第十七話 龍造寺隆信
一族老臣協議の結果、俺が豊前守様の跡目を継いで宗家の当主となった。
広間には俺が上座に座り、左右に一族老臣が控えて評定が継続されている。
簡易ながらも堅苦しく儀礼に則った当主相続宣誓を終え、一息ついた。
「つきましては、殿には暫し後に嫁御を迎えて頂きます。」
その様子を見計らってか、納富石見の爺さんがいつもの飄々とした様子に戻り、言った。
「嫁…?」
いや、嫁が必要なのは分かる。
豊前守様こと先代様が若くして逝かれたばかりだ。
嫁と言うか子と言うか、その可能性など諸々が必要なのだ。
しかし、誰………まさか?!
「は。先代様の奥方様を娶り、承継して頂きます。」
あぁ、そう…ですかぁ………。
* * *
嫁取りはさて置き、俺が宗家当主となったからには水ヶ江をどうにかしなければならない。
村中と水ヶ江を合一させれば良い。
などという意見もあったが、今のタイミングで分家を無くす必要はないと思う。
そこで、水ヶ江惣領を孫九郎に任せることにした。
新次郎は変わらず西分家、東分家のおじい様の遺領は慶法師丸に、三郎殿の遺領は久助君に譲るものとしよう。
最も後者二名は元服前なので、新次郎と孫九郎にそれぞれ後見させる。
新次郎に孫九郎もまだ後見して貰っている立場だが、まあ些事だろう。
俺は宗家相続にあたり、石井尾張を始めとする側近衆をこちらに引き連れてきた。
その為、水ヶ江では一部人員に不足が生じている可能性がある。
石井党や鍋島一族などから補充するよう指示しておいたが、与力であった納富治部には引き続き水ヶ江に居て貰うことにし、更に追加で与力を数名送っておいた。
本当は堀江兵部などにも来て貰いたかったが、水ヶ江周辺をよく見て貰うために残って貰った。
* * *
後日、後継を決める評議の様子を納富石見の爺さんに詳しく聞いてみた。
大まかには俺の考えていた通りだったが、俺の血筋も評価されたようだ。
俺の母上は宗家筋である刑部大輔胤和様の娘であり、元々宗家の血筋を受け継いでいる。
また、おじい様が生前時折語っていたという言葉も出てきた。
「円月めは大器である。当主とするに何の遜色があろうか。」
おじい様がそんなことを…。
ちょっと泣きそうだ。
また、越前守が辞退したのは本人から聞いたことであったが、己が庶子であったことを理由に辞退したらしい。
更に暫し俺の補佐に就き、その手腕を傍目で見ており仕えるに足る人物だと述べたとか。
良かった、殴らなくて。
孫九郎も兄と慕う俺を差し置いてなど、あり得ないと断じたらしい。
いや、兄と慕ってくれているというのが一番嬉しい。
少しは新五郎兄貴に近づけていると思えるからな。
俺が兄貴から貰ったものを、下の者たちに伝え・与えるのを己の役目だと思っている。
兄貴の享年と同じ歳で、そんな評価を貰えたことは本当に嬉しい。
今後も精進を重ねて行こうと、改めて誓った。
そして、候補者たち二人の票は大きな一票であったようだ。
老臣たちも、今までの歩みを挙げて賛同してくれたとか。
孫九郎を推す者もいたが、最後には賛成に回り満場一致を得たらしい。
ありがたいことだ。
* * *
「時に殿。」
唐突に声をかけてきたのは雅楽頭様。
「外交は先代様と同様で宜しいか?」
そうか、当主交代のお知らせとかしないといけないよな。
「良しなに頼む。」
「承知した。」
雅楽頭様とこういったやり取りをするようになるとは、何とも言えない気分になるなぁ。
ふと、雅楽頭様が微笑を浮かべた。
「なんでしょう?」
「ん?…ふふ。いやなに。立派になったと、そう思ってな。」
雅楽頭様とまともに会話するようになったのは筑後落ちの時だ。
あれからまだ三年程しか経っていないのだが、色々あったせいか結構経った気がするな。
雅楽頭様もそう思ったのだろう。
「まあこれからも大変だが、お主ならやれると思っておる。気張れよ?」
「ええ。精進します。」
雅楽頭様はこうして時折、一族の年長者として振る舞ってくれるからとても有難い。
目上の年長者って、貴重だよな。
特に当主ともなれば。
先代様も、気苦労が多かったのだろうな…。
* * *
雅楽頭様の意を受けた福地長門が周防に飛び、無事に相続の連絡を行えた。
また、大内家中に依頼と言う名の根回しを行い、大内義隆から偏諱「隆」の字を頂くことにも成功した。
その知らせを受けた俺は、早速名乗りを変えた。
”龍造寺民部大輔隆胤”と。
石見爺さんなどからは、官位も依頼せよとのお達しがあり福地長門は再度周防へ飛ぶこととなった。
また、下につけた「胤」の字も元々は千葉の字であるので、この際変えてしまえばとも言われた。
しかしこれは、先代様から新五郎兄貴の一字を貰ったというものであるので、おいそれと止めることは出来ない。
…そう思っていたのだが、有能な福地長門があっさり大内様より官位と名前を貰ってきた。
名前はともかく、官位は大内様から正式に幕府と朝廷へ働き掛けられたものだ。
時間的にも、このようにアッサリ貰えるものではない。
どうも、最初の連絡から働き掛けを行っていたようだ。
雅楽頭様の先見なのか、福地長門が優秀なのか、納富石見爺さんが謀ったのか。
いずれにしても悪いことではない。
褒める他ないのだが。
何となく釈然としないだけだ。
官位は従五位下で「山城守」
名前は「隆信」
これは、大内様が千葉の「胤」の字を嫌って旧名「胤信」の「信」を生かした結果だった。
そのように話を持って行った福地長門はやはり優秀なのだろう。
石見爺さんの内意を受けて動いていたようだ。
流石、と言うべきか…。
まあ頂いてしまったものは仕方がない。
兄貴の意思は心で持っておくのが良いと考えることにしよう。
こうして俺は、”龍造寺山城守隆信”と名乗ることになった。
「隆胤」と名乗った期間は一月とちょっとしかなかった。
文書への署名でも結構レアものかもしれない。
それはともかく、やはり龍造寺隆信だったんだな。
肥前の熊、ここに誕生か。
いや、熊などと渾名されぬよう頑張るべきだ。
個人的には獅子とかカッコイイと思う。
その為には、まず新次郎の武才を越えるところからか。
…無理そうだな。
諦めよう。
というか、二つ名とか渾名とかを気にせず精進するのが一番だ。
天文十七年(1548年)主な生誕武将
大崎義隆、吉川元長、榊原康政、田中吉政、本多忠勝、山名豊国




