89. 釣った魚に餌はやらぬ
ただし例外もある
城へ戻ると、信包が出迎えてくれた。
春日井へ向かうと告げた途端についていくと言い張ったが、城主代理を頼めるのは身内しかいないという説得に渋々頷いてくれた。留守居役の勝介や貞勝もいる。城主としての経験を積むにはいい機会だ。
「私は、兄上の一番近くで役に立ちたいのです」
「十分すぎるほど役に立っているぞ」
「もっとです」
真っすぐな眼差しに、ちょっと心が痛む。
さっさと隠居したいがために、奇妙丸の補佐をできる者と安定した国政を行える人材育成しか考えていない。最近はちょっと家臣たちへ過重労働させているので、俺に対する不満が溜まっていないか心配なのだ。
明智光秀が謀反を起こさなくても、他の奴が謀反を起こしたら意味がない。
第二、第三の林兄弟が出てくるのは勘弁してほしい。
そこまで考えてから、フッと笑った。
「この俺と同等、それに近いくらいの実績と器の大きさがなければ無理だな」
何が無理とか言わない。一番近くにいるのは帰蝶だけでいいとか思っても言わない。
あと信行がすごーく物言いたげな目を向けてくるが気にしない。
「分かりました。留守はお任せください! 今以上に発展させてみせます。死に絶えた村を復興させたことに比べれば、大したことではないですよね」
「お、おう」
那古野村、死に絶えてないし。いや、ちょっとヤバかったな。
村が町になって、市くらいの規模になったのも俺の功績ではない。
たまたま川が近くて、本来は肥沃な土地だったからだ。しっかり土を混ぜて、肥料を与えれば、ある程度の収穫量は確保できる。戦で男手が失われ、まともな農機具がなかったのも大きな原因の一つだろう。
おそらく春日井方面には、そういった農機具が広まっていない。
俺を嫌っていた林兄弟が導入しているとは考えにくい。政治に私情を挟むなんてナンセンスだが、そういったことが普通に起きているのが今の時代である。いや、現代でもなくはない問題か。時間軸は未来なのに、もう遠い昔のように思える。
旅支度をする信行と別れ、門兵には利太という青年が来たら通すように指示する。
信包は早速、勝介に色々相談しに行くようだ。
「おい、帰蝶たちを集めてくれ。話がある」
「はっ」
脱いだばかりの草履を抱えた少年がどこぞへ走っていく。
秀吉はついこの間まで、あんな感じだった。時が経つのは早いものだ。田んぼで何やら発見したとかで、上下水道の問題が一気に解決したという報告を受けた。まさか分解酵素かバクテリアでも見つけたのだろうか。
衛生面がよくなれば、生卵を食すことも夢ではない。
「卵かけご飯食いたいなあ」
無性に懐かしい現代の食事。
十年以上も経てば、さすがにこの時代の衣食住にも慣れてくる。ないものはないし、あるものはある。家電の類はどうしようもない部類の筆頭だ。早々に諦めた。
だが食べ物だけは別だ。
江戸時代と違って、外国との貿易は普通に行われている。問題なのは様々な雑学知識が坊主どもの独占状態という点である。だから坊主を参謀に据えたり、相談役として招いたりするのだ。そして礼金やら何やら与えて、坊主が肥えていく。
清貧どこいった。
沢彦のこともあって、俺は坊主に対する印象がすこぶる悪い。
それに長島のことを考えても、一向宗がろくな集団でないことは明白だ。思想を操作するには、宗教を使うのが一番早い。頭がいい奴を馬鹿にする人間はいないわけで、識字率の低さは意図して作られたものだと考える。
「かといって、これ以上寺子屋増やすのは無理だな。人材が育つ前に、金が尽きる」
今、寺子屋に通わせているのは満年齢で五歳以上の子供たちだ。
それ以下だと労働力にならない。義務教育の期間は全く働かなくていい現代日本は、どれだけ高度な文明を確立しているのかがよーく分かった。俺には真似できないし、真似しようとも思わない。読み書きと計算をやらせるだけでも、不平不満をもらす家臣が少なくないのだ。
口減らしで殺される運命の子供が中心、というのも気に入らないらしい。
貧乏暇なしというが、貧乏でも暇すぎて子作りしかやることがない民もいる。乳児の死亡率も高いので、五人生まれても五人とも成人するとは限らないのだ。そういう事情もあって子作り支援も制限もできない。
せっかく小学生くらいまで成長しても、賄いきれなければ捨てられる。
そういう子供たちをどうにかしたいと思う。
「無駄金遣いとかぬかしやがって」
自己満足の産物だが、慈善事業ではないのだ。
那古野村出身の子供たちは、様々な分野で働いている。
身分制度が浸透している世界ではやりづらいことも多いのだが、那古野村出身というだけでステータスになるようだ。彼らに手出しすれば、俺が黙っていないと思われている。
まあ、間違っちゃいない。
同じ釜の飯を食った仲間を無視できるほど、俺は冷たくない。
「あなた」
涼やかな声に、意識が現実へ戻ってくる。
ぶつぶつと呟いていた独り言が聞こえていたのか、帰蝶の表情は明るくない。どこか気遣わし気な色を見てとり、俺は笑って手を広げた。
「悪いな、呼びつけて」
「そういうところは変わらないわね。吉乃、奈江も入っていらっしゃい」
「はい、濃姫様」
「失礼します」
最近、少しずつ暑くなってきたので彼女たちも薄着だ。
着物越しでも分かる体型の違いに、ニマニマしてしまう。それぞれに良さがあるわけで、彼女たちを観賞する余裕が出てきたのは側室効果かもしれない。帰蝶だけだった頃は、どうしても執着心が先に立っていた。
「いて、いててて」
頬を抓られている。
「話が、あるのでしょう?」
「ふゃい、ほめんらはい」
「男って本当……」
「かわいいですよね」
ほんわか微笑む吉乃に、奈江がぐっと詰まった。
別の台詞を言おうとしていたのに、先を取られた形になってしまった。帰蝶も毒気を抜かれたのか、抓るのに満足したのか。やっと頬を解放してくれた。
じんじんする。
「お濃の愛が痛い」
「帰っていい?」
そう言ったのは奈江で、吉乃に「めっ」をされていた。
姉妹のようなじゃれ合いも見ていて和むが、帰蝶に抓られるのは困る。話が進まない。
「遅くなったが、……陣羽織の礼だ」
懐から布の包みを出す。
少し離れた場所に座る二人にも見えるように、広げたものを前へ押し出した。合わせて十本の小刀が並ぶ。きらりと光る先端は鋭く研ぎ澄まされていて、持ち手には一つずつ異なる意匠が施されている。
「わあ、きれいですね!」
「蝶はお濃。馬は吉乃で、虎が奈江」
「なんで、あたしが虎なのよ!?」
素直に受け取った二人の後で、奈江が憤慨する。
「猫を指名したら虎になったんだよ。不可抗力とはいえ、嫌なら返品」
「し、しないっ」
慌てて胸に抱きしめると谷間がえらいことになるのだが、本人は気付いていない。
にへらと笑み崩れた拍子に、今度は太腿を抓られた。思わず叫びそうになるのを寸でで堪えたが、抓った犯人は涼しい顔である。もしかして嫉妬かと考え、懸命にも声に出すのは控えた。
「花の柄もあるんですね。これも決まっているんですか?」
「いや、好きなのを二つ選んでいい。残った一本は俺が持つ」
「なんなら、あたしが二本でもいいけど」
「三本ずつ持つのが重要なんだよ。護身用だからな」
帰蝶が意図に気付いたので、俺は頷いた。
「鞘が欲しい場合は、また別に作らせるが……。俺はいつでも傍にいて、お前たちを守ってやることはできない。出陣する時以外にも、城を空けることは多くなる。武器を持たない方がいいこともある。だが、この小刀たちにはちゃんと意味があるんだ。それを今から説明してやろう」
帰蝶たちを近くへ寄せ、小声で話し始める。
これは符号だ。
なりゆきで三人も嫁を持つことになったが、これ以上増やす気はない。俺が守りきれないからだ。たった三十年ほどで、天下統一の一歩手前まで上り詰めた男は敵が多かったに違いない。他国にも優秀な忍も当然ながら存在していて、城攻めの方法はいくらでもある。
「俺は二日後に、春日井へ向かう」
「……大丈夫なの?」
「しばらく戻ってこれんだろうな。状況はあまり良くないらしい」
「そんなの家臣に任せればいいじゃない。なんで、あんたが」
「奈江」
「濃姫様はおかしいと思わないんですか。女子供まで働かせて自分だけ楽をしているのかと思えば、一番忙しくしているのがこの人って」
「だから、殿様のことを皆が大好きなんですよ。奈江ちゃんも、本当は分かっているんですよね。止めても無駄だってこと」
「で、でも、だって」
「一人で行くわけじゃないんだから、そう心配するな。やることは変わらんしな」
「あなた、武衛様にもお会いしてちょうだい。今、津島神社にいらっしゃると聞いたわ」
「ふむ。入れ違いにならなきゃ会えるな」
そっちの問題もあったか、と俺は表情を引き締める。
奈江は気付いていないようだが、斯波氏と服部党との関わりは裏付けが取れてしまった。義銀様ご自身の意思によるものかどうかは考えたくない、というのが本音だ。足元ばかりを気にして、周囲への注意が甘かった。
「べ、別に! 心配している訳じゃないんだから。この城は思ったよりも居心地がいいから、あんたにいなくなられると困るっていうだけで」
「一か月もかからんぞ?」
「一月ぃ!?」
ツンデレっぽいことを言い出した奈江が、今度は虎化する。
うーん、信用があるんだかないんだか分からん。ふと女特有のアレかと思って呟いた途端に激しくなったので、この話題は封印しておこうと思った。
嫁たちに与えたのは武士が帯びる大小の小刀ではなく、打刀の柄に装着できるサイズの小刀のこと。
太腿に装着して、ダーツ投げさせたいんだ…。
追記:ご指摘ありましたので、以降は「小柄」と表現することにします。