83. 稲生の戦い(前)
今回もろくに戦闘描写はありません…
弘治2年夏。
清州城に火急の知らせが舞い込んでくる。
「ぬわにぃ!? 信行が兵を起こしただとお?」
待ちに待った朗報、もとい寝耳に水の話である。
愛用の肘置き蹴っ飛ばして、俺は大音量で叫んだ。小姓の一人が慌てて元の位置に戻しているが、そんなことは知ったことではない。そして驚いているのは俺だけだった。
「……信長様、大げさすぎて滑稽です」
「内蔵助に続いて、恒興まで反抗期」
「拗ねたフリをしている場合ではありませんよ、三郎殿。被害は最小限に、出費もできる限り抑えて、短期決戦で雌雄を決めましょう」
にこやかに信純が取り成せば、貞勝が狐目をより細める。
「物資の調達は滞りなく済んでおります」
「殿、馬廻衆は如何いたしましょう? 成政、利家ともに未だ戻っておりませぬ」
「そこはぬかりないから安心しろ、五郎左。そうだな、猿」
「わしにお任せあれっ」
「佐久間一族も今回は皆揃ってござる。これも殿のことを信じていればこそ」
俺は胡乱な目になった。
堂々としている信盛の傍らで、俺たちよりも年上である盛重・盛次が肩身狭そうにしている。下剋上だの親殺しだのが当たり前に起きている時代で、一族の者を主君のために犠牲を強いるやり方は珍しくもないのだろう。
だが俺は嫌いだ。
信盛だって最終手段くらいに考えていたとしても、尻拭いさせたいとは思わない。親父殿の死から6年、俺たち兄弟の不仲が織田家不統一に影響していた時間はもっと長い。
家臣団の中には、ようやくかという思いもあるだろう。
臣従の誓いを契っておきながら、信行派についたと思われる者もいる。ちなみに、利家がいないのはそういうわけだ。荒子衆は春日井郡に強い影響力を持つ林家の与力である。
蜂須賀も最近になって正式に、秀吉の与力へ加えられたようだ。
人事は主君の役目? そんなの知ったことか。俺は忙しいの。
文武ともに中途半端な俺が色々考えるよりも、それぞれに秀でた有能武将たちの方がいい結果を出せるというものだ。丸投げ上等。俺はこれ以上、胃痛を増やしたくない(本音)。
「又六郎、織田家に連なる人間も何人かあっちについたようだな」
「非常に残念なことですが、信次殿の流言に惑わされた可能性も否定できませんね。それから信光殿のお子たちが信行方についたことも影響しているかと」
「ふむ」
ニヤニヤが止まらない。
すぐさま軍議の場が整えられた。
あちらの挙兵を待っていたので時間がない。間に合わなかった奴らは置いていくとして、俺たちは手筈通りに動くだけだ。
その中で気になる噂を聞いた。
「……民の扇動?」
「とある高僧が信行様の味方をすると宣言し、かの僧を慕う者たちが共に戦う意思を表明したとのことです」
「それはまことか、恒興!」
俄かに信じられぬと長秀が怒鳴れば、心外だとばかりに恒興が言い返す。
「私にも伝手はあるのだ。僧の名は分からないが、確かな情報と断言するっ」
「むむう」
「民には手を出すな」
「しかし、信長様!」
「勝てば官軍負ければ賊軍というが、たとえ戦であっても民を殺せば悪評がついてまわる。ジジイどもめ、ただで死ぬつもりはなさそうだな」
思い当たる節がなくもないが、ここで言うべきことでもない。
道三の時は入念に下準備を重ねていたのに失敗した。政秀、信光の時は全く予測できなかった。俺に近しい人間が狙われるとするなら、民を先導する意図が分からない。
一揆の勃発はまだ早い。
「兵農分離が進んでおりませぬゆえ、足軽の中にもそういう者はおりますぞ」
「いかさま。全ての兵を選別することなど不可能にござる」
「何を申すか! 殿のご下知に背くつもりではなかろうな?!」
「そうは言っておらぬ。わしは一般論を――」
家臣の一人が意見して、そこから賛否両論の議論に発展してしまった。
唾を飛ばして喧々諤々やり合っているのを、俺はぼんやり眺める。残っている側近たちは我関せずを貫いていたが、信盛が盛重たちを槍玉に挙げられて反撃を開始した。そこに長秀が仲裁し、更に泥沼化している。
ふと視線をやれば、信純と貞勝がのんびりと茶をすすっていた。
既に挙兵したっつーのに余裕だな、おい。
「まあ、茶番には違いないか」
ぽりぽりと頬を掻いて、空を仰ぐ。
軍議までに時間はあったので、ほぼ全員が具足を身に着けていた。胴巻に陣羽織をつけているため、何とも煌びやかな光景である。細部に至るまで黒一色の具足をつけているのは俺だけで、金糸をふんだんに織り込んだ陣羽織の襟が一段と眩い。
自慢しておくと、俺の嫁たちによる力作だ。
いつかの寝物語に話していた千人針のことを、帰蝶が覚えていたらしい。出征する者を守ってくれるように願った弾除けの腹巻はもちろんのこと、吉乃が生駒家を動かして最高級の生地を取り寄せて、奈江の主導で3人がかりの刺繍を施したそうだ。
そんなわけで派手も派手、ド派手に仕上がった。
愛が重い。ずっしり重い。奇妙丸の涙と鼻水がしみ込んでいるせいではない。
これ、家臣の誰も褒めてくれないしなー。
気付いた瞬間、そっと視線を逸らすんだもんなー。
「信長様」
「うむ」
皆仲良しハゲ頭……もとい、月代頭に兜を装着する。
いやはや、宣教師のことを笑えない。髷を取ったら見事な落ち武者ご一行になるわけだが、笑い上戸の信純が平然としているのに俺が笑っていたらおかしい。
笑ってはいけない清州城。
いかんな、どうにも現実逃避したくて仕方ないらしい。
グダグダしていたせいで、すっかり信行方に先手を取られてしまった(予定通り)。これまで単騎でも鬼のような強さを見せつけた勝家が千の軍勢を率いて、城から南東の於多井川へ迫る。
別の方角からは林軍が、柴田軍に劣らぬ規模でやってくる。
ぶっちゃけ、敵軍勢はこれで全てだ。
あっちの織田軍はどうしたかって? 頼もしい従兄弟たちが止めている。それでも俺たち清州勢は急なことで兵を集めきれず、せいぜい700程度のほぼ足軽構成である。
長良川の戦いで精鋭を多く失ったため、鉄砲隊は出陣を見送った。
猛将たちは揃っているが、古式ゆかしき槍と刀のみで騎馬に立ち向かうのは無理がある。清州城周辺は長屋も完成しておらず、那古野城との直通ラインも整備中だ。
つまり兄貴の増援は期待できない。
出陣を前にして俺の愛馬を連れてきたのは、武装した信包と長益だった。ぴいぴい泣いていた少年のあどけなさは消えて、織田家らしいふてぶてしさが強く出ている。
「九郎たちに自慢できるな」
「……三十郎兄上、嬉しそうに言わないでください」
「お前たちは絶対に前へ出るなよ。約束破ったら、二度と出陣させないからな?」
「はいはい。兄上は相変わらず過保護な上に、心配性ですよね」
「源五郎、こいつの手綱預けるぞ」
「ええ……わ、分かりました。頑張ります」
なんとも頼りない返事だが、やる時はやる弟たちだ。
側近たちに頼めない細かい部分で忙しく動いてもらっている。帰蝶はもちろん側室の二人まで仕事を与えられているのに焦ったお市が、側室になったら働けると勘違いしたらしい。昔はあんなに読み書きすら嫌がっていたのに、変われば変わるものだ。
そして残る弟はあと一人、勘十郎信行。
「ぶん殴って連れ戻す」
「分かりました」
「三十郎?」
そこにいるのが当たり前みたいに、俺の隣に立って笑う。
何故か帰蝶や皆が立っている幻覚まで見えた。思わず目をこする。何もいない。誰もいない。訝しげに首を傾げる長益は残ったが、信包の笑みは変わらない。
「我ら織田家、一丸となるべき……ですよね?」
「あ、ああ。そうだな」
また俺は一人で戦おうとしていたのか。
皆がいるのに、頼もしい奴らがいてくれるのに、俺はすぐ周りが見えなくなる。悪い癖だが、それを気付かせてくれる存在がいることをありがたいと思う。
信純や側近たちはもう出陣しただろうか。
俺は愛馬に跨り、手綱を引いた。彼女に鞭は使わない。
「出陣!!」
その時、大地を轟かせる鬨の声が響き渡った。
あらかじめ戦が起きるのは分かっていたので、用意していた陣羽織をプレゼントする(いちゃいちゃ)場面で息子が乱入してベッタベタにしていった件