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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
躍動する闇編(天文23年~)
101/284

【閑話】 黒

いつもの他者視点。地の文がくどくて長いです(当社比)

読まなくても本編の内容は分かるように書いていますが、読んだ方が状況を把握しやすいかもしれません


 沢彦は招かれて、末森城に来ていた。

 せかせかと回廊を歩く男の背を見つめ、今なら容易いと思う。

 護身用に携えた小太刀を、真っすぐに突き立ててやればよい。いくら鍛えた男の肉が厚くとも、体の中央にある心の臓に届けば終わる。引き抜いた瞬間、あふれ出る命の迸りを思い出して、痩躯がぶるりと震えた。

 すると、もう一人の男が目線をこちらにやる。

「安心せよ、和尚。信行様は義に厚いお方だ。其方の覚悟に感じ入ることはあっても、不快に思われることはあるまい」

 老いても鋭い目をする武人に、内心を探られまいと笑みを深くする。

 坊主らしく合掌して、視線を伏せた。

「お優しいお人柄は聞き及んでおります。小心者の浅慮はお捨て置きください」

「ふん! そうやって、うつけめに取り入ったのであろうが」

「止めぬか、通具。今まではどうあれ、こうして助けを求めてきたものを無下に扱うな。弱き民を守るが、武士の信条ぞ」

「兄者は甘い! 下民どもに我らの崇高な考えなど理解できぬわ。そもそも我らが守ってやっている恩も忘れて不平不満を垂れ流し、目先の利益に踊らされる。うつけの方がいいなどと、世迷言にも程があろう」

 このやり取りも何度目だろうか。

 うんざりとした心を底に隠して、沢彦は人の好い笑みを浮かべた。

 寺を出た頃にはまだ日も高かったのに、辺りはすっかり暗くなっている。留守を任せた小坊主は勤めを終え、床に入った頃だろう。事情あって引き取った子供だが、そろそろ小姓へ上げてもいいと考えている。

 もともと沢彦は一人で生活するのに慣れていた。

 多少大きな寺になって勝手は変わったが、留守を任せるのは小坊主でなくてもいい。敬虔な信者であれば、本当に誰でもいいのだ。愚かであるなら、尚良い。

「和尚」

「何でしょう」

「小心者ゆえ仕方ないのは承知の上で、忠告しておこう。その小太刀に手をやる癖は、早々に直すべきだ。勘違いされたくなければな」

「…………お気遣い感謝いたします」

「万が一、この坊主がうつけの刺客だったとしても、このわしが一刀のもとに切り伏せてくれるわ。あのような失態、二度と犯しはせぬっ」

「通具」

「ふんっ」

 全く、本当に。

 困った弟を諫める壮齢の男、林秀貞を見やって溜息を吐く。

(あの方はつくづく甘すぎる。さっさと始末してしまえばいいものを、何度も受けた温情を仇で返すことしか考えられないとは……反吐が出る)

 だが必要悪でもある。

 あの聡明な人が気付いていないはずもない。

 沢彦が長年蓄え、少しずつ研鑽を積んできたものをたった数年で習得した天才だ。教えたはずもない知識を披露し、常識破りどころではない奇策を講じてみせる。

 長良川の一件を除けば、一度も戦で負けていない。

 そう、戦においては容赦なかった。自ら得物を振るって、次々と敵兵を殺していく。たとえ暗殺されそうになっても、相手を見逃してしまう甘さは見つからない。

(だが、私は間違っていなかった)

 平手政秀なら戦でなく、講和で事を収めたかもしれない。

 信秀の代から影響力の強い家老の言葉に、真っ向から反対できる者は少ない。まして守護大名の威光に惑わされ、反旗を翻すような凡愚に気概などあるものか。

 沢彦は理解した。戦を起こせばいいのだ。

 戦になれば、敵味方が明白になる。敵対する者を殺せば誉となる。もちろん、首を獲るのは誰でもいい。戦で死ぬは本望、というではないか。敵にすら情をかける主の大器には、ますます頭が下がる思いだ。

 手討ちにするなり、暗殺するなりしても、人の口に戸は立てられぬ。

 政秀の死に関して沢彦が疑われているのは、いい証拠である。

 密告した人間は帰蝶姫の懐に隠され、おいそれと手が出せなくなってしまった。女が出しゃばるようなら考え物だが、あくまでも主のために尽くす心意気は評価してもいい。

(あの方のことを、最も理解できるのは私だけ)

 今は仏の教えによって、苛烈で残虐な本性を大人しくさせている。

 誰も知らない真実を沢彦は握っているのだ。平時と戦時で変容するのは、無意識にそういう制限をかけているからに他ならない。人は信じたいものだけを信じる生き物だ。せいぜい好きなように誤解していればいい。

 手綱は未だ、この手にある。

「和尚、挨拶を」

 はっとした。

 いつの間にか、目的の部屋へ着いていたようだ。長く思考していた自覚はなかったが、末森城には初めて来たから間取りが分からない。

 煌々と明るい部屋で、青白い肌の青年が座している。

 密談をするために使われるためか、調度品はほとんどなかった。飾り棚や掛け軸はおろか、欄間すら見当たらない。四方を襖で仕切られただけの簡素な場所だ。

 青年の着ているものも地味を通り越して、やや老けて見える。

 日に焼けた肌も頭の中も固そうな男たちに囲まれているせいか、主よりも細身に思えた。沢彦は努めて痩躯を維持しているが、日々の鍛錬を欠かしていない。この青年もそうだとしたら、主にとっては厄介な相手となるだろう。

 やはり、自分が手を下すべきだ。

 以前と違って、滝川一族の目が光っている。迂闊な行動は疑惑を深めてしまう。念入りに準備をして、確実に仕留める。しくじったとしても、沢彦が関わっていると知られなければいいのだ。これからも主のため、やるべきことはいくらでもあるだろう。

 頼まれなければ動けない側近と違う。

「沢彦宗恩と申します」

「勘十郎信行という。沢彦殿だな、以後見知り置こう」

 落ち着いた声音、穏やかな気性の窺える線の細い顔立ち。

 たった一言で、態度一つで、人を動かせてしまう主と血の繋がった弟とは思えない。実に操りやすそうな印象を受けた。おそらくは通具らも、そう感じたのだろう。

 大和守家を支配した坂井大膳を目指しているようだ。

 今や弾正忠家は、尾張国で最も力のある家柄になった。伊勢守家信安はまだ健在だが、表立って敵対していないだけだ。斯波義銀を貢献している弾正忠家へ攻めれば、主君へ弓引くも同然になってしまう。

 そんな気概があれば、とっくに攻め込んできている。

「信行様。我らはもう我慢なりませぬ! 彼奴め、美濃の蝮が死んだので気が緩んだのでありましょう。以前から見目良い子供らを集めておりましたが、側室を二人も迎え入れ、あろうことか叔母であるお艶様まで城に呼びつけ、関係を迫ったとのことです」

「まさか!?」

 これは沢彦も初耳だった。

 子供たちを集めているのは教育を施し、仕事を与えるためだ。開拓には時間がかかるし、子が多いだけで食い扶持に困っている農民は多い。家をなくして浮浪者になった者もいたので、長屋に住まわせて労役につかせた。

 そのおかげで、那古野城周辺は急速に整備されていった。

 信行派を含めた反信長勢力は、これを過度な強制労働と考えているようだ。

(しかし側室を迎えたのなら、人手が足りないはず。これは好機か?)

 信行は何度も首を振り、信じられないとばかりに声を震わせる。

「まさか……兄上が、そんなことを」

「信行様」

「す、すまない。権六」

 なるほど、柴田勝家が側近として知恵を与えているのか。

 何度も蜂起せんという動きはあったものの、結局は流れていった要因の一つかもしれない。所詮は烏合の衆である。主の周囲には主のために身命を賭す覚悟を持った者たちで固められているのに、信行の周囲には己の利益しか考えられない者がほとんどだ。

「こちらの和尚は、うつけめに何度も陳情を申し入れたが聞き入れてもらえず、命を賭して信行様にお目通りを願ってきたのでございます」

「そうだったのか。子供らのことは、さぞ心配であろうな」

「それはもちろんでございます」

 主に迷惑をかけていないか、という意味である。

 使えなければ放り出せばいいものを、一人一人に声をかけては可愛がっているという。

 見目良い者を選んでいるのは大人たちの方だ。官吏として重用されることは考えていない。いずれ寵愛を受けるようになれば、推薦した人間も取り立ててもらえると思い込んでいるのだ。

 中身の伴わない愚か者など必要ない。

 それでも主は敵対する者にも温情をかける懐深い人だ。

 巣立つまで面倒を見るであろうことは目に見えている。何度も陳情を申し入れていたのはそのことで、片っ端から無視されている。

「叔母上……お艶様はまだお若いはず。いくつだったかな、権六」

「存じませぬ」

「十九でございます、信行様」

 むすっとしたまま勝家が答え、すかさず通具が口を挟んでくる。

「お可哀想に、お艶様は泣きながら部屋を飛び出していったとのことです。あちこちはだけ、あられもない恰好であったとか。おいたわしいとは思いませぬか!」

「……そ、そうだな」

 勢いに押される形で信行が頷く。

 どうにも覇気がなく、頼りない印象しかない。それでいて、妙な違和感をおぼえた。実弟というのもあって、沢彦はいちいち兄弟を比較している自覚がある。

 似ているのは見た目だけ、という結論は変わっていない。

 不遇の身を嘆いて、兄をひどく恨んでいるという噂はどうだろう。色欲に溺れていると言わんばかりの報告に驚く様は、憎んでいる相手の悪い噂を聞いた反応としてはおかしい。

 一定の評価はしている、と思いたいのは主贔屓になりがちな沢彦の私見である。

(違う。そんなことはどうでもいい。早く、一刻も早く……)

 目を閉じれば蘇る。

 慟哭の声、肉の焦げる臭い、赤と黒で埋め尽くされた大地。毎日毎日、人が死んでいく。命は風に舞う木の葉よりも軽く、脆い。どんなに努力したって命も、魂も、何一つ救えない。

 今日嬉しそうに笑った人が、明日には物言わぬ屍になる。

 生きることに感謝していた人が、死を望むようになる。

 仲良かった者たちが憎しみ合い、殺し合う。泣きながら我が子を、親を殺す。武家が主家殺しだ、親殺しだと騒いでいることに比べれば些細な出来事。

(あの方なら必ず、世の中を変えてくださる)

 少年時代を間近で見つめてきて、確信した。

 彼は、ゆっくりと腐っていく世界で生まれた救世主なのだ。かの存在ほど英雄にふさわしい者はいない。慈悲と非情を合わせ持つ性情など、奇跡としか言いようがない。

 できることなら、政秀に代わって最も側にいたかった。

 何やら参謀役に抜擢したい人間がいたようなので、それも排除しておいた。信光の穏健な性格もいずれは、急進的な考え方に異を唱えるようになるだろう。亀裂が入る前に手を打った。

 どちらも、沢彦が直接関わったものではない。

 今回のことだって、林兄弟の方から招致の命令がきたのだ。

 一介の仏僧に逆らえるわけがない。臨済宗の僧としての格は、彼らにとって意味のないものだからだ。別の宗派は違うかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

「このまま野放しにしておけば、遠からず尾張はうつけに食い潰されますぞ」

「…………」

「度重なる戦で、清州の兵は疲弊しております。うつけめは色欲に溺れ、側近すらも遠ざけている様子。攻めるなら今! 信行様が立たぬのであれば、我らだけでも兵を起こしまする」

「美作守、そこまで覚悟しているのか」

「信行様が戦を疎んじておられるのは、よっく存じております。無理強いは致しませぬ。我らが手で、偽りの主君を討つまででござる!」

 台詞には若干の棘と苛立ちが含まれていた。

 勝家が眉を寄せているが、唾を飛ばして力説する当の本人は気付いていない。

 仮にも主君と仰ぐ相手に無礼千万な物言いである。もう秀貞も咎める気になれないのか、さっきから一言も発していない。信行は静かに瞑目し、思考を巡らせている。

 滑稽であった。

 反信長勢力は尾張国内でそれなりの規模を有する。

 なのに、この場においては通具一人が決起を勧めていた。そうだそうだと賛同する者たちがいない。もっと明るい時間に、同志を集めた上で話せば違ったかもしれないが。

「……時は満ちたか、と」

「うむ」

 しかめっ面で頷いた信行が、どこか嬉しそうに見えた。錯覚だろうか。

 覇気がなく、周囲に惑わされがちで己に自信がない性格だとしたら、今の通具が言った台詞で奮起しないはずだ。分かりやすいくらいに強く必要とされてこそ、やる気が出る。

 何かがおかしい。

「おお! ついに決断なさいましたかっ」

「長らく待たせてすまなかったな、美作守。私も覚悟を決めようと思う」

「その言葉、待ち望んでおりましたぞ!!」

「権六、秀貞も命を賭けてもらうことになろう。よろしく頼む」

「ははっ」

「承知いたしました」

 三人が揃って頭を下げる。信行がそれを受ける。

 沢彦にとっても、待ち望んだ瞬間であった。処罰できないのであれば、処罰するしかない方法をとればいい。本来なら、もっと早くに武力蜂起が起きていてもおかしくなかった。何度となく機会はあったのに、彼らは一つにまとまれなかった。

 時が満ちたのではない。

 機を逸して、既に腐り落ちたのだ。

 信行が戦を起こす決断をした時点で、彼らの死は確定した。なのに、どうしてだろう。何かが引っかかる。どうにも沢彦が計算した通りの結末になりそうにない。

 その不確定要素の名は、織田上総介信長といった。


沢彦視点はもっと後に回す予定でしたが、この場面を語る人間がいなかったので沢彦に担当させました。沢彦にしか分からない話、信行&勝家だけが知っている話、そして林兄弟の思惑などが絡み合っています。

通具の出番はもうすぐ終わりです。


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