鹿犬」
「信広様、なんで」
「たわけ!」
兜ごと殴られた。
前田屋敷から出る前でよかった。信広によって殴られる「信長」を目撃したのはおまつだけだ。そのおまつも目を見開いたまま固まっている。
「今回に限り、兄貴と呼ぶことを許してやる。信包の前でやらかしてみろ。その具足を血で濡らしてやるから覚悟するのだな!」
「信長様に怒られるから嫌っす……」
「ならば堂々としていろ! 馬鹿犬」
「あんたこそ、犬犬言ってんじゃねえ!! オレを犬と呼んでいいのは、信長様だごふ」
「貴様が信長だ!」
「ハイ」
ズレた兜を戻しつつ、利家はかっくんと頷いた。
信長が「脳筋兄貴」と呼んでいた理由も分かった気がする。この人は手が先に出るのだ。戦に関しては非凡であるが、城主としては平凡だという。その娘を娶った長秀も、近いうちに出陣することになるだろう。
品野城攻略は、尾張侵攻を阻む前哨戦にすぎない。
「往くぞ、三郎」
「おうっ」
偽信長はその後、見事に織田軍総指揮を務め上げた。
何かと信広に殴られる場面が多くあったというが、信行との喧嘩に比べれば可愛いものだと家臣たちは目を細めていたという。
真冬の水風呂は危険です。
ノブナガは兜つけない派なんですが、利家は「頭が寒くて温石入れている」という理由で兜着用しました。信包を那古野城に留め置いたのは品野城攻略で信長不在に気付かれないためと、対義元戦(桶狭間の戦い)で万が一のことがあった場合、織田家の後事を託す意図がありました。
利家が知らないだけで、対義元戦にまつわる作戦は側近たちも知っています。
側近たちに話す前に信純たちと密談し、一部を残して側近たちに伝え、核心部分を伏せた上で家臣に戦う宣言をしました。しかも水野信元とのやり取りは、ノブナガの独断です(信純たちも知らない話)
という事情がありました