アメジストの憂鬱2
「J、俺の名前」
「え?」
「だから、J。JJなんて呼ぶ奴もいるな。ジャンク品を扱ってるから、ジャンクジャンキーで、JJ」
マイケルの手を引いて走っていた男は、ふっと立ち止まって言った。突然のことで、何を言っているのか理解するのに少し時間がかかった。
「……本名は?」
「誰も呼びゃしねえんだから、Jでいーんだよ」
はっ、と笑ってJが肩をすくめる。人を名前以外で呼ぶのはどこか抵抗があったが、そのちょっとした違和感を飲み込み、マイケルは頷いた。
「僕はマイケル・フランプトンだ」
「じゃあ、ミックよろしく」
あまりにもしれっと言うから、マイケルは戸惑った。Jが何を意図しているのかが分からなかった。
「俺を付いて回られて危ない目に遭うのを見るのも寝覚めが悪い。一回だけチャンスをやるよ」
Jはポケットから一枚のコインを取り出し、それをマイケルに見せた。それを右手の親指にトンと乗せる。マイケルは、Jの譲歩に深く頷いた。
「裏だ」
Jが声高に宣言した。キィンと、音と共にコインが宙に跳ね上がる。クルクルと回転し、銀の弧を描き、落ちていく。Jは器用に左手の甲に着地させ、右手で押さえ込んだ。
あぁ、神様、今だけは、微笑んで。
祈るようにJの手を見つめる。右手がそっとずれていく。裏か表か。たったそれだけのことで、誘拐されたであろう姉が助かるか助からないかが決まるのだ。マイケルは息を詰め、運命の時を待った。
「……おぅ……」
深い溜息と共にJが肩を落とし、コインをポケットにしまう。マイケルは目を見開き、Jの手をとった。
「ありがとう!」
Jはたじたじと一歩後ずさり、それからもう一度溜息を吐いた。
「来な。ここじゃ話にならない」
Jは再び背を向けた。どんな心境の変化なのかは分からない。けれど、手伝ってくれるというのだからそれに甘える以外にマイケルの取れる選択肢はなかった。
ふと目を落とすと、自らの手首にくっきりと残る指の跡。未だに残る体温と、締め付けるような感覚。そっとそこをさすりながらも、Jの後をマイケルは付いていった。
彼の向かった先は、廃工場だった。倉庫が立ち並び、その横には鉄くずやガラクタ、ゴミが山積みにされている。Jはそれらを通り過ぎ、その中でも一番小さな小屋のシャッターをガラガラと音を立ててあけた。一気に漂う鉄とオイルの香り。
「ようこそ我が家へ」
Jがパチンとスイッチを押すと、パッと薄暗い小屋に明かりが付いた。そこには、金具、歯車、ギミック、機械、そういったものが山ほど並んでいた。作業場に見えたとしても、生活をしている場にはとても見えなかった。
「ここで生活してるのか……?」
「いや、居住空間は奥。ここは商売用」
くぁ、とあくびをしながらJは積み上げられた機械をすり抜けて奥へと進む。少し身じろぎをしたらぶつかって倒れてしまいそうな狭い通路をまるで猫か何かのようにすり抜けていく彼は、そのまま機械の迷路の中に消えていってしまいそうだった。
「J」
思わず声をかける。
「なんだ」
何を聞いたらいいのかわからず、マイケルはまごつく。くっと喉で笑うような声が響いた。
「怖くなったか、箱入り。取って食ったりしないさ」
今度こそはっきりと笑われ、マイケルは眉を寄せた。初対面から彼はどうにもマイケルをバカにしている。飄々として余裕の姿に腹が立つ。それでも、マイケルはここでJに見捨てられてしまったら頼るあてがない。Jとて本当に信用していいのか分からないけれど、それでも。
「ミィック」
「変な呼び方するなよ、J」
「ぼけっとしてるからだろ」
ははっとJは笑う。そこは迷路の突き当たり。ふっと横を見ると、やたらとものの多い場所の一角に、そこだけすっきりとして見える空間。そこには作業机が置いてあり、その上にはいくつか作りかけと思われる部品や工具のようなものが転がってはいたが、きっちりと整理されており、欲しい物がどこにあるかわかるようになっている。普段そこで作業しているのがよくわかる、そんな机だった。
ぼんやりとしている間に、Jは通路の突き当たりのドアの鍵を開けた。シャッターにも鍵が掛かっていたが、ここにもかかっているのか、とマイケルは少し不思議に思った。鍵を開け、ドアを開くと、そこには簡素なキッチンと、タンス、そしてベッド。床には雑誌に脱ぎ捨てられた服、カバン等色々なものが散乱している。
「……うわぁ……」
思わずマイケルの口から声が漏れた。Jは床の上の物を足で押しのけ、進む。そして、ジャケット類が大量に乗せられていた椅子を無理やり引き出してきて、かかっていたものはベッドに放り投げた。
「そら、座れよ」
足元の物を踏みそうになりながらも、マイケルは言われるがままに椅子に腰掛けた。Jはベッドへと腰掛け、サイドテーブルからがさごそと地図を取り出し、膝の上に広げた。
「で、お前の家はどの辺だ」
地図の上、新たに借りた家の場所を探す。昔の家とはだいぶ離れているため、自分で自分の家がどこにあるか分からずにまごつく。
「えっと、多分、ここ」
「で、姉がいなくなったのは?」
「買い物に出たのがここだから多分……この辺、かな?」
Jの細かな質問に一つ一つ答えていく。Jは、あぁ、とか、うん、とか相槌を打ちながら地図に印をつけつつ、何かを考えている。
しばらくすると、Jは携帯を取り出し、どこかへ電話をかけた。
「あぁ、ケヴィンか? 俺だ。そう。うん、結局な。え?うるせぇよ、ハゲ。で、最近、女を売り買いしてるやつは? 居ないこたねぇだろ。は? …………冗談だろ!?」
電話の向こうの誰かに、どこかケンカ腰とも取れる口調で喋るJをマイケルはただぼんやりと見ていた。しばらくすると、Jは舌打ちと共に電話を切り、ジーパンのポケットに押し込んだ。
「ミック、とりあえずお前それ脱げ」
「は!?」
突然の言葉に、マイケルは目を剥いた。その反応を見たJはただでさえ嫌そうな顔を更に歪める。
「とんでもない勘違いすんな! ここじゃあお前のお綺麗な格好は浮き過ぎるんだよ!」
せめてカーディガンだけでも脱げ、と吐き捨てるように言われ、マイケルは素直にその言葉に従った。確かに、スラム化しているこの街ではマイケルは明らかに外の人間にしか見えなかった。
「あと! 俺は! 女が! 好きだ!」
マイケルとてそんなことは分かっていたが、Jはあわざわざそう主張した。ハイハイ、と肩をすくめれば、ふん、と彼が鼻を鳴らす。少し面白がってにやりとすると、バサリと頭から、明らかに作業着として使っているオイル臭いジャケットを投げつけられた。
「それでも着とけ!」
もっと清潔なのがいい、と言いたかったが、そんなことを言っている場合でもないので、マイケルは渋々それに袖を通した。
「それで、いまから僕達は何をしたらいいの?」
「とりあえず、寝る」
は、と口をぽかんと開けたマイケルには全く目もくれず、Jはベッドに体を投げ出した。その呑気な様子に、手伝って貰えるというのにマイケルの胸に怒りがこみ上げてきた。
「そんなことしてる場合じゃないだろ!」
思わず叫んでしまってから、しまったと思う。そんなマイケルにJはチラと視線をやってから、頭上で腕を組んで枕にしながらはっきりと言った。
「いいから、寝ろよ。効率的に動くためだぜ?」
「でも、こうしてる間にもレベッカは……!!」
うるせえなぁと言わんばかりに耳を押さえるJに、マイケルはなお言い募る。
「ミィック」
少し甘いバスボイスで、彼はのろのろと指先をマイケルに向けた。
「クマ。いつから寝てない? 飯は? それでさっきみたいな奴に絡まれたら? 俺なんかより学があるお前はそのオツムでなんとかしてくれるのか?」
荒っぽい口調で次々と痛いところを突かれ、何も言い返すことができずにミックは黙り込んだ。Jはふぅ、と大きく息を吐き出し、ひと呼吸してから落ち着いた声で言った。
「ソファー。物退けて使え。ベッドは俺のだ」
今度こそゴロンとマイケルに背を向けて寝る体勢に入ってしまった。マイケルは、チラ、とソファーに目をやる。
「……いや、ほとんど布地見えてないし」
ソファーらしき物体の上にはやはり雑誌やらビールの瓶やらが積み上げられていて、もはや片付けることすら困難。バサバサと容赦なく地面に落とし、寝転がる。
まぶたを閉じても、ピリピリとした気分で眠れそうになかった。狭いソファーで何度も寝返りをうつ。布と布が擦れる音が部屋に響いた。
マイケルがこうしている間もレベッカは、怖い思いをしているだろう。暴力に晒されているかもしれない。ひたひたとそんな不安が心を沈めていく。
「ミック。今は何も考えずに眠れ」
静かな声。大丈夫だとは彼は言わなかったが、その声は迫り来る不安を少しだけ宥めた。とろり、と全然感じなかった眠気がマイケルを襲う。頭が徐々に重たく感じ、意識が遠ざかっていく。
「おやすみ、マイエンジェル」
こんな時に母の声を思い出すなんて。甘い甘い、家族を優しく愛し、包み込む声。ぼんやりとした思考の中、マイケルは眠りに誘われていった。