109. 密談
利家を放逐した件は、尾張国を震撼させた。
前田本家はもちろんのこと、子供時代から従ってきた側近たちは次々に清州城へやってきては俺に考え直すよう進言してくる。なんか、こういうのって昔やらなかったか? 気のせいか。
特にしつこく食い下がってきたのは、成政だった。
意外といっちゃあ意外だが、犬松の絆はこういう時にこそ発揮される。
「また来たのか、内蔵助」
「お許しをいただけるまで、何度でも伺います」
「事の仔細は知っているんだろう? 前田の家も、利家本人も納得している。手に負えない馬鹿な犬を、野に放っただけだ。使えない者は不要。俺がそういう考えの持ち主であることくらい、長く側近を務めてきたお前なら分かるはずだ」
「分かっちまうから、分かんねえんですよ!」
「おい、矛盾してるぞ」
「俺らには主従を越えた絆があると、信じてました。殿はあの誓いを、もう忘れたんですか。俺らに死ぬなと、どんなことがあってもついてこいと言ってくださったじゃないですか」
俺は珍しいものを見る気持ちで、肘置きを引き寄せた。
激昂するどころか、切々と訴えてくる成政は成政じゃないみたいだ。あふれる激情を必死に堪えているのは、膝で震えている拳の白さで分かる。そんなに利家が好きかと茶化したくなるのを我慢している俺とは、誠実さにおいて天地の差があった。
「控えよ、成政」
「うるさい! 貴様に指図されたくねえぞっ」
やっぱり成政は成政だった。
信純に諫められた途端に牙をむいている。俺の傍にいるのが家老衆でなく、一益や恒興でもない。長秀は姿も見えないとあっては、誰にも成政を止められない。負傷した橋介に代わって、後ろに控えている弥三郎たちも表情が固い。
気迫に押されて、うっかりポロリされてもかなわんな。
俺は鬱陶しい蠅を払うように手を振った。
「もうよい。下がれ、内蔵助」
「殿! 話はまだ終わってません」
「下がれ、と言ったぞ?」
成政は熱した鉄を無理矢理呑み込んだような顔をして、謝辞を告げた。
退室していく背を見送ろうとすれば、信純から無言の注意を受ける。おっと、そうだった。今の俺は暴君、独裁者である。これで側近たちの心が離れていったなら、そこまでの関係だったと割り切るしかない。割り切るしか、ないのだ。
「はああぁ……」
俺の内心を代弁するかのような溜息に、思わず苦笑がもれた。
「大丈夫か、弥三郎」
「ああ、藤八郎。何とか凌いだ」
「まだまだ修練が足りないなあ、二人とも。そんな調子じゃあ、年明けには前田又左の後を追うことになりかねないよ?」
「そっ、それは困ります!」
「頑張ります!!」
たちまちシャキッとする小姓組に、信純が軽く頷いてみせる。
あまり苛めてやるなよと言いたいところだが、その台詞すらも俺には許されていない。この部屋にいる面子は、とある秘密を共有する同志である。正確には、橋介を止められなかった弱みを突いて、信純がこちらへ引き込んだのである。
全ては尾張国のために。
隠そうとしても話が外へ洩れていくなら、噂として利用しろと言い出したのは信純だった。噂の内容はかなり着色されているが、一言で表すなら痴情のもつれだ。尾張国内に動揺が走っていると分かればいい。主従間でぎくしゃくしている今を好機と見て、間違いなく今川義元が攻勢に出る。
「弥三郎、地図を」
「はい!」
成政があの様子だから、またしばらくは誰も来ないだろう。
いそいそと懐から取り出した地図を、四人で顔を突き合わせて睨みつける。
既に様々な印が至る所に書き込まれていて、パッと見た感じでは斑模様の墨絵だ。どれも文字が細かすぎて、近づかないと分からないのである。思いつく限りの記号やアルファベットも用いているため、やっぱり俺たち以外にはチンプンカンプンかもしれない。
「藤八郎」
「こちらに」
無造作に箱へ手を突っ込んで、凸形の木製ブロックを地図に置く。
「要は、鷹狩のやり方と同じだ。敵を誘い込んで、一気に仕留める」
「何度も言っているけど、大きな犠牲は避けられないよ」
「……分かっている」
「や、やっぱり皆様に相談した方が」
「藤八郎、殿の決意を忘れたのかっ」
「申し訳ありません!」
「声がでかい!!」
反射的にハリセンで叩けば、信純が「三郎殿もね」と釘を刺す。
内緒話をするには締め切った部屋の方がいいと主張するのを、わざわざ開放させたままに命じたのは俺自身だ。野郎だらけで密集している時点で十分怪しいが、襖の開いている部屋で密談しているとは誰も思わない。
「人はいずれ死ぬ。義元は、必ず尾張国に侵攻してくる。これはもう避けられない戦いだ。先手必勝は叶わなくても、負ける戦だけはしない。勝率がわずかでもあるなら、俺は負けない」
「戦力の差は歴然としている。どう考えても、我らが不利だ。でも勝利条件だけなら、両軍に共通して言えることがある」
「大将首を取った方が勝ち」
期せずして男四人の声が揃う。
信純は我が意を得たり、と微笑んだ。
「うん、それしかない。今川治部大輔の首級をとれば、戦は終わる。どんな大軍でも、大将を失えば烏合の衆だ。追い討つ必要はない。我らはゆうゆうと帰ればいい」
むしろ追撃しようとすれば、被害が拡大してしまう。
俺に頼もしい家臣たちがいるように、義元にも有能な家臣がいるはずだ。村木砦の敗北を踏まえて、歴戦の猛将を連れてきている可能性は大きい。大将首を奪われて、弔い合戦だと開き直られたら――。
悪い想像に囚われやすいのは、俺の欠点だ。
頭を振って意識を切り替える。
「斎藤家や服部党への警戒も必要だからな。五千の兵を集められればいい方だろう」
いや、利家の件がある。もっと少ないかもしれない。
「信元殿が寝返る可能性も考慮に入れておいた方がいいね」
「甥の元康がいるからか?」
「単純に考えて、織田軍の負ける可能性が高いからだよ。もちろん、僕だって信元殿を疑いたいわけじゃない。でも家臣に責められたら、とっても困るんじゃないかなあ」
「で、ですが、水野様が寝返ってしまうと――」
藤八郎はその先を飲み込んだが、信純が凸型ブロックを動かしてしまう。
緒川城の信元を三河から尾張へ。
「いや、これでいい」
「は?」
「信長様、何を仰るのですか」
「焦るなよ、お前ら。あくまでも可能性としての話だ。むしろ、こうなった方が好都合。過去の事例を見る限り、今川軍に寝返った信元はそのまま対尾張への尖兵にされるだろう。だが織田軍の味方をしていても、最初にやり合うのは松平軍だ」
今の元康は義元の手先だ。
三河国平定するまでは、それでもよかった。もともと松平家は三河国を拠点としていたのだから、地元を何とかするのだと思えばいい。大人しく命令に従っている限り、少なくとも処罰されることもない。使える駒は使う。指導者としてはごく当たり前の思考だ。
村木砦の戦いと、今回の戦いは違う。
「仮に松平軍が全滅しても、今川本隊がある。信元と潰し合いになれば、潜在的敵対勢力を減らすことができるからな。俺と元康が幼い頃に遊んだ仲だという情報くらい、義元ならとっくに知っている。俺が元康を殺せば、そのネタを使って悪評を広められる」
「元康殿を殺すつもりかい?」
「…………それが天命なら、な」
いずれ徳川幕府の開祖となる男だ。こんなところで死ぬはずがない。
だが、断言するのは避けた。無意識だった。
信純たちを信頼していないわけじゃない。信頼していなければ、こんな風に密談していない。むしろ、信純たちのおかげで少しずつ戦の全容が見えてきた。織田信長が如何にして今川軍を打ち破り、義元の首級を挙げるに至ったか。
「犠牲は、避けられない」
絞り出すように、俺は告げた。
これだけは断言できる。犠牲なくして、勝利はありえない。今までも戦死者ゼロの戦はなかった。合戦時に生き延びても、怪我がもとで死んでしまう。適切な治療を行えば一命を取り留めたかもしれない、と何度思ったか分からない。
俺のせいだ。
後先も考えず、好き放題にやらかした結果がこれだ。守護職に就任したからと浮かれている場合じゃなかった。小型算盤を売ると決めた時、貞勝の渋い顔が今更ながらに思い出される。側近たちは反対したのに、俺は尾張国のためだと言って押し通した。
便利さは豊かさを生み、日々の生活は格段に向上した。
隣に黄金があれば、欲しいと望むのは当然の心理である。義元も義龍も、俺に交渉を持ち掛ければよかったのだ。愚かな俺は、ほいほいと技術を教えただろうに。
欲しければ奪い取れ、の精神が理解できない。
納得したくない。
「敵は大軍だ。それは変わらん。数の暴力で威圧感を与え、じわじわと追い詰めて降伏を促し、俺の首をもって戦を終わらせる計画だろう」
「やらせないよ、絶対に」
「当然です! 殿を死なせるわけにはいきません」
「尾張国も織田家も、信長様がいてこそです」
「うむ」
俺がいなくてもなんて、もう言わない。
死ぬのは嫌だから戦うことにした。それはずっと前、俺が信長として生まれ変わった時に強く思った。死にたくない。50年でも60年でも長生きしてやる。
俺のせいで誰かが死んでも、俺は生き残る。
「又六郎」
「ん?」
「両軍がぶつかりそうな地域、合戦にふさわしい土地を提示しろ。義元が本陣を構えそうな場所を絞り込め。そこに罠を張る」
「藤八郎、弥三郎は赤母衣衆の加入を認める。騎馬中隊を編成し、精度を上げろ」
「はっ、ありがたき幸せ!」
「承知しました!」
「三郎殿お得意の電撃作戦でも仕掛けるつもりかな?」
「いや、鷹狩だ。最初に言っただろう?」
すると三人三様の疑問符が飛んで、俺は笑った。
「海道一の弓取りと名高い今川治部大輔殿には、俺の大事な家臣を供連れにくれてやる。その代わり、確実に仕留める。奴を取り逃がせば、尾張国の明日はないぞ。心せよ」
返事が来る前に、地図を片付けさせる。
ブロックを元通りに箱へ納めて、棚に戻す。愛用の肘置きに体を預ける俺は、不機嫌そのものだ。信純は隣でぬるい微笑を浮かべ、小姓組は壁側に控える。
また、新たな嘆願者が来るらしい。
ぎしぎしと床を鳴らす足音が近づいてきて、異様な雰囲気の部屋に思わず足を止めた。襖は開ききっているのに、外を眺めて雑談中というわけでもない。
勢いをそがれた顔を見やり、鼻で笑った。
「なんだ、今度は半介か。恒興かと思ったぞ」
「……殿」
「座れ。話くらいは聞いてやる」
顎をしゃくって、肘置きを叩き始める。
信盛の目線がそちらに向かうのは、もう慣れとしか言いようがない。表情がみるみる強張っていくのを、俺は可笑しな気持ちで見守っていた。
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加藤弥三郎...熱田の豪族であった加藤図書助順盛の次男。
同じ小姓衆の長谷川橋介と仲が良かった。のちに岩室長門守の婿となり、岩室勘右衛門と名乗る。
佐脇利之...通称は藤八郎。前田利昌の五男として生まれたが、佐脇家の養子に出される。兄・利家との仲はそんなに悪くないが、橋介とも親しい。のちに良之と名乗る。