94. 人の器
着替えを終えた俺は、おまつの案内で城主の待つ部屋へ向かう。
脱衣所から連れ出されていく湯女は、彼女の知り合いでもあるようだ。大丈夫です、と花のような笑顔を向けられて少々困ってしまった。それなりにタイプの違う女たちに会ってきた俺だが、この少女は底知れない迫力を感じる。
彼女の夫になる男は、相当苦労するに違いない。
俺の予想通りなら、相手は知っている男になるわけだが。
「あの、信長様」
ふと足を止めたおまつが、こちらを振り向いた。
「お兄様は、お役に立っていますか?」
「兄?」
「利家お兄様ですわ」
その瞬間、近親婚の文字が脳内を駆け巡った。
利家の兄弟姉妹は全て把握しているが、おまつという妹はいなかったはずだ。だから従妹かもしれない。あの馬鹿犬が「お兄様」とか、似合わなすぎて笑える。
「近々、清州にお屋敷をいただくという話を聞きました。信長様の側近ですから当然とも申しておりましたが、本当でしょうか。お兄様の言葉を疑うわけではないのですけれど、なんだか信じられなくて」
「本当だぞ。側近含め、主だった家臣には清州城下に屋敷を構えさせる」
「まあ」
那古野城は幸いにして戦火に見舞われていない。
だが、いつそうなってもいいように準備は進めてきた。江戸時代に定着した火消のシステムも何とか導入したいところだが、環境整備がやっと整った段階ではまだまだ難しい。那古野城下ですら、まだ新しい町なのだ。それほど愛着がないため、守ろうという意思が薄い。
街をきれいに保とうという意思も同様で、秀吉からの愚痴は大体それだった。
長秀は仮にも奉行職を預かっておきながら、自らドブ浚いなんぞしているから余計に笑われるのだとしかめっ面をしていた。誰かがやらなければ、町はきれいにならない。出世街道を驀進し、周囲からやっかみを受けている木下家は今とっても複雑な状況にあった。
その木下家と特に仲良しなのが、利家「お兄様」である。
忙しくて実家に帰る暇がないという建前のもと、さっさと武家屋敷を建ててしまった。ちなみに那古野城下には前田屋敷と木下屋敷が隣り合っていて、日常的にやり取りをしていたようだ。
利太はおそらく清州の前田屋敷で、利家の世話になっていたのだろう。
男の一人暮らしほど侘しいものはない。
「そうだ。荒子から何人か人手を回してもらうか。せっかく建てた屋敷がゴミ屋敷になっていたら勿体ないしな」
「まあ!」
「兄上、そういうことは利昌に直接申し付けた方がよろしいのではありませんか」
「……声に出ていたか」
こくりと頷く二人に、俺はぽりぽりと頭を掻いた。
敵陣営に乗り込むくらいの覚悟でやってきたはずが、ちょっと気が抜けていたらしい。なんだかんだで身内に甘い自覚はある。信行のことは最初から大事な弟として認識しているし、おまつが利家の従妹というだけで安堵してしまっている気がする。
いかんな、これは。
前田利昌は親父殿と同世代の武士だ。主君を裏切ってまで俺についた功はあれど、そもそも林兄弟が織田家当主である俺に反抗的だったことに端を発する。色々あって刃を向けるに至ったのもまあ、俺が唆したようなものだが。
ついでに糞坊主の思惑もあったわけだが。
気を引き締めよう。今気付いたのは幸いだった。そう思うことにする。
「上総介信長様をお連れいたしました」
短い応答の後、おまつが俺の到着を報告した。
室内から襖が開けられて、おまつの誘導で入室する。
城主がいる部屋だというのに、掛け軸はおろか花器すら置いていないことに驚いた。前田家は質実剛健をモットーとすると聞いていたが、確かに「地味」の一言に尽きる。利家のアレは、反発心から来るのだろう。確かに俺も派手物は好きだ。この貧弱な体から目をそらすことができるから。
二段の小引き出しがある棚には、渋色の茶椀。
長益が武士の嗜みとして茶道にハマっていたが、利昌もそうなのだろうか。箱が見当たらなくても、それなりの名物であろうことは推測できた。あれやこれやと献上してくる家臣のおかげで、目利きの能力が身についている。
「僧衣に帯刀とは、物騒でござりますな」
挨拶もすっ飛ばして、利昌が小さく笑う。
俺の後ろに控えた信行のことを示して言っているのだ。きっちり剃り直して、頭にはゴマ粒ほどの毛も生えていない。それでいて腰には脇差一本を帯びているのだ。
僧兵を名乗る生臭坊主が増えているとはいえ、揶揄するような響きに眉が寄る。
「兄上をお守りするためだ」
「その刀で、信長様を貫くこともできましょうに」
「私に織田家を治められぬが、兄上は尾張国を治められる。私はそのことをずっと前から知っていた。見たくないと目を背けていただけだ」
「ふむ」
どうにも尻が痒い。
俺を空気みたいに扱いやがって、と文句を言う前に信行が恥ずかしいことを言い出したので無表情を貫くのに必死だ。信行だけは俺を褒めたりしないと信じていたのに、これでは側近や弟たちと同じである。ああ、信行も俺の弟だった。血は争えない。
いっそ、信広を連れてくるべきだった。
利太と元気に喧嘩して、俺はゆるりと考え事に浸っていられただろうに。
「わしは、そう思えませぬな」
「聞こう」
「信長様は大うつけにござる。こうして直にお目通りいただくのは二度目でござるが、その風格はおよそ人の枠に収まりきるものではありますまい」
「貴様も……、兄上を化け物と罵るかっ」
腰を浮かせかけた信行の肩をぐい、と押す。
ついでに脇差に触れていた手もぺいっと払い落した。後方に座っているので多少やりづらかったが、ここが荒子城であることを忘れてはいけない。ここで何か起きた時、不利になるのは俺たちの方だ。
利昌は目を細めている。
髭の下にある口は薄く笑んでいるようにも見える。タチの悪い笑顔だ。何も知らなければ、人の良さそうな印象を受けたかもしれない。顔が整っていると、何かにつけて得をするものだ。
俺が見ているのに気付いてか、利昌が向き直る。
「ときに、信長様。清州は人手不足だとか?」
「ああ」
「おまつはいかがですかな」
「俺が欲しいのは城で働ける人間だ。前田の姫にそんな仕事をさせられるか」
「正室にすら、仕事を与えている御方の言とは思えませぬなあ。ご側室にいたっては、木綿の無地を日々ご愛用であるとか」
「着飾った女を侍らせて、ただ愛でるのはつまらんだろ」
「人手不足のためとはいえ、女がつけ上がると厄介ですぞ」
俺はちらっと襖を見やった。
おまつとは、部屋の前で別れている。そのまま戻っているのなら何も問題はない。男尊女卑とも取れる利昌の台詞は、古参の家臣にも再三聞かされたことだ。
現代では女にも平等な立場を求めて、何度となく言論の戦いが起きていた。
子を産むことは女にしかできない。
だが、女だけで子を孕むことはできない。子が生まれてから自立するまでは保護者が必要だし、十分な教育を受けなければ社会で生きていけない。前世の俺はたぶん、女が嫌いだった。
カノジョがほしいと望んでいたが、従順で大人しくてエロい女が理想。
いつの時代でも変わらない、男はそういう生き物だ。
「縫殿助利昌」
「はっ」
「前田家は、さぞ有能な人材の宝庫なのだろうなあ。ちょっと借りてもいいか?」
「おまつはお気に召しませぬか」
「あれの夫は決まっている。俺は、働ける人間を寄越せと言っているんだ。俺が清州を出てきた理由は、春日井の惨状をどうにかするため。嫁探しじゃねえ」
荒子のことは、前田家に任せる。
お膝元の窮状くらい何とかできないのなら、城主は務まらない。
「お言葉ではござりますが、そのような寄り道よりもすべきことがありましょう」
「各地への警戒か? 潜んでいる間諜潰しか。それとも兵の鍛錬か? 言っておくが、これ以上家臣の数を減らすつもりはないぞ。罰を与えるにも金がいるんだ。自宅謹慎なんぞさせてみろ。そいつが休んでいる間、誰が領地の管理をする? 謹慎中もしっかり執務に励む保証がどこにある? 後から何もしてなかった、謹慎を言い渡されたから大人しくしていたという言い訳されてみろ。その間に死んだ民は、誰を恨めばいいんだ?」
「兄上」
信行の声に、俺はゆっくりと息を吐く。
「……利昌」
「はっ」
「俺のやり方に意見するなら、利家は死んだものと思え。嫡男は健在だから文句はねえだろう。これから春日井の村で農地改革を進める。期間は一か月。そうだな、必要な人材は俺が適当に連れていく。人事とか、そういう手続きは後日でいいか」
俺メモ帳を取り出し、さらさらと書きつけた。
この時代のサインである花押があれば、ただのメモ書きから指示書へランクアップする。これを信行に渡そうとしたら、何故か首を振られた。小姓が代わりに受け取って、利昌に渡している。利昌は一通り読んだ後に、懐へしまった。
「しかと承ってござる」
この男が頭を下げるのは、これで二度目だ。
俺の方が身分は上なのだから当然といえば当然である。わざわざ謁見用の広間じゃなく、こんな奥まった私室みたいなところに案内されたのも事情があるのだろう。俺なりに推察して納得しても、理解しようとは思わない。
古くから続いてきた風潮を変えるのは難しい。
守るべきものが多ければ多いほど、使える手段は限られてくる。少なくとも前田利昌という人間は、ダメ城主ではない。ちゃんと自分で考えて話ができる人だ。俺が噂通りの人間かどうかを試していたようでもあった。
「……腹の探り合いとか、苦手なんだよなあ」
胸糞悪くなる。
むっすりと不機嫌顔でぼやく俺の隣で、信行が苦笑していた。部屋を辞して、ふらふらと歩く兄を止めることなく大人しくついてくる。やっぱりコイツ変わったな、と思った。
信行が出張ってくるので、なかなか(話が円滑に)進みません…。
そして、いつものノブナガ(ちょっと短気)
利昌の台詞はまあ、色々含みすぎているので意図が分かりづらいと思います。ノブナガ的解釈も足すべきか悩んで、まあいいか~と今回は流しました。