第9話
両者楽しそうに睨み合う。そこでヘレンが意外な事を口にした。
「遊んで欲しけりゃ着いてきな」
口調は全くいつものヘレンだが、『場所を変えよう』と言ったのだ。ヘレンならこの街がどうなろうとも構わないはずだ。本当に何か変わりつつある。
「ふん!生意気な餓鬼だ!いいだろう!」
ドスの効くガラガラ声でそう笑った。ヘレンはフッと笑うと、再びドラゴンに乗り、何も無いような荒地の方へ飛んだ。飛び去るヘレンに声を掛けるミジェルだが、ヘレンは笑って振り向き手を振っただけだった。
「俺達も行くだろ?」
ミジェルは急ぎ気味に言うが、ティランは冷静な口調で言った。
「俺は気になることがある。2人で先に行っててくれ」
そして逆方向に歩き出した。一度顔を見合わせた2人だが、ヘレンの方へ向かうことにした。
*
ティランはある場所へ来ていた。・・・ロスティロードだ。
ヘレンが自分たちの所に来る前、ティランは千里眼を使っていた。その時に見えた青年が気になったのだ。ヘレンが変わりつつある原因であると確信している。
目を瞑って歩きながらその青年の家を探す。そして視界の隅に金髪のあの青年を見つけた。ベッドの上に座り、背もたれに寄りかかり厚めの本を読んでいた。
ティランは気配もなくふっとルディアの隣の壁に寄りかかり、腕を組んだ状態で現れた。
「お前が最近ヘレンと遊んでる奴か」
いきなりの声に少し驚くが、自然に声の方向に振り向いた。するとティランは続けた。
「・・・アイツに何を吹き込んだ?」
ルディアは何のことか分からず首を傾げた。その様子を見てティランは静かに口を開いた。
「最近アイツは変わってきている。心無しか表情も穏やかになったし、人間を襲う事をしなくなった。まァ最も、誰かさんと遊んでるおかげでそんな暇も無いんだろうがな」
そこまで聞くと、ルディアはふわりと笑った。
「俺は何もしてないよ。ただ俺が構って貰ってるだけ」
そして静かに本を閉じ、脇にある机の上に置いた。そのタイトルは魔物と人間に関わるものだった。
「ヘレンが丸くなったというのは街の人から聞いてる。でも俺はこの通り一日中ベッドの上。そんな頻繁に外になんて出歩けない。だから怖いと言われていたヘレンのことは何も知らないし、初めて会った時も怖いと思わなかった」
普通の人間に魔物の力量など知る余地もない。だからといって、目の前に強い魔物がいても何も感じない事はないだろう。直感的に逃げたくなる衝動に駆られるはずだ。幽霊を見て逃げ出すような感覚。それを感じないとしたら『力』のあるものか余程抜けてる奴くらいだろう。それでも目の前の青年は物怖じせず、こうしてティランとも普通に話すことが出来る。
ヘレンはそんな所に惹かれたのかもしれない・・・。
「お前・・・」
ニコリとこちらを振り向くルディア。何て穏やかな男・・・。
「面白いな。名は?」
フッと笑い壁から離れて腕くみもといた。
「ルディア・ラストフォンド。君は・・・」
「ティラン・ハラウェルエム」
ルディアが言い終わる前に名乗った。そしてふっと笑って「よろしくな」と言った。
「俺が来たことは内緒だぜ?」
帰り際、そう言って笑った。
*
荒れ地にて魔力がぶつかり合う。お互いに使い魔は使わず、自らが術を使って戦っている。激しい戦いだが、ナトルとミジェルは手を出していない。それはヘレンが楽しそうだから・・・。
そんな中、一際激しく攻撃が跳ね合った。それと同時にティランが到着した。
「ティラ~ン!どこ行ってたんだよー!」
ミジェルが笑って声をかけてきた。ティランは笑って「ちょっとな」と言っただけだった。ルディアの事は黙っているつもりらしい。
ヘレンの方を見ると、一旦攻撃は互いにやめている。どうやら何か話しているようだが、大男は身振り手振り激しく会話をしている。ヘレンはそんな大男の前で、片手を上着のポケットに入れて、もう片方は軽く頭を掻いていて、怠そうな目をして見上げている。
一段落ついたかと思ったら、ヘレンはいきなり砲弾のような丸く速い魔術を大男の腹に命中させて、除けられなかった大男は腹を抱えて蹲っている。そしてヘレンはそのまま戻って来た・・・。
何だか奇妙な光景を見た3人。やはり怠そうな目をして歩いてきたヘレンにミジェルが尋ねた。
「・・・どうした?」
するとヘレンは普通に答えた。
「飽きた」
そして眠い、と・・・。大男は納得いかずに講義していたようだが、と言うのもやる気のない相手と戦うのはつまらないらしく・・・。しかし「しつこい」と一瞥されてああなったという。
殆ど手加減無しの一撃だったようで未だに蹲っているが、ヘレンは全く気に止めず帰路についた。しかしこちらの魔物サイドも強いと言うことが分かっただろう。
若干の哀れさを感じたが、3人もそのまま放置することにした。
*
そんな日から数カ月が経った頃、ルディアの容態が悪化した。もう外に出ることは出来ない・・・。
ヘレンは殆どをルディアと共に過ごしていた。あまり動いてはいけないルディアの看病までしていた。ヘレンは料理が作れるようになったし、掃除も出来るようになった。
定期的にやって来る医者も、ルディアがヘレンと関わっていることを知らないため、いつも綺麗なことに疑問を持っていた。ルディアがやっているものだと思い「あまり動いちゃ駄目だって言ってるじゃないか」と注意したこともあったが、「俺じゃないですよ」と笑顔で返された。住民もヘレンのことを知らない。見つかりそうになると透明化して隠れてしまうからだ。
優しくもどこか切ない日差しが降り注ぐ夕方頃。今日もヘレンはずっとルディアを看ていた。
「いつもありがとうね」
その言葉だけで嬉しかった。何でもしてあげたいと思った。こんな感情、何て言うんだろう・・・。今まで感じたことのない感情にもどかしさを感じていたが、今はルディアの笑顔を見ているだけで十分だった。
脇に座っているヘレンに穏やかで心地良い声がヘレンを呼んだ。
「ヘレン」
微笑みのようないつも落ち着く笑顔に笑いかけると、ルディアは話し出した。
「やっぱり今も、人間は嫌いかな?」
少しだけヘレンの弧が薄れたが、元に戻して答えた。
「ルディア以外の人間は好かないよ」
「そっか」とクスリと笑う。
「俺、人間でしょ?他の人たちも同じ人間・・・。もし俺がヘレンの前から消えても、成るべく優しく接してあげてくれないかな」
「死」と言う現実が迫っていることは分かっていたが、敢えてその言葉は口にしなかった。
そんな言葉を聞いたヘレンの表情は一気に悲しみを表した。眉は下がり、もう弧は描かれていなかった。
ルディアはその悲しげなヘレンの頬にそっと手を伸ばすと、眉をさげて困ったように微笑んだ。
「俺からのお願い、難しいよね」
ヘレンは頬に触れた手を優しく包むと、眉は下がったまま唇に弧を描いた。
「なるべく・・・ね」
それを聞いたルディアは嬉しそうに笑った。
ルディアは嫌だったのだ。自分が好きなヘレンが恐れられ嫌われることが。街を歩き、忌み嫌われるヘレンであることが。そんな視線が嬉しいはずがない。ヘレンにもきちんと人間と向き合って欲しいのだ。
ある日ヘレンは食材の買出しに出向いた。人間のものを買うのは初めてだ。もしかしたらヘレンには売ってくれないかもしれない。それでもヘレンは構わないと思っていた。それならそれで、山に出向いて調達してくるまでのこと。
そんな気持ちで渡された紙を片手に商店街をうろつく。『ヘレン・ルートフィア』という存在は誰もが知っているが、実際に見たことのある人は山に来て襲われたことのある者か、街中で起こった騒ぎを見た人くらいだろう。しかし食材を売る人ならば顔を知っている者の可能性は高い。
ヘレンが主に頼まれたのは野菜類だ。そして肉が少々。
八百屋らしき店の前に来ると、「いらっしゃい!」と言う元気な主人の声が聞こえてきた。ヘレンはその主人を見る。・・・いや、その主人の目を見る。しかし特別嫌な感じはせずに、一人の客として見ている目だった。
ヘレンはぎこちなく野菜の名前を言うと、主人は愛想良く揃えて持ってきた。そしてあっさりと購入でき、その店を後にしようと背を向けた。その時、通りすがりのおばさんが主人に言った。
「ちょっとアンタ、アレはヘレンだよォ?!知らなかったのかい?」
聞き流すように聞いていたヘレンだったが、主人は愉快そうに笑って言った。
「そんなこたぁ分かってるてぇ!」
ヘレンは思わず一瞬足が止まりかけた。
「ものを買いに来るもんは皆客だ!」
アンタ正気かい?なんておばさんの声がしていたが、主人は「おうよ!」と元気に返していた。
それを聞いたヘレンは少し振り向いた。すると主人はニカッと笑って手を振った。ヘレンは前に向き直ると、何だか複雑な気分だった。
そんな時、ルディアの家にはティランが来ていた。ルディアは口が固いようでヘレンには話していない。
いつもヘレンが腰掛けているベッドの脇にある椅子にティランが腰掛けた。
「ねぇティラン、いいかな」
いつものように笑顔で話かけるルディア。「駄目なんて言うかよ」と笑ったティラン。そもそもここで駄目だなんて言ったら何故そこに座っているって・・・。
「ティランは、ヘレンのことどう思ってる?」
その問いにティランはふっと笑った。
「大切だよ。でも仲間としてだから安心しな」
その答えにルディアも笑った。
「含みのある言い方。でもその通りだよ。俺はヘレンが好きだ」
ティランも笑っている。ルディアは続けた。
「そこで、最初で最期の頼みがあるんだけど、いいかな」
ティランはルディアの死期が近いことを受け入れている。「あぁ」と答えるティランの表情にも穏やかなものがあった。
「俺はもうすぐ死ぬ」
そんなティランの心情を察したようで、今度はハッキリと「死」を口にした。しかしそれでも、いざそうと言われると少し悲痛な表情は隠せない。
「俺が気になるのはヘレンのこと・・・。自分で言うのもなんだけど、俺が死んだらヘレンは凄く哀しんでくれると思う。打たれ強いと思うけど、そこんとこフォローしてほしい。」
コクリと頷くティラン。
「そして、これが一番重要」
そう言うと、ルディアは少し目線を下げた。言葉にするのに気が引けることなのだろうか。
「ティランは魔物だから知ってると思うけど・・・。俺は死んだあと、『血の涙』の実験体になるんだ」
・・・時が止まった。鼓動が速く、胸が苦しい。しかしルディアは続けた。
「このことは絶対にヘレンには言わないで欲しい。国から羽振りが良いほどの援助を受ける代わりに、死後の体を差し出す条件になってるんだ。俺は独り身だから別にいいかなって思って受け入れたけど、その条件をのまなかった人達は、秘密を知った者として特別な場所に送られ過ごす。これは‘人’に話しちゃいけないことだって言ってたけど、‘ティラン’は平気だね」
まだ驚いていたが、そんなこと言うルディアに「食えない奴」と小さく笑って言った。街に一人も浮浪者がいない理由も分かった。
「ヘレンにはなるべく人間と仲良くしてほしい。言ってる意味分かる?」
「・・・あぁ」
お前が言ってるのは全部ヘレンの為のことじゃねーか・・・。
「だから、そんな事を知ったらヘレンは元の人間嫌いに戻っちゃうと思うんだ。死んだ後の俺の体がどう扱われるのかは知る余地もないけど、もし逆の立場だったら、死体でも好きな人にそんなことする人たちを許せないかもしれないから」
ティランは眉を寄せて遣る瀬無い表情をしていた。しかしルディアはニコリと笑っていた。
「・・・分かった・・・」
ティランは目を閉じ静かに言った。
その数分後、ヘレンが帰って来た。ティランは既に帰っていて、気配を微塵も残すことはなかった。
「おかえり」
さっき話していたことなどまるで関係無いように自然な笑顔で言った。いや、ヘレンを見ると自然と笑みが溢れるのだ。
「ただいま」
にこりと言い返す。ヘレンは買ったものを見せながら言った。
「あのね、お店の人たち、‘私が’買いに行っても全く普通だったんだ。客として、嫌な目も無かった」
不思議そうに話すヘレンだが、ティランは嬉しそうに笑った。
「それは良かった」
ルディアは、店の主人達が‘誰に対しても’親切であることを知っていた。ヘレンを買い物に行かせた理由でもある。場所も指定した。
「少しは人間見直してくれた?」
ニコリと首を傾げるルディアに、ヘレンは戸惑いつつも「う・・・ん。少しだけ、ね」と控えめな笑顔で言った。するとまた嬉しそうに笑った。
それからは、何度かヘレンを買い物に行かせた。そして帰って来る度にヘレンは人間の感想を口にしていた。ヘレン自身が優しく接しているわけでもないが、優しく接されるだけで大きな収穫だった。ヘレンは街ゆく人達を観察するようになったと言う。
しかし、人間達を知ってゆくにつれて、ルディアの命は小さくなっていった・・・。
*
ルディアと出会った日のような天気の良い日。窓から弱くオレンジの日差しが差し込む室内、その静けさに導かれるように、いよいよ‘その時’が迫ってきていた。
ヘレンは椅子ではなく、床に膝をつき、腕をベッドに置いてずっと間近でルディアの顔を見つめていた。既に力なく横たわるルディアは、薄く目を開いてヘレンを見つめている。まだ生きている、と目で伝えている。そしてゆっくりとヘレンに振り向くと口を開いた。
「ヘレン、・・・聞いて」
その声にヘレンは一言も聞き逃すまいと更に身を乗り出した。愛しげにルディアを見つめて。
「俺の最期のお願い・・・」
最期だなんて言わないで。そう喉まで出かかったが、ヘレンは愛しい声に耳を澄ました。
「ヘレンには、仲間がいるね・・・。その仲間達のように、人間にも優しさを持って欲しい・・・。ヘレンには、俺にくれたような『優しさ』を、俺みたいに一人でいた人たちにも分けて欲しい・・・。そして何より、ヘレンが一人にならないでほしい・・・」
その言葉で、今まで買い物に行かされていた意味にようやく気がついた。ヘレンは若干の涙声で返した。
「ルディアのお願いなら・・・約束する」
そう言うと、今までにないくらいの微笑みをくれた。喜んでくれているのに、素直に喜べない。
「ありがとう・・・。あと、ずっと言いたかった事があって・・・聞いて」
穏やかな笑顔に胸が苦しくなる。いつもなら胸弾むはずのこの大好きな笑顔が・・・。
「俺ね、ヘレンのこと、本当に大好きだよ」
その瞬間、堪えきれなくなった涙が溢れだした。
私が感じていたものは、この気持ちだった。『好き』という、ただそれだけのシンプルで温かい気持ちだった。
「ずっと忘れない・・・何よりも大切な‘人’が、ヘレンなんだ」
例え胸の苦しさを感じてもずっと見つめていたいのに、涙が視界を邪魔する。そんな涙を静かに指で拭うルディア。その手を優しく、冷えてきた体温を温めるように強く握りしめた。
ヘレンは後悔したくないと思い、もっと聞きたいはずの声を堪えて声を振り絞った。
「ルディア、私ずっと毎日楽しかった。笑顔ばかりをくれるルディアが大好きだった。笑いかけてくれるルディア、どんな時でも優しいルディア、本当に大好き。何よりも代え難い毎日だった。毎日ありがとうと思った。今もこれからもずっと想ってる。ありがとうルディア」
・・・なんだよ。何も恥ずかしくないじゃないか。言ってみたらどんどん出てくる『ありがとう』。もっと早くに気付きたかった・・・。『ありがとう』と伝える事が恥かしい事なんかじゃなくて、嬉しい事なんだって。
「私も、ルディアのことが本当に大好き・・・」
そして優しく唇を交わし、愛を伝えた。名残惜しくゆっくりと離れるヘレンに、ルディアがまたふわりと笑った。
「ありがとう・・・。・・俺から・・話し相手を頼んだのに・・・俺から消えてごめんね・・・。俺、最期が一番・・・」
だんだんと声が小さくなってきた。それに連れて目も少しずつ閉じて来た。
失いたくない思いで、しかしハッキリとその声と顔を見届けるため、涙を押さえ込み見つめ続けた。
「・・・幸せだよ・・・・・・・・・ヘ・レ・・ン・・」
・・・愛しい人の名前を呟き、幸せに満ちた微笑みを浮かべつつ、ゆっくりと目を閉じた。
数秒間はじっと見つめ続けていたヘレンだが、恐る恐る声をかけた。
「・・・・・・ルディ・・ア・・?」
まるで眠っているかのような、いつもと変わらない優しい微笑みに声をかけるが返事はない・・・。
「・・・ルディア・・・!・・ルディァ・・!!」
だんだんと悲痛に大きくなる自分の声。もう返事をすることはないと、頭では分かっていても認められない。
そのうち返事をしてくれるんじゃないかと思わされる優しい微笑みが、このとき初めて残酷に思えた。
「・・ルディア・・・」
何度呼びかけても返事が帰って来ることは無かった。ついさっきまで動いていたその口、その目、そしてもう聞こえない、大好きな優しい声・・・。
・・・ルディアはもう・・・――――。
現実はいつも望んだ結果になる保証はなく・・・。その微笑みを見つめていて、ルディアとの思い出が蘇ってきた。魔物に乗せたり、他愛もない会話をしたり、沢山笑った・・・。
初めて会った時も微笑みが道を教えてくれた。この微笑みが、いつもヘレンを導いてくれていた。いつも笑って、‘何か’を教えてくれていたのだ。
「ルディア・・・」
伝えても伝えきれない想いをのせて、まだ温かく柔らかい唇にキスを落とした。
――――優しく、しょっぱい味がした。