第四話 宝琳院
楽隠居を目指すことを人生の指針と定めた。
その為に俺は、心身を鍛え、勉学に励み、己を高めるべく動き出した。
…などということもなく、普段通りに過ごしていた。
あと、勉学に励んでいるとは言い難い。
「俺」が元々持っていた各種知識及び常識をこの時代の常識と照らし合わせ、すり合わせるという作業はとうに終えており、己の見識を更に高めるには次の段階に移る必要があった。
即ち実地演習が必要なのであるが、現在の俺に可能なものは寺領で行うことが出来る簡単な畑作くらいであり、それも目に見えるような成果は未だ見出せないでいた。
そんな事情もあり、俺はほとんどの時間を幼馴染らや弟・兄貴たちと遊ぶことに費やしていた。
だが、そんな今を楽しむ俺の下へも時代の変化は確実に近づいてきていたのだった。
* * *
ある日のこと、俺は豪覚和尚に呼ばれ院の客間に座していた。
「近頃、この界隈に暗雲が漂っているよう見受けられます。」
そう言うのは豪覚和尚。
話す相手は和尚の叔父であり、俺にとっては祖父の弟、つまり大叔父にあたる本家惣領の和泉守様。
気を引き締めねばならん云々言っているようだが、俺は和泉守様の後ろに控えている幼子に目が行っておりあまり聞いていなかった。
最初に紹介を受けたのだが、彼は久助君と言い和泉守様の御三男。
まだ幼いがなかなか利発そうな子だ。
もっとも妾腹の庶子であり、家中での身分は低い云々。
どうやら彦松と同じような立場にあるらしい。
それだけで親近感というか、親しみを感じてしまっている。
おっと、和泉守様が久助君を気にするそぶりをみせたぞ。
「さて、本題だが…。今日は久助を預けに来た。」
なんでも先年実母が亡くなり、身の置き所を無くしつつあるとのことだ。
虐待とかはないだろうが、立場が弱くなるのは仕方がないこと…なのか?
嫡出の長男二男が無事に育っているため、庶子は養子に出したり出家させたりすることも良くあることのようだし。
よって俺が臨席するよう言われたのは、出家して弟弟子となる可能性が高いことからその顔見せだろうか。
久助君の顔を見ながらそんなことを考えていると、突然和泉守様が声をかけてきた。
「円月。恙無く過ごして居るか?…林野を駆けるも構わぬが、勉学も疎かにするでないぞ。」
孫四郎や彦松たちと走り回っていることが伝わっているらしい。
その時は僧衣を身に付けてはいないのだが、見る人が見れば分かるのだろうな。
しかし仮にも僧籍にいる身。
あまり褒められた行動でないことは自覚している。
ただその、一緒に全力で遊ぶのが楽しくて…。
はて、中の人は大人(?)だったはずなのだが…。
精神が肉体に引きずられている、とか?
「は。過ぎぬよう慎み、学に励みます。」
ともかく、笑顔の和泉守様と薄笑いの和尚を前にしてはそう答えるのが精一杯だった。
「では豪覚。そして円月。久助を頼むぞ。」
そう言って和泉守様は慌しく帰って行った。
和泉守様は現在主家である少弐屋形の元で執権という要職に就いており、多忙の身なのだから仕方がない。
久助君は今すぐ出家するわけではなく、とりあえず預りということになるらしい。
そういえば新五郎兄貴は宗家筋の親戚だが、この久助君は本家筋の親戚ということになる。
俺たちが本家と呼ぶのは和泉守様が当主を務める水ヶ江龍造寺の本家であり、新五郎兄貴の宗家とは水ヶ江を分家とする本家・村中龍造寺を指す。
うん。ややこしいな!
この八年間で色々学んできたが、未だに良く分らないことが沢山ある。
というかそっちの方が多い。
ちなみに水ヶ江とは地名であるが、元々は槙村という小さな村があったらしい。
そこに、俺にとっては高祖父にあたり龍造寺中興の祖と言われる隠岐守康家公が隠居処と定め移り住んだのだが、その時に
「龍は水に住む。即ち水が家である。」
と言って、槙村を水ヶ江と改めたと言われている。
カッコいいことを言っているような、そうでもないような、悩むところだ。
あと本家の村中は、まあ地名というか城の名で当家の本拠地である。
佐賀と言っても間違いではない。
この村中、水ヶ江、そして当院は概ね近しい区域に存在している。
寺だから山中だとは限らないのだな。
何故だか、寺は山を背景に建つものだという先入観があった。
よく考えると現代の町中にも普通に寺とかあったなぁ。
こんがらがったりややこしいことが沢山ある。
お陰で長法師君情報がまだまだ活躍している。
そして彼が活躍するということは、俺と共に在るのだと実感できる大事な機会でもある。
今後出番は減ってしまうであろうが、ずっと忘れずに生き抜いて、晴れて楽隠居した暁には俺が長法師君の元に来て幸せだったと心から思える、そんな人生を送りたい。
…和泉守様を見送った俺たちだったが。
「では早速、久助殿の部屋を見繕うかの。円月、案内せよ。」
豪覚和尚の言葉に従い、久助君を部屋に案内する。
久助君は現段階では預り人であるが、今後状況によっては出家する可能性が高い。
仲良くなれるよう、気にかけていこう。
* * *
さて、久助君という弟分が出来たからには勉学に励まねばなるまい。
和泉守様からも釘を刺されたしな。
とりあえず、俺が籍を置くこの宝琳院について改めて勉強した。
久助君に教える時につっかえたりしたら恥ずかしいからな。
ここはおじい様の時代に開山したものだと思っていたのだが、それは正解でもあり不正解でもあった。
なぜならば寺院としての開山は今から千年近く昔のことで、かの行基和尚を開祖とする言い伝えがあるためだ。
その後は一時衰退するものの、平安時代の末期にうちの一族から座主が入り宝琳坊として再興される。
この時初めて宝琳という名がついたのだが、その由来は不明だ。
少なくとも人名ではなさそうであったが。
その後隠岐守康家公の三男が出家し、比叡山で修行。
座主として入り、宝琳坊から宝琳院に改めたという。
宝琳院としての開祖はおじい様の御兄弟であるが、寺院としての存在は遥か昔であったということだ。
当院の初代は澄覚と言っておじい様の兄弟であり、今の豪覚和尚は二代目となるらしい。
兄弟子に源覚という人がいるので、俺は順当に行けば四代目予定ということになるのかね。
通常、俺の様に嫡子が出家することは少ないようだが、おじい様が
「この子は唯者ではない。出家をすれば必ず当家に良いことが起こるであろう。」
との御言葉を放ったことにより、七歳で出家し豪覚和尚に師事することとなった。
俺や長法師君には別段の不満はなかったが、父上はあの剛毅な性格から嫡子を出家させることに難色を示したらしい。
しかしまあ、一族の長老と分家の家督候補者では始めから勝負にもならない。
おじい様の御言葉の翌日には既に和尚が迎えに来ていたとのこと。
その後、父上は特に根に持つこともなく「がっはっは」と剛毅に過ごしている。
…剛毅…?
ところでおじい様は三男だと思っていたが、当院の初代様も三男という。
割とどうでも良いことなのだろうが、気に成ってしまった。
後日尋ねたら、おじい様が四男で開祖様は兄にあたるのだそうだ。
どうにも記憶と事実に齟齬があるな…。
気をつけねば。
* * *
久助君は預り人であるが、見知らぬ客分や貴人というわけではない。
当院の日常通りに、一緒に過ごして貰っている。
もちろんまだ幼いし、出家もしていないので、僧侶としての修行は極一部に留まっている。
当院の日常とは。
朝起きて水汲みと院内の清掃。それから畑に行って作物の確認と草むしり。
そして朝餉を準備し、食後は寺の兄弟子らと僧侶としての修行。
昼は畑に行って水を撒き、裏の林で果実を採取。それを使って皆で軽食。
午後は時勢と歴史のお勉強。そしてキリが良いところで林野を駆けて体力作り。
畑では精進料理などに使うため大蒜を育てている。
しかし大蒜って結構身体に良かったような…。
武士たちも普段から食ってた方が良いのではなかろうか。
いつか折を見て提案してみよう。
昼からは大体、孫四郎や彦松も合流してくる。
他にも数名子供たちがやって来るし、寺子屋みたいになってる。
新五郎兄貴は今でも時々やって来て、俺や彦松・孫四郎はもちろん新たに加わった久助君にも隔てなく接してくれる。
少しばかり雑な面もあったが、年長と言うこともあってか常に前に出て俺たちを引っ張ってくれていた。
理想の兄貴というのは、こういう人を指すのだろうか…。
久助君にも、無理をさせない範囲で参加させている。
この辺りの匙加減は主に俺の仕事なのだが…。
今まで彦松にも少し甘く接していた自覚はあるのだが、久助君に対しては相当に甘いと和尚に言われてしまった。
叱るべき時は叱っているつもりだが、最初の彦松との邂逅故に童の涙目にはどうにも弱いのだ…。
難しいなぁ。
それはともかく、ここにいるのは本家・分家の違いはあるが一門ばかり。
気楽にやれるのがありがたい。
久助君にもそう伝えると、まだ解れきってはいないものの笑顔を見せてくれるようになってきた。
順調に仲良くなれているようで安心した。
院の人たちはもちろん、兄貴や孫四郎、久助君らと過ごす日々はとても楽しいものだった。
* * *
このような感じで日々は概ね穏やかに過ぎて行き、和尚の言っていた暗雲云々について、深く考えることはなかった。
大蒜:
精進料理に使われるため栽培されている。
比較的冷涼な地域が生産に適しているとされるが、温暖な地でも育つ品種もある。