もう一つの始まり
千裕がこの世界に現れると同じくして嘶いた竜の咆哮は、竜都『ヴァラノワシル』の全民の耳にも届いていた。そして北の山より空へ駆けのぼる姿はまさしく伝承通り。
それはつまり、この竜の都だけでなく、この国全体においても、四百年ぶりに竜の姿を確認した、歴史的一大イベントであった。
竜都ヴァラノワシルの中央に存在する『降竜殿』。
千年より歴史のあるエルミュシア王国の中で、とりわけ特殊な意味を持つ場所。
国の開拓の際、初代王とともに国を創り上げた竜の住まう場所として作られた大神殿。その規模は、王都にある王城よりもさらに巨大な建造物。
この神殿を所有するがゆえにこの街は“竜都”という呼び名を持つのだ。
そして、この神殿にはたった二人の責任者と管理者が詰めているだけで、あとはシンと静かな空間だった。
黒に金縁の法衣を纏う清楚で可憐な少女はこの神殿の巫女――つまりは責任者と、白衣に身を包み眼鏡をかけた妖艶な女性は巫女の従者であり主治医。そして神殿の管理者だ。
その二人が一室でいつものように他愛のない談笑中を交わしている時だった。
グオオオオオオオオオオオオヲヲヲヲヲヲ!!!!!!
ここでも当然、北の山より聞こえる竜の咆哮が響きわたっていた。
その声を聞いたとたん、白衣の女性は思わず銜えていたタバコを落とすほどの衝撃をうける。
「おい……今、竜の鳴き声が聞こえた気がしたんだが……」
だが、その言葉の音色からは、驚きよりも呆れた感が強かった。
「ですね。ついにやってきたのでしょう、あの方の伴侶が」
少女は女性の言葉にも笑みで返しながら、窓の外を見れば、空にその優雅な巨体を躍らせ舞う竜の姿が確認できる。
「うへぇ、わざわざあの竜の犠牲にたるために、遠いところからご苦労さんだな」
「あのですね、その方は犠牲ではありません。あの方風に言うなら花嫁です」
「だが、あの異邦人風の言葉にならえば間違いなく生贄なんだけどな」
お互いの視線が交わる。長い付き合いだが、本音と建前を使い分ける少女と、本音とイジワルな言葉を使いわける女性とは、こういった場面では相性が悪い。
お互いにらみ合って――というより、少女の方が一方的に脹れた顔を見せて無言の時。
「それで、我が降竜殿の巫女様としましては、この状況をどうなさいますか?」
ここでヘソを曲げられたら話しが進まないので、女性の方から折れて、話しを元に戻す。
「それは当然、あの方達の元へむかいますよ。伴侶の方は、この世界のことを何も知らないでしょうし」
「そうだな。なら私も付いていこう。再びこの世に現れた異邦人の姿を見たいしな」
あなたは降竜殿に住んでいるのだから、ついてこなくても見れるでしょう、と少女は呆れたように溜息をついた。
「私は医学知識もあるのだぞ。異邦人の容体次第では出番があるやもしれん」
「それで、本音としましては?」
「当然、あの竜の相手をする不運なヤツをいの一番に笑いたいからだ」
永い付き合いだが、目の前の女性の性根の悪さはどうにかならないものか、といつも頭を悩ませるところだ。しかし、こんな性格だからこそ共にいられるのだと言うこともまた知っている。
「それでは早速参りましょうか。王都の方にはすでに早馬は出ているでしょうし、使者が来る前に伴侶の方にはできるだけ事情を知っていてもらいたいので」
「だな。ひひひ、さてどんなヤツが来ているのやら」
気味の悪い笑いは止めてくださいと、頭をはたいておく。
そして二人は立ち上がり、懐かしき竜のもとへ向かって歩き出す。
あの日交わした約束と、これから始まる日々のために。