回想
わずか二週間ほど前まで、俺はこの国の兵隊だった。
名をバルタという。
平民上がりの俺には姓は無い。
だが剣士長として二十人ほどの部下を従え、仲間内では剣の腕も立つほうで、「長剣のバルタ」といえばちっとは知られた名だった。
早くに両親を戦で亡くしてすぐ、たった一人の肉親になった妹を養うために軍に入った。
今考えても最善の選択だったと思っている。
剣の筋が良かったことと、妹のためにも絶対に死ねないという責任感が功を奏し、俺は順調に戦績を上げ、軍での居場所を固めていった。
二十を少し過ぎたころにはもう剣士長として部下を任せられ、決して裕福ではないが、食うには困らない生活に、俺は十分満足していた。
まだわずかに二週間前のことだというのに、軍や部下たちのことを思い出すとたまらなく懐かしい気分になる。
こういうのを感傷的っていうのかな?
目なんぞ閉じなくても次々に思い出せる。
禿げ頭のエゲト。
太っちょのハダト。
隻眼のエルナー。
のっぽのヨナキエ。
洒落者のウィルコット。
青っちろい顔したアレイネ。
力自慢のアポリオス。
喧嘩っ早いザファルト。
歯抜けのガオノック。
酒好きでいつも赤い鼻したレスファーゴ。
何度切れと言ってもうっとうしい長髪を切らなかったフェルカネン。
暑苦しい口ひげのオレクス。
両腕に悪趣味な刺青を入れてたコルドール。
二年前の戦で右足を無くし、以来義足のシャムイル。
隊長の俺を差し置いて所帯持ちやがったセルフェイドス。
どいつもこいつも俺みたいなのをそれなりに信頼してくれて、戦の時も、そうでない時も、なにかにつけてよく支えてくれたよ。
奴らの前じゃあ照れくさくてとても言えなかったが、俺はほんとに心の底から奴らに感謝いていた。
実際、戦さえ除けば、毎日の訓練なんぞ苦にもならないほど、楽しい日々だった。
そんなある日、俺の隊に新人が入ってきた。
俺らと同じく平民出のグラドという若い奴だった。
えらく生真面目だったが、人好きのする奴で、俺はよく面倒を見て可愛がった。
剣の腕もなかなかのもので、飲み込みも早く、信頼できる部下が増えたことに俺は素直に喜んだ。
しばらくして色々と話を聞いてみると、グラドはうちと同様、先の戦で家族を失っていた。
しかも全員だ。
国境近くに住んでいたグラドの家族は、運の悪いことに敵味方の両軍がぶつかり合う真っ只中で、全員が散り散りになったらしい。
戦闘が終わった後、運良く生き延びたグラドは家族を見つけようと戦の跡を三日も探し回ったそうだ。
結果、発見したのは別々の場所で惨殺されていた両親と二人の兄の姿。
ただでさえひどい傷で見る影も無かったその遺体は、腐乱してさらに判別困難だったという。
そしてその時、まだ八つだったグラドは、軍の孤児院で兵員候補としてつい二年前まで生活していたようだ。
聞いた話でしかないが、軍の孤児院は決して環境のいい場所じゃない。
その証拠に、グラドは孤児院時代に受けたという折檻の跡を見せてくれた。
鮮やかな赤毛の前髪をかき上げて見せられた大きな額の傷は、まだ幼さの残るグラドの笑顔と相俟って、俺はひどく悲しくなった。
俺は妹…ああ、名前を言ってなかったな。
妹の名はエダという。
俺はエダがいてくれたからまだましだが、グラドは家族が全滅だ。
さぞ辛いだろうという同情心があったのは確かだ。
以来、グラドをよく家に招き、俺とエダの三人で食事を囲むことが多くなった。
自分でも少しまずいかと思うほど、そのころの俺は奴には特別に目をかけていた。
多分、よほど奴のことを気に入ってたんだろうな。
一番の新入りに、こんなに世話を焼くなんてさ。
そんな日々が過ぎていったある日、俺はエダとグラドから交際の許可をくれるよう頼まれた。
自分でも鈍感だと思うが、二人は随分前から好きあう仲になっていたらしい。
言われてみれば、グラドを誘った日に限ってエダはやたら張り切って料理をしていたし、幾分めかしこんでいた気もする。
妹の自慢をするのもどうかと思うが、変にめかしこまずとも豊かな巻き毛の黒髪と、輝くような鳶色の大きな瞳を持ったエダは、兄の目から見ても並みの美人より上の部類だ。
まあ、そんなことはさておき、
もちろん俺は二人の交際を快諾した。
そのころには俺もグラドを弟のように思っていたし、なにより純粋に家族が増えることがうれしかった。
ほどなくして二人は結婚の約束をすることになり、俺は二人と一緒に幸せをかみ締めていた。
衣食住の揃った生活、やりがいのある仕事、信頼すべき仲間達、愛すべき家族。
思えばこの時が俺にとって人生最良の時だったのだと思う。
だが、神様っていうのはどうしようもなく性悪だ。
決して幸福とは言えない自身の身の上にはひとまず目をつむり、ただささやかな幸せを掴もうと俺なりに努力を重ね、ようやくそれが報われたと安心したその途端さ。
人をさんざんいい気持ちにさせておいて、天国から地獄に引きずり落としやがる。
罰当たり?
ああ、けっこうだね。
何度だって繰り返し言ってやるさ。
神様って奴は俺の知る限り、最低のクソ野郎だ。
二人が結婚の約束をしてからわずか数日後のことさ。
妹のエダは突然病に侵された。
医者の話によれば、どうもかなり厄介な病気とのことだったが、お世辞にも多くはない俺の稼ぎで妹の治療に専念するのは実際のところ、極めて難しかった。
しかもそんな面倒な折、最悪のタイミングで隣国とのでかい戦が始まっちまった。
病床の妹を一人残していくのはそれこそ身を裂かれるように辛かったが、その辛さはグラドとて同じことだったろう。
しかし俺たちが兵士であるというのは悲しいが歴然たる事実だ。
当然、俺とグラドも戦地へ向かうこととなった。
そしてそこは今までの戦場の中で最大、最悪の場所だった。
こちらの国境警備の要所として作られたはずの強固な砦が、どこかの間抜けどものせいで敵に奪取されたのがケチの付きはじめさ。
俺たちはなんの因果か敵味方の間で揃って難攻不落と称えられてきた砦を向こうに回して戦うことになっちまった。
とはいえ、悪いことばかりだったわけでもない。
いや、先のことを考えれば素直にそうとも言えないが…、砦は敵に奪取される際に受けた大規模な攻撃によって、ほとんど砦としての機能を失っていたため、それを取り返す身のこちらとしては少なからず攻めやすかった。
当初予定していた一ヶ月の攻撃が、半分以下の十日前後で終わった時は素直にそのことを喜んだ。
だが、それが完全なぬか喜びだったことに気づくのに、そう時間は必要なかった。
正直なところ、その時は現実から目を背けたくて堪らなかったよ。
砦の機能が壊滅していることに気づいていた敵軍が、これを好機とばかりにとてつもない大軍を率いて一気に攻め込んできたのは、砦を取り返してからわずか半日後のことだった。
それは例えではなく、まさしく本物の地獄だった。
恐ろしいほどの数で襲い掛かってくる敵軍。
遅々として到着しない味方の増援。
底を尽き始める食料と装備。
雨のように降り注ぐ敵の矢が、空を黒く染める光景を俺はかつて見たことが無かった。
想像すらできないほどの劣悪な状況の中、それでも俺たちは敵味方の屍を踏み越えながら、不眠不休の戦いを続けた。
大量の血を吸った土と錆び付いた鉄の匂いが辺りを包み込み、もし食料があっても反吐を吐きそうな凄惨な戦場で。
仲間は次々に倒れていった。
一日目にはアレイネとオレクス。
四日目にはハダト。
八日目にはウィルコットとアポリオス。
十日目にはヨナキエとザファルト、さらにガオノックとレスファーゴ。
十五日目にはエルナーとセルフェイドス。
一日の戦いが終わるたび、点呼に答えぬ仲間の名が胸に突き刺さる。
戦闘終了後の点呼はごく基本的な日課だ。
そしてその日課から、俺は一日でも早く解放されたいと毎日、切に願った。
奴らの身内に訃報を伝えることを想像するだけで、気が重い。
失った仲間達の穿った穴は、体以上に俺の心を蝕んでいった。
そんな戦がどれほど続いたころだろうか。
俺たちに最後の命令が下された。
「大規模な増援が約半日後に到着する。それまでこの拠点を絶対に死守せよ」
無論、増援なんぞこれっぱかりも期待はしていなかったが、下された命令は絶対だ。
俺の部隊はすでに半数以上が戦死し、残った連中もすでに疲れ果ててまともに戦えるような状態じゃあなかった。
正直なところ、手ひどい傷こそ受けていなかった俺も、半ば心が折れかけていた。
だが、そんな中でもグラドは一人、もはや尽き果てたはずの力を振り絞り、必死に戦っていた。
思えば、奴は俺以上にエダを残していくわけにはいかないと考えていたのだろう。
実の兄である俺は自分の体たらくに情けなくなった。
最後の戦闘が始まったとき、俺は朦朧とする意識の中、それでもなんとか生き残ろうと必死に足掻いていた。
もはや握力を失った手に、湿した布でくくりつけた剣をがむしゃらに振るい、なんとしても生きようと執着し続けた。
次々と襲い掛かる敵に息継ぎもままならず、陸に打ち上げられた魚のように無様にあえぐ自分の姿に、最早ここまでかと諦めかけたときには、せめてグラドだけでも生き延びさせようと、奴の背を守るように戦っていたが、その当のグラドにも確実に限界が近づいていた。
そんな時、俺は混乱する戦場の中で一瞬、グラドの姿を見失った。それが全ての悲劇の始まりだった。
次の瞬間、再びグラドを視界に捉えたときは、もう全てが遅かった。
グラドは右胸を敵兵の剣に深々と貫かれると、同時に右手に握っていた剣を力無く地へ落とし、両の膝を土に突き立てていた。
俺はまるで時間が間延びしたような錯覚に見舞われた。
今、自分の見ている光景を現実として認めたくなかった。
俺は自分からとてつもなく大きなものが奪われていく感覚に苛まれ、必死にグラドの元へ駆け寄ろうとした。
少なくとも、その時の俺にはそれが無意味な行為だということを理解する力は残されていなかった。
ゆっくりとした時間の流れを錯覚しながら、見つめる先の光景は進んでいった。
敵兵は突き刺した剣を抜き去ると、そこからグラドの血が、命が、溢れるように流れ出すのが見えた。
俺は気が狂いそうだった。