84. 稲生の戦い(後)
はっきり言おう。出陣しただけで終わった。
俺たちが姿を見せた途端、柴田軍がぐるっと方向転換したのだ。驚いたのは林軍で、友軍が猛然と突っ込んでくるのを無防備に受ける。次いで林軍の中でも混乱が生じた。
前田利昌率いる荒子衆が反旗を翻したのだ。
それらの報告を、本陣の奥でゆったりと腰かけながら聞いた。
「犬め、褒美をやらねばな」
「あはは、骨付き肉ですか?」
「三十郎兄上……」
「私は骨だけで十分だと思います」
「恒興、お前もか」
可哀想に長益の顔が凍りついているだろ。
なんとなく信純の姿を探したが、幸いにして別のところで指揮を取っているようだ。久しぶりの万に満たない小競り合いである。しかも清州攻め以来の身内同士の戦いだ。
先の戦で手痛い敗北を味わったというのもある。
士気が上がりにくい不安は、猛将たちの勇ましい鼓舞で消えた。
兵が集まらなかった分、本来は後方にいるはずの長秀たちが自ら前線へ突っ込んでいるのだ。又助も自慢の弓を持っていったし、橋介も出陣直後から姿が見えない。信盛以下、佐久間一族の奮戦もさることながら、森可成の鬼気迫る戦いぶりも伝令が興奮気味に語る。
音に聞こえた柴田軍との対決を夢見ていた奴らにとって、林軍は八つ当たり対象だ。
前田利昌の離反も影響している。
長康が言っていたように、尾張国内では俺の悪い噂も少しずつ良い噂に変わりつつあるのだ。どんなことがあっても一律変わらず年貢を取り立てる領主よりも、こまめに民の様子を観察して困った時には助けてやる領主の方がいい。那古野村は今も移入希望者が増え、もう村と呼べない規模になりつつある。
常識破りでも、受け入れられた方の勝ちだ。
「荒子衆か。利家の親父さん、まだ生きてんだなあ」
しみじみとそんなことを呟く。
あの忠犬の親だ。一度会ってみたい。傾奇者の代名詞である前田慶次も前田姓だから、消息が分かるかもしれない。性格はともかく、武勇に関しては大いに期待できる。性格はともかく。
俺はもう勝った気分でいた。
のほほんと物思いに耽るくらいには、心に余裕があった。信行のことに不安の種がなくなったとは言えないが、悪夢の通りに時代が進むのなら戦で死ぬことはない。
ただし、林兄弟は約束通り死んでもらう。
「三郎殿!」
血相を変えて、信純が駆け込んでくる。
優男風の見てくれに反して、あちこち返り血を浴びていた。長秀たちの勢いに煽られて、信純まで刀を抜いて戦っていたようだ。一言からかってやろうと思っていた俺は、続いて現れた血まみれの男を見て青ざめた。
「どうした!?」
「へへ、褒めてくださいよ。槍の又左、ちゃんと……首級上げる働きをしたっす」
顔の右半分が真っ赤だった。それで笑っているのだから普通に怖い。
成政に肩を借りるというよりも、ほとんど引きずられている状態だ。今にもガクリと足が折れそうな弱々しさに、俺まで足が震えてきた。
「衛生兵! じゃねえや、救護の者を呼んで来い!!」
「は、はいっ」
「兄上、僕にやらせてください。血止めくらいはできます」
「源五郎なら大丈夫です」
俺の視線を受けて、信包が力強く頷く。
いつの間にか、長益は大量の布やら何やらを用意していた。俺が物思いに耽っている間に、弟たちはちゃんとやるべきことをやっていたようだ。勝利が約束されている戦でも、怪我人がゼロと決まっていない。死ぬ者もいる。
吉乃の慟哭が蘇って、俺はぐっと目を閉じた。
「頼む」
「はいっ」
利家は敷物の上に寝かされ、陣幕を出入りする者たちが一気に増える。
土埃が立つので甕の水を撒いていたら、信包も手伝ってくれた。傷を洗う水までなくなったと長益には怒られたが、土埃は寝ている人間に毒だ。
安心したらしい犬っころは、完全に意識を失っている。
信純と成政はまた戦場へ戻ったが、新たな報告は届いていない。俺が求めているのは林兄弟の死だ。あれほど温情をかけておいて矛盾しているかもしれない。だが奴らにとっても、死は救いになるだろう。
嫌っていた男に二度と対面せずに済むのだから。
「よかった。眼球は傷ついていないようです」
「そうか」
長益の報告に相槌を打つ。
右目の下を射られたらしく、出血が多かったのは乱暴に引き抜いたせいだという。命は取り留めても、矢傷は残る。荒子衆の反旗を促せと無理矢理前田家に戻さなければ、利家はこの傷を負わずに済んだのだろうか。
「綺麗な顔に、傷なんざ付けやがって…………それ、信房の酒か? 貸せ」
「えっ、あ」
ちゃぷんと鳴った徳利の口から、強い酒精が香る。
今回参戦した武将の中に、織田信房という男がいる。一門衆に数えられるが、いつも隅っこにいて目立たない奴の唯一といえる特技が酒造りだ。俺はその才能に敬意を表して、造酒丞と呼んでいる。
口に含めば、濃い味が広がる。喉を焼く熱さがたまらない。
まともな酒が呑みたければ、自分で造ればいいのだ。商人たちの取引問題もあるから匙加減に気を遣うとはいえ、美味い酒は心を豊かにする。
「造酒丞の酒だぞ。とりあえずの褒美だ。喜べ」
「ああっ」
長益の悲鳴など聞こえない。
とくとくっ、と血をぬぐったばかりの顔に大盤振る舞いしてやった。無意識か、馬鹿犬が口を開けたので溢れるくらいに注いでやった。びくんびくんと跳ねるくらい喜んでいる。
空っぽになった徳利を見やり、俺は満足して頷いた。
「うむ」
「兄上、さすがにこれは酷いですよ!」
「大丈夫だって。酒盛りの度に一斗は余裕で呑むんだから平気、平気。ほら、顔が赤いうちはまだまだ……」
だんだん青くなってきた。いや、青黒い。
じろりと俺を睨む長益、そっと目をそらす俺。
急性アルコール中毒というフレーズが脳裏に浮かんだが、この時代にアルコールという概念はおろか、横文字の外来語なんか存在しない。俺がついつい使っているのを成政が真似するようになったくらいで――。
「そんなことより、吐けー!!」
「すみません、水を持ってきてください。たくさんです。いくつあっても足りませんから、どんどん持ってきてくださいっ。ここが水浸しになるくらい必要なんです!」
俺と長益の叫び声が本陣に木霊した。
少なくない犠牲を払って、戦には勝った。
当初の戦力差による劣勢から一気に逆転し、林軍を包囲するくらいの余裕があったにも関わらず戦死者が出てしまった。敵味方問わず、丁重に葬るように徹底する。
天幕の中には、林兄弟の遺骸があった。
林弟、美作守通具の首はない。秀貞が切り落としたのだ。戦場で死ねと言ったのに、こいつらは切腹する道を選んだ。どこまでも俺に従わず、徹底した態度を貫いた。
「クソジジイ」
分かりやすかった美作守と違って、秀貞の真意は分からずじまいだ。
疑惑の種を含んだ荒子衆を置いてくることだってできたのに、馬鹿正直に連れてきたから離反者が続出するハメになった。それとも投降してきた兵の命はとらない主義を見抜いて、わざとそうしたのか。
俺は頭を振り、考えるのを止めた。
一人で悩んで考えて、苦しんでも結果は変わらない。俺には頼れる仲間も、愛する家族も、慕ってくれる民もいる。守りたいなら、守られる覚悟も必要なのだ。
そう、思う。
「三郎兄上」
ぽっちゃり体型の長利が入ってきた。
眠たげな顔は相変わらずで、無造作に振った手の合図でもう一人現れる。後ろ手に縛られ、ふらふらと覚束ない足取りに目を細めた。
「連れてきた」
「ご苦労。好きなやつを食っていいぞ」
「楽しみ」
にっと笑い、弟の姿がかき消える。
一益のそれを思わせる忍の技はいつの間に覚えたのやら。食っちゃ寝を繰り返してメタボ一歩手前の見た目からは、到底想像もできない身軽さだ。
というか、信行の捕縛は秀吉たちに命じたはず。
信包の意味深な台詞はこれだったかと今頃気付いた。馬廻衆の精鋭を連れて行って無駄足を踏ませたと思えば申し訳なくもあるが、無傷で捕らえたことには感謝しなければならない。
具足が土を抉る音がした。
信行が遺骸に気付いたようだ。膝立ちになって、呆然とそれを見つめている。とりあえず藁を敷いた上に寝かせ、申し訳程度の布を被せていた。無残な姿は見えなくとも、なんとなく分かってしまうのだろう。
「兄上が殺したのですか」
感情のこもらない声に、俺は口を歪めた。
直接手をかけたわけではないが、間接的には同じことだ。俺が嫡男として生まれなければ、俺がうつけとして振舞わなければ、また違った結末があったかもしれない。
「…………私に関わらなければ、死ぬこともなかったろうに」
似たようなことを考えていたのが可笑しくて、俺は表情に迷う。
「血の繋がった兄弟だから、思考も似るのか」
「弟だと、思ってくださるのですか。まだ、私を」
「独り言に反応するなよ。恥ずかしいだろ」
「あ、その……申し訳ありません」
ぎこちない謝罪を述べた信行が項垂れて、会話も途切れた。
あー、どうしたもんかな。
がりがりと首の後ろを掻いた。
戦の目的は達成されたが、信行とは事前に詳細な打ち合わせをしていたわけではない。なんとなく信行が味方になってくれるような気がして、それとなく日和見な奴らを煽り、できるだけ犠牲が少なくなるように小細工しただけだ。
特に美濃国へ亡命されるのは絶対阻止したかった。
義龍に尾張国を攻める口実を与えたくない。舅殿、道三のことで因縁ある関係になってしまったが、帰蝶の実兄には変わりないのだ。
家族で殺し合ってどうする? 身内は守るべきものだろうが。
「信行」
「……っい、はい」
「死ぬことは許さんぞ。この先、どれだけ苦しくても死を選ぶんじゃねえ。こいつらと同格になることは、絶対に俺が認めん。勝手に死を選びやがったら、その時点で兄弟の縁を切る」
「あ、にうえ。…………はい、必ず」
信行が深く頷いたのを見ることなく、俺は本陣を後にする。
全ては思い通りに運んで、想定した結果を得ることができたのに少しも達成感がない。嫁たちの思いがこもった陣羽織に触れると、無性に癒しが欲しくなった。
意固地になっていた、のかもしれない。
守りたい人間は両手で余るほどに増えている。どんなに頑張ったって、この指の隙間から零れ落ちていくのだろう。政秀の死を思う度に、師と仰いだ男の面影が浮かんでくる。
「まさか、な」
ゆるく首を振って、その可能性を追い出す。
林兄弟の遺骸は晒した。
土に埋めず、燃やすこともせず、腐肉を鳥獣に喰わせる。見せしめではない。民衆が見物に行けるような場所には晒さなかった。文字通りの野晒しである。
大量の烏が空の一部を埋め尽くす。
数日経って、遺骸が消えたという報告を受けた。骨も残らなかったようだ。林兄弟を悼む何者かが持ち去ったのかもしれない。探すかという問いには「否」を告げた。
この仕打ちを恨んで仇討ちを望む者がいても、かまわない。
その時はその時だ。
織田信房:史料に残る信長の息子とは別人で、織田一族でもない。信秀の代から仕えている古参の武将。本作では趣味で酒を造っていたのがバレて、ノブナガに接収された後は「造酒丞」と呼ばれている。
酒の試作品を次々と要求され、酒造りが本職になりつつある。
以下補足。
馬廻衆の精鋭を借りた秀吉は、暇そうな蜂須賀を連れて敵本陣急襲を決行。同じことを考えていた信包がこっそり長利を派遣していて、大勢が決する前に制圧成功。
進退窮まった林兄弟は自決したため、遺骸を持ち帰った次第。
彼らの死を目の当たりにした信行は大きな衝撃を受け、かなり落ち込んでいる。