アメジストの憂鬱8
Jは、ふっと、隣に座っていたマイケルがなかなか帰ってことないことに気づいた。
「……おいおい、こんな時に腹痛かぁ……?」
振り返り、先ほどまでしなを作り、マイケルに媚を売っていた女に声をかける。彼女はつまらなそうにタバコを吸い、紫煙を吐き出している。
「悪い、あいつ何か言ってたか?」
「さぁ、トイレに行くと言ったきり」
彼女は肩をすくめた。嫌な予感がして立ち上がる。
「どうしたの?」
口説いていた可愛こちゃんが不思議そうにJを見る。どうせならこのまましけこみたい。けど、状況がそれをさせない。図体ばかりでかい男なんかより可愛い女の子と夜を過ごしたいのに、と思いながらもJは店内を見渡す。
どこにいても目立ちそうなひょこりと高い身長の男も、煌く艶やかな金髪も見当たらない。
「悪い、今度また会おう」
自慢のウィンクを彼女に放ち、Jは店の奥に向かった。店の突き当たりには、バックヤードとトイレだけ。トイレはわざわざ開けて確認までしたが誰も入っておらず、周りを見回すが、勿論マイケルはいない。
「……クソッ……どこ行った……」
Jは慌ててバーを出たが、マイケルは影も形もない。バーの裏手に回ると、従業員用の出口があるだけ。汚いごみ捨て用のポリバケツと、使用済みのビンを入れるケース、割れたガラスの破片、そういったものが散乱している。換気扇が回る音と、ボイラーの熱。マイケルのいた痕跡などは一切ない。
「ミーック!!」
大声で彼の名前を呼ぶが、返事は勿論帰ってこなかった。ただただバーの中の喧騒と夜の静けさだけがJの耳に届いたのみだった。
こんなことなら、目を離さなければよかった。そう思ってももう遅い。無闇に一人でどこかへ行くようなタイプでもない。明らかに、マイケルは何かに巻き込まれた。Jが傍についていたにも関わらず。Jは両手をキツく握り締め、目の前の壁を力強く蹴飛ばした。
「畜生!」
ダン、と大きな音と共に、足に伝わる反動。腹立ち紛れに八つ当たりをしたところで状況は変わらない。歯噛みしながら、Jは真っ直ぐに前を見据えた。
「ん、ん……う………」
呻きながら、マイケルは起きた。目を開けると、目の前に見たことのないコンクリートの部屋。項垂れたまま寝ていたのか、首が嫌に痛い。
「うっ……」
体中がギシギシ言うような感じがして、体を伸ばそうとしたが、ギシリ、と音を立てて肩が引っ張られた。手首に何かがくい込む感触。体勢を整えようとしても、うまくできない。そうして、初めて自らの状況に気がつく。
足首は椅子の足に括りつけられ、手首は椅子の背もたれの後ろで一つに括られている。どうりで動けない訳だ、と寝起きで動かない頭で納得する。
ようやくはっきりしてきた意識で、現状を把握する。今自分がどこにいるかは分からない、けれどJと共に入ったバーで、首を絞められ、意識が落ちたことは思い出せた。それが思い出せたところでどうしようもないのだけれど。
ということは、つまり、ここはマイケルが追っていたであろう誰かのいる場所であり、目的地でもあったはずだ。しかし、こうして四肢を拘束されてしまっていてはどうしようもない。身動き一つ取れず、マイケルは辺りを見回すことしかできなかった。
その部屋は打ちっぱなしのコンクリート。窓もないということは、恐らく地下だろう。重々しい鉄の扉が目の前にある。上を見れば、むき出しの電球が一つ。少し薄暗い部屋の中にはおどろおどろしい器具がいくつか置いてあり、それらは錆び付いてはいるが、先端が赤黒い何かが付いていたり、明らかに使用されている形跡がある。
それらに気が付くと、なんとなくそこに漂う空気も澱んで、酸素が薄く感じられ、マイケルは小さく喘いだ。もしここで何があったとしても、誰も助けてやくれない。
焦りが心を占めた。マイケルに何かがあったら、レベッカを助ける人もいない。そうなれば、マーガレットは一人になってしまう。結局、マイケルがしたことというのは馬鹿な冒険で、そのせいで自分の命を危険に晒し、姉を救うどころかこうして一人朽ち果てようとしているという訳だ。なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうか。
後悔が胸いっぱいに広がったその時、ギィ、と音を立ててドアが開いた。マイケルはまっすぐそちらを見つめた。先ほど、マイケルが追いかけていた男だった。
「起きたか、坊や」
口元にいやらしい笑みを浮かべるその男から、視線を逸らした。男の後ろから、もう一人、誰かがやってくる。恐らく、マイケルの首を締めた男だろう。
「こんなもん持っちゃ、危ないだろう。それを持って俺を付けて、どうするつもりだったんだ?」
にやにやとした男がマイケルの足元に何かを放った。それは、Jがマイケルによこした銃だった。硬質な音を立ててそれは足にぶつかって止まった。
しかし、手足を椅子に縛られた今のマイケルには触れるどころか手を伸ばすことすらできない。すぐそこにあるのに、マイケルはそれを使って身を守ることすらできないのだ。分かっていて男は、嫌味を言うためだけにそれを投げてよこしたのだ。あまりの屈辱にマイケルは顔を歪めた。男はにたにたと笑ったまま、マイケルの顎を掴み、ぐいと引き上げた。男の吐く息は臭く、更に不快な気持ちが増していく。
「いい顔だ。なぁ、コイツ売れないかな、相当な美形じゃないか」
男は左右からマイケルの顔を眺め、後ろの男に声をかけた。
「やめとけ、男は力も強いし面倒だぞ」
やれやれ、といったふうに後ろの男が返す。
「好事家なら買ってくれるだろう。絶対いい金になるって」
「ダメだ」
目の前の男の値踏みするような目線が気持ち悪い。マイケルは目を背けながらその不愉快な会話を聞いていた。見ず知らずの脂ぎった男が自分の体にベタベタと触るなんて、想像するだけで身の毛もよだつ。勘弁して欲しかった。
「売るかどうかは後でもいいか。しかし坊ちゃん、あんなに分かりやすく拳銃携えて、つけて来て、気づかないとでも?」
二人が大笑いする。マイケルの挙動はそこまで怪しかったのか、と項垂れる。さぞかしマイケルは滑稽だっただろう。二人で笑っていた男が、ぴたり、と笑うのをやめた。
「さあ、教えてもらうか、お坊ちゃん」
「紫の指輪を、どこにやった? なんで盗んだんだ?」
はじめ、マイケルはなんのことかと思った。紫の指輪といえば、あのアメジストの指輪のことだろうか。それほどまでにあれは彼らにとって大事なものであったのだろうか。
「アメジストのなら、僕は知らない」
あの指輪はJが持っている。どうしたのかは分からない。嘘を言ってはいなかったが、男二人の目に浮かぶ光が剣呑なものになる。
「こちらが下手に出てるうちだぞ」
男の顎を掴んでいた手に力が入る。ミシリ、と音がしそうな程力が加わり、指が頬に食い込む。もしこのままマイケルが何も言わなければ、痛めつけるぞという意思表示であることは分かったが、どうしようもない。もしJが持っていると伝えたところで、身の安全が保証されるとも限らない。
「お前達が盗んだのは分かっているんだ」
地を這うような声に思わずびくりとするが、それでもマイケルは答えなかった。最後の意地だった。
「それでも、僕は知らない」
「そうか」
男は、すっとマイケルに近づき、足元にある銃を拾い上げた。
「そんなに死にたいのか」
額に突きつけられた銃口。息を飲む。どうしたら、どうしたらこの場から逃げ出せるのだろうか。考えてもいい案は出ない。隠したナイフなんてないし、あったとしても今すぐ縄を切って、それから足元も切って、なんてしている間に頭を打ち抜かれるだろう。
「……むしろ、何を求めてるんだ、僕に。あの指輪が貴方達に返ってきたらそれで満足なのか?」
「あぁ、そうだ。早く教えるんだ」
マイケルは、小さく息を吸い、なんとか吐き出す。
「一体、あの指輪のどこにそんな価値があるの? 見たところどれだけ値がいってたとしても二〇万位だろう」
何がそれほどまでにこの男達を引きつけているのか、マイケルにはさっぱり分からなかった。その指輪は、どう考えても決して高いものではない。ものすごい価値のある細工のなされたアンティークにしては新しいし、宝石自体もそれほど希少価値のあるものでもない。
わざわざここまで必死に欲するものではないはずなのだ。だとしたら、それ以外に何かしら価値があるはずだが、その理由が思いつかない。
「あの指輪の価値か? そんなのを知ってどうする」
「知る必要なんてないさ」
何かを隠しているような男達の様子。
「それより、早く言うんだ。そんなに死にたいのか」
焦れた男は、銃口をグリ、と額にこすりつけた。バクバクと脈打つ心臓を宥めながら、マイケルは上目で男を伺う。
「もし、言ったら助けてもらえるの?」
「考えよう」
これは無理だな、と思いながらも、マイケルはふぅ、と息を吐き、答えた。
「僕の友達が、持ってる」
Jを売るのは気が引ける、けれども今は生き延びるのが先決だった。Jならうまいことやってくれるだろう、という期待もあったのだ。
「誰だ」
「……フルネームは、知らない」
誤魔化すと、男がカチャリと銃の安全装置を外して叫んだ。
「誰だ!!」
「ウェイッ! ウェイト! そんなの突きつけられてちゃ、落ち着いて話もできない! 僕は何もできないんだから、とりあえず銃を下ろしてくれ!」
必死に叫ぶと、男が少し落ち着いたのか、銃を下ろす。マイケルは少しホッとして肩の力が抜ける。どうしたら、どうしたら少しでも長く時間が稼げるのだろうか。
「さぁ、早く」
「……僕は、彼のいるところを知ってる、連れて行くからこの縄を解いてくれ。今言ったら、殺されるのが分かってるのに!」
男達は顔を見合わせた。そして、フッと鼻で笑ったかと思うと、二人で大爆笑をはじめた。ねっとりと二人の視線がマイケルを頭からつま先まで撫でた。
「こんなひょろ長いだけのお坊ちゃんなら、縄解いても大丈夫だろう。しかも俺たちは二人だぜ?」
男が下品な笑い声を上げた。
「違いねぇ! 怯えるばっかりのガキに何ができるっていうんだ!」
「その通りだな。OK、OK、分かった、連れて行ってやる。ただし、おかしな真似したら……即ズドンだ」
にぃと笑う顔。再び銃口が突きつけられる。もう片方の男がマイケルの後ろに回り、足の縄を解きはじめた。頭に突きつけられえた銃は変わらずそこにあるけれど、それでも一箇所、また一箇所と解放されていけば少しは気分が楽になる。息を吐き、縄が食い込み痛む手首をまわし、足首も少しほぐす。
「さて、連れて行ってもらおうか」
「……オーケー」
マイケルは両手をあげて、分かりやすく服従の意思を示した。男は頭につきつけられた銃を徐々にずらし、背後に回った。恐る恐るマイケルが立ち上がると、彼はその銃を腰のあたりにあて、マイケルのジャケットをまくりあげ、銃本体が見えないように被せた。
「手を下ろせ、そのままじゃ目立つ」
「……OK……」
マイケルは、恐る恐るという風にゆったりと両手を下ろした。ひたりと腰に押し当てられた金属の感触はやはり恐ろしい。顔が引き攣りそうになりながらも、安心した、とでも言うようになんとか笑みを象る。その時、笑顔を浮かべることを選んだのは、ここのところ隣で悪趣味な薄笑いを浮かべていたあの男のせいだろうか。
「じゃあ、案内するよ」
へらへらと笑って、まるで全てに安心しきって、これで助かったというような顔をして、マイケルは歩いた。一人はマイケルの前に立って歩いた。まるで挟まれているような感じで、逃げ場がない。考えろ、考えるんだ、マイケル。そう思いながら、地下から地上へ上がる階段を一段、また一段とまるで死刑台に上るような気持ちで踏みしめる。
けれど、いい案など一つも浮かびやしない。マイケルはなんとか平常心を保とうとしながらも、こんな状況では叶わない。
今までなんとかなっていたのは、Jがいたからにほかならなかった。けれど、わざわざ助けに来てくれるほどJもお人好しなんかじゃないだろう。彼には、彼の生活があるのだ。もとよりマイケルが身勝手にも彼を巻き込んだだけで、彼はマイケルを助ける言われなんてない。マイケルは、そっと目を伏せ、階段の最後の一段を踏みしめた。