アメジストの憂鬱5
「ジェーイ、貴方本当に都合のいい時だけ私のとこに来るのね」
情事の後の気だるい雰囲気の中、シーツに包まれた彼女は言った。Jはその柔らかく傾らかな肩を抱いて甘い声で囁く。
「こんなイイ女を俺が独り占めしたらまずいだろう?」
ミランダはふぅ、と溜息を吐いて、しかしその頬を少しだけ緩めた。ブラウンの緩いウェーブのかかった髪にそっと指を絡める。
「本当、貴方顔と口だけのロクデナシ」
「そんな俺に騙されて抱かれてくれるあたり、舞台で踊るのが本当に上手だ」
Jはふっと笑って返す。
「私、ダンスは得意なの。貴方も得意でしょ? 特に……ベッドではね」
ヒューィと、Jは口笛を吹いた。美人で、賢くて、そこそこエロく、距離を間違えない。本当にイイ女だった。折角だからもう一戦しよう、とその体を押し倒し、首筋にキスをして、ふっと思い出す。
「ああ、そういえば、忘れてた」
「なあに、ベッドで貴方が何か思い出すなんて珍しいじゃない」
野暮だと思ったが、何故か今渡さなくてはいけない気がした。ベッドから立ち上がり、椅子に引っ掛けてあったジャケットの中を漁る。硬質な感触。それを握り込み、再び女の横に潜り込む。
「手を出せよ」
「何、イタズラ?」
くすり、と笑ってミランダは手を出した。ろくなことをしないのだろう、というのが透けて見える表情だった。心外だ、と思いながらもその細くて長い、女らしい指に指を絡めるようにして握る。その絡んだ指が離れたとき、彼女は意外そうな顔をして、目をまん丸にした。
「やだ、JJにしては気の利いたプレゼント。というか、どうしたの、コレ。こんなところで贈るようなモノにしては高価すぎるじゃない」
彼女の言うことは最もだったが、なんとなく贈りたかったのだ。長い付き合いの相手だし、別にたまにはプレゼントの一つや二つ贈ったところでバチはあたるまい。
「着けても?」
「勿論」
彼女はほんのりと顔を赤らめながら、嬉しそうにその紫の指輪を指に嵌めた。それは、まるで彼女に合わせてあつらえたかのようにぴったりと指に収まった。Jはふっと笑みを浮かべてそのしなやかな手を撫でる。
「どう?」
「やだ、洗濯物取り込まなきゃ……こんなJJなんて……嘘みたい!」
「ミランダ……本当に酷いな、お前」
ミランダは、くすくすと笑っている。まぁいいか、と顔を上げるとベッドサイドに置かれた鏡にチラ、と黒い影がよぎった。がばり、と体を起こし、そちらの方向を見る。そこには何もない。
「何、どうしたの?」
きょろきょろと辺りを見回すが、その部屋の中には変わった物は何一つなかった。ヤる前にキメたウィスキーが今頃回ってくるなんて、それとも疲れか? と息を吐く。
「いや、ちょっと一服したくなっただけだ」
少し頭を冷やそうとタバコに火を点け、窓辺に向かった。カーテンを開ければ、そこに灰色の建物が見えるばかり。二階のこの部屋じゃ、窓を開けたところで夜空すら見えやしない。あるのは前の汚い家の壁だけ。
窓枠に肘を付き、煙を肺一杯に吸い込み、吐き出した。視界を、すぅ、と下に落とした瞬間、Jは手に持ったタバコを落としそうになった。
「カモン」
音として、そう聞こえた訳ではない、ただ、その唇がその形に動いていたのが確かに分かった。Jは何故かわからないが胸の鼓動が早くなるの感じ、急いで服を身に纏った。
「JJ……? どうしたの……? ちょっと……J!」
「悪い、ちょっと野暮用だ、すぐ戻ってくる」
ジャケットを羽織り、階下へと降りる。窓の下にある通路に立つが、そこには誰もいない。足を進め、一番辺りを見回しやすい十字路に立ってぐるりと周りを見渡した。
「やぁ」
甘いテノール。
バッとJが振り返れば、そこにはこの街には珍しいアジア系の男が、にこにこと人好きのする笑みを浮かべていた。その男は、まるで突然現れたかのように、いつの間にかJの後ろに立っていた。
「誰だ……?」
「J、君は俺のことを知ってるはずだよ」
にこり、と笑った男の目は、とろりと溶けるアンバー。好青年と言うのが正しいような見た目なのに、その目を見るとねっとりと絡め取られ、どこかに閉じ込められてしまいそうな気分になった。ぶるり、とJは身震いした。
「御託はいい。誰だ」
警戒を顕に尋ねるJに、男はやれやれと言わんばかりの顔をして、それから答えた。
「君に習って、Dとでも言っておこうかな」
彼は眼鏡をおし上げながら言った。一々癪に障る、とJは舌打ちをしたが、男は全くひるまずににこにこと笑みを浮かべるばかりだった。
「それで、何の用だ」
「そうそう。君に言いたいことがあってね。早く、大事な人のところへ行ってあげたほうがいい」
大変なことになる前にね、と付け足し、微笑む彼に、ぞくり、と背中に氷を入れられたような心地がした。そう、ここは十字路、遥か昔より、忌み嫌われる場所。
「悪魔か……!」
「まぁ、そういうことにしといたらいいさ。これでも、君の為を思ってるんだけど。ああ、もう時間だ……くれぐれも、宝石には気をつけて」
Dと名乗った男は、そう言ってふっと掻き消えた。同時に、Jは弾かれたように走り出す。階段を上がり、ミランダといた部屋へと駆け込んだ。ナイフを持った彼女が、その鋭い刃を自身の首に当てているところだった。
「ミランダ!」
Jは思わず叫んだ。その声に、彼女はナイフからJに視線を移した。Jは、反射的に彼女に体当たりをし、その体を床に叩きつけた。細い手から、ナイフが落ちる。白い指が床を左右に這い、ナイフを探っているのが目に入る。Jは慌ててナイフを払い除け、彼女の手の届かぬところへと押しやった。
「なんでこんな馬鹿なことを……!」
怒鳴るように尋ねる。Jの知る彼女は、いつも快活で、悩みこそあれ前向きだった。こんな風に自殺を図るような人間じゃない。
「もう、娼婦なんて真っ平。死んだほうが、マシよ」
少し掠れたルージュが紡ぐ。彼女の声なのに、まるで彼女が言っていないみたいだった。キラキラといつも光を映している目も、今はどろりと濁り、Jを映しているようで、そこにJはいない。
Jに組み敷かれたまま、唇を噛み締めた彼女は、Jのよく知るミランダではなかった。豹変してしまった彼女に、動揺が隠せずにいるJの頭を、ふっと先ほどの男の言葉がよぎった。
まさか、と思いながらも、彼女の細い指に嵌る指輪を強引に抜き取った。
「……まさか、な……!」
びくり、と体が跳ね、どろりとした瞳が一瞬宙を見る。血の気の引いていた顔に、血色が戻った。
彼女は、ぼんやりと視線を彷徨わせていたが、ふっとJに焦点が合う。
「ミランダ」
「ジェ、イ……?」
どこか気の抜けたような呼び声。しかし、そこには確かな生気があり、Jは肩から力が抜けるのを感じた。
「J!? え、なんで床で……やめてよ、別にベッドの上でいいじゃない!」
はっと何かに気がついたような顔をして、ミランダが眉を寄せ、Jの肩を強く押した。理不尽だ、と思いながらもJは彼女を覆っていた体を起こして、ベッドに腰掛けた。ミランダは、頭を押さえ、困惑した表情を浮かべている。
「え? あれ……私……?」
「さっきまでの、覚えてるか?」
Jが静かに尋ねると、彼女は更に動揺を隠しきれない様子で部屋を歩き回り、頭を振っている。部屋の隅に飛ばされたナイフを屈んで拾い上げる。明らかにその手は震えていた。
「やだ、私……何、してたのかしら。いや、覚えてる、んだけど、え……?」
「もう死ぬ気はないんだな」
「当たり前じゃない!」
そう叫んだ彼女を、Jは腕に閉じ込めた。いつも気丈な彼女の肩が震えている。
「ならいい。悪かった、全部俺のミスだ」
なんのこと、と尋ねる彼女の声には返事を返さず、Jはただ黙って彼女を抱きしめた。
Jにも、今何が起こっていたのかがよくわからないし、現実でなかった気がする。そんなことを、彼女に説明しろと言われたところで、できる気もしない。
しかし、自らが招いた結果だという罪悪感が胸いっぱいに広がり、苦々しい気持ちになる。震える彼女を抱きしめて、朝まで眠っていたいし、頭を整理したい。けれど、今はそれどころではない。彼女が落ち着くまで数回背中を撫で、そして、名残惜しいと思いながらもその体を離した。
「悪いけど、どうしても今やらなきゃならないことを思い出した。もし何かあったら電話してくれ」
踵を返すJの背中に、薄情者、と冗談めかした声がかけられた。
「悪いな、性分だ」
そう言いながらも、Jは眉を寄せ、目を伏せた。彼女の声は、少しだけ震えていた。