93. 荒子の女
あ、死んだな。
織田信長として生まれ変わって、前世の記憶が甦って以来、何度そう思っただろう。馬上の人間を槍で突いたら、抱えている子供もろとも落馬するかもって考えないのか。
「皆の者、止めよ! このお方は正真正銘、織田三郎信長様であるぞ!!」
「の、信長様!?」
「大殿様が何故、荒子城に」
「おい、誰か利昌様にお知らせしろ。本当かどうか確かめねばならぬ」
ざわざわと兵たちが騒ぐ中、利太はぷんすか怒っている。
槍をどけろ、無礼者とキャンキャン吠えるものだから、もう煩くて仕方ない。村の子供たちも大概に騒々しかったが、こいつの場合は一人でも十分すぎる。かといって実力行使で黙らせようとすれば、何が起きるか想像するまでもない。
「それにしても意外だったな」
「意外じゃない! 春日井の民はともかく、荒子の民はみんな信長様を慕っています。おれも、信長様はすごい人だって思っているのは本当なんです。それは嘘じゃないっ」
「へいへい」
「真面目に聞けよ。耳ほじんなっ」
「ほいほい。あ、でっかい耳クソとれた。見るか?」
「見るわけない!」
「慶次郎っ」
その声に、ようやく迎えが来たかと胸をなでおろす。
髪を振り乱した女が駆けてくるが、豪奢とまでいかなくとも高価な着物を纏っている。城主である利昌、あるいは嫡男の利久の妻だろう。どこかあどけない十代の少女はやつれた顔に、焦りを滲ませている。取り繕う暇もないようで、必至に走る裾から白い足が丸見えだ。うむ、非常に眼福である。もうちょっと上までめくれないものかな、と身を乗り出したついでに落馬した。
腰を強かに打つ無様さに、愛馬は鼻で笑う。
ぶひひん、じゃねえ。やたら人間臭くなりやがって、ニヤニヤ笑う顔までよく分かるぞ。
「それっ、若様をお助けしろ」
「若様!」
「慶次郎様っ」
俺、ノブナガ。
織田三郎信長って、さっきご紹介に預かったばかりの織田家当主である。なんでこの俺が、雑兵どもに踏まれそうになって、砂まみれの埃だらけになって這う這うの体で脱出しているのか。情けなさに涙が出るぞ、こんちくしょう。
いや、これは汗だ。心の汗なのだ。
「兄上!」
慶次郎コールはまさしく、俺にとっての四面楚歌。
城門に現れた美しすぎる禿げ頭、もとい剃髪した我が弟は一層輝いて見えた。特にその部分が。いや、だって仕方ないだろう。朝の清々しい太陽を背に立つ信行は、頭に後光が射していたのだから。
信行が輝いて見えたのは俺だけじゃなかった。
ボトボトと槍を落とし、雑兵たちが手を合わせて拝み始める。何が何だか分からないのは当の本人くらいで、その輝きっぷりは目にとても痛い。そっと顔を背けたら、勘違いした信行が慌てて駆け寄ってきた。
「兄上、この状況は一体?」
「もしや、あなたは勘十郎様ですか」
利太を呼び捨てにしていた女が遠慮がちに話しかけてくる。
だが信行は、不快そうに眉を寄せただけだった。俺に手を貸して、立ち上がらせようと促してくる。腰が痛くて震える下半身を、信行が遠慮なく叩いていく。もうもうと立ち上がる煙に女が軽くむせ、ようやく追いついた侍女が俺たちを睨んだ。
「御方様が問うておるのですよ。疾く答えなさい!」
いつの世にも、どこの城にも気の強い女っていうのはいるもんだ。
その中でも厄介で面倒なのは、自分じゃない誰かのために気炎を吐くタイプである。正当な理由があるために『誰か』以外の言葉を聞き入れない傾向にある。全てがそうだと言わないが、自分の主の態度から察してほしい。
「お止めなさい」
「ですが!」
「大変ご無礼を申し上げました。お咎めはこの私が受けますので、何なりとお言いつけください」
また深々と頭を下げる女。
乱れた髪はそのままだが、大人しそうな見た目に反してハッキリと物を言う。絶句していた侍女は改めて俺に気付いたらしく、口の中で悲鳴を上げて腰を抜かした。
「信行。そんな酷い顔をしてるか、俺?」
「普段の兄上とは似ても似つかないお顔になっているのは確かですね」
「ふむ」
鏡で確認したくても、そんなシャレた道具は持っていない。
顎を撫でつつ、ようやく荒子城の全容を見渡してみる気分になった。未だ城門に入った辺り、居住区はまだまだ先とはいえ雑兵やら何やらギャラリーが多くて先が見えない。清州城に比べて見劣りする城郭も、前田家が抱える城としては大きい方だ。黒々とした城壁が、それなりに堂々とした威風を放っている。
城門の鍵にも、分厚い金属を用いているようだ。
巨大な丸太で突撃されない限り、そう簡単に外部からの侵入を許さない。城門の騒ぎに気付いて、一斉に兵たちが溢れてきたのもいいことだ。平時であるために防具を纏っていない者がほとんどでも、俺に突きつけてきた槍に迷いはなかった。
ちゃんと日々の訓練を怠っていない証拠だ。
「利昌はいい城主のようだな」
「お褒めに預かり、恐縮です。信長様」
俺の呟きに応じたのは新たにやってきた人物、前田利昌本人だった。
「の、信長様!?」
「清州の……ほ、本当にっ」
「だから言っただろ」
驚き慌てるギャラリーはともかく、なんで利太が自慢げにしているのか。
信行が荷物を下ろしているのを見て、我に返った兵たちが代わりにやると申し出ていた。利太は奥方に連れられていき、俺は城主の顔をじっと見る。
ゆっくりと歩き出せば、信行がそれに続く。
慌てて避ける兵の一人が平伏し、残りの全員がそれに続いた。それはもう今更としか言いようがなかったものの、先程の侍女同様に咎める気はない。不審者を疑うことも、前田家の子供を守ろうとするのも至極当然のことだ。
養子とはいえ、利太が荒子の者たちに受け入れられているのはよく分かった。
利昌は俺が十分近づくのを待ってから、片膝を折る。髪に白いものが混じっているだけで、親父殿よりもいくらか若いか。顔立ちはやはり、利家とそっくりだ。似たような顔が後ろに控えているので利昌の子であろう。
男にしては色白で細い。
目鼻立ちがはっきりしている利家に見慣れているせいか、ぼんやりとした顔である。武士らしくない、なよっとした優男だった。利昌の方は年齢を感じさせないがっしりした体つきで、激戦を潜りぬけた猛将という雰囲気があるから意外に思える。
俺が見ているのに気付いたのだろう。
「嫡男の利久にござる」
利昌の紹介に、利久が頭を垂れる。
「ふん、小坊主の親か」
「此度はまことに申し訳なく」
「詫びは不要だ。お前らも巻き込まれたクチだからな。お互い様ってことにしといてくれ」
「は?」
「利久、下がれ。後はわしに任せよ」
「ですが、父上」
「下がれと言った」
「……はい」
不承不承といった様子で、利久が従う。
去り際に、俺を軽く睨んでいったのは気のせいじゃないかもしれない。利家は俺の四つ下だが、前田家の四男坊にあたる。嫡男とはそれなりに離れていると考えて、利久は俺よりも年上の男で間違いないだろう。
だからといって睨まれる理由にはあたらない。
「愚息が失礼を」
「いや、構うな。先の戦で功を挙げたにも関わらず城へ招くこともなく、先触れもないまま押し掛けたのはこちらだ。歓迎されるとは思っていない」
信行が空気を読まずに何か言いかけたので、手で制す。
こんな時、信包ならばと思わずにいられなかった。元服する前から俺のやることを手伝いたがり、従軍したいと泣き叫ぶのを縄で縛ったこともある。そんな少年時代を経て、城代を任せられるくらいには成長した。
今頃は勝介の指導を受けながら、那古野城で執務に追われているだろう。
信治以下異母弟たちも、統治について学び始めている。一気に持ち城が増えたため、家臣だけでは手が回らないのだ。功績を称え、報奨を与えるにも一律配分できないのが面倒くさい。面倒なので丸投げしている俺は、どんな風に分配されたのかを詳しく知らない。
大事なのは何を与えるかでなく、与えたものをどう生かすかだ。
ひとまず着替えをと言われて、なんと蒸し風呂へ誘導された。
何故か目隠しをしている湯女が控えていたが、深く追求しない方がいいのだろうか。旅の垢を落とすには風呂が一番だ。ゴシゴシと力いっぱい擦られながら、なんだか那古野村のゴエモン風呂が懐かしくなった。
大量の湯にとっぷり浸かる悦楽は、前世の頃から変わらない。
やれば実現できるもんだなと一人笑っては、勘違いした帰蝶に怒られたのもいい思い出だ。この時代の蒸し風呂は、たまーに男女の営みにも使われる。湯女にオイタしたところで誰も咎めないし、湯女は城に仕える者たちでも下位にあたる。抵抗すれば、罰せられるのだ。
こいつもそうなんだろうな。
成熟には程遠い痩せた四肢を見やり、そっと息を吐く。俺はロリコン趣味という噂が立っているらしい。ちょいちょい清州城へ遊びに来る伯母がそう言っていた。だから自分みたいな体型は興味がないので安心だとかよく分からない理屈を並べ、横で信純が爆笑するのを必死で堪えていたのもついでに思い出す。
体型以前の問題だ。伯母を襲うわけないだろうに。
「とっととくっつけばいいものを。何をモタモタしてやがる」
「こ、こうですか?」
今にも泣きそうな声が耳元で聞こえた。
ぺっとりと濡れた肌が張りついてきて、反射的に振りほどいてしまう。小さな悲鳴を上げて転がる湯女はすぐさま床にへばりつく。肩から滑り落ちた髪が、年頃の娘にしては妙に短い。
「申し訳ありません!! 申し訳ありません、どうかご容赦をっ」
「いや、待て。落ち着け」
「どうか斬るのはわたしだけにしてください。お願いします!」
「……あー」
そもそも刀も持ってないのに、どうやって斬るんだ。
呆れて物も言えない俺の前で、ひたすらに娘は慈悲を乞い続ける。俺の独り言を勘違いしてくっついたら不興を買って、恐慌状態に陥っている。そこまでは理解できた。前田家は違うと信じたいが、林兄弟は身分を気にするタイプの人間だった。
人の上に立つ人間は周囲に影響を与えやすい。
「名は?」
できるだけ怯えさせないように簡潔に問えば、小さな体が大きく震える。
「ご、ご容赦を……っ」
「まあいいや。顔だけ覚えさせろ。悪いようにはしない、と言いたいところだが……ここは俺の城じゃないからな。何かあっても責任は取れん」
顎を掴もうにも這いつくばっているので無理だった。
仕方ないので頭を鷲掴みにすれば、涙と鼻水でぐしょぐしょのひどい顔が現れる。興奮と蒸し風呂の温度で全身が赤く染まり、目は虚ろになっていた。
「こりゃやべえ」
慌てて娘を抱えたまま飛び出せば、じっとり眼の弟とかち合う。
何やってんだという文句は呑み込んだ。
「信行」
「はい」
「水と着替えと何か拭くもの、持ってこい」
「着替えはこちらに。体をお拭きいたしますので、それを置いてください」
「人命救助が先だ!」
俺の剣幕にようやく動き出した弟の背を睨み、俺は蒸し風呂の熱気が入ってこないように戸を立てた。信行が守っていたらしい手荷物には愛用の扇子もある。濡れた浴衣も替えさせ、軽く水気を拭き取った上で俺の着物で包んでみる。
扇子で仰いでやった経験はないが、優しい風が送れるように気を遣った。
サウナを甘く見ると恐ろしいのだ。
この時代ときたら、食事の栄養価は全体的に低いわ、民間療法は滅茶苦茶だわ、そもそも医者の数が絶対的に少なすぎるわで何度吠えそうになったか分からない。俺が知識チートの元ニート転生者じゃなくてよかった。今頃、過労で死んでいる。
俺が前世のことを思い出してから、もうすぐ十年。
現代日本の細かいあれこれは思い出せないものの、基本的な感覚は現代人のままだ。それは周囲の者にとって違和感でしかないだろうし、俺を排除したがる者たちの中には本能的恐怖も感じているかもしれない。
未知のものに対する恐怖。異物を排除しなければならないという本能。
「ぶえええっくしょい! ぶるるあ」
いかん、俺も着替えねば。
湯あたりも怖いが、湯冷めも怖い。医学が発達していない時代に風邪をこじらせることほど恐ろしいものはないのだ。風邪は万病のもと、を鼻で笑っていた過去の俺を殴りたい。
状態はどうか、と娘の額に触れてみた。
一瞬ひやっとした感じに、俺はかつてドクゼリで死んだ娘を思い出した。慌てて呼吸を確かめるが、よく分からない。焦って首や胸に触れる。鼓動を確認するまで、しばらくかかった。
「まだ生きてるな。よ、よし」
「兄上、一体何を」
「だから人命救助だって言ってんだろ。戻ってくんの遅え! おい、それ男物じゃねえか。こんな細っこい娘に男物着せてどーすんだ。ぺったんこ胸だが、一応これも女だぞ」
「お怒りはご尤もでございますが、お身体が冷えてしまいます。着替えてくださいませ」
「言われんでも、……あん?」
どうぞと言わんばかりに着物を差し出すのは、見覚えのない顔だ。
俺がぽかんと口を空ければ、彼女はにっこりと微笑む。湯あたりして倒れている娘よりも年下の少女が、俺に臆することなく話しかけてきたので少し驚いた。
「どうぞ」
「あ、ああ」
成長すれば、きっと美しくなるだろう。
我が妹お市が宇宙一だと思っていたが、その次くらいには将来に期待が持てた。強い意思を宿した瞳がくりっと動いて、悪戯っぽく笑うさまは男心を刺激する。とはいえ、俺には三人の妻がいる。
ロリコンではない、断じて違う。
一回りは違う子供をどうこうしたいとは思わない。容姿の素晴らしい女は目の保養になるし、性格の面白い人間は男女問わず気に入ると思う。才ある者に、年齢や身分性別は関係ない。
少女はまつ、と名乗った。
うむ、なんだか嫌な予感がするぞ。
前田利昌...通称は縫殿助。前田家の現当主にして、荒子城主。利家たちの父。
信行派の一人として、林家の与力として、信長軍とは敵対することもあった。林兄弟の謀反にも従軍するが、開戦直後に寝返ってノブナガ側につく。
前田利久...通称は蔵人。前田家の次期当主と目されている嫡男。
夫婦ともに若く健康であるが、とある理由で幼い慶次郎(利太)を養子として引き取った。武術はそれほど得意でない分、学問に秀でている。
まつ...荒子城に住んでいる前田家の娘
余談。
前田まつは天文16年(1547)生まれなので、10歳になります。
ついでに前田利太(慶次郎)は天文10年(1541)生まれとしているので、本当は16歳(満年齢で14歳)です。ノブナガは子供好きという噂から、幼い方が油断すると思ったら大間違いだったオチ