桃太郎おじさんの写真
1
店員の引きつった笑顔を見て、熊野は察した。封筒を受け取り、そそくさと店を出た。
エレベーターホールの長椅子に座り、写真を取り出す。肺に残っていた空気が、ため息となって吐きだされる。写真店が入った商業施設を出ると、すでに日は暮れており、どんよりとした雲が空に広がっていた。熊野は背中を丸めながら家路についた。
国道から細道に入り、二階建ての安アパートの外階段を上る。熊野の足が止まった。廊下の先、階段からいちばん離れた自室の前に、女性が立っていた。
切れ長の目に、細く濃い黒の眉。背中まで伸びた黒い髪がやわらかく揺れる。笑顔はない。無表情。嫋やかで、凛として、さながら、確たる芯を自身の内側に秘めた、一輪挿しでも、色とりどりの花束に劣らない、“見事”と形容される花のような――
「熊野大紀さんですよね」
よく通る声だった。こげ茶色の革かばんを両手でつかみ、前におろしている。女性は若かった。若すぎた。紺色のブレザーに、プリッツスカート。学生だ。待ち伏せていた女子学生が、自分の名前を呼びながらこちらに近づいてくる。警戒せずにはいられない。ふたりの距離はほんの一メートルまで縮まった。
「そうだけど」
熊野は返事をした。女子学生はかばんの中に手を入れる。中から出てきたものは――
「……拳銃?」
女子学生が引き金をひく。乾いた音。熊野の右手にかすかな痛みが走った。右手を見る。特に異常はない。それより、足元に転がる、黄色い小さな玉に意識をとられた。
「この。この。くらえ。くらえ」
女子学生は繰り返しエアガンの引き金をひいた。乾いた音が聞こえると同時に、熊野にBB弾が当たる。熊野の口から狼狽の息がもれた。
「はっはっは。いい気味です。今なら謝れば許してあげますよ。それともどうします。警察でも呼びますか。できませんよね。いい年をした男が、女子高生に痛めつけられて警察に泣きつくだなんて、恥ずかしくてできるはずがありません」
「なるほど。それで熊野さんは110をしたわけね」
数分後、熊野の通報により、近くの交番から警察官が駆けつけてきた。
熊野がためらいなく通報するや否や、女子学生は慌てて逃げだそうとした。しかし、唯一の逃げ場である外階段と自身の間には熊野がおり、逃亡は実行の前に失敗に終わった。
泣きじゃくる女子学生は、警察官に要求され学生手帳を差しだした。名前は三雲茉莉。熊野が住む横浜市内のアパートからは、電車で三十分以上はかかる場所にある都内の高校の生徒だった。
「それで熊野さんはどうしたいの。この子に謝ってもらえばそれでオッケーですか」
松山と名乗った若い巡査が訊ねる。熊野は『いいえ』と答えた。
「訴えます。おもちゃとはいえ、ひとに向けて撃ってるんです。暴行罪にはなるでしょう」
「ま、まって。まってくださいよぉ」
茉莉は真っ赤に目を腫らして、熊野にすがりつく。
「か弱い女の子のささいないたずらじゃないですか。おまわりさんを呼んで辱めるだけでは飽き足らず、司法の場に突き出すだなんて、そんなひどいことされませんよね」
「いや、突き出す。塀の中でしっかりと罪をつぐなってこい」
茉莉は『ひーん』と声を出して、再び泣き出した。整った容姿には似つかわしくない、なんともなさけないありさまだった。
「ちょっと熊野さん。こっちに来て」
松山巡査は熊野を外階段へと連れ出した。
「本気じゃないですよね」
苦笑しながら訊ねる。熊野は今日初めての笑顔を見せた。
「保護者を呼んで謝罪をさせるってところが落としどころだろ。だけどおれの住所と名前を把握していたことが気になる。すこし怖がらせて、二度と来ないようにさせたい」
「それでは、親御さんを呼んでもらうことにしましょう」
松山巡査は、家族に連絡するよう茉莉を促した。茉莉は何度か抵抗の姿勢をみせたが、最終的に電話をかけた。電話がつながる。しどろもどろな茉莉からスマートフォンを受けとり、松山巡査が事情を説明する。
「というわけで、先方はひっじょーにお怒りです。この松山がなんとかなだめておきますので、お母様は急いでこちらへご足労ください」
松山巡査の口ぶりは芝居がかっていた。どこかこの状況を楽しんでいる節がある。
「もしくは、弁護士の先生をよこしてくださってもかまいませんよ。先方は訴えるといっているわけですから、その方が話は早いかもしれませんね」
「お待たせいたしました。わたくし、クニミ法律事務所の国見と申します」
電話から数分後。弁護士を名乗る初老の男性がアパートに現れた。熊野と松山巡査は差し出された名刺を呆然と見つめている。
「ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。茉莉さんのご家族に代わって謝罪いたします」
国見弁護士は深く長く頭を下げた。その頭をゆっくりと上げ、熊野を見る。
「それで、茉莉さんを訴えるとお聞きしましたが、本当なのでしょうか」
弁護士の肩書に一度はうろたえた熊野だったが、咳ばらいを挟んでから口を開く。
「本当ですよ。わたしは――」
「ちょ、ちょ、ちょっと待った!」
松山巡査は熊野を再び外階段へと引っ張る。
「あの弁護士、クニミ法律事務所ですよ。ゴールデンタイムの民放にCⅯを流している法律事務所。全国に支店をもつ、大手の弁護士事務所です」
熊野の脳裏に、スーツを着た俳優の姿が浮かぶ。CGの裁判所を歩く八頭身の俳優は、自信に満ちた表情で握りこぶしをつくり、カメラを見つめる。
『法律は社会を守る。法律は平和を守る。法律は、あなたの未来を守ります。クニミ法律事務所にお任せください』
軽快なメロディとともにフリーダイヤルの番号が表示される。熊野もまた、何度も目にしたことのあるCMだった。
熊野は手元の名刺に視線を落とした。
“クニミ法律事務所 取締役社長 国見尚継”
「なんでそんなでっかい事務所の社長がここにいるんだ。あのガキ、なにものなんだよ」
「自分困ります。こんな大ごとにされちゃったら、上になんて報告すればいいか」
「あのー。よろしいですか」
国見がひょいと廊下から顔を出した。ふたりは慌てて階段をかけのぼった。
「今後はこのような勝手な行動は慎むとお約束しますので、今回は大目に見ていただけないでしょうか。ほら、茉莉さんもあやまって」
「でも先生。このひとは……」
「それとこれとは話が別です。ほら、謝ってください」
しぶしぶといった様子で茉莉も頭を下げる。熊野は今回のことは不問に付すと応じた。
国見と茉莉、そして松山巡査もアパートを去っていった。
熊野は自室に入り、ずっと抱えていた封筒を、テーブルの上に放り投げた。玄関のベルが鳴った。松山巡査が、確認し忘れたことを聞きにきたのだろうか。
「先ほどは大変失礼しました」
玄関のドアを開けると国見がいた。不満気な表情の茉莉もいっしょだ。
「な、なんですか。もういいっていったじゃないですか」
「はい。茉莉さんのお馬鹿な行動については、寛大なるご対応をいただきありがとうございます。ですが熊野さん。まだ気になっていることがあるのではないですか」
気になっていること。ある。三雲茉莉。この女子高生は――
「どうしておれの家にいた。おれにいったいなんの用だ」
熊野は国見の頭を飛び越えて茉莉に訊ねた。茉莉は切れ長の目を細めて、鼻で笑った。
「はい。それについてもきちんと説明いたします。ですがね、熊野さん。実はわたくしも、あなたにお話しがあって、こちらに向かっていたのです。茉莉さんがお母様に連絡されてからわたしが到着するまで、十分も時間はかからなかったでしょう。えーと。こみ入った話になりますので、お部屋に上がらせていただけませんか」
「よく知らない人間を部屋に上げるわけにはいきません。ここで話してください」
「困ります。外でお話できる内容ではありません」
「かまわないから。手短に頼みますよ」
「わかりました。茉莉さんの祖父の三雲実松様が遺言状を書かれました。将来、遺留分と寄付を除いたほぼすべての氏の遺産を相続する権利が熊野さんに与えられます。その額、おおよそ五百億円」
熊野はふたりを部屋に招き入れた。
2
「今朝、黒澤明監督の『生きる』を見て感動された御年七十一歳の実松様は、生まれて初めて自分の死後のことを考え、遺書をしたためられました」
国見はカーペットに正座をしながら、ことの顛末を語った。デスクチェアに座っている熊野の両目には、どんよりとした曇がかかっていた。
「約三十分かけて遺書を書き終えた実松様は、三雲家の顧問弁護士であるわたくしに、内容に不備がないか確認を依頼されました。不備はありませんでした。まっとうな遺書です。ですがその内容はまっとうとはいえません。遺留分を控除したうえで、実松様が信頼を寄せておられる複数の慈善事業団体に総資産の約五割をご寄付。残りの約五割を全額熊野様に遺贈されるとの内容です。内訳としましては、国内外複数のメガバンクおよびプライベートバンクの預貯金が約二五〇億円。国内外のハイテク企業や大手総合商社の上場・未上場株式、ならびにグローバルETFや投資信託を含め、それら総額は約二四〇億円。モンテカルロのペントハウス、ダイヤモンドヘッド近辺のリゾートヴィラ、軽井沢の庭園付き別荘、アラスカ州コールドフットのオーロラ観測小屋など、その他もろもろを含む不動産で約五〇億円。以上です」
「五〇〇億を超えています」
「おおよそと申しました」
「税金でだいぶもっていかれますよね」
「税引後でこちらの金額になります。熊野様のご理解の助けになればと、事前に税務シミュレーションをしてまいりました。わたくしもプロですので」
「馬鹿げています!」仁王立ちで熊野をにらみつけていた茉莉が声を荒げる。「おじいさまはなんでまた、こんな赤の他人に遺贈などされるのですか」
「青の身内が初対面の人間にエアガンを撃つ変人だからじゃないか」
「失礼ですね!」
「事実だろ。だけど、疑問は当然だ。弁護士さん。はっきりいって、三雲なんとかさんなんてわたしは知りませんし、わたしに遺産を残される理由も思いつきません」
「三雲実松様をご存じないのですか。ふむ。三雲建設株式会社。三雲食品株式会社。株式会社みくも出版。みくも生命株式会社。株式会社三雲総合研究所」
「どれも有名な上場企業ですね。まった。すごく嫌な予感がする」
「いまあげたのは、日本の経済界をけん引する七大グループのうちのひとつ、三雲グループに属する企業の一部です。三雲グループ名誉会長。それが三雲実松様の現職となります」
「めまいがしてきた。おれはそのじいさんの隠し子かなにかですか」
国見は、部屋の隅に置かれた小さなキャビネットに目を向けた。ガラス張りの引き戸の向こうに、丸い温湿度計と、複数のカメラとカメラ用レンズが置いてあった。
「実松様はあなたのファンなのです」
「……は?」
「去年、横浜市役所開催のフォトコンテストに応募されましたよね。実松様は、努力賞に入賞された熊野様の作品に大変心を打たれ、それ以来熊野さんの大ファンを自認されているのです」
熊野の顔が赤く染まる。高尾山の山中で撮ったヒガンバナの写真のことだ。深緑の木々を背に力強く咲いた一輪の花。小規模のコンクールならば、最優秀賞も目ではないと高をくくって応募したが、結果は努力賞に終わった。熊野はこれまでに何度もフォトコンテストに応募してきた。入賞に至ったのは、そのヒガンバナの写真だけ。それ以前も以後も、コンテストに応募しては落選をくり返していた。
「実松様は熊野さんの写真家としての腕に惚れこんでおられます。写真家としての生活の一助になればと、遺贈を決められたわけです」
自分の写真を認めてくれたひとがいる。熊野の心臓が歓喜の鼓動を打ち始める。だが、熊野は力なく首をふった。歓喜の鼓動は、熊野のとある冷たい思考の前に沈まりはじめる。無理だ。自分に写真は、もう無理だ。
「よくわかりました。三雲実松さんはご家族の猛反対を受けた。自分たちに与えられるべき遺産が見ず知らずの男に奪われるのを、だまって見ているわけにはいかない。そして、行動力に長けた、若く勢いのあるバカな女子高生が、その男のもとを押しかけて来た。そういうわけですね」
「その通りです」
茉莉が力強くうなずいた。
「いえ、違います」
国見は力強く首をふった。
「は。そうですね。わたしはバカな女子高生ではありません」
「いえ、それはその通りです」
「え」
「茉莉さんを除くご家族は、実松様の遺言書に納得されています。納得どころか、大絶賛です。『おじいさまがそこまで推される方ならば問題ない』と、皆さま安堵のご様子でした」
「嘘でしょう。五〇〇億ですよ」
「三雲家の方々は変人ばかりです。成人された三雲家の方々は、皆三雲グループ傘下の企業の業務にはげみ、名だたる成果を残しておられます。ご自身の力だけで十分な財産を築いておられるので、実松様の遺産をいただく必要はない。そもそも、彼らにとって人生で大切なことは、愛する家族を守ることと、仕事を通して社会に貢献すること。家族と仕事があれば、なにもいらない方々なのです」
熊野は疲れ切った表情で茉莉を見た。深く目を閉じ、数秒を経て、開く。
「安心しろ。遺産はもらわないよ。こんな大金をもらったら、人間だめになる」
本心だった。熊野とて金が欲しくないわけではない。齢三十を超えた身でありながら、定職にもつかず、アルバイトで生計を立てているため、懐事情はつねにカツカツだ。だが、これまでの人生で、身の丈に合わない大金を得てひととしてダメになった人間を何人も見てきた。自分もまた、そのタイプの人間にちがいない。金は欲しい。だが、大金はいらない。
「熊野さんは、遺言についてよくご存じないようですね」
国見は正座を組みなおすと、表情を真摯なものに変えた。
「遺言書は遺言者の死亡によって、その効力が発生します。遺言者が生きておられる間に、相続人がその遺言書に対してどのような意思表示をしようと、無関係です。実松様が熊野さんの意思を汲み、遺言書を破棄されれば、熊野さんの希望は叶います。ですが、実松様がそうするかどうかはご本人次第です。熊野さんに遺産を相続していただく未来の到来を願い、遺言書を残しておくのは実松様の自由です。そして、実松様の死後、遺言書に効力が発生した瞬間、実松様がご存命の折は『いらない』と強く主張されていた熊野さんが、一転して『遺産をもらう』と主張されても、それは完全に合法です。それと、実松様は遺言書を変えるつもりはないみたいですよ」
国見がスマートフォンを見せる。画面にはLINEのメッセージのやり取りが表示されていた。相手は両手でピースサインを作る老人のアイコン。国見がいう。『熊野さんは相続を拒否されています。破棄か書き直しをしてください』。老人が返す。『やだ。てか説得してきて』。メッセージの横に表示された送信時間の表記は数分以内のものだ。国見は熊野と会話をしながら、こっそりとメッセージを送っていたらしい。
「ここに来る前に、わたしもおじい様とお話をしてまいりました」茉莉は熊野に詰め寄った。「遺言書を破棄するよう説得しましたが、聞く耳をお持ちになりません。それで、むしゃくしゃして、このむしゃくしゃをぶつける相手はひとりしか思い当たらなくて」
熊野のもとを訪ねたらしい。熊野の住所については、国見が調べ上げていた。国見はメモ紙で住所を実松に伝え、茉莉はそのメモを盗み見たとのことだった。
熊野は茉莉に同情し始めていた。恩や借りがあるわけでもない赤の他人に遺産を相続させるなど間違っている。五〇〇億円を超える大金ともなればなおさらだ。そこに異を唱えるのは、道徳的観点から見ても正しいことであろう。
「おじいさまの遺産は親族のものです。そして、わたしを除く親族は遺産を欲していません。つまり、遺産はすべてわたしがいただいてしかるべきなのです」
道徳的観点からかけ離れた言葉が聞こえてきた気がした。そしてその言葉の持ち主は、大粒の涙を両目にあふれさせ、声をふるわせた。
「わ、わたしは家族とは違うんです。労働なんて大っ嫌いなんです。せっかくお金持ちの家に生まれたんです。働かないで楽して生きたい。朝は遅くに起きて、昼は好きな時間にご飯を食べて、夜は明日のことなど気にせずネット番組を見まくる。それがわたしの夢なんです。自由気ままに生きるんです。わたしの人生。わたしの人生がぁ!」
「おい聞け。おれはおまえのじいさんの遺産なんかいらない」
「そんな言葉、信じられません」
「信じてもらうしかないんだよ。それに、俺にだって、金よりほしいものが――」
言葉が止まる。息が詰まる。熊野が金よりも欲しているもの。それは――
「なんですか」茉莉が訊ねる。涙に濡れた両目で熊野を見つめながら。「熊野さんには、お金より大切なものがあるんですね。それが手に入れば、熊野さんはお金を欲しなくなる。それなら信用できます。わたしがお金を絶対的に欲しているように、熊野さんも絶対的に欲しているものがあるんですね」
熊野の視線がテーブルに置かれた封筒に向かった。茉莉はその封筒に手を伸ばした。
熊野は茉莉の身体を押しのけた。茉莉の細い身体が壁に打ちつけられる。封筒を両手でつかむ。熊野は自身が荒い呼吸を発していることに気づいた。自身がしてしまったことにも気づく。尻もちをついた茉莉が、力強い視線を熊野に送った。
「おしえてください。熊野さんは、なにがほしいんですか」
封筒を握る熊野の指の力が強くなった。
「……プロのカメラマンになりたい。写真でメシを食っていきたい」
静寂が六畳の部屋に満ちていった。
「大学生になって、写真が好きになって、自分でも撮っているうちに、プロが撮る写真に憧れるようになって、自分もそうなりたいって」
大学卒業後は不動産会社の営業職に就いた。しかし、多忙がカメラに触れる時間を削っていくことに危機感を覚え、二十九歳の誕生日に退職願を提出した。
コンテストに受賞して、写真家としての肩書を得れば、プロとして食っていける。熊野は毎月のようにフォトコンテストに応募した。落選が続いた。箸にも棒にもかからぬ毎日を送っていくうちに、熊野の心は擦れていった。昨年には『ここならいける』と高をくくって、市役所のフォトコンテストに応募した。コンテストの告知は役所の掲示板のみでされており、その程度の知名度のコンテストなら、最優秀賞を得られるとの自信があった。茉莉の祖父が絶賛したというヒガンバナの写真には、そんな下卑た思いが裏にあった。結果は努力賞だった。参加者全員に送られる賞であり、役所の壁一面に貼られた大量の写真の中に、熊野の写真は埋もれていた。
プロのカメラマンになりたい。写真で世間に認められたい。それが熊野の願いだった。
だが、現実に立ちはだかる壁は険しかった。世界が無理だと告げていた。無慈悲な重力が熊野をつぶす。封筒を抱きながら、熊野はその場に崩れ落ちた。
「そのお手伝いをわたしにさせてください」
茉莉がいった。熊野の前で正座になる。崩れ落ちた熊野と、正座の茉莉は同じ目線の高さで互いを見つめた。
「熊野さんがプロのカメラマンになれば、お金への執着がなくなります。お金への執着がなくなれば、遺産はわたしのものになるわけです。熊野さん、夢をかなえてください。わたしとあなたのために、プロのカメラマンになってください」
「無理だ」
「無理ではありません」
「無理なんだ」
「わたしがお手伝いしますから」
「だから、無理なんだよ」
熊野は叫んだ。本心だった。無理なのだ。写真の技術の問題だけではない。つい先日から熊野の写真に生じるようになった不可解な現象。それは、熊野の夢の成就を明確に阻むものだった。
「なにか理由があるのですね」
国見がいった。熊野はうつむきながら、封筒を差し出した。茉莉が受け取る。封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
横向きの写真。右から左下に伸びるなだらかな斜面に沿って、ススキの丘が広がっていた。黄金色に輝くススキの奥には、雲ひとつない青空と、淡く輝く海が広がっていた。海の向こうには小さな島が浮かんでおり、その島の存在が写真にアクセントを加えていた。そしてその写真には――
「いなかった」
熊野はいった。
「撮影した時には、そんなやつはいなかった」
ススキの丘の斜面に、たしかに彼は映っていた。
「入賞間違いなしの一枚が撮れたと思った。だけど、応募用に写真店で印刷したら、そいつが映っていた。パソコンでデータを確認した。そんなやつは映っていなかった。もう一度写真店で印刷した。だけどやっぱり、そいつは映っていた」
「いわゆる、心霊写真というやつですか」
国見がまじまじと写真を見つめる。
写真のススキの丘に、ひとが立っていた。海に背を向け、ピシりと右手の人さし指を正面に向けて伸ばす、老齢の男性の姿がそこにあった。
「しかし、こんなふざけた心霊写真などあるのでしょうか」
だいだい色の陣羽織に紺色の袴。腰には日本刀と、小さな袋をぶら下げている。額には桃が描かれたハチマキ。背中には、達筆な太文字で『日本一』と書かれた旗を差していた。
その男性は、桃太郎のかっこうをしていた。
3
フォトコンテストの応募締め切りは、三日後の十月六日。世界的なアウトドアブランドが主催するコンテストであり、これに受賞すれば、写真家としてのお墨付きを得たといっても過言ではない。
「冬鳥のウミウを撮りに行った友人が、きれいな場所があるって教えてくれたんだ」熊野はぽつぽつと語りだした。「最高の一枚が撮れたと思った。今さら別の写真を撮っても、入賞できる気がしない」
コンテストのテーマは『日本の自然』。桃太郎のかっこうをしたおじさんが映っていては、テーマに適していない。選考の段階に進むことなく落選するだろう。
「どうして桃太郎なのでしょう」写真を手にとりながら茉莉がいった。「熊野さん。こちらの写真を撮られた場所は、桃太郎で有名な場所なのですか」
「桃太郎は岡山県だろ。そこは神奈川県だ。三浦半島の先端にある城ケ島だよ。近くに漁港と市場があって、新鮮な海の幸を目当てに来る観光客が多い。桃太郎とは無関係だ」
「桃太郎で有名な場所だから、桃太郎のかっこうをして写真に映った、というわけではないのですね」
「単純に、このジジイが桃太郎のかっこうをしたかっただけじゃないのか。桃太郎に憧れていたから、桃太郎のかっこうをしておれの写真に映った」
「でも、ちっとも楽しそうではないですよね」
茉莉のいう通り、写真の老人は無表情だった。憧れのかっこうを体験できたというのなら、はにかみくらいはするものではないか。
「つまり、このおじさまは趣味嗜好で、桃太郎のかっこうをされているわけではありません。理由があって桃太郎のかっこうをされていると思います。桃太郎のかっこうをして、写真に映ることで、熊野さんにメッセージを伝えていらっしゃるのです」
「メッセージってなんだよ」
「願いです。なにか叶えてほしいことがあるのです。それのヒントが桃太郎なのです。熊野さん、このおじさまの願いをかなえてさしあげましょう。桃太郎のかっこうをする必要がなくなれば、おじさまが写真に映ることはなくなります。おじさまが写真からいなくなれば、フォトコンテストに応募ができるようになりますよ」
筋は通っていない。だが説得力はある。願いをかなえれば幽霊は消える。熊野は国見に意見を求めようと視線を送った。国見は口元に笑みを浮かべていた。
「よろしいのではないですか。おふたりで力を合わせて、どうすればこの幽霊さんに満足していただけるかを推理してみればいい」
「しかし、願いをかなえてあげるといっても、なにをすればいいのかさっぱりで」
熊野が弱音をはくと、茉莉が両腕を組みながら高らかに笑い始めた。
「はっはっは。この三雲茉莉、すでに桃太郎おじさまの願いがなにかわかりましたとも」
「そりゃご立派。どうすればいいんだ」
「明日、この写真の場所に参りましょう。わたしの推理が正しいことを証明してさしあげますよ」
翌日。
熊野は城ヶ島の北西部にある駐車場にいた。
広い駐車場には観光バスが何台も停まっており、駐車場周辺のお土産屋や飲食店には観光客が大挙していた。
お土産屋が店先で焼いているイカ焼きのかおりが熊野の鼻をくすぐった。腹が鳴る。だが、一本七〇〇円というイカ焼きの値段は、熊野の二・五食分の食費に相当する。それに加えて、待ち合わせ時間の十時まであと五分を切っている。あつあつのイカ焼きをほうばっているところを、三雲茉莉なる少女に見られるのはごめんだった。
ススキの丘へたどり着くには、駐車場の南側にある、直線に伸びた長い階段を上る必要がある。いまも何人かの観光客と思われるひとが階段を上り下りしていた。
待ち合わせ時間まであと一分というところで、熊野の前に白いテスラが停まった。
テスラの後部座席の窓が開き、茉莉が顔をのぞかせた。
「おはようございます。熊野さん」
「おはよう。そして遅い。おれは三十分も前にここに来ていた」
路線バスの時刻表の都合なのだが、さも時間に厳格な人間であるかのように熊野はいった。
茉莉がテスラからおりる。土曜日だというのに、茉莉は昨日と同じく制服を着ていた。
「ほら。おいで。こわくないから」
茉莉は車内に声をかける。すると、かたかたとふるえる黒い物体が、後部座席から顔をのぞかせた。
犬だった。
艶のある黒毛をベースにしているが、目元やほほ、足の先などいたるところに褐色の模様がある。耳はピンと立ち、濡れた鼻がひくひくと動いている。
「紹介します。コテツです」
茉莉はコテツを両腕で抱えて降ろした。『ひぅん』と鳴いたコテツは、くの字に曲げた身体を茉莉の両足にこすりつけながらその場に伏せた。
「なんだこいつは」
「犬です」
「それはわかる」
「オスです」
「性別じゃない」
「三歳です」
「年齢でもない」
「ドーベルマンです」
「見ればわかる」
「犬がお好きなようで安心しました」
「嫌いだ。ちがう。分類でも性別でも年齢でも品種でもない。存在理由だ。どうして犬を連れてきた。ペットの散歩でもするつもりか」
「むむ。失礼ですね。これも桃太郎おじさまのことを想っての判断ですよ」
コテツは、『ひぅんひぅん』と鳴きながら熊野を見上げた。熊野が舌打ちを返す。ひときわ大きくコテツは鳴いた。
「あまりいじめないでください。パニックになると噛みますので」
「噛むのかよ」
「はい。わたしの足を」
「おまえの足を!?」
「あたりまえでしょう。コテツは賢いんです。よそのひとを噛んだら大変じゃないですか。わたしの足はコテツの噛みあとだらけですからね。見ます?。 あ、こら。コテツが邪魔をして動けません。熊野さん。助手席からそれを降ろしていただけますか」
茉莉が助手席を指さす。熊野がドアを開ける。助手席に毛布のかかった四角い物体があった。そして、運転席に座る黒いスーツを着た若い女性が、冷めた目で熊野を見つめていた。笑顔もなければ会釈もない。無愛想な態度だ。ならばと熊野は、無言で助手席の四角い物体をつかんだ。重い。桃太郎おじさんの願いをかなえるための道具だろうか。
「人間は希望をもつ存在である。なにも望むものがないとき、ひとは無を望む」
ドアを閉める直前、かん高い声が熊野の耳に届いた。熊野は慌ててふりむき、運転席に目をやった。運転席の女性は熊野を見ることなくテスラを発進させた。颯爽と駐車場を後にするテスラに向かい、茉莉は軽く手をふっていた。
「なにかいってた。希望がなんとかって」
「かわいいでしょう。お話し好きないい子なんですよ」
「そうは見えなかったけどな」
コテツを連れた茉莉が先に立ち、ススキの丘へ続く直線の階段を上る。途中、観光客と思われる中年の女性たちに、茉莉は何度も声をかけられていた。人目をひく美貌の女子高生と、ドーベルマンのツーショットはよく目立つらしい。
「ここだ」
熊野は桃太郎おじさんが映った写真と、眼前に広がる景色を見比べた。ススキの丘の角度も、背後の海に浮かぶ小さな島の位置も完璧。違いといえば、桃太郎のかっこうをした老人の有無だけだ。
リュックサックから、ポロライドカメラを取り出す。
「そんなカメラも持ってるんですね」
コテツの背中をなでながら茉莉がいう。コテツは風に揺れる大量のススキを前におびえた声をあげていた。
「ポロライドはその場で写真現像して、被写体のひとにすぐに渡せるから便利なんだ。画質は悪いが、レトロ感があっていいって評判でな。このポロライドカメラの外装も、昨今のレトロブームにあわせて、あえてクラシックな革張りにしてある。これは決して撮影者の自己満足だけではなく、被写体にも喜んでもらい、自然な笑顔を……」
「カメラのことになると、おしゃべりになられるんですね」
茉莉は大きく目を開いていた。澄んだ瞳が熊野に向けられる。熊野は茉莉に背中を向けた。海風が赤くなった顔を冷ましてくれることを願いながら。
桃太郎おじさんの写真と同じ画角で、シャッターをきる。ガガガと音を発し、カメラの側面から写真が出てくる。桃太郎おじさんはかわらずそこにいた
「わぁ、本当に映ってますね。あそこには誰もいないのに」
写真と桃太郎おじさんが立っている場所を見比べながら茉莉がいった。熊野は恨みがましい目で桃太郎おじさんが立っている(はずの)あたりをにらみつけていた。
「あんた、おれになにをさせたいんだよ。そんな馬鹿げたかっこうをして、ふざけるなよ」
見えない幽霊に、熊野は啖呵を切った。だが、幽霊はなにも応えない。
「ご安心ください熊野さん。桃太郎おじさまもご安心ください。いまわたくしが、おふたりの願いをかなえてさしあげます」
茉莉は四角い物体を覆う毛布を取り払った。熊野は短い悲鳴をあげた。四角いかごがそこにあった。かごの中には、三〇センチほどの大きさの鳥がいた。羽毛は灰色。目の周りと足は白く、尾羽だけが燃え立つような赤色をしていた。
「紹介します。ヨウムのスピノザです。スピノザ、ごあいさつなさい」
スピノザと呼ばれたヨウムは、微動だにせず熊野を凝視していた。ベージュ色の虹彩に、丸く黒い瞳孔が浮かんでいる。まばたきもしないので、鳥かごにおさめられた剥製のようだ。だがスピノザは生きている。その証拠に、スピノザは湾曲したくちばしをゆっくりと開くと――
「非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができるというのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである」
――としゃべった。
その声は、テスラのドアを閉める直前に、熊野が耳にした声だった。あれは運転席にいた女性の声ではなかった。熊野の手の中にあった、スピノザの声だったのだ。
「こいつ、鳥のくせに難しいことをしゃべっている」
「ヨウムは賢い鳥です。その中でもスピノザは輪をかけて賢い鳥ですからね。お父さまが教えた哲学者の言葉を、しっかり記憶しているんです。もちろん意味は理解していませんよ。いくら賢いとはいえ鳥は鳥です」
熊野は鳥かごに顔を近づけた。ひとりと一羽がにらみ合う。二分が経過したところで、耐えきれず熊野が目をそらした。
「鳥に負けましたね」
「うるさい」
「わたしも時々スピノザに負けますよ」
「にらみ合いで?」
「いえ、オセロで」
「こいつはオセロまででき……いや、おまえ鳥にオセロで負けるのかよ」
「いつも負けるわけではありません。勝率は五分五分です」
「あぁもうどうでもいいよ。それで、どうしてこの賢いスピノザくんを連れてきたんだ」
「桃太郎おじさまの願いをかなえるためです。誰もが否定しえない明確な事実から推理を始めましょう。写真に映ったおじさまは桃太郎のかっこうをされています。桃のイラストが入ったハチマキに陣羽織。桃太郎と無関係とはいいがたいですね。ですが、写真のおじさまには、桃太郎であるために必要なものが欠けています」
茉莉は片方の手でドーベルマンのコテツを、もう片方の手でヨウムのスピノザを指した。
「桃太郎にはおともがいました。犬と雉と猿です。おわかりですね。桃太郎おじさまは、おともの二匹と一羽を求めておられるのです。おともを連れて写真を撮る。それで桃太郎おじさまは初めて完璧に桃太郎になり得るのです」
茉莉は得意げに鼻を鳴らした。足元でコテツが茉莉のローファーをかじり、スピノザはあいかわらず熊野を凝視している。
「猿は?」
「はい。どうぞ」
茉莉はカバンから茶色いカチューシャを取り出した。カチューシャには左右に丸い耳がついている。
「なんだこれは」
「猿は飼っておりませんので、生物学的に近い存在で代替させていただきます」
「だれがつけるんだ」
「嫁入り前の身でこんなふざけたものつけられません。どうぞ、ホモサピエンス様」
猿のカチューシャが熊野に渡される。熊野はそれを自然な動作で茉莉の頭につけた。
「なにをするんですか!」
茉莉がカチューシャをたたき落とした。
「うるさい。いい年をした大人がこんなバカなかっこうできるか」
「バカとわかっていながら、わたしにやらせるつもりなのですか」
「バカとわかっているから、おまえにやらせるんだよ」
「んなななな!」
「まぁ待て。少し落ち着いて話し合おう」
ふたりは互いに深呼吸をした。コテツが地面に落ちた猿のカチューシャをくわえてふり回している。
「おともをあてがえば幽霊の願いが叶えられるという案は、まぁ、悪くない。たしかに桃太郎にはおともがつきものだ。だが、それで用意したのが、ドーベルマンとヨウムと猿のカチューシャとはどういうことだ」
「うちにいる犬はドーベルマンだけです。それと、雉も猿もそう簡単に連れてこられるわけないじゃないですか。桃太郎という古典を現代流に再解釈した結果です」
「なるほど。だがおれはその現代流再解釈の一員になるわけにはいかない。なぜなら、おれにはカメラマンという役割があるからだ」
「わたしが撮ればいいじゃないですか」
「撮ってみろ」
熊野はポロライドカメラを渡し、桃太郎おじさんがいるはずのススキの丘を指さした。茉莉がカメラのシャッターを切る。ガガガ。カメラの側面から写真が出てくる。そこに桃太郎おじさんの姿はなかった。
「あ、あれ?」
「ここは観光地だ。多くのひとがここに来て、写真を撮っていく」
代わって熊野がシャッターを切る。ガガガ。写真には桃太郎おじさんの姿が映っていた。
「多くの観光客が撮った写真をSNSに投稿する。実際、『城ヶ島』で検索すると、このススキの丘の写真が大量に出てくる。だが『城ヶ島』と『桃太郎』を並べて検索しても、ススキの丘に立つ桃太郎の写真は出てこない。おれが撮った写真にだけ、幽霊の姿は映る。三雲茉莉。猿はおまえだ」
「う、うきぃ……」
茉莉はコテツの口からとったカチューシャを頭につけた。コテツのよだれがカチューシャから垂れ、茉莉の黒い髪がべたついた。
しかめっ面でそっぽを向く猿。猿の足元をぐるぐるとまわる犬。そして鳥かごの中でカメラを凝視する雉。ひとりと一匹と一羽を立たせて、熊野はカメラのシャッターを切った。出てきた写真には、桃太郎とそのおともたちが映っていた。桃太郎は相変わらずの無表情。おともたちには目もくれず、前の写真となにもかわらない。
猿のカチューシャをつけてうなだれる茉莉の肩を、熊野の手が優しくたたいた。そんなふたりを、ヨウムのスピノザが両目を開いて見つめている。
「人間が有情であるのは、『心』があるからではない。有情の世界、有情の状況の中に生きている、それがすなわち『心ある』ことなのである」
城ケ島に吹く海の風が、スピノザの声を悠久の空へと運んでいった。
4
打つ手がなくなったふたりは、ススキの丘を出ることにした。直線の階段をコテツと茉莉が下りていく。
スピノザが入ったとりかごを抱えた熊野は、階段を一段降りたところで、桃太郎おじさんがいるあたりをふりかえった。もちろん、そこには誰もいない。熊野はぼんやりと考えた。桃太郎おじさんが向いていた方向に、いま自分は立っている。つまり、いま自分は桃太郎おじさんと視線を合わせているわけである。あの幽霊は、写真の中のようにいまも指をこちらに突き立てているのか。
「熊野さん。そこに入りましょう」
階段を下りきったところで、茉莉が足を止めていた。階段を下りてすぐ横の敷地に、二階建ての喫茶店があった。
「動物がいるからダメだろ」
「店の入り口にペット同伴オッケーって書いてありますよ」
「ペットが入れる店って嫌いなんだよな」
「でも、ほかに落ち着ける店はなさそうですし、いいじゃないですか」
喫茶店のドアを開くと、ドアの上部に設置されたベルが音を立てた。正面のカウンターにいた、バンダナを巻いた若い男の店員が『いらっしゃいませ』と笑顔をみせる。
「犬ってだいじょうぶですか」
「はい。だいじょうぶですよ」
「鳥もだいじょうぶですか」
熊野は毛布を少しだけ上げて、スピノザを見せる。店員は短い悲鳴をあげた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
店員は細いすきまを通り、カウンターの裏にあると思われるキッチンに入っていった。すぐにもどり、『おとなしい鳥ならだいじょうぶです。どうぞ』といった。
入口から見て正面にカウンターがあり、左手に客席が広がっている。ソファー席が三つと、小さな丸テーブルが三つ。ふたりはいちばん奥にあるソファー席に着いた。他に客はいない。コテツがテーブルの下に潜り込む。スピノザが入った鳥かごは、毛布がかけられたまま床に置かれた。
「フルーツタルトとモンブラン、どっちがいいと思います」
メニューを開きながら茉莉が訊ねる。
「おれは自分のコーヒーの分しか出さないからな」
「え。女子高生にごちそうする機会を逃していいのですか」
「そんなもの未来永劫来なくていい」
熊野はブレンドコーヒーを、茉莉はフルーツタルトと、熊野と同じブレンドコーヒーを注文した。
ほどなくして、店員が注文の品物を運んできた。
「さきほどはすみませんでした」
お盆からコーヒーを降ろしながら店員がいう。
「ぼく、鳥が苦手なんです。この島の断崖にウミウって鳥の大群がいるんですよ。遠くから望遠鏡で見ると圧巻なんですけど、目の前に一羽のウミウが降りてきたことがあって、いやびっくり。大型の鳥って、目の前に来ると怖いんですよね」
「ご安心ください。スピノザには毛布をかけておきますから」
ぺちぺちと茉莉が鳥かごをたたく。スピノザはまったく反応を示さない。まさか毛布の下には空っぽの鳥かごがあるのではないかと、熊野は毛布を少しだけめくってみた。そこには熊野を凝視するスピノザの視線があった。熊野は静かに毛布をもどした。
テーブルの上に注文の品が並ぶ。茉莉はカップをとり、息を吐いてから口に運んだ。
「それで、これからのことだが。どうするべきかね」
熊野が訊ねる。返事はない。茉莉はコーヒーカップをじっと見つめていた。
「熊野さん。早く飲んだほうがいいですよ。温かいうちに」
渋面を浮かべながら熊野もコーヒーを飲んだ。渋面がほどける。舌をとろかすやわらかな苦味。鼻腔をくすぐる芳醇な香り。口の中に強い存在感を残しながらも、コーヒーはすっきりとのどを流れていく。
「おいしいでしょう」
店員が笑いながら声をかける。ふたりは無言でうなずいた。
「うちのコーヒーは、都心の有名なカフェにも負けません。ぼく自身も、そのコーヒーの味に惚れこんで、ここで働いているんです。城ヶ島に初めて来て、偶然このお店に入って、本当に感動したなぁ。その場で働かせてくださいって、店長にお願いしたんです」
「特別な豆を使っているのですか」
茉莉が訊ねる。店員は首をふった。
「豆にはこだわっていますが、特別というほどのものではありません。ふふ。ご近所の方ですか? 明日は日曜日ですが、店長が大阪のコーヒーイベントに参加するので、お休みなんですよ。明後日は朝早くからやっていますので、よかったらまた来てくださいね」
店員は笑いながらカウンターへもどっていった。茉莉と熊野は無言のままコーヒーをすする。茉莉はカップを置き、フルーツタルトを小さく切って口に運んだ。茉莉の顔に満開の花が咲く。
「これ、おいしすぎます。レベル高すぎますよ、このお店」
熊野がコーヒースプーンをフルーツタルトに伸ばす。茉莉はフルーツタルトを両手で囲い、手前に引いた。
茉莉はあっという間にフルーツタルトを平らげた。満足した様子で、カップに残ったコーヒーを飲む。
「話をもとに戻すぞ。結局、あの桃太郎は――」
茉莉がコーヒーを勢いよく噴き出した。熊野の顔にコーヒーがかかる。
「おま……この馬鹿。おまえ、なにを!」
「く、く、く、熊野さん。それ、それ、それ!」
茉莉は熊野の横を指さしていた。そこには壁にかけられた大きなコルクボードがあった。コルクボードには、メニューやチラシのほかに、新聞の切り抜きが貼られていた。その切り抜きには、ストライプ柄のエプロンを来た男性の写真が載っていた。間違いない。桃太郎のかっこうこそしていないが、桃太郎おじさんそのひとだった。
神奈川日報 二〇二五年 六月一二日(木)
あなたのまちの喫茶店 第八回
~親子でいとなむ小さな島の喫茶店~
三浦市の南端に位置する城ヶ島。太平洋を見渡せる巨大な公園や、様々なマリンアクティビティを楽しめるこの島に、その喫茶店はある。
「息子がひとりで店をはじめると聞いて、それは無茶だと、仕方なしに老体にムチを打っているわけです」
喫茶店とまりぎでホールを担当する日高正芳さんは、忙しい手を止めて笑顔で取材に応じてくださった。日高さんのお子さんの正己さんは、一年前に、長年の夢だった喫茶店をここ城ヶ島で開業した。近くの漁港関係者や、漁師の方々が利用しやすくなればと、二階に住居をかまえ、朝早くから開店されている。長年勤めた商社を定年退職したばかりの日高さんは、そんな息子の助けになればと、とまりぎで働き始めた。
親子ふたりで営業する喫茶店の売りは、なんといってもブレンドコーヒー(¥500)だ。香り豊かなコーヒーの秘密をうかがうと、日高さんは快く答えてくださった。
「淹れる道具がちがうのです。うちは、多くの喫茶店さんが使っているような、ペーパードリップやサイフォンではなく、フレンチプレスを使っています」
フレンチプレスとは、円筒状の形をした抽出器具である。容器内に入れたコーヒー粉にお湯をかけ、数分待つことでコーヒーの成分がお湯に抽出される。その後、上部からプランジャーを押し込み、コーヒー粉を分離させることでおいしいコーヒーが完成する。他の淹れ方と比べ、コーヒーオイルがしっかりと抽出され、コーヒーの個性が際立つとして、世界中で愛好家が多い抽出器具である。
「このフレンチプレスは息子がお世話になった喫茶店の店主から譲っていただいたものです。二十世紀初頭のイタリア製で、今となっては世界中に数えるほどしか残っていません。プランジャーには、生産当時の特別な金属フィルターを今も使っています。このフィルターが、しっかりコーヒー粉を分離してくれるので、一般的なフレンチプレスで淹れたコーヒーのように、コーヒー粉がカップに入ることはほとんどありません。数か月前にお見えになったお客さんから『いくらでもお金を払うから譲ってほしい』と頼まれましたが、もちろん断りましたよ。このフレンチプレスはうちの宝ですからね」
そんな日高さんのお話を聞きながら、筆者はオリジナルブレンドに舌鼓をうった。だがこのコーヒーのおいしさの秘密は、道具だけではなく、親子のきずながはぐくむ、店のあたたかな雰囲気にもあるように感じられた。
店舗所在地 神奈川県三浦市三崎町城ヶ島6〇1―〇2 営業時間5:00 ~ 17:00 定休日なし
インタビュー記事の横に、もう一枚小さな切り抜きが貼られていた。訃報欄だった。
神奈川日報 二〇二五年 九月四日(土)
おくやみ申し上げます
日高正芳(ひだか まさよし = 元会社員、喫茶店店員) 二日 午前一〇時 心不全のため死去。六六歳。本誌六月一二日『あなたのまちの喫茶店 第八回』において、インタビューに応じていただきました。告別式は――
「このお店の方だったんですね」
茉莉は桃太郎おじさんこと、日高正芳の写真をまじまじと見つめている。
「ちょっと、すみません」
熊野は大声を出した。バンダナ巻きの店員は、慌てた様子でこちらに来る。熊野は桃太郎おじさんの写真を店員に突きつけた。
「この写真の男は、日高正芳さんで間違いないな」
「な、なんですこの写真。桃太郎?」
「この新聞の写真と同じひとだろ。日高正芳は桃太郎が好きだったのか」
「これって店長のお父さんですよね。ぼく、最近アルバイトになったばかりで、会ったことないからわからなくて」
「それならその店長ってやつを呼んでくれ」
店員は押しつけられた写真を手に、カウンターの奥にあるキッチンへと向かった。
「インタビュー記事の日付は今年の六月。それから三か月後、つい先月に亡くなられたのですね」
茉莉が寂しそうにいった。熊野は席に座りなおし、コツコツとテーブルを指でたたいた。
「よし。よしよし。手がかりがやっと見つかったぞ。くそ。まだか。早く来いよ」
その時、店の奥の方から怒声が聞こえてきた。
カウンターから二メートル近い長身の男が飛び出してくる。男は顔を真っ赤に染め、嚙みしめた歯をむき出しにしながら近づいてきた。男が熊野の胸倉をつかんだ。熊野の身体が宙に浮く。茉莉は短い悲鳴をあげた。
「なんのつもりだ。親父にこんなかっこうをさせて、バカにしているのか」
見た目にたがわぬ低い声で男はいった。男は青と白のストライプが入った、牧歌的なエプロンを身につけていた。それは新聞の日高正芳が着ていたエプロンと同じものだった。
「いまはパソコンでこんなふざけた写真が作れるんだよな。親父はこんなバカなかっこうをするひとじゃなかった。亡くなった人間を冒涜して、なにが楽しいんだ」
「おまちください。話を聞い……あ痛ぁ!」
席についていた茉莉の身体が飛び跳ねた。見ると、パニック状態になったコテツが茉莉の足に嚙みついてた。茉莉はテーブルを強く蹴り上げ、その反動でコーヒーカップが宙に浮く。中の液体が飛び出し、男のエプロンを茶色に染めた。男はふたたび怒声をあげ、熊野を床にたたきつけた。
「出ていけ。おれと親父の店から出ていけ!」
熊野はよろめきながら立ち上がり、荷物とスピノザの鳥かごを両手にかかえた。茉莉は噛まれた足をかばい、ぴょんぴょんと跳ねながら、コテツと共に出口に向かっていた。
背中に無数の罵声を浴びながら、ふたりは店を後にした。
5
二時間後。三雲家のテスラに乗り、横浜市内にもどったふたりは、国道沿いのファミリーレストランでうなだれていた。
コテツとスピノザはテスラの運転手に連れて帰ってもらった。憔悴しきった茉莉と熊野を見ても、運転手は無反応であり、部外者たる熊野がテスラに乗ることについても、なにもいわなかった。
「熊野さんが悪いんですよ」茉莉は、ぐったりとソファー席に横たわっていた。「桃太郎のかっこうをした実の父親の写真を、いきなり見せつけるなんて、デリカシーに欠けた対応です」
「懇切丁寧に事情を話してから見せるべきだったか」
「懇切丁寧に事情を話しても、信じてもらえずに、怒られておしまいだったと思います。写真を見せず、お父様と桃太郎に関係があったかだけを、訊ねればよかったんです。あーあ。桃太郎のおともを連れていくのは、いいアイディアだと思ったんですが」
茉莉はふらふらと立ち上がると、空のコップを片手に、ドリンクバーの方へと向かった。
熊野は自己嫌悪に陥っていた。
臆病なドーベルマン、哲学者の言葉を語るヨウム、猿の耳のカチューシャをつけた人間。茉莉の案は、その様相だけを取り除くと、荒唐無稽といって差し支えない。だが、相手が桃太郎のかっこうをしているから、桃太郎のおともを連れていくというのは、方向性としては誤りではなかろう。そして、熊野自身は誤る誤らない以前に、なにも案を思い浮かべていない。茉莉の案をバカにする権利は自分にはないのだった。
茉莉がもどってきた。右手にはメロンソーダが注がれたコップが、左手には一冊の絵本があった。タイトルは――桃太郎。
「どうしたんだ、それ」
「ドリンクバーの横に本棚がありました。『おせきでおよみください』とありましたので」
それは店が用意した子ども向けのサービスであり、女子高生と三十路を超えた男が利用していいものではない、と熊野はいいかけたが、藁にもすがりたい気持ちのいま、桃太郎を読むのも悪くはないと、口を閉ざした。
「まぁ、桃太郎の話なんて、だいたい覚えているんだけどなぁ」
絵本をめくりながら熊野がつぶやく。物語の序盤、おばあさんが川で洗濯をしているところに、大きな桃が“どんぶらこ”という擬音とともに流れてくる。
「人間が入るほどの巨大な桃を、おそなえものとしてもっていけばよかったのでしょうか」
「遺伝子操作マシマシピーチを期待して、桃太郎のかっこうをするやつがいるか」
「うーん。わかりませんね。どうして桃太郎おじさまは桃太郎のかっこうをされたのか。犬、雉、猿のおともは桃太郎に不可欠じゃないですか。当たりだと思ったんですけどね」
「桃太郎に、不可欠」
熊野の脳内で、なにかが爆ぜた。絵本のページを急いでめくる。
「……そうだ。それがあった。それがなきゃ、桃太郎にはならないよな」
6
月が雲におおい隠された。
熊野は城ヶ島のススキの丘にいた。そう。ススキの丘。大人ほどの身長のススキが生い茂るなかに、その身をもぐりこませていた。風にふかれたススキが熊野のほほにふれる。ダウンジャケットに身を包んだ熊野は、潮の香りをかぎながら双眼鏡をのぞきこんでいた。
ファミリーレストランで茉莉と別れたあと、熊野はひとりで城ヶ島にもどった。日が暮れて、あたりに人気がなくなってから、熊野はススキの丘に向かった。丘の上のススキの丘は監視をするのに適していた。夜のススキの丘を訪れる観光客はおらず、地元住民もわざわざ階段をのぼってこようとは思わない。
腕時計に視線を落とす。午後の八時。監視を始めてから二時間が経とうとしていた。ススキの丘からは、城ヶ島の街並みがよく臨める。夜が更けるにつれて、民家の窓の電気がひとつふたつと消えていく。朝早くからの仕事に備えて、早く床につく漁師が多いのだろう。
午前〇時を回り、城ヶ島全体が完全に眠りに落ちたころ、熊野の双眼鏡が彼を捉えた。
熊野はスマートフォンから警察に通報した。電話口のオペレーターが熊野の名前を訊ねている。答えることなく電話を切った。ススキの丘を飛び出し、直線の階段を駆け下りる。雲が風に払われ、ふたたび月が顔をのぞかせた。
喫茶店とまりぎの敷地に足を踏みいれる。店の窓ガラス越しに、暗闇の中を走る黄色い光が見えた。熊野は入口のドアの前で止まった。
数分後。入口のドアがゆっくりと開き、ひとりの男が顔をのぞかせた。熊野は男の顔にスマートフォンのライトを浴びせた。男は悲鳴をあげながら尻もちをついた。
パトランプの光が、喫茶店の外壁を赤く染める。パトカーが店の前に停まり、ふたりの警察官が小走りで向かってくる。警察官が手にした強力なライトが、ドアの内側にいる男を照らした。
そこにいたのは、とまりぎで働くアルバイトの店員だった。
その両腕の中には、日高正芳が新聞の取材で『うちの宝』と評したフレンチプレスがあった。
7
喫茶店とまりぎのソファー席に座り、熊野はじっと両目を閉じていた。テーブルの上に置かれたコーヒーから、湯気が立ち上がる。コーヒーを淹れた日高正己は、部屋の隅に立っていた。熊野に掴みかかった昨日の態度とは打って変わり、おどおどとした表情で視線を泳がせている。
入口のドアが開き、上部に設置されたベルが音を立てた。
「く、熊野さん。なにがあったのですか!」
五十メートルを駆け抜けるような勢いで、茉莉が熊野のもとにやってくる。
「電話でいっただろ。桃太郎おじさんの願いを叶えた。おじさんは、消えたよ」
テーブルの上に写真があった。熊野が撮ったススキの丘の写真。そこに、桃太郎おじさんの姿はなかった。
昨夜の泥棒騒ぎから一夜明け、事情聴取が終わり警察から解放された熊野は、茉莉に電話をし、写真から日高正芳が消えたことを伝えた。くわしい話が聞きたいと、茉莉はおっとり刀で城ヶ島までやってきた。
「桃太郎のおともを連れていくというおまえのアイディアは悪くなかった。たしかに桃太郎に動物のおともは欠かせないからな。だけど、桃太郎にはもっと欠かせないものがある。これがなければ、桃太郎は成立しない」
「どんぶらこどんぶらこ」
「ちがう。遺伝子操作マシマシピーチは忘れろ。なぁ。桃太郎の一番の目的はなんだ」
「目的……あ」
茉莉はぽんと手をたたいた。
「鬼退治、ですか」
熊野は鷹揚にうなずいてみせた。
「鬼退治がなければ桃太郎は桃太郎たりえない。実は、日高正芳は、この写真の中で不自然な行動をとっていた。桃太郎のかっこうをしながら、彼は海に背中を向けていた。鬼ヶ島に鬼退治に向かうかっこうをしながら、海とは反対の方向を向き、まっすぐ指を突き立てていた。この写真には、海の上に小さな島がある。桃太郎をまねするなら、この小さな島を鬼ヶ島に見立て、今からあそこへ鬼退治にいくぞ、と指を突き立てるべきだ。だが、そうはしなかった。鬼がいるのは、海に浮かぶ小さな島ではなかった。つまり、日高正芳、いや、桃太郎はたしかに鬼がいる方向を指さしていたんだ。日高正芳が指さしていた方向にあったもの。それはなんだ」
昨日の昼間、ススキの丘を去る際、階段に足をかけた熊野はふりかえり、写真の日高正芳が立っているあたりを見た。写真の中の日高正芳が指をさしていたのは、その時熊野が立っているその場所、つまり階段の方向だった。そして、その直線の階段を下りきったところにあるのが――
「喫茶店とまりぎ。このお店ですか」
「ご名答。日高正芳はこの店を指さしていた。つまり、この店には鬼がいたんだ。そして、この店にはふたりの人間がいた。息子である日高正己さんと、おれたちにコーヒーを運んでくれたアルバイトくん。バンダナを巻いたあの若い店員だ」
「暴力的という意味では、桃太郎おじさまの息子さんが、鬼にぴったりですけどね」
茉莉が部屋の隅に立つ正己を見つめる。たしかに、昨日正己が見せた激昂は、鬼のようといって差し支えなかった。とはいえ、今の正己はその巨体に似合わず、借りてきた猫のようにおとなしい。正己はそそくさとキッチンの方へ向かい、すぐに茉莉の分のコーヒーとモンブランをもって戻ってきた。茉莉は満面の笑みと共に一礼すると、次の瞬間にはモンブランにフォークを落としていた。
「たしかに正己さんは鬼のように怒っていた。だがあの怒りは正当だった。尊敬する父親にふざけたかっこうをさせた写真を作るなど、悪質が過ぎる。正己さんは鬼じゃない。鬼は、あのアルバイトだ。あのアルバイトはな、おかしなことをいっていたんだよ」
「おかしなこと?」
モンブランのクリームを口元につけながら茉莉がいう。
「アルバイトくんは、この店で働くことになった経緯をこう語っていた」
――城ヶ島に初めて来て、偶然このお店に入って、本当に感動したなぁ。その場で働かせてくださいって、店長にお願いしたんです――
「あれは嘘だ。あの男は、アルバイトとして雇ってくれと申し出る前に、城ヶ島を訪ねてきたことがある」
「どうしてわかるんですか」
「わかるさ。あの男はウミウの話をした。この島の断崖に集まるウミウの大群の話だ。だがな、あの男が城ヶ島でウミウを見られるはずがないんだ。ウミウは冬の渡り鳥、冬にしかウミウは日本列島にやってこないんだ」
城ヶ島のススキの丘を熊野に教えてくれた友人は、冬の渡り鳥であるウミウを撮るために城ヶ島を訪れたといっていた。城ヶ島でウミウを見る機会は、冬にしかない。
「それがなんだっていうんです。アルバイトさんが初めて城ヶ島を訪れたのは冬だった。ウミウを見たあとに、この店に来てコーヒーの味に感動した。おかしいことはありません」
「いや、おかしい。この新聞記事を読みなおしてみろ」
熊野はコルクボードに貼られた二枚の新聞の切り抜きをあごでさした。
「インタビュー記事を搭載した新聞の発行日は、今年の六月一二日。記事のタイトルは『~親子でいとなむ小さな島の喫茶店~』、そして本文には『親子ふたりで営業する喫茶店』と書いてある。つまり、去年の六月の時点では、この店で働くのは日高親子ふたりだけだったわけだ。アルバイトくんがこの店で働き始めたのは、早くても六月より後ということになるんだよ」
「たしかに、彼がこのお店に来たのは、九月のことです。先月、初めて城ヶ島に来たといっていたことも覚えています」日高正己は、見た目にたがう小さな声でいった。「でも、ウミウを見たことがあるというなら、それはおかしいんです。この島にウミウが来るのは冬から春の間だけなんです」
「人づてに聞いたとか、写真を見たという可能性はない。彼は『目の前に一羽のウミウが降りてきた』といった。彼は冬に城ヶ島を訪れたことがある。そしてそれは、『城ヶ島に初めて来て、偶然このお店に入った』という発言と矛盾するんだ」
「ふむむ。もぐ。んぐ。でも、なんでうそなんかついたんですか」
茉莉が訊ねる。話を聞きながらモンブランをたいらげ、空になったカップを日高正己に向けてふる。日高正己はすばやくコーヒーのおかわりをもってきた。
「なぜうそをついたのか。それは、以前城ヶ島を訪れたことを知られると、都合が悪いからだ。記事には、この店の宝だというフレンチプレスをゆずってほしいと交渉してきたひとのことが書かれている。このひとこそ、冬にこの店を訪れ、コーヒーの味にほれこんだアルバイトくんだとは思わないか」
「それは、昨夜アルバイトさんがフレンチプレスを盗もうとされたという事実から逆行した、結果論による推理です。それに、冬にこちらのお店に伺ったことがあるなら、その時、お店にいた息子さんにもお会いしているでしょう。半年前の客の顔を忘れている可能性は十分ありますが。絶対ではありません」
「いや。会っていない。息子の正己さんは、キッチン担当、父親の日高正芳さんはホール担当。来店から退店まで、正己さんと一度も会わずに済んだ可能性は十分あり得る。実際、おれたちも昨日、写真を見せて怒らせるまで、正己さんの姿を見なかっただろ」
茉莉はぐっと首を伸ばしてキッチンの方を見た。カウンターとキッチンの間には、細いすき間があるばかりで、とてもキッチンから客席をうかがうことはできない。キッチンにこもって料理を作っていては、客の顔を見ることはほとんどないだろう。
「新聞の取材に応じたのも、ホール担当の親父さんだ。おまえも今日わかっただろ。正己さんは、ずいぶんと恥ずかしがり屋らしい。料理の腕は超一流だが、接客に関しては三流だ」
「お、お店を始めれば、このあがり症も治ると思ったんですけど、なかなか、慣れなくて」
正己はごしごしと手のひらをエプロンにこすりつけている。両肩を縮こまらせるその姿は、まるで幼いこどものようだ。
「冬にウミウの大群を見る。正芳さんの接客を受け、正己さんのコーヒーに感動。コーヒーの味の秘密はフレンチプレスにあると知り、大金を払うからゆずってほしいと交渉する。断られる。次に考えるべきことはなんだ。金でダメなら残るはひとつ。盗む。しかし、これにも高いハードルが待ち構えていた」
「なんですか」
「正己さんだ。というより――」
熊野はあごで正己をさすと、そのままあごを上へ向けた。
「正己さんの住居だ。新聞記事によると、正己さんはこの喫茶店の二階に住んでいる。夜に盗みに入るのは難しい。では昼は? 無理だな。新聞の最後に書いてあったが、この店に定休日はない。基本的に昼間は営業しているし、臨時休業があったとしても、この店の周りは観光客でごった返している。盗みに入るのはやはり難しい。だがここでアルバイトくんにツキが回ってきた。正芳さんが亡くなられたこと、喫茶店とまりぎに、ホール担当がいなくなったことだ。お悔やみ記事で、このことを知ったアルバイトくんは、すぐにとまりぎに向かい、アルバイトに志願した。接客が苦手な正己さんにとっては渡りに船。アルバイトくんはすぐに採用された。アルバイトくんの目的は? 店に潜り込むこと。フレンチプレスを盗む機会をうかがうことだ。そして、その時が来た。正己さんは、今日、大阪のコーヒーイベントに参加する予定だった。催事というものは遅くとも午前中から始まるものだ。イベントに参加するためには、前日のうちに神奈川を出て、大阪に向かう必要がある。この店の閉店時間は午後五時。昨日の閉店後、新横浜に向かい、新幹線に乗れば夜には大阪に着く。実際に正己さんはそうしたらしい。つまり、昨日の夜はフレンチプレスを盗む絶好のチャンスだったというわけだ」
そう推理した昨日の熊野は、城ヶ島にもどりススキの丘からとまりぎを監視した。熊野の推理のとおり、夜がふけて盗人はやって来た。熊野は警察に通報し、フレンチプレスを手に店から出てきたアルバイトくんは、あっけなく御用となった。そして、連絡を受けた正己は、タクシーに乗って大急ぎで大阪から帰ってきたというわけだ。
「亡くなられた正芳さんは、幽霊となってこの店を見守っていた。だがある日、『フレンチプレスを売ってくれ』と申し出た男が、再び店を訪ねてきた。『初めて来た』と嘘をついてな。正芳さんには、すぐにこの男の魂胆が読めた。フレンチプレスを盗むつもりだ。だが自分はいまや幽霊の身。この事実を息子に伝えるすべはない。どうする。どうすればいい」
そんな時、ススキの丘に向けてシャッターを切る熊野が現れた。桃太郎の服装をし、指を差す方向に、『鬼がいる』ことを日高正芳は示した。桃太郎の鬼は、人間たちから宝を奪いとる存在である。店の宝であるフレンチプレスを盗もうとするアルバイトくんは、日高正芳にとって鬼以外のなにものでもなかった。
「珍妙な姿で写真に映る幽霊の願いをくみ取ってくれることに、日高正芳は賭けた。なんとしてでも、カメラに映りたい。そしておれは、なんとしてでもこの写真をフォトコンテストに応募し、世に広めたい。そう願っていた。そんなふたりの願いが同調し、この心霊写真が生まれたんだ」
熊野はカップに残ったコーヒーをひとくちで飲みほした。『本当にうまいな』との称賛の言葉を添えて。
「父は派手なことが嫌いでした」
両目を細め、感慨深そうに正己はいった。
「この店を作る時にもいわれたんです。『奇を衒えば呆れられる』。誰が来ても落ち着ける、ふつうのお店が一番だって。桃太郎のかっこうなんて、きっとすごく嫌だったはず。亡くなってからも父には迷惑をかけっぱなしで、本当にお恥ずかしい限りです」
「だいじょうぶ。うまいコーヒーにうまいデザート。それだけでこの店はうまくやっていけるさ」
「いや、まだ必要なものがありますよ」
ぴんと茉莉は指を立てた。
「接客対応については、もっとがんばらないといけませんね」
三人の笑い声が店内に満ちた。その時、入口のドアが開きベルが鳴った。常連客と思わしき老婦人がひょいと顔をのぞかす。
「正己ちゃん。今日ってやってるの?」
8
翌日。熊野は桃太郎おじさんが消えた写真をフォトコンテストに応募した。
一月後。一次選考落選の通知が届き、熊野は自室のテーブルに顔を伏せていた。
「いやぁ。これはひどい。惨敗ですねぇ」
コンテストの結果の確認にと、熊野の部屋を茉莉ともに訪れた国見弁護士は、テーブルの上におかれたノートパソコンを見つめていた。ノートパソコンには落選を通知するメールが表示されていた。メールには、落選の旨に続き、次の選評がつづられていた。
初心者向けの教本を熟読し、基礎的な撮影技術を学ばれることをおすすめします。また、題材および構図についても、新規性がまったく感じらず、非常に陳腐でした。写真展などに足を運ばれ、感性を磨かれることも重ねておすすめします。
「丁寧な物いいの中に、確たる侮蔑を交えていますね」
国見の的確な言葉が、熊野の胸に突き刺さる。この弁護士は、法廷でも検察を相手に、こんな言葉を突きつけているのかと、熊野は思った。
「ど、ど、ど、どうするんですか。なんで落選しているんですか。困りますよ。早くプロのカメラマンになって、おじいさまの遺産をあきらめてもらわないと」
茉莉が慌てふためいている。落選に対するショックは熊野と同等かそれ以上だ。もっとも、そのショックは、自堕落な未来が失われるかも、という不安を起因としているわけだが。
「茉莉さん、落ちついて。なに。フォトコンテストは今回応募したものだけではありません。熊野さん。まさかあなたは、今回の落選で夢をあきらめたわけではありませんよね」
国見が挑発的にいった。熊野は勢いよく上半身を起こした。
「あたりまえです。昨日だって、さっそく写真を撮って来たんです。次のコンテストはこれで行きます。絶対に受賞してみせますよ」
「すてきです、熊野さん」茉莉はぱちぱちと手をたたいた。「あ。そこにあるやつがその写真ですか? どれ。拝見しま――」
テーブルに置いてある封筒に、茉莉が手を伸ばす。だが、熊野は封筒をすばやく手にとり、不自然に表情こわばらせた。
「ど、どうしました。熊野さん」
「いや、その、実は……」
熊野の引きつった笑顔を見て、茉莉は察した。
「ま、まさか。こんどは、誰が映っているんですか」
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