92. 全ては仏の掌
調理に関する話は信ぴょう性に欠けるので、いつものように流していただけると幸いです
ココはドコ、ワタシはダレ。
尾張国、某森の中。俺、ノブナガ。楽しい楽しい野営なう。
今夜のメインディッシュは若い猪であった。鍋にして柔らかく煮込むと美味しいのだが、そんな気の利いた道具なんざ持ち合わせていない。捌いて、皮をはいで、焼いて、食った。内臓は埋めて、骨は使えそうなので磨いているところだ。
研磨剤なんぞないので、剥いだ皮を使う。ないよりマシ。
そして干飯は当然、そのまま食べられない。竹筒を使うわけにはいかないので、しっかり洗った胃袋で蒸してみたら意外にイケた。多少臭くたって、我慢できないほどじゃあない。一益が持たせてくれた薬草を混ぜたから、腹痛に襲われることもないだろう。
食中毒はシャレにならないから、よいこは真似するなよ!
「ものすごく手慣れていますね、兄上」
「まあな」
鬱蒼とした森は闇に閉ざされると、不気味な異世界に早変わりする。
見渡す限りの木、木、木。街道からちょっと離れた場所で、俺たちはパチパチと爆ぜる焚火を囲んでいた。野獣避けのため、火を燃やし続けなければならない。交代で火の番をするのが効率的なのだが、誰も寝ようとしなかった。
さっきから話題を探しては、ぽつりぽつりと話しかける信行。
膝を抱えて、じーっと火を見つめ続ける小坊主。前田利太という立派な名前があると主張するも、俺は「小坊主」呼びを徹底していた。待ち伏せした挙句、無理矢理ついてきて、見事なまでに足を引っ張ってくれた愚か者の名など知らぬ。
『この方は織田上総介信長様であるぞ! 無礼者めがっ』
脳裏に馬鹿の威張った声が響いて、俺は眉間に大山脈を作った。
春日井村の近くまでは、おおむね順調だったのだ。
貞勝がたっぷりと路銀を持たせてくれたおかげで、厩つきの宿に泊まれたのは大きい。信行に修行僧らしく振舞わせ、お布施もいただいてしまった。美しい仏僧が微笑むだけで皆が手を合わせてくれるのだが、それで納得しない信行に読経させたら余計に増えた。
娯楽がほとんどない時代に、明日の糧もままならない生活だ。
神や仏に祈らなければ、何かに縋って生きていかなければ壊れてしまう。そんな現状を目の当たりにして、信行は少しずつ民について考えるようになった。邪魔発言も多少効いているかもしれないが、尾張国に住んでいる様々な身分層について知るのは大事なことだ。
変わらなかったのは小坊主である。
俺についていけば強くなれると勘違いしていたらしい。
そろそろ林家の影響下だ、慎重に行くぞと告げた矢先でもあった。
痩せた土地、飢えた民、ボロボロの農機具とも呼べない何かを引きずり、田畑を耕している。ぼうっと空を仰いでいる浮浪者、指をひたすら吸っている孤児、今にも崩れそうな小屋があちこちに見受けられた。
一転して、城下町は賑やかなものである。
商人たちが忙しそうに歩き回り、着飾った女たちが楽しげに笑いながら過ぎゆく。誰も俺たちのことなど見向きもしない。旅装束は埃まみれで、髭も伸び放題である。小汚い格好だとあからさまに避けていく者が両手を数えた頃、小坊主が爆発した。
蜂の巣を突いたような大騒ぎになり、俺たちは逃げるように城下町を後にした。
「やっぱり納得いかない」
「あ?」
小さな呟きに反応してしまえば、小坊主はムキになって声を上げた。
「なんで逃げたんだよ! 織田の殿様だろ。苦しむ民を救うために、荒子まで来てくれたんじゃないのか!? なんでっ、あんな風に」
「この辺りは、俺の悪評が根強く残ってんだろ。貧困にあえいでいるのは農民であって、商人たちじゃない。奴らにとってみりゃ、俺は今の生活を脅かす魔王だ」
「兄上、そのようにご自分を卑下するものではありません」
中二な単語はスルーか、我が弟よ。
旅の始まりでは何かと小坊主の物言いを窘めていたものだが、今は聞き流すことにしたらしい。円滑な人間関係に適度なスルー力は大事だ。俺も助かる。
小坊主は俺たちを悔しそうに睨んで、焚火に視線を戻した。
「どうするんだよ、これから」
「お前が言うか? 小坊主」
「だって、このまま帰るとかありえないし。きっと信長様が来てるの、利昌様のところまで伝わってる。それに……、それに利昌様は裏切り者なんかじゃない! 悪いのは林兄弟だ」
「だから?」
「だからっ、利昌様を助けてください。父上も何とか頑張ってるけど、このままじゃダメだっていうことくらい、おれでも分かる」
お願いします、と小坊主は地面に額をこすりつけた。
俺は冷ややかにそれを見下す。猪の皮から引っこ抜いた毛を焚火に放れば、ぱっと火の粉が散った。信行はこちらを窺うように視線を向け、それから焚火に戻った。
おもむろに周囲を探り、小枝を拾い始めた。
ぱきり、ぱきりと二つに折る。信行は無表情なので、ちょっと怖い。
「なあ、利太」
顔をあげずに体を震わせただけの子供を、じっと見つめる。
利太は俺が知る子供の誰とも重ならない。滝川一族から前田家へ養子に出されたのはいくつの頃だったのか。利昌の嫡男を「父」と呼び、利家を「叔父貴」と呼ぶ。家に馴染んでいる証拠のようにも、俺に対して演技しているようにも受け取れる。
今の尾張国で最も力のある弾正忠家の当主がこの俺、織田信長だ。
そして林秀貞は俺の筆頭家老であったにもかかわらず、俺に刃を向けた。林兄弟の弟の方、通具は信行を正統なる織田家当主として担ぎあげようとしていた。林家に仕える与力であった利昌も、あの局面まで俺の味方じゃなかった。
犬千代と呼ばれていた頃から俺に従っていた利家が、命を賭けて説得したのだ。
その利家を叔父と呼びながら、矢傷を負わせたクソガキを見る。ただ、視界に入れる。
「どうにもしっくりこないんだよなあ」
「何か気になることでも?」
「お前は黙ってろ」
「あ、はい」
しょんぼりとする信行はさておき、頬杖をついて小坊主を観察した。
穴が開くほどじっくり見つめられているのに、小さく丸まった体は動かない。そのまま寝ちまったかとも思ったが、意図せずもらした溜め息に体を震わせたから意識はあるようだ。
「お前、いくつだ」
「前に言って」
「いくつだ」
「と、とお」
「十に見えないデケエ図体して、頭の中は空っぽか。俺の可愛がっている犬に傷を負わせたのは、偶然じゃねえだろうが! 言われるまま行動して、下げたくもねえ頭下げて、テメェの矜持はどこいった!? 母親の胎ん中に置いてきちまったのか!」
「母の、顔は……知りません。物心ついた時には、前田の家にいたので」
ぼそぼそと利太が答える。
勢い任せの当てずっぽうが的中し、俺は盛大に舌打ちをした。
「それにっ、前田の家には育ててもらった恩が」
「信行」
「は、はい」
まだ続くであろう言葉を断ち切って、弟を呼ぶ。
振り向かなくても、反射的に居住まいを正したのは気配で分かった。緊張で力の入った手の中で、細い枝がぱきりと折れる。その先端が焚火の中に落ちて、燃えた。
「あっ」
「拾おうとするな、馬鹿者」
「申し訳ありません!」
浮かせかけた腰を戻した信行は、そっと利太の様子を窺っている。
まるで二人分叱っている心地だ。こんなの躾にも入らないし、苛立っているのはここにいない誰かに対してだった。坊主頭に説教などと、俺も随分偉くなったらしい。
「まあ、な。荒子にも、春日井にも歓迎されてないことくらい予想済みだ」
「兄上はそれでいいのですか?!」
「よくないから、こうして出向いてきている。やっぱり舎弟どもに任せようとしなくて正解だったな。こういうのは直接目で見て、確かめた方が理解しやすい。俺はあいつらほど頭良くねえんだ」
謙遜でも何でもなく、俺は本気でそう思っている。
体格も武芸も、頭の回転力だって全く勝てない。それでも舎弟どもが離れていかないのは、俺が織田家の当主だからだ。仕えるに足りぬと判断すれば、いずれ離れていくだろう。
織田信友も斯波義統も、林兄弟も臣下に裏切られて死んだ。
俺がそうならない保証はない。何よりも歴史通りに進めていけば、そうなる運命にある。最初は五十年で死にたくないから、手当たり次第に何でもやった。今は守りたい奴がいるから、俺の死後も平穏に暮らせるように考えている。
「そういや…………ここらの民を扇動したのも、坊主だったな」
かつて師と呼んだ男が脳裏に浮かぶ。
奴が何を考えて行動した知らないが、少なくとも林兄弟に勝たせようなどと思っていなかったはずだ。死に場所を求めて蜂起した。本当に死ぬべき人間はほんの一握りで、残りは付き合わされただけにすぎない。
だから俺は荒子と春日井の民に対して、できる限りの――。
クワッと目を見開いた。
「くそったれが!!」
思わず拳を振り上げ、手頃な石を殴りつけた。
「そういうことか。そこまで計算して、奴は……っ」
「あ、兄上? どうしたのですか、一体」
信行の戸惑う声には応えず、土下座したままの子供の襟首を掴んだ。
「おい、利太。今すぐ荒子城へ案内しろ。不寝番くらいいるはずだ。歓迎されなかろうが、何だろうが構うものか。とっとと片付けて、清州に帰る!」
後のことは今まで通り、舎弟どもに任せる。
那古野村の人間を指導員に加えれば、役人との間に立って交渉もしてくれるだろう。愛する妻たちや子供にまで泣かれて、それでも俺がやらねばと思っていたのが馬鹿馬鹿しい。
どうということはない、沢彦の手の平で転がされていただけだ。
あの糞坊主は、ここら一帯の貧困に苦しむ状況を知っていたに違いない。俺に反感を持っている林兄弟が残っていては、田畑の改善など夢のまた夢だ。農業指導員育成も進めていることすら把握した上で、先の戦を誘導したと考えられる。
俺なら迅速に戦を終わらせ、被害を低く抑えられるからだ。
俺なら戦の原因に責任を感じて、長期的で確実な改善策を行おうとするからだ。
師だった男に高く評価してもらえるのは嬉しい、なんて思うわけがない。渦巻く怒りと憎悪を隠しきれないまま、利太を馬の背へ放った。すぐさま俺も飛び乗り、腹を蹴る。
「お待ちください、兄上! 火の始末がまだ」
「任せた!」
「ええっ」
几帳面な信行のことだ。置き去りにした荷物も全て拾ってくれる。
俺は腕の中で目を回している子供のことを考えた。一益は信頼できる忍だが、何でも話してくれるわけじゃない。俺が把握していない滝川一族の事情は少なからずあるし、母の顔を知らないという利太が本当に滝川一族ゆかりの者かという疑いも出てくる。
信行がざっくりと経緯を知っているくらいだ。
俺が知ろうと思えば、一益は全て語ってくれたかもしれない。利家に傷を負わせたとはいえ、失明するほどじゃなかった。戦場では無傷で生還できる方が珍しいのであって、俺はそのことを失念していた愚かさを自覚できた。
利太のちぐはぐな行動と思考が、作られたものだとするならば。
「……いや、考えるのはよそう。推測で何でも決めつけるのは俺の悪い癖だ」
フッと一人笑った俺は結局、迷子になるまで利太を起こさなかった。
荒子城の門を叩いたのは明け方近くのこと。大欠伸をしていた門兵が俺の顔を見て、人攫いの鬼が襲ってきたと騒いで大勢の兵に取り囲まれる。どうやら抱えているのは若様だ、慶次郎様だと誰かが叫び、俺に向かって一斉に槍が突き立てられた。
作者の「前田慶次」像は一般的に広まっているものと大差ありません。
しかしながら婚儀と同時期に前田家の養子として迎え入れられたのなら、天下御免の傾奇者としての風格はどこで育まれたんだろうと思いまして……独自解釈とねつ造を含んだ設定を組み込んでおります。素直な少年時代もあったんだよ、と言いたかっただけです。
それと。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、ノブナガの坊主嫌いは主に師匠のせいです。しかしながら、二人の因縁はまだまだ続きます。