91. 利太再び
当然といっちゃあ当然だが、顔の腫れは全然引かなかった。
この時代に氷がぽんと出てくるわけもない。ものすごく申し訳なさそうな顔で世話してくれる帰蝶と、やけに上機嫌な俺の様子で大体察したようだ。やっぱり変態だとか呟いていた某反抗期の舎弟には、追加任務を与えておく。
ははは、涙を流して喜んでいたぞ。
真面目な話に戻すと、この顔は織田家の看板である。
地道な努力が実を結んで、清州城下でも俺の顔を知る民は増えつつあった。そこへ赤提灯みたいな面構えで登場したならば、あることないこと尾ひれはひれ付いた噂が広まりまくる。
せっかくの良い評判が台無しになるかもしれない。
出立は一日延びて、もう一晩だけ帰蝶を抱きしめて寝た。
あえて言おう、何もしなかった。俺自身と息子はご立腹だったが、可愛い嫁のお願いを聞いてやるのも夫の務めだ。後から二人ほど増えたことも追記しておく。
いやあ、モテる男はツライぜ!
なんて冗談めかして笑ってみたが、彼女たちにも複雑な事情はある。頼れる者は俺だけしかいないのだから、少しでも安心したいのかもしれない。いつもニコニコと見送る奇妙丸も、何故か朝早く起きだしてきて俺から離れなかった。
「戦に向かう時だって泣かなかったくせに、どうしたんだ?」
べっちょりとついた鼻水を拭いてもらいながら、首を傾げる。
「若君なりに、何か感じるものがあるのではないでしょうか」
「止めろ。妙なフラグを立てようとすんじゃねえ」
「は。申し訳ありません」
びしっと居住まいを正した橋介が、また着物を拭く作業に戻った。
嫁が勢揃いしての朝餉は珍しいから、単純に落ち着かないだけだろう。乳母があやそうにも全く聞き入れず、帰蝶よりも俺がいいとくっつき虫になっている奇妙丸。少しずつ言葉を覚え始め、片言程度なら喋れるくせに何も言わない。
昨日の俺みたいなふくれっ面で、必死に腕へしがみついている。
「ふむ」
俺も幼い頃、こんな時期があったんだろうか。
何となく恒興を見やれば、静かに首を振られてしまった。親の愛情を受けずに育った幼少期は、どんなものだったのだろう。落馬した衝撃で前世の記憶が溢れだしたのは十も過ぎた頃だ。それ以前のことは全く覚えていない。
そうでなくても、人間というのは成長するにつれて忘れていく生き物だ。
奇妙丸が元服したら、鼻水垂らしてくっつき虫になっていた逸話を話してやろう。それくらい大きくなれば、父の額をペチペチしていた理由も明確な言葉にできるかもしれない。
おもむろに扇子を取り出し、子供の小さな額を打つ。
「ぎゃっ」
「お前も男だろ。いつまでもメソメソすんじゃねえ」
すぐ泣き出すかと思ったが、意外にも奇妙丸は泣かなかった。
うるうると濡れた瞳が俺を見つめている。女たちが動こうとするのを片手で制し、俺は勢いよく腕を振った。奇妙丸が空を飛び、乳母がキャッチする。
裾を払って、立ち上がった。
「出る。支度せよ」
「はっ」
恒興と小姓たちが慌ただしく出ていく。
「お濃」
「お任せくださいませ」
「ああ」
廊下の向こうで、怪獣が吠えていた。
後ろ髪が引かれないと言えば、嘘になる。部屋を出る直前、何か言おうとした奈江が帰蝶に止められていた。吉乃も奈江に縋りつきながら、こちらを見て気丈に笑った。
何のことはない。尾張国の一地方へ向かうだけだ。
戦に出向くどころか、お忍びの視察である。まるで死地に向かうような見送り方をしないでほしい。奇妙丸だって、父に遊んでもらいたかっただけだろう。さっさと片付けて、土産の玩具でご機嫌取りをしなければならない。
馬が待つ門へ向かえば、旅装束に身を包んだ信行が待っていた。
「兄上」
「おう、間に合ったか」
「一日延びたので、気がかりを一つ片付けてまいりました」
マザコンめ。
内心で毒吐きつつ、俺は馬上の人になった。
信行にとって「気がかり」は一つしかない。俺にとっても生母になる土田御前だが、肉親の情は欠片も持っていない。それこそ幼い頃の記憶がなくてよかった。無駄な期待も、失望もしなくて済む。先代の妻だから何もしていないだけだ。監視役が目を光らせているのも、俺の指示じゃない。
ただし、情報は一益を通じて俺に集められる。
「還俗しろって煩いらしいな」
「しません。兄上よりも読経が上手くなるまでは」
「なんだそりゃ」
妙な対抗心を抱くものだ。
母譲りの切れ長の瞳が、こちらを真っすぐに見つめてくる。嘘や冗談を好まない性質だから、本心本音から言っているのだ。俺が死んだら、信行にお経をあげてもらうのも悪くない。
帰蝶に殺されかけたせいか、そんなことを思った。
「兄上、あれを」
急ぐ旅でもないが、日が落ちるまでには宿に着いていたい。
そんな気持ちで馬をぽくぽく歩かせていると、同じように馬に揺られていた信行が前方を指し示す。そこには生きた道祖神、もとい寺の小坊主が立ち尽くしていた。
「見覚えのある顔だな」
「そうですね」
青々とした頭は剃ったばかりと分かる。
道の向こうを睨みつけ、どれくらいの時間待っていたのだろうか。真新しい僧衣をきちんと着こなしている辺り、少年の覚悟のほどが見えてくる。そんな姿を馬上から眺めつつ、俺たちは素通りした。
「ちょっと待てええぇ!!」
「チッ」
やっぱり気付きやがった。
馬の腹を軽く蹴れば、心得たとばかりに駆け足になる。信行も慌てて馬を急かしたが、もっと慌てたのは小坊主の方だ。思いつく限りの罵声を吐き散らかしながら、それでも必死に追いかけてくる。
「根性はあるか」
「さすがに、意地が悪いかと……」
「じゃあ、お前が拾ってこいよ」
「嫌です」
「いい性格してんな」
「大うつけの弟ですから」
人間、開き直ってしまえば性格も大いに変わるらしい。
春日井行にどうしてもついてくると言い出した時には、道中をどうやって過ごすか頭を悩ませたものだ。どこか信包を連想させるのは、あれも同母弟だからだろう。
「そういえば、兄上はご存知でしたか?」
「何がだ」
「あの者、前田を名乗っておりましたが血は繋がっておりませぬ。前田利昌の子、利久の養子として迎え入れられたようです。利久に子がいないためということですが、正室は滝川一族の者です。そして前田利昌は、秀貞の与力で」
「一益を疑ってんのか。……馬鹿馬鹿しい」
「兄上に従わない者たちを迎合し、反勢力としてまとめ上げた時期と重なります。利久はまだ若く、側室も迎えていないことからして」
「そうやって、お前は俺に対する反感を吹き込まれたんだ。同じことを俺にやろうとしている自覚はあんのか? ないのなら、今すぐ帰れ。邪魔だ」
信行の傷ついた顔は、見なかったことにした。
どうにも今までの分を取り戻そうと焦っているらしい。俺は全く気にしないのに。
情報は金よりも価値があるものだ。
そして鮮度と正確さが命である。質を見極めるには経験が必要で、鮮度を落とさないためには直感力も大事だ。信行にはその両方が欠けている。真面目で素直な性格は長所であり短所でもあると教えたはずだが、その辺はなかなか治らない。
情報収集能力では、一益や帰蝶に大きく後れを取っている。
たかが半年、半月程度で備わるものじゃない。
そして一益は俺が見つけた俺だけの忍だ。あいつを信じられなくなったら、俺は誰のことも守れなくなる。一益がいなかったら、俺はこの世にいない。
「信長様!! 置いてくなんて酷いですよ!」
馬が戻ってきたと思ったら、騎手が変わっていた。
「……アレを拾ってこい。話はそれからだ」
「承知っ」
命を受け、小坊主の目が輝く。
さっと馬首を返す手綱さばきは、かなり手慣れていた。人馬一体の動きは、騎馬隊にとって必要な才能だ。ゆえに利家は、馬との相性をとても重要視する。
滝川の血を引き、前田の馬術を備える子供か。
「今から育ててやれば、騎馬隊の一つも任せてやれるかもな」
「ホントか!?」
独り言に反応されて、ギョッとして振り返る。もう追いついてきた。
小坊主の後ろに、葉っぱまみれの信行がいる。縄でぐるぐる巻きの理由は問うまい。
「貴様、その言葉遣いは何だっ。それと、この馬はわたしが借り受けたのだぞ。手綱を返せ」
「やなこった。アンタよりも、俺の方が上手いってコイツも言ってる」
「訳の分からないことを」
「馬だって生きてる。ただの道具みたいに扱われて、気分がいいわけないだろ」
「まあ、そうだな」
「さすが信長様! 分かってくれると思ってました」
「だが、正しいことを言っているからと威張るのは格好悪いぞ」
「おれは威張ってなんかないっ」
「キャンキャン喚くなガキ。ただ堂々としてりゃあいいんだよ。周りがどう言おうが、俺は間違ってないって胸張ってろ。片っ端から噛みつくのは、理性のない獣と同じだ」
物事の正解不正解なんざ、他人の基準で勝手に決められる。
思い込み次第で見えているものが違ってくることもある。正義は人の数だけあるし、悪いことを全て罰するべきだとも思わない。この世界は必死に生きていく奴らにとって理不尽で、無慈悲で、一方的だ。何かに縋らないと生きていけない。
その最たるものが思想であり、宗教である。
仏の教えが間違っているとは思わないが、仏法僧は嫌いだ。
そんな俺が坊主頭の供連れで旅をするのだから笑える。一人は戒めのために、一人は言われるままに頭を丸め、俺の後をついてくる。
「そういえば、小坊主」
「利太って名乗りました!」
「どう見ても寺の小坊主だろうが。それとも坊主っぽい名前に変えるか?」
「の、信長様がそうしろって言うのなら……」
「私も兄上に決めていただきたいと思います」
「面倒だからそのままで」
だったら聞くな、と小坊主の目が訴えている。
「おい、小坊主」
「利太」
「分かった分かった、小坊主。お前、いくつだ?」
「とお」
普通に驚いた。見た目からして十五、六だと思っていた。
なかなか成長しなかった俺と違い、随分と成長が早いようだ。羨ましい限りである。それなら早い段階で馬術を習っていてもおかしくない。武家の子は皆、馬術と剣術は一通り習うのが通例だ。
「おれは、ガキじゃない」
「あ?」
「もっと身分の低い子供は、とっくに家の仕事をしている年頃だ。武家の養子になったからって、血が繋がっていないからって、何もできないわけじゃない! おれだって、色々考えてるんだっ」
「たとえば、どんなことですか?」
珍しく信行が話を促した。
興味を持ってもらえたのが嬉しいらしく、小坊主は頬を紅潮させて言う。
「信長様みたいに強くなって、悪い奴らをやっつける」
「………………」
「………………」
「利家叔父貴だって、いつも信長様はすごい。あんなに強くて、立派な人はいねえって何度も言ってた。おれもそんな風に言われてみたい」
なるほど、元凶はあの馬鹿犬か。
俺のことを美化したイメージで語り倒した挙句、可愛がっていた甥に矢を射られたわけだ。既に罰を受けているようなものだから、これ以上何か言う必要はない。十歳なら、先の戦が初陣だったのだろう。
無鉄砲というか、考えなしというか。
子供の思考回路はつくづくよく分からん。一児の父親になった今でも、変わらず未知の領域だ。利太の言っていることは、将来はヒーローになりたいと言っているも同然だった。
歴史上の織田信長は三英傑の一人として数えられるが、俺は違う。
尾張一国も統治下に収められない弱小武家の一つだ。
「兄上」
「そろそろ日が暮れる。馬を預けられる宿が埋まらないうちに急ぐぞ」
「え? 信長様が泊まると言えば、どこでも入り放題なんじゃ――…うわっ」
「舌を噛みたくなければ、黙っていなさい」
「おい、信行。縄どうした!」
「信広殿に倣い、抜け技は一番に覚えました」
「返せよっ。おれの方が上手くやれる!」
小石を蹴飛ばして、二頭の馬が駆ける。
ここも清州那古野ラインのように整備しなければ。そう思いながら、俺はひたすらに砂利道の先を睨みつけたのだった。
利太(後の前田利益)が養子に迎え入れられる詳しい経緯は、そのうち語ることになると思います。
念のための言い訳。
この時代はひょいひょい還俗していたので、丸坊主くらい問題ないよ~という認識はしておりません。信行は周囲にも翻意がなく、ノブナガに従う意を示すために剃りました。一応、仏僧としての名前もあります(名乗りたくないだけ)
利太は利家に大反対された挙句、可愛がってくれている姐さんにお願いして剃ってもらいました。彼女の弟用に準備していたものを譲り受けただけで、寺の小坊主さんではありません。当時の10歳はそれなりに分別もついていておかしくないのですが、環境にもよるだろうという判断で若干幼くしています(当社比)