107. 決断の時
新章開始です
夏の色を濃くする庭に、草袴の若者が片膝をついている。
青々とした空には雲一つなく、吹き抜ける南風はジメジメしていて体感温度を上げる。暑さに耐えかねて片身頃を下ろした俺は部屋の中央に、きっちり襟元まで隠した平服の男が縁側に座して三者面談のような配置であった。
傍仕えは席を外している。
どこぞで様子を窺っている影はともかく、俺たちは随分と長い間沈黙していた。
「である、か」
ぽつりと落ちる声。
手の中で扇子が閉じて、また開いた。ぱちんぱちんと断続的な音を繰り返して、俺は思考をまとめ上げる。とうとうバキリ、骨が折れてしまったので投げ捨てた。
「義龍め」
「子の龍興はまだ12歳です。家督を継いだとはいえ、実質的な支配者は変わらぬかと」
「斎藤家に見切りをつけ、離れていく者も後を絶たない……という噂も本当でした。近隣諸国へ移動し、新たな主君の下に仕官しています」
「内通者ということはないのか」
「それは……」
「噂には真実も含まれるが、憶測で物事を測ろうとするな。足をすくわれるぞ」
「はっ、肝に銘じます」
草袴と平服の男が同時に頭を下げる。
彼らに面識はなかったはずだが、妙な間の合い方がおかしかった。笑い声を立てるほどじゃないにしても、俺が口の端を引き上げたことで平服の方が顔を引きつらせる。何か企んでいるように見えたのなら、それも仕方がない。
「義龍が、出家…………なあ」
それも父を殺したことを悔いて、だという。
今更だ。故事に倣って「范可」と名乗ったのも、何やらムズムズと居心地が悪い。義龍と直接の面識はないので、義龍がどういう人間かを判断するには情報を集めるしかなかった。
草袴の方は右門、平服の方は新五という。
どちらも浮野の戦い以降に、俺のところへやってきた若者だ。
右門は伊右衛門一豊であり、黒田城が落ちた後に勝吉が連れ帰ってきた。そして新五とは、舅殿と呼んでいた道三の末子・新五郎利治である。長良川での敗戦後、最近まで蜂須賀が匿っていたのも知っている。
二人を呼び寄せたのは、美濃は斎藤家について知りたかったからだ。
まさか義龍が出家し、息子に家督を譲ったとは。
舅殿の死後、美濃と尾張の国境はかなり物騒だった。奈江はよく渡ってこれたものだと思うが、蜂須賀がいなければ死んでいたに違いない。大っぴらに軍勢を差し向けることはなかったものの、小競り合いはずっと続いていたのだ。
俺としては何もしなければ、誰も殺さない。
向こうが仕掛けてくるから応じていただけである。義龍がどうして尾張国を攻撃するのか、何を求めているのかは推測の上ではアタリをつけている。どうやら尾張国の一部が一色氏ゆかりの土地であるから、取り返したいと考えていたようだ。
油売りと一色氏の関係はよく分からない。
公方様から許しをもらって「一色義龍」とも名乗っていたようなので、奴が本気だったのは間違いない。向こうに大義名分があるからといって、はいそうですかと分けてやる気もない。
「…………気に食わねえな」
「三郎様」
「いや、お前らの情報を疑っているわけじゃねえ」
どうにも、しっくりこない。
帰蝶に話を聞こうかとも思ったが、今まで悲しい顔を見たくない一心で避けてきた話題だ。新五は私情を挟まず、事実だけを報告してくれた。年の離れた兄弟であるため、義龍のことは直接知らないらしい。というか、帰蝶も新五の存在を知らなかったらしいから驚かされる。
舅殿も親父殿に負けない艶福家で、何人目かの妾に生ませた子だった。
だから死を免れたとも言える。
「狙撃の件は詳細が分からずじまいか?」
「申し訳ありません」
「気にするな。長近の判断も間違っちゃいない。守護職の地位を取り上げられでもしたら、俺が一方的に損するだけだ。御伴衆だっけか? 守護職よりも偉いんだろうなあ、羨ましいぜ」
俺の声はどこまでも暗い。
公方様が、俺を騙していたとは思わない。義輝公にも事情があって、先に美濃国の支配者になっていた義龍を選んだとしても俺は何も言えない。美濃国は広くて、豊かな土地だ。それに北近江の浅井家とも縁がある。今の浅井家は六角氏の属臣で、六角義賢は若くして才知ある将と名高い。
よくもまあ、そんな恐ろしいところをホイホイ出歩いていたものだ。
帰蝶との新婚旅行はお忍び旅でもあったから、俺が知名度の低い武家の出身でよかったかもしれない。元服した奇妙丸が同じことをしたら、確実に暗殺の対象にされる。
「とりあえず美濃は、放っとくか」
「よろしいのですか?」
「止めなさい、新五殿」
「舅殿との約束もまだ果たしていない。問題を先送りにするだけだ。家臣たちが離れていき、若輩者が新当主を名乗る。……ははは。どっかで聞いた話だなあ、オイ」
このネタで笑ってくれるのは舎弟たちと帰蝶くらいだ。
困った顔をする二人を順番に見やり、俺はすうっと目を細めた。
「北じゃないなら、東だな」
「東、ですか。それはなかなか面白そうですね」
「面白がっている場合か、右門っ」
「僕はこの人に賭けると決めたんですよ。傳左衛門も宗吉様も、三郎信長という人間がどこまでやれるかを知りたいと思っている。だから僕は、密偵でも何でもこなすんです。いずれ城持ちの将になって、堂々と織田軍団の一人として名乗る日のために」
「織田軍団か。いい響きだなあ」
「でしょう?」
「あ、相手は……海道一の弓取りと名高い今川治部大輔ですよ!?」
「知ってる」
「知っていますよ、もちろん」
平然としている一豊の方がおかしい。
青くなって動揺している新五の方がまともな反応だろう。
だから何だ? とてつもなく強大な敵であることは、最初から分かっている。
駿河と遠江、三河と尾張国の一部を支配する戦国大名は近年、嫡男の氏真に家督を譲った。この氏真という男も大したことはない、という噂だ。きっと今川家臣が有能なんだろう。信広が特に警戒していた太原雪斎という男も、4年前に亡くなった。
竹坊こと松平元康――元信から改名した――も、今は今川家の臣下だ。
隠居した義元は三河国の騒乱を平定し、再び水野信元にコナをかけている。
「奴は尾張国を欲している。何度となく戦を仕掛けては、手に入れられずに終わった。それこそ海道一の弓取りとまで言われた男が、そう簡単に諦めるとは思えない」
「いや、そうじゃなくて」
「ん?」
一豊が口を挟んできたので、俺は眉を寄せた。
なんだか笑われているような気がするのは何故だ。
「三郎様、分かっていらっしゃらないんですか? 義龍や義元が欲しがっているのは土地よりも、三郎様のもたらした技術力ですよ」
「ああ、なるほど」
「お前らで納得するな。おい、新五。なんで生温い目で俺を見る」
「尾張国全体の石高が上がったのは、信長様のおかげじゃないですか。それに義龍と義元は、信長様の戦上手なところも知っているんです。長良川や、村木砦で」
「だから俺は、戦上手じゃないと何度も――」
「三郎様だから皆、頑張るんですよ。そろそろ分かってあげてください」
こくこくと頷いている新五、年下の癖に偉そうに諭してくる一豊の頭をハリセンで叩く。
そんなわけあるか! と叫べないのが、ちょっと悔しかった。
蜜月であろう側近たちを呼び出すのは忍びなく、俺は貞勝を頼った。
「そうですね。尾張の技術を売り出すことは一応、可能と言っておきましょう」
「売り出すんなら金になるんだろう? なんで、妙な注釈がつくんだ」
「もはや手遅れなのですよ、殿。尾張で使われているあらゆる技術の発信源が、殿であることは周知されています。まだ知る人ぞ知る、という段階でしょうが」
「いやいやいや!」
真似しようと思えば、真似できる簡単な技術ばかりだ。
土管による水路整備、街道の舗装工事などは手間暇かかるので大変かもしれないが、どれもこれも方法さえ分かれば不可能じゃない。鉄砲は種子島から改良が進んでいるし、三間槍だって柄を伸ばしただけだ。
戦略なんかはもう、俺は見ているだけだった。
前線に出て戦ったこともあるが、策を考えたのは信広を含めた周囲の人間である。寺子屋も昔から存在していたわけで、方策を整えれば誰でも施行できる。
そんな風に訴えたのに、貞勝は無情にも首を振った。
「この十年、殿のお傍で様々な改革を見てまいりました。方法を思いつくだけでなく、実現させる能力は間違いなく稀有なものです。そして地道に育てていくよりは、育ちきったところを横から奪った方が簡単です」
「ま、さか…………義元はそれが目的だってのか!? 甲相駿同盟を結んでも今まで手出ししてこなかったのは、尾張国が豊かになるのを待っていたっていうことなのかっ」
「殿が手塩にかけた人材も、ですね」
愕然とした。
貞勝の残酷な言葉に納得してしまう自分が嫌だ。
尾張守護職の力はまだまだ健在だなあ、と呑気に構えていたのが恥ずかしくてたまらない。尾張国が豊かになればいいと思って、俺は色々なことを試してきた。農業が活性化すれば、美味い飯が食える。産業の発達は住みよい町に、娯楽を持ち込める豊かさを生む。
民のためだが、俺のためでもある。
全ては自己満足であって、慈善事業なんかじゃない。横から掻っ攫われるために、ブラック企業並みのフル回転で全力疾走してきたわけじゃない。
「奪われたくなければ、奪うしかないな」
「はい」
「……吉兵衛」
「何でしょうか?」
「いや、何でもない」
沢彦のように、俺を誘導しているのかと問いかけた。でも止めた。
尾張国が昔のままなら、状況は違っていた。俺が信長じゃなかったら、史実通りの信長だったら、何を考えて今川義元を討つと決めたのだろう。それこそ沢彦に唆されたのかもしれないし、村木砦のことを思い出して危機感を覚えたのかもしれない。
山口親子のように信元が裏切ったら、東から今川軍が押し寄せてくる。
人質になった信広は帰ってきたが、俺は大将首として殺される。まだ死ぬわけにはいかない。まだやり残したことがたくさんある。前世知識が、もうすぐ桶狭間の戦いだと囁いてくる。
豪雨の中、奇襲をかけた織田軍が義元を討つ。
俺はそれしか知らない。
いつ雨が降るのか、どうやって奇襲をかけたのか。義元は武家なのに貴族みたいな男で、蹴鞠が好きだったとかどうでもいい知識が出てくるだけで、戦の詳細は思い出せない。それもそうだ。俺はそもそも戦国時代について、大して知らなかったのだから。
フラフラと一人歩いて、私室に籠った。
誰も寄せつけず、一人で延々と思考に沈む。負け戦は許されない。勝ち目の薄い戦いだから奇襲をかけたことくらいは分かる。俺だって負ける戦はしたくない。勝つ見込みがあるからこそ戦を仕掛けるのだ。
「……ん? 戦を、仕掛ける?」
先手必勝とはよく言ったもので、先に手を出した方が勝ちやすい。
何故勝ちやすいのか。相手の準備が整う前だからだ。
義元は準備が整う前だろうか? 否、とっくにヤル気満々である。小さな乱が起きていた三河国を平定し、次は尾張国を見つめている。家督を譲ってしまった義元に、後顧の憂いはない。
そもそも国力の差が歴然としていた。
まともにやり合えば、絶対に勝てない。清州城で籠城する手もあるが、そこまで攻め込まれた時点で負けが確定している。豊かになった土地を、今川軍に蹂躙される。考えるだけで頭の中が沸騰しそうだ。
ギチギチと鳴っているのは奥歯か、握りしめた刀の柄か。
「先手はとれない。どうあっても後手に回る」
これでも子供時代から、いくつも軍略書を読んできた。
それなりに戦略について理解しているし、戦の作法みたいなものも弁えている。ただ自信がないから、今まで周囲の意見を尊重してきただけだ。負けるかもしれない戦に、皆を巻き込んでいいものか迷う。間違いなく、大事な民が死ぬ。有能な将が討ち取られる。
「くそ、くそくそくそ……考えろ、考えるんだっ」
誰かに相談したい。
どうすれば勝てるのか。義元の弱点は何か。奇襲戦で今川義元を討ち取った夢を見たと嘘を吐いて、絶対勝てる戦だと皆を騙せば史実通りに動くのだろうか。
「俺は誰だ!? ノブナガだ、ノブナガは俺だ」
締め切った襖の向こうで日が暮れて、日が昇る。
また暮れて夜になり、朝が来る。その繰り返しの中、ブツブツと呟き続ける俺は近寄りがたい雰囲気を出していたようだ。食事をしたかも覚えていない。何かを握っていた手がずるりと外れて、もう片方の手を切った。
「いてえ」
切れた指から、赤い血がぷくりと出てきた。
この程度の傷ではちょっと痛いだけで、すぐ止まる。傷口を舐めて、その鉄臭さに顔をしかめた。情けない。この程度か。もう何もかも諦めたら楽になるだろうか。
織田信長がここで死んだら、歴史はどう変わるだろう。
「俺は、ノブナガだ。俺が、信長だ」
立ち上がって、襖を開け放つ。
眩しい朝日が目に飛び込んできた。開き直りにも近い気持ちが、心を支配している。悩んでも、考えても無駄だった。ならば、もう考えるのは止めだ。
今までもそうだった。俺がどんなに考えても、抗っても史実通りに事は進む。
「はは、はははは……っ」
なるようになれ。俺はノブナガ。俺が、織田信長なんだ。
斎藤利治...通称は新五郎。斎藤道三の末子だが、蜂須賀正勝によって尾張国へ逃れる。
隠された子であったおかげで、美濃国でも知る者は少ない。これを利用して、美濃国の内情を探る者の一人として尽力する。ノブナガはいずれ斎藤家復帰(あるいは再興)を考えているが、利治はまだ知らない。