第三十六話 斜陽
五月になると、一つの大きな区切りが見られた。
姿を晦ましていた入田丹後一族が、肥後にて見つかったらしい。
その後、逃げ切れないと悟った彼らは自害して果てた。
大友の御家騒動自体はこれで落着だ。
* * *
筑後の大友勢力は、蒲池近江と田尻伯耆を中心として三池上総や溝口丹後らと争っている。
こちらは田尻山城が溝口薩摩を打ち取るなど、大友側に有利に進んでいる模様。
その後も田尻但馬らが手傷を負うなど、戦線は一進一退を繰り返していた。
しかし、大友の筑後守護代・豊饒美濃が酒見下野と共に参戦したことで均衡が崩れた。
まもなく、筑後は大友側の勝利で静謐を取り戻すことだろう。
一方で肥後は膠着している。
国人衆は大半が様子見で動いていない。
明確に反菊池を表明しているのは少代大和くらいだ。
菊池側は筑後の三池上総が乗り込み威を張っているが、それ以外にこれと言った動きはない。
大友は軍勢を整えているだろうし、夏までには大方は片付きそうかな。
* * *
こちらに直接関係する動きとして、少弐屋形の動向がある。
筑後の赤司党からは、その辺りの情報も齎される。
いよいよ肥前に帰ろうとしていたものの、筑後の騒乱により兵が集まらず断念したらしい。
何と言うか、少し残念だったな。
少弐だけ先行して来てくれれば、江上なんぞが幾ら庇おうが討ち取ることも出来たであろうに。
土橋加賀は、少弐屋形らと積極的に接触している気配はない。
まだ大内様の威光が強いからな。
まあいずれ動くであろうし、その時まとめて倒してしまえば良いか。
……慢心にならぬよう、折々に気を引き締めねば。
* * *
暫くして、筑後と肥後にて動きがあった。
蒲池近江が西牟田の一党を多数撃滅したらしい。
流石は蒲池様と言ったところか。
戦ぶりを見たことはないが、戦上手で情に厚い義将と言われている。
情に厚い義将というのは、筑後落ちの経験もあることから大いに賛同する。
そして、如何に情に厚く義将と言われようとも今はこの乱世。
戦が下手では、そこまで人は付いてこない。
蒲池様は家臣らに慕われ、近隣の領主や大友にも信用されている。
間違いなく戦上手なのだろう。
蒲池様の評価はともかく、西牟田一党の力が減衰したのは間違いない。
で、あるならば、筑後の菊池勢力は後退を余儀なくされる。
それを挽回するには肥後を固め、筑後に押し出すのが近道だ。
菊池勢は軍を催し、肥後梅尾にて反菊池を表明する小代大和を攻め滅ぼさんと打って出た。
軍勢には、菊池左京の旗本とも呼べる隈本衆に筑後衆の三池上総の軍勢が加わっていた。
だが、菊池勢は奮わなかった。
小代大和に良いようにやられ、あっさりと引いてしまったという。
何か策があると言う訳でもなさそうだ。
やはり、何事も勢いだけでやるものではない。
入念な準備こそが、何よりも大事だと改めて認識するのだった。
* * *
翌月、ついに豊後大友より討伐軍が発せられた。
そして、この報は瞬く間に筑肥豊州へ拡散していった。
「これで、菊池らも終わりでしょうか。」
小河筑後がそう呟く。
小河筑後は、そのルーツを肥後の菊池に持つ。
その為、少々感傷に浸るところもあるのだろう。
「まあ菊池と言っても、彼は大友一族。唯の身内争いに過ぎませんが。」
例によって、バッサリ切り捨てるのは納富石見。
「大友左衛門督の叔父にあたるのだったか。」
「左様。しかし難儀なものですな。」
菊池左京は、実は先の騒動で亡くなった大友先代・修理大夫の弟にあたる。
肥後の支配を目論んで菊池に一族を入れたのに、結局血で血を争う諍いとなる。
その諍いは世代が変わっても収まらず、まさに修羅の有様だ。
菊池の現当主は大友の一族であるが、元々の菊池一族は俺の元にある。
不思議なものだ。
まあ、これを以て肥後の正統を叫ぶには些か乱暴に過ぎるが。
そもそも、肥後菊池の元は肥前高木の一族だとも言われている。
菊池も元は地名だから、そういうこともあるだろうな。
肥後菊池は守護の家柄だが、肥前高木は今や一領主に過ぎない。
しかし、その菊池は滅亡が時間の問題と考えられている。
一方高木は、その命脈を十分に保つだろう。
果たして、どちらがより良い成果だったと言えるだろうか。
考えても仕方のないこととであるが、俺が龍造寺隆信であるためか、つい考えてしまう。
だからこそ絶対に、間違ってはならないのだ。
「しかし、或いはまだ暫し粘るやも知れません。」
そう口を挟むのは福地長門。
実は今、以前俺が唐突に思いついた繋ぎについて話し合っていた。
石見の吉見大蔵、安芸の毛利備中、筑前の原田弾正への書状は既に届けた。
その結果、概ね良好な回答を得ていた。
「何故そう思われる?」
「大友の本体がまだ動いておりません。」
今後も付け届けなど接触を続けていこうと思っているが、それはともかく。
確かに大友が軍勢を差し向けたが、それも一部の重臣たちであり人数もそれほど多くない。
筑後はともかく、肥後はまだ粘るかも知れない。
そう言えば、報告を届けてくれた赤司志摩も似たような所感を述べていた。
「完全に収まるまでは、奴らの暴発も望めませんな。」
「そうだな。」
やはり、大内様が斃れてからが勝負となるか。
「それと、大友左衛門督は直接出てくるかな?」
「引き締めの意味もありますので、恐らく。」
肥後へ大友当主が直接出張ってくれば、菊池が終わる。
それは別に良いのだが、肥後が大友に完全に靡いてしまうのは余り宜しくない。
肥後と肥前は海を挟んで隣なので、場所によっては船を使えばとても近いのだ。
肥前高来郡と肥後天草郡は、今は共に関係の薄い場所ではあるが……。
「いずれにしろ、菊池らが粘るだけ我らには良いことですな。」
確かにな。
時間が出来ると言う意味で。
「では、本題に入ろう。まずは原田弾正のことだが…。」
本音としては、策に入る前にもっと同盟者を増やしたいところなのだ。
天文十九年(1550年)人物年齢表
<織田兄弟>
信長:17歳、信勝:14歳、信包:8歳、長益:4歳
<武田一族>
晴信:30歳、信繁:26歳、信廉:18歳、義信:12歳、勝頼:4歳、信豊:1歳
<島津兄弟>
義久:18歳、義弘:16歳、歳久:14歳、家久:4歳




