【閑話】 我が名をあげよ
※義輝視点です。ほぼ独白なので、飛ばしても大丈夫です
今回は短め(2000字未満)
「ふん、田舎侍が」
明らかな蔑みを含んだ声に、義輝は片眉を上げた。
「止めよ」
「これは、失礼いたしました」
白粉を塗りたくった女のような顔に不満を滲ませ、形ばかりの礼を取る。
何か言いたそうなのを手で振って退室させた。
いい加減、侍従の慇懃無礼な態度にも慣れてきた。二百年以上続いた室町幕府を自分の代で終わりにするわけにはいかない。かつての権威を取り戻すべく、思いつく限りの手を打ってきた。東は伊達家の仲裁、西は九州探題の任命など、数多の武将たちと文を取り交わして意を探る。
それでも義輝のことを傀儡将軍だと思っている者は消えない。
「まだまだ、これからだ」
尾張守護職をいただきたい、と直接願い出てきた男を思い出す。
名を織田上総介信長といったか。尾張下四郡を支配するだけの小さな武家だったはずだが、ついに尾張守護職斯波氏を追放するに至ったらしい。そういえば、新たに御相伴衆へ加えた斎藤義龍がそのような名前を口にしていた。将軍家を歯牙にもかけぬ無法者ゆえ、近々成敗することになる。だが正当なる理由あってのことで、義輝の仲裁は不要とのことだった。
川中島で争っている上杉・武田の仲裁をした件を揶揄しているのだろう。
何度も繰り返し戦をすれば、民が疲弊する。荒れた土地に人は住めぬものだ。京の町も戦火に焼かれ、それは酷い有様だった。元通りの街並みへ戻すのに何年もかかった。
「私は、傀儡などではない」
ぐっと手を握りしめる。
義輝が11歳で将軍位に就いた時、父・義晴はまだ健勝であった。
管領の細川晴元との権威争いは熾烈を極め、戦に敗れては近江坂本に退避するを繰り返していた。就任式はその近江坂本で行われ、六角定頼が烏帽子親を務めた。
義輝ははじめ、義藤と名乗った。
第13代将軍足利義藤の誕生を、晴元も承認した。
元服したての少年には大人の複雑な駆け引きなど分からない。これで細川氏との関係は修復に向かうだろう、と安易な考えに縋ったのは甘いとしか言いようがない。
ほどなくして、細川氏の内部で分裂が起きたのだ。
細川家臣であった三好長慶が細川氏綱に味方し、本家の当主である晴元は管領の座から追われてしまう。義輝は長慶の暗殺を企てたものの、失敗に終わった。そして氏綱を次の管領にすることで、長慶と和睦したのである。
だが、彼らは言いなりになる将軍しか必要としていなかった。
晴元の手を借りて長慶に戦いを挑むも、敗北。父と同じように近江坂本へ落ち延びた。そこでの五年間は、義輝にとって屈辱としか言いようがない。いつの間にか年号が永禄に変わっていたのを知らず、3ヶ月も古い年号である弘治を使い続けていた。
これはもちろん、朝廷に抗議した。が、全く取り合ってもらえなかった。
朝廷にすら認めてもらえない悔しさは、将軍としての再起を図る原動力になった。もちろん長慶とその家臣である松永久秀をどうにかしないと、義輝の親政は行えない。
永禄元年、ついに六角義賢の仲介で5年ぶりの上洛を果たした。
この六角氏も厄介な相手で、助力すると言いながら支援を打ち切るなどして義輝を困らせた。三好氏にも戦上手な者が多く、何度辛酸を舐めさせられたか分からない。
「ようやく、ようやくだ」
三好実休の戦死で、三好氏の勢いに陰りが見え始めた。
六角義賢が畠山高政と結んで、畿内で武力蜂起したのである。義輝自身も、かつての孤立無援であった頃から着実に味方を増やした。義輝が号令をかければ、13代将軍の名のもとに各地の勇将たちが集うだろう。
「……しかし、あの上総介という男」
直接言葉を交わすことなく終わったが、なんとなく印象に残っている。
義龍の言うような無法者には見えなかった。じっと義輝を睨みつける眼力に、意志の強さを感じたくらいだ。作法もきちんとしていたし、人伝の噂は当てにならないらしい。どこの土地でも双方の言い分を聞いてみると、片方が悪いだけというのは意外に少ない。なればこそ義龍と信長が対立する時には、義輝が間に立ってやろう。
武家同士をまとめるのも、武家の棟梁である征夷大将軍の仕事なのだから。