【閑話】 誰が為に花は咲く
※独自解釈を多分に含みます
最低だ。
己の中で最も端的に侮蔑を表せる言葉を、誰にも聞こえないように心の中で呟いた。
あの男は最低だ。利太に騙されたことに腹を立てていたくせに、いくらでも嘘が吐ける嫌な大人だ。それに女好きだというのも、子供好きだというのも、大嘘に違いない。女の子供であるおまつを、自分勝手な苛立ちで傷つけるなんて信じられない。
おまつは傷つけられてもいい人間じゃない。
『はい、おはな。あげる』
傷ついた人間に、小さな優しさを与えられる人だ。
その無邪気な笑顔にどれだけ救われたか、あの男は知らない。知るはずもない。知らないからといって、彼女を傷つけてもいい理由にはならない。八つ当たりなんか、いい大人のすることじゃない。
「おまつ様」
「ひっく、……ひっく」
震える背に触れるのは、とても勇気がいった。
だが、いつまでもここにはいられない。部屋を出たものの、廊下に留まっているのを見つかったら何を言われるか分からない。おまつは少なくとも、部屋に出るまでは泣かなかった。涙が一粒だけこぼれてしまったが、それ以上は堪えた。
幼くとも前田の姫としての矜持が、彼女を支えている。
「行きましょう、おまつ様」
「こ、わかった」
「…………」
「利昌様が怒った時よりも、ずっとこわかったの。きっと、まつは信長様をとても怒らせてしまったのね。まつは、役立たずの姫」
「そんなことはっ」
ありません、と抑えた声で訴えた。
さっきよりも少しだけ部屋から離れたものの、大声を出せば聞こえる距離だ。利太がちらりと後方を見やれば、おまつは再び涙をあふれさせた。
なんで、あんな男を皆は褒めるのだろう。
昔は大うつけだ、とんでもない無法者だと貶していたのに。
いつの間にか、利家のような人間が増えていた。信長様はすごい、信長様は素晴らしい、信長様は尾張国を救う英雄である、と期待を寄せる。何人もの若者が、織田家に仕えるのだと清州城を目指していった。
実は利太もその一人だったが、ついに目通りが叶うことはなかった。
他の奴らも同じだ。信長は自分だけの兵隊を新設したというが、新たに募ったという人間を実際に見たことがない。どいつもこいつも「お前はダメだ」と言われて追い出されたと言う。
利太は前田家に連なる者だ。
養父の利久は、信長が寵愛している利家の兄にあたる。つまり、利家は利太の叔父だ。しかし前田家は、信長に味方できない理由がある。前田家は荒子城を任されているが、現当主である前田利昌は林秀貞の与力だった。
秀貞は信長の筆頭家老なのに、信長と反目している。
どうやら利太が生まれる前からの長い因縁があるようで、近いうちに戦が起きるかもしれないという噂がまことしやかに広まりつつあった。荒子村のある海東郡、林家が管理する春日井郡では信長に味方するか、秀貞に味方するかで随分もめた。
仕官できなかった者たちが信長の悪口を言ったり、林様が連れてきた御坊様が信長の恐ろしさを語ってきかせたりしたので、皆はとうとう覚悟を決めた。負け知らずの信長に、戦を挑む決意を固めてしまった。
『皆、考え直せ! 信長様に戦を挑んでも、負ける。絶対負ける!』
どうしてそれが分からないんだ、と利家は叫んだ。
荒子衆が起つと聞いて、清州城から早馬で駆けつけたのだ。しかし利家の声は届かなかった。後から聞いた話では、この戦も信長の術中にあったらしい。秀貞を武士として死なせるために、わざわざ蜂起させたのだ。それでも利家は、前田家が信長に弓引くのはダメだと訴えた。
あまりにも必死な様子に、利太は問うた。
『どうして負けると断言できるんだよ、叔父貴』
『負けるもんは負ける。信長様ほど強い人を、俺は見たことがねえ。信長様は誰よりも優しいんだ。武士のせいで、民が傷つくのを一番嫌がる』
『じゃあ、なんで戦するんだよ。おかしいじゃないか』
『俺に聞くな。俺は馬鹿犬だから、そういう難しいのは内蔵助たちに任せてる。んで、決断するのは信長様だ。信長様が戦をするって言うんなら、俺はそれに従う。一番先に槍持って、誰よりも先陣切って手柄を立てる』
迷いのない瞳で、利家はそう言った。
利太には分からなかった。利家は誰よりも強くて、頭がいい。利太が「馬鹿犬だなんて誰が言ったんだ」と怒ったら、利家は「信長様だ」と嬉しそうに答えた。
ますます分からなかった。
戦支度のため、たくさんの金と物資が集められる。
備蓄なんて残っていない。戦続きでどこの村も飢えていた。利久は戦そのものを止めるように訴えたが、利家の考えに同調したからじゃない。ここで戦っても信長が殺せないのなら、戦をしても無駄だと判断したからだ。
そして利昌は、新たな決断を下した。
戦はしない。信長にも刃向かわない。主である林秀貞を裏切り、その首を差し出すことにしたのだ。しかしながら、ただ裏切っただけでは芸がない。元より利家が従軍を決めてしまった以上、秀貞は疑いの種を持っているだろう。
ゆえに利太に密命が下った。
前田家の次代を担う者として、あらゆる武芸を学んできた利太は初陣がまだだった。弓と槍と刀のどれでも扱えるし、馬に乗れば風のように駆ける。だが実戦は初めてなので、失敗もするかもしれない。
利家に傷を負わせよ、と言われた。
前田家のためだ。戦での負傷は武士の名誉である。槍の又左が流れ矢に当たったとて、不運なこともあるものだと笑って済ませるだろう。それなら信長も処罰を躊躇う。だが、利家は正しく理解するに違いない。何故、前田軍の矢が自分に刺さるのか。
言葉で尽くすよりも明確に察するであろう。
「慶次郎。誰にも言わないでね」
やや鼻声での囁きに、利太は過去から舞い戻った。
もう涙は流れていなかったが、潤んだ瞳は心細そうに揺れている。少しばかり気が強くて、己の気持ちをはっきり言う少女の弱々しい姿に、利太はごくりと唾を飲みこんだ。
おまつと秘密を共有する緊張に、体が震える。
「はい。もちろん」
「まつは、お兄様が好き。利家お兄様が大好き。お兄様が笑ってくださるだけで、まつはとても幸せな気持ちになれるの。胸がぽかぽかして、まつも笑顔になるの」
「…………」
「信長様のところに行けって言われたけれど、信長様は何でも知っている。それが、とてもこわい。まつのだめな気持ちも、みんな見つけてしまう。だから利家お兄様は、信長様が大好きなのよ。隠し事をしなくていいから、余計なことを考えても全部分かってしまうから」
「おまつ様」
「羨ましい……。ねえ、慶次郎。男同士だから、お兄様と信長様は仲良くなれるの? まつは女だからダメなの? 慶次郎はお手伝いしているのに、まつがダメなのは女だからなの?」
利太はぐっと詰まって、首を振った。
「おまつ様はダメなんかじゃありません。ただ、あの仕事は誰にでもできることではないんです。おまつ様は、あの絵が何か分からなかったでしょう?」
「うん」
あれは地図だ。
大きな古地図から、地域ごとに抜き出して複数の重複した地図を作っている。もうほとんど完成しているが、おそらく国中のどこを探しても存在しない詳細な地図だ。しかも信長が書きこんだのは予定図が多い。工事や整備をして、今までの耕地を大幅に改善するのだ。
どれだけ年数がかかるか想像もつかない。
なのに、あの男はやる気だ。一人では無理だと唸りながら、凄まじい勢いで様々な内容を書き加えていた。広大な城下町でも作るつもりなのだろうか。無数の小川を作り、道を整え、馬も人も荷車も行き来しやすいようにするのだという。
途方もない夢物語だ。
しかし信長は、那古野村を生まれ変わらせた実績がある。利家たちと協力して、あっという間に石高を上げてしまった。那古野城の城下町は臭くなくて、道が真っすぐだという。欲しいものは何でも買えるし、とても安い。そこでしか食べられない料理は、とても美味い。
利太はとっくに、信長のことを認めていた。
確かにあんな凄い人の傍にいたら、自分が馬鹿としか思えなくなる。
凄すぎて、周りが見えていない。利家の言うように、優しい人なのだろう。民のことを考え、何をどうすればいいのか判断できる人なのだろう。蓄えた知識はとてつもない量で、利太はその片鱗しか見ていない。
とんでもない人だが、尊敬はしない。
「慶次郎?」
黙りこくった利太に、おまつが続きを促す。
「あの絵がどうかしたの」
「いえ、何でも」
「教えて」
首を傾げてねだる姿に、利太は泣きたくなった。
可愛いおまつ。花のように笑うだけで、皆がほめそやす。綺麗な着物を与えられ、お菓子も欲しいだけ食べられる。利太と同じように前田家に引き取られた身ながら、城の皆から惜しみない愛情を与えられている。
利太にとっても、義父である利久は実の父以上に尊敬していた。
落ち着きがあって、視野も広い。民のために戦をしない選択もできる。利太が信長見たさに家を飛び出しても、見識を広めるために必要だと許してくれた。あわよくば信長の直属軍に入れてもらおう、と思っていた自分が恥ずかしい。
笑って流した利家と違って、間違った密命を信じた利太の愚を叱ってくれた。
だが信長はときどき激情ごと、言葉を飲み込む。
平気なふりをして、全然平気じゃない。顔に出ている。態度に現れている。おまつが作業部屋に現れたのは、間が悪かったとしか言いようがなかった。
それでも――。
「男にはやらねばならぬ時があるのです、おまつ様」
「なあに、それ」
ぷくっと頬を膨らませる少女は笑顔どころか、完全に拗ねてしまった。
ひどいずるいと繰り返して、ぱたぱたと走り去っていく。利太は立ち尽くして、それを見送った。明るい日差しが降り注ぐ廊下は、じめっとした小部屋と空気が全く違う。この辺りはもう、前田家の者が生活する区域になっている。
ほどなくして乳母に迎えられ、伯母であり養母でもある御台所に抱きつくのだろう。
信長は十歳にもなれば、一人で何でも考えて行動できると言った。
演技を見抜かれたかと恐れたが、そうじゃなかった。信長の理想はとても高く、常人のそれとは大きくかけ離れている。貧しい民は幼い頃から働くだろう。そして身分の高い者は、自分で考えることを禁じられる場合がある。
こちらにはこちらの事情があるのだ。
利久は、信長の来訪を歓迎していなかった。那古野村の奇跡は、そう何度も起きるわけがない。劇的に何かが変わるなら、とっくに変わっている。急激な変化についていけない者は、必ず出てくるのだ。
「父上、叔父貴」
利昌からは可能な限り、信長にくっついていろと命じられた。
どんな些細なことでも毎日報告するように義務付けられ、利太は清州の前田屋敷にいた頃よりも忙しい日々を送っている。信長は利太の動きに気付いているのかいないのか、僧形の男を城内にうろつかせていた。
女たちは噂好きで、美しいものが好きだ。
ぐるりと取り囲まれて困り果てているのを何度か見かけたが、助ける気にはなれなかった。信長の命令でやっていることだ。何を目的としているかは、よく分からない。
「俺は、どうすればいい」
居場所が見当たらないのだ。
そこにいていい、という実感がわかない。利太を認めてくれる父、弱った心を包んでくれる姐さんたち、若様と呼んでくれる荒子の人々、そしておまつ。
このままでいいのか、と声がするのだ。
信長と共に駆ける利家の話を聞いていると、糸口を掴めそうな心地になる。同時に利家がとても妬ましく、恨めしくなる。おまつが好きな「お兄様」だからかもしれない。
ようやく信長本人と出会って、愕然とした。
知れば知るほどに分からなくなる。称賛と同時に、落胆もする。とんでもない人間だと思うが、化け物だ何だと騒ぐほどのものでもない。あれはただ、異質なだけだ。一つだけ違うものが混ざっていることに、皆が気付いている。
気付いているのに、受け入れている。
それが利太との違いだ。利太は信長のようになれない。だが信長を見ていると、風を感じる。そのままどこまでも飛んでいけそうな、自由がそこにある。掴もうと思えば、掴める。それを掴んだ瞬間、利太は後戻りできなくなる。
おまつの笑顔を思い浮かべた。
花のように笑う人のために、利太は強くなりたいと思ったのだ。信長も、利家も、目標として狙うには少し違う。自分だけの道を選んで、自分の足で歩いていくしかない。
風が、導く先へ。
「まだ選びたくないんだ。それもやっぱり、甘えなのか」
大人に従うのは楽だった。
前田家のためになるなら、おまつのためにもなる。利太にはそれで十分すぎる理由になった。信長は怒ったが、利太は間違ったことをしていない。利家に傷を負わせたのも、必要なことだった。利久にも叱られたが、利太は後悔していない。
「もう少しだけで、いいんだ」
少女が嫁ぐ、その日までは。
荒子衆の利太でいたい。慶次郎と呼ぶ、あの柔らかな声が聞こえる所にいたい。
それ以上は、望まないから。
思春期ってむずかしい