第九話 巨星墜つ
おじい様危篤の知らせを聞いた俺は水ヶ江に急いで戻ってきた。
再興を果たし本拠を取り戻した水ヶ江城内はつい先日まで和やかな空気に包まれていたが、今は一変し重苦しい雰囲気に覆われていた。
おじい様が危篤ということで水ヶ江惣領に擬せられている俺は当然として、その補佐となっている孫九郎に西分家当主に就任した新次郎。
元服前の久助君と末弟の慶法師丸、母上はじめとする一門の女性たちも集まっていた。
宗家からも当主名代として、豊前守様の弟・越前守殿と家老の播磨守殿、更に納富石見と福地長門も馳せ参じた。
さらに西千葉からも、養子に行った彦法師丸が家臣の平田左馬と江里口河内を連れて駆け付けた。
そしておじい様直属だった鍋島平左衛門や石井党、鹿江遠江らが続々と集っていた。
おじい様は既に齢九十三。
元服を済ませた曾孫が二人もいるのだ。
当然そのくらいにはなる。
共に起居した筑後では、常に元気溌剌な風であまり気にしていなかったのであるが…。
恐らくずっと気を張っていたのだろう。
今回本懐を遂げたことで、抜けてしまったのか。
巨星墜つ。
そのような言葉が頭を過る。
いや、縁起でもない。
しかし頭の片隅の冷静な部分では、おじい様はもう長くはないと悟っていた。
「……っ。…皆、よく聞け…。」
大体皆が揃ったところでおじい様が喋り始めた。
途切れ途切れで息も絶え絶え。
言葉は擦れ気味でとても聞こえ難い。
しかし、間違いなくおじい様の遺言となる。
それが分かる俺たちは誰一人遮ることはせず、居住まいを正し言葉を聞いた。
曰く。
龍造寺の今後は、宗家の豊前守様が全て差配すること。
左近将監や雅楽頭、越前守と水ヶ江衆はこれ盛り立て、支えること。
水ヶ江の惣領には俺がなること。
孫九郎には三郎殿の跡職におじい様の遺領を加えて東分家を興すこと。
父上の跡職である西分家に新次郎が。
孫三郎叔父上の跡職は鍋島駿河の末男を。
孫八郎叔父上の跡職はその子に。
そして…。
「馬場は討った。…しかし、真の敵は少弐屋形である…。」
直接の仇である馬場肥前と馬場六郎は討ち取った。
しかし、少弐屋形がいる限り龍造寺の安泰はない。
必ずこれを討つこと。
少弐屋形を滅ぼすことこそ、龍造寺の真の本懐であるというのだ。
少弐屋形に忠勤を尽くしてきたおじい様から、その少弐を討ち果たせという言葉が出た。
そのことに皆は驚きを隠せない。
しかし、実際に少弐屋形は我らを討つことを指示したのだ。
重代の恩もこれにて十二分に相殺され切ったはず。
屋形自身を助けたこともあったのだ。
その結果、二人の子と四人の孫。
それに一族数名と大勢の家臣たちを失ったのだ。
おじい様の絶望と憤怒が窺える。
「…しかと、申しつけた…っ!」
そう締め括り、おじい様は眠りに就いた。
そしてその後二度と起き上がることはなかった。
翌月、おじい様は静かに息を引き取った。
天文十五年晩春のことだった。
* * *
おじい様は亡くなる寸前まで、龍造寺のことを考えていた。
心安く老後を…と願ったが、それは果たせなかった。
かくなる上は、おじい様の遺命を是が非にでも果たさねばならない。
* * *
おじい様が亡くなって一ヶ月。
服喪期間を経て、俺は正式に水ヶ江の当主に就任することになるのだが…。
再興したとはいえ、一度凋落した権力を高める必要がある。
そこで、改めて龍造寺宗家である豊前守様により水ヶ江惣領が安堵されるという形にするよう奏上した。
豊前守様やその周囲はこれを大層喜び、水ヶ江惣領就任の引き出物として宗家の重臣である納富石見の養子・治部を与力にくれた。
このことは宗家との繋がりを強くし、影響力の行使に役立つ両得の策となるはずであった。
さて、正式に水ヶ江惣領となった俺の初仕事は、各家領の安堵である。
おじい様の遺言を追認するものではあるが、俺の名で出すことに意味があるという。
新次郎には父上の家を継がせ、孫九郎には新たに分家を興した。
孫九郎の領地は分家ながら大き目となっているが、これは俺が惣領を彼の実父である故・和泉守様から
引き継いでいるので、その辺りのバランスを取る意味も兼ねている。
なお、おじい様の隠居領は孫九郎が相続したが、その家臣連中は大半を俺が受け入れた。
この中には鍋島一族と石井党もおり、これと与力として頂いた納富治部を俺の親衛隊と位置付け働いてもらうことにした。
孫三郎叔父上の跡には鍋島駿河の末子・初法師丸を養子として入れてその娘と婚約させた。
まだどちらも幼いので形ばかりであるが…。
なお、元服までは鍋島駿河を後見とすることにしている。
そして孫八郎叔父上の子はまだ幼いので、石井石見を後見に指名した。
宗家の豊前守様も大変忙しくされている。
旧来の領地を取り戻したは良いが、一族分家も多数死去しているのでその整理が大変なのだろう。
新五郎兄貴が持っていた所領は、一旦は豊前守様が預り、追々分配するなど考えているらしい。
俺は水ヶ江惣領として、豊前守様を支える仕事もある。
豊前守様の義弟にあたる孫九郎にも手伝って貰ってはいるが、これが結構忙しい。
定期的に宗家の村中城へ出向き諸事の打ち合わせを行い、重臣たちに仕事を割り振り、たまに宝琳院にも顔を出す。
豊前守様にとって俺は、一族側近の意味も持たれており内々のことも相談されたりする。
そんな時は孫九郎も連れて行き、豊前守様の奥様であり孫九郎の実姉でもある於与さんとその娘である於安と対面させたりしている。
また俺は、分家とは言え一党の惣領だ。
この仕事は多岐に渡る。
簡単に言えば内政と外交なのだが、どちらも曲者だ。
まあ外交は主に宗家の方で担当している。
今俺に出来る外交と言えるは、せいぜい他家の親戚へ挨拶状を送ることや、豊前守様の書状に添状を付ける程度。
それでも面倒なことは多いのだが。
婚姻政策で一族が嫁いだところと繋ぎをとっているのだが、これが存外多い。
おじい様の代から連綿と続いている政策なので、肥前北部がメインであるとは言え各方面様々だ。
近しい所などは、本当は直接歴訪したいがそんな余裕は今のところ全くない。
まず同族の高木・於保・八戸辺りは非常に気になっている。
高木は我が龍造寺の本流とも言える家だ。
昨今では宗家筋において、養子縁組が行われたりした例がある。
戦国乱世の習いか、西と東に分かれてやや衰微の兆しが見えるが、今でもそこそこの勢力を保っている。
於保も高木から分かれた一族であり、一時期大いに勢力を振った家であるが、三代に渡り当主が戦場で散るなど衰亡しかけた。
縁戚である龍造寺の支援で持ち直したが、その為に嫡流は半ば家臣化してしまっている。
八戸は於保の傍流であるが、現在独立勢力として意気軒昂だ。
そして八戸城主・八戸下野守のことは特に気にしている。
なにせ姉婿だ。
まあその実姉の顔も、今や朧気に覚えがある程度であるのだが。
また、西千葉は反少弐・反東千葉で一致している。
彦法師丸が養子に行っているし、変わらず仲良く出来ている。
あと姻戚ではないものの、領地が近い小田も気にする必要があるだろう。
ここは先代まで少弐の忠臣と言われていたが…。
当代の小田九郎は、良く分らない。
先の事件でも積極的に少弐屋形に加担するでもなかったし。
八戸の義兄に次いで会って話してみたい人物だ。
ま、今のところはこれらに水ヶ江惣領就任の挨拶状を送るに止めておくか…。
天文十五年(1546年)年齢表
龍造寺胤栄:21歳
龍造寺胤信:17歳
蒲池鑑盛:25歳
織田信長:12歳
伊達輝宗:2歳
武田勝頼:0歳