息子が彼氏を連れてきた! Short stories 2
『息子が彼氏を連れてきた! Short stories』のパート2になります。例によって時系列が前後していて申し訳ありません。エピソード1・3・5が同じ年の話になります。エピソード2・4・6とおまけが翌年の話になります。
1 岩城と広瀬
俺はその日同期入社の広瀬に差し入れするため、やつの現場にやって来た。
「おう岩城、久しぶりだな、調子はどうだ?」
「まあまあってとこかな、まだ研修中とか見習いみたいなもんだ。お前の方はすでに最前線て感じだな、さすが」
「そうでもないよ、手探りでやってる感じだ」
今話している広瀬暁人と俺・岩城諒は大室精密(株)に同期入社した仲で、少し前まで本社営業部で一緒に働いていた。何なら採用面接の時も一緒のグループで、何かと縁がある。共に営業部にいたのは2年ちょっと。うちの会社は希望部署に配属されるまでは最低でも5年は他部署を経験させられる。もちろん適性を観察されるから、絶対に希望部署へ行けるという保証はない。俺も広瀬も大学は別だが理系なので、技術・研究開発系部署を希望している。
入社3年目の5月、俺は秘書課へ、広瀬は広報部に転属となった。うちの会社の場合、秘書課は人事部に属している。見た目も中身も申し分ない俺が秘書課に配属されるのは、まあ妥当だな。それを言うなら広瀬も俺に勝るとも劣らないイイ男だ。その…女好きの代表みたいな俺が…惚れてしまうくらいには?
広瀬と広報部にはちょっとした因縁がある。因縁と言っても今いる同僚たちではない。以前ここでのさばっていた馬場という部長だ。こいつは俺たちが受けた最終面接時の面接官の一人だった。詳しい経緯は省くが(※『同僚の恋の話』参照)、広瀬には大学時代に知り合った同性の恋人がいる。こいつはバカ正直に面接でそのことを披露してしまった。
もちろん面接官には守秘義務があるし、一緒に面接を受けた俺の他女子二人も広瀬のことは他言しないと約束したのだ。それなのにその話が漏れた。飲み会で酔った馬場が口を滑らせて、噂は社内に一気に広まった。広瀬は一躍「時の人」になっちまった。広瀬に目を付けていた女性社員はさぞショックだったろう。いや、それだけならまだいい。広瀬をからかう奴も出てきたし、何より許せなかったのは噂を広めた張本人の馬場だ。こともあろうに奴は広瀬のことで俺に絡んできやがった。
もちろん友情(というか愛情?)に篤い俺は、馬場とその取り巻きを一刀両断にしてやったわけだ。それからまあ色々あって、俺は広瀬への気持ちを自覚し即失恋となったわけである(告白はしていない)。なぜなら広瀬は恋人の明石実央君にそりゃあもうデレデレでメロメロで甘々でぐずぐず?でゾッコンなのだ。男だろうが女だろうが、二人に付け入る隙はない。俺が知っているだけでも2年間で4人の女性社員が広瀬に振られている(※よくチェックしてるな)
話を戻すとそれまでも問題行動が多かったのに、縁故入社ということでお目こぼしされていた馬場が、広瀬の一件で左遷され広報部から消えたというわけだ。今頃あのオッサンどうしているのやら。
「広瀬さーん♡」
俺と広瀬が立ち話をしている時、急に甘い声が割り込んできた。
「どうしました、高島さん」
声を掛けてきた女に広瀬が尋ねる。今日広瀬がいるのはCM撮影の現場だった。うちの会社は一般向けというか個人向けの商品は扱っていない。取引先はほぼ100%企業や工場である。だが知名度だけはわりと高い。そこでどういう会社かを知ってもらうためのCM広告を時々打つ。ま、イメージ広告ってやつ?たまにあるだろ?なんのCMなのかよくわからないってやつ、あんな感じだ(※身も蓋もない言い方…)。広瀬に声を掛けてきたのはそのCMに出る女優?だかタレントだかである。
(こんな頭の悪そうな女がなんでうちの広告に出るんだよ、誰の趣味だ)
「ここなんですけどー、ちょっとやりにくくて―」
台本を見せながら広瀬に言う。いや、そんな事監督に言えよ。
「それは監督さんにご相談なさった方が…」
うん、そうだよな広瀬。
「でもー、カントクさんコワくってー」
ならマネージャーにでも言えよ。
「ミカちゃーん」
その時また横から入ってきた人物がいた。
「そんなことクライアント様に聞いたらご迷惑よ…ですよ、こちらで伺いますから」
(ん?)
俺はその人物に見覚えがあった。
「ユっ…」
それはミックスバー” Fairy tales”の常連・ユウさんだった。
「今回のCM、ユウさんが勤めるデザイン会社に依頼したんだよ」
広瀬が笑って話す。” Fairy tales”は一昨年俺が広瀬を連れて行ったミックスバー、色々なセクシャリティの人が集う場所だ。俺は大学時代先輩に連れられてその店を訪れた。そして一度きりの「男性経験」をした。その時の相手がユウさんだ。ユウさんはオネエが素だが、仕事の時は封印しているらしい。けっこう大手のデザイン会社に勤めていることは知っていたが…
「あの女、広瀬の事狙ってんじゃねえの?」
気を取り直して俺はユウさんに言った。
「あのコはねえ、業界でも有名なのよ。現場で気に入ったオトコを見つけるとああいう感じなの。やっぱり気になっちゃう?」
ユウさんは俺が広瀬を好きなことを知っている。
「…ユウさん…オネエになってるけど…」
「あら、ヤダ、諒ちゃんと暁ちゃん二人だから油断しちゃったわ」
ユウさんは慌てて辺りを見回す。
「広瀬、これ差し入れ」
俺は広瀬に紙の手提げを手渡した。
「いつも悪いな」
広瀬は笑って受け取った。差し入れって言っても、広瀬の分だけだ(※……)。
「アラ、ウレシイ」
「一人分しかないから」
「…意外と健気よね、諒ちゃんて…」
なんとでも言え。
「あれー、岩城さん、『また』来たんですか?『また』広瀬さんにだけ差し入れですかー?」
そこにさらに広報部の女性社員が加わった。
「…すみませんね、次は皆さんの分も持ってきますよ(俺は広瀬だけに高くて美味しいものを差し入れたいけどな)」
「いいんですよ、気にしないで下さいねー。うふ。仲がいいなあ」
「…」
俺はどうもこの人が苦手だ。名前は城下紗弓というらしい。歳はそう変わらないとは思う。
「悪い、岩城、呼ばれたからちょっと向こう行くな」
「おう」
「広瀬さん、うちの部じゃ早くもエース的活躍をしてくれてますよ」
「そうですか」
「今日はお休みですか?」
「仕事の都合で半休になったんで」
「それで広瀬さんに会いに来ちゃうんですねー」
「……」
なんかいつもこんな感じなんだよなあ。
「広報部の人たち集まってるみたいですけれど、行かなくていいんですか?」
「あ、ホントだ。失礼しますね」
ほんとに失礼だよ、さっさと行ってくれ。
「あの子気を付けた方がいいわよ、諒ちゃん。アタシも彼女に会うのは打ち合わせも含めて3回目くらいなんだけど」
城下紗弓が離れたのを確かめて、ユウさんが耳打ちしてきた。
「気を付けるって…何を…広瀬を狙っているとでもいうのか?」
「アタシも初めはそう思ってたんだけれど…なんかそうじゃないみたいなのよね」
「そうじゃないって…じゃあ何を気を付けるんだよ」
「多分…あの子…」
「多分?」
「『腐女子』じゃないかと思うのよね」
「フジョシ?」
聞いたことがあるような、ないような…
「あんたたちみたいなのが大好物の女の子たちよ」
「好物?」
「男同士の恋愛よ。BLって聞いたことない?最近深夜にドラマもやってるじゃない」
「BL…」
「ボーイズラブよ、ボーイズラブ。アタシたちみたいな麗しい男たちの絡み合…恋愛模様よ」
「それってまさに広瀬と…」
広瀬と実央君の事じゃないか。二人はいわゆるノンケなのだが、どういう経緯か恋仲になり今に至る。新部署に移る少し前、俺と広瀬が二人で最後の営業に出かけた時たまたま実央君の職場近くの駅を利用したことがあった。新卒の実央君が今年から働いているのは私立三輪春学園という男子校だ。
―岩城の回想―
「二人で営業先回るのもこれで最後だな」
広瀬がしみじみと言う。
「そうだな、ところで実央君の職場ってこの近くだろ?あの辺歩いてる制服の男子、三輪春の生徒じゃないのか?」
「そうだと思う…」
「会いに行かなくていいのかよ」
俺は広瀬をからかった。
「そんな事できるわけないだろう」
広瀬は苦笑いしたが、急に真顔になって
「…少しくらい様子見に行ったら、だめかな」
と言い出した。
(エ?)
さすがに冗談だろうと思ったが、何やら思案顔になっている。
「いやいや、まずいだろう、男子校の校門近くにスーツ姿のサラリーマンがうろついてたら…下手すりゃ通報されんぞ」
「そうか…ちょっとくらい覗けるかと思ったんだけど…」
「覗く」ってなんだよ、すでにその表現がやべーわ、こいつ仕事はできるのに実央君のことになると一気に知力が低下するの、なんなんだよ!そう思ったが、そこまで広瀬に愛されている実央君が羨ましいとも思ってしまった。
二人はこの春から同棲を始めた。俺は引っ越し祝いに新居を訪れた際、おしゃれな置時計をプレゼントした。実央君がそれをいたく気に入ってくれたという。「『二人の時を刻め』ってことか?キザだな、岩城は」と広瀬に言われた。
いや、キザなのはお前だわ、俺にそんな意図はない。俺の贈った時計が実央君のお気に入りというのは、少々フクザツな気分ではあった。時計を見た時に広瀬が俺のことを思い浮かべてくれたら、という淡い…いやいやまた乙女思考になってるぞ。
―岩城の回想 終わり(※回想?)―
「いや、『あんたたち』って…広瀬はともかく、俺のことはバレてないだろう」
「どうかしらねー」
ユウさんは意味ありげに笑った。
それから数日後のことだ。俺は今浅見専務の秘書綿貫さん(男性)に見習いのような形でついているが、その日は専務が別の会社の重役と込み入った話があるとかで、外で待機するよう仰せつかった。
(高級料亭で会食ねえ、綿貫さんも陪席してんのかな。マナーとかの教育は受けてるけれど、俺もどこかで経験しておくかな。そうだ、広瀬に付き合ってもらおう)
コーヒーショップのテラス席でそんなことを考えていた時だ。
「あら、岩城さん、奇遇ですねー」
いきなり声を掛けられた。
(げっ、城下紗弓)
「今日はお休みですか?」
「…上司の都合で待機しているところですけど(いや、座るなよ)」
「私はお休み頂いてるんです。今日は映画で…あ、相席しちゃったけれどいいですか?」
「とうぞ…(あんたのスケジュールなんて聞いてねえし、座ってから確かめるんじゃねえよ)」
俺は入社直後の研修の時を思い出した。あの時も俺と広瀬にこんな風に近付いてきた女どもがいた。
「広瀬さんと別部署になっちゃって、寂しくないですか?」
いきなり広瀬の話!?「あの子気を付けた方がいいわよ」というユウさんの言葉がよみがえる。
「寂しいって…ガキじゃあるまいし」
「よく広報部に会いにいらっしゃるから、そうなのかなって」
…そんなに行ってたか?
「私たちの部署って営業部同様他社との接触が多いけれど、広瀬さんモテますよ」
「…そうですか、まあイケメンですしね」
「女性にも男性にも」
「!?」
「私たちが接する業界の人って案外そっちの方多いですから」
この女、俺の反応を見てやがる。城下紗弓は店員にカフェオレを注文した。居座る気か。俺の方が席を立とうかと思ったが、退散するのも癪に思えた。
「広瀬さんてすごいですよね、同性の恋人がいるって社内中に知られても堂々としていて。最近は積極的に応援する人も増えてるみたいです」
「…そうですか」
「岩城さんは広瀬さんの彼氏さんと会われたことはあるんですか?」
「…ありますよ」
俺が答えると城下紗弓は「へえ」という顔つきになった。
「どんな方なんですか?」
「そういう個人的な事を俺が話すのはちょっと…広瀬に直接聞いてみたらどうですか」
聞けるもんならな。
「…そうですね、伺ってみます。広瀬さんよく嬉しそうに愛妻弁当を召し上がってるから、案外教えて下さるかもしれませんね」
そうだった、広瀬はそういうやつだった。実央君への激重感情は全く隠さない男だった。頼まれれば写真くらい平気で見せるかもしれない(俺にははじめ渋ったけど)。
「…まあ、可愛い感じですよ」
俺はそれだけ答えた。
「可愛い…ってことは、やっぱり広瀬さんが『攻め』…」
城下紗弓がなんかボソっと言った。
「岩城さんは広瀬さんとお相手さんの事、気にならないんですか?」
「気になるとは?」
「ヤキモチ焼いちゃうとか」
この女―、何言ってくれてんだよ。
「意味がよく分からないな」
「私社内に仲のいい子が何人かいるんですけれど…」
城下紗弓の目がまた探るような感じになった。
「岩城さんは広瀬さんの事が好きなんじゃないかっていうコがいて」
(!?バレてる!?いやいやいや、そんなハズねえだろ)
「好きって…」
「恋愛的な意味で」
城下紗弓はさらっと言ってのけた。俺は動揺を悟られないよう、口元をグーにした手で押さえて笑った。
「女性は想像力が豊かですね。男を好きな男なんて、そうそういませんよ」
「でも広瀬さんもノン…同性愛者ではなかったと伺っています。それでも彼氏さんの事が好きになった。女好きの人が男性を好きになることもあるんじゃないですか」
城下紗弓はカフェオレを飲みながら話し続ける。「女好き」って…こいつ俺の事どこまで知ってるんだよ。
「ヘンなこと伺ってすみませんでした。岩城さんは女性社員に人気の方ですものね。お相手には困らないのにわざわざ仲のいいお友達に片想いなんてしないですよね」
そう言うと城下紗弓は自分の伝票を持って立ち上がった。
「お邪魔してすみませんでした。また広瀬さんに会いにいらして下さいね」
俺はもう何も言えずに城下紗弓の後ろ姿を見送るだけだった。
(ヤな女…)
城下紗弓が最後に言った言葉が俺の心中を容赦なく抉った。
(仲のいい友達…片想い…)
ずっと友達でいたい、友達ではいたくない…俺の気持ちに気付いてほしくない、気付いてほしい…いつも頭の中で堂々巡りをしている本心だ。すっかり冷めて苦くなったコーヒーを、俺は無理やり喉の奥に流し込んだ。そして腕時計を確かめ会計を済ませると、浅見専務が会食している高級料亭へと向かって行った。
おしまい
2 事件ですよ<実央SIDE>
暁人さんと喧嘩をしてしまった。これまでも多少の意見の違いとかはあったけれど、喧嘩してしまったのは今回が初めてだった。
(どうしよう…)
原因はわかっている。僕が嘘をついたからだ。暁人さんはそれに気付いて怒ったんだ。でも…本当のことを話すわけにはいかなかった。僕だけの問題ではなかったからだ。
広瀬暁人さんと僕・明石実央は大学時代に知り合って付き合い始めた。暁人さんが2歳上。僕たちはゲイではなかったけれど、自然に惹かれ合ってお互いが好きになった。去年の春僕が就職したのを機に同居を開始。暁人さんが勤める会社と僕が勤める三輪春学園の近くにマンションを借りて住んでいる。家賃は折半…ということになっているが、僕の方がお給料は低いから暁人さんが多く負担してくれている。
マンションは2LDKだが、実は部屋割りを決める時も少々揉めた。暁人さんは二人の寝室で1部屋、二人共用の仕事部屋で1部屋にしたかったらしい(ベッドもキングサイズとか?)。でも僕は一人1部屋がいいと思った。僕の仕事は高校教師だが、学校の先生というのは案外仕事が多くて家に持ち帰ることもある。ただ授業をすればいいというものではないんだ。暁人さんも仕事が忙しいし、別の部屋にした方がお互いのペースで気楽に仕事も生活できると思った。
三輪春は私立だから、運動部なんかは外部から専門の指導者を多く招いている。ただ文化部系はやはり教員が顧問の場合が多いし、僕は現在生徒会の担当教員になっている。これは学校に早く慣れるようにという学園長の配慮でもあるのだけれど。この1年は本当に色々なことがあった。社会人としても教師としても1年生で、ずっとテンパっていた感じだ。でも生徒たちとも他の先生たちとも仲良くなれたと思う…思うのだが…僕は3日前、同僚の金谷先生に告白されてしまった。
学校は今春休みだから授業はないが、図書室を使う生徒や部活動に参加する生徒はいるし、教員も新年度に向けての準備で忙しい。春休み自体短いし、僕も平日はほぼ出勤している。そんなある日僕は金谷先生に話があると言われた。僕は前年度2年B組の副担任を受け持ったが、担任が金谷先生だった。その日は2Bの生徒だった沢田君に社会科教室の資料整理をお願いして、後で僕が施錠することになっていたから、そこでお話を聞くことにした。
(何の話だろう?新年度の事か生徒会の事かな、僕何か失敗してないだろうか)
そんなことを考えて二人で社会科教室に入った。
―実央3日前の回想―
「好きです、明石先生」
え、今なんて…?
「金谷先生…」
「友情とかじゃありません。恋愛的な意味です」
お話ってこういう事!?僕は驚き過ぎてすぐには言葉が出なかった。でもこういうことは曖昧に答えてはいけないと思った。
「すみません、僕、お付き合いしている人がいます。金谷先生のお気持ちにはお応えできません」
「それは…あの…広瀬さんという方ですか?」
え、なんでわかったの?僕職場では誰にも話していないし、同性なのに…。不思議に思ったので聞いてみた。
「はい…でもどうして?」
「わかりますよ、だって…」
金谷先生はちょっと口元に笑いを浮かべた。
「三輪春祭でお会いした時、俺の事すごい目で見てましたから。ああ、そういうことなのかなって、なんとなく」
三輪春祭とは去年の秋にあった本校の文化祭だ。職員に割り当てられた来場者用チケットは2枚のみだったが、暁人さん・僕のお母さんに加え暁人さんの姉弟綾乃さん・篤紀君まで来たいと言い出して、金谷先生にチケットを譲って頂いたのだ。金谷先生と二人で巡回していた時にたまたま4人と遭遇してみんなで挨拶をしたのだが、その時?暁人さん、金谷先生の事どんな目で見ていたの?
「…そうですか…」
「明石先生と広瀬さんはその…」
金谷先生の聞きたいことは僕にもなんとなくわかった。
「僕たちは同性愛者ではないです。でも大学で知り合ってお互い好きになって…今一緒に暮らしています」
「そうでしたか…」
信じてもらえないかもしれないけれど、それは気にしなかった。
「明石先生…僕は…ゲイなんです」
金谷先生の告白に僕はまたびっくりした。僕の身近にそういう人はいなかったので、何と言っていいのかわからなかった(※一人いたけどね)。
「だから伯父に…三輪春の理事長にここに来てくれと言われた時は、断るつもりでした。断りたかった」
金谷先生は辛そうに言葉を続ける。
「もちろん、ゲイだからと言って男子生徒とどうにかなるなんて、そんなことは考えていません。するつもりもない。でも、もしどこからか僕のことが知られてしまったら…ゲイが男子校の教師をしているなんて、世間からは非難されるでしょう。僕だけの問題ではなく学校側の管理責任も問われてしまう。だからここへは来たくなかったんです」
確かにそれは難しい問題だなと、新米の僕にも分かった。
「でも去年の入学式の日にあなたを見て…あなたに会って『まずいな』と思いました。直感で好きになりそうだと」
そう言われても僕には何も言えない。だって僕の頭の中で「恋愛」の部分は100%暁人さんで占められているからだ。
「明石先生」
暫しの沈黙の後金谷先生が口を開いた。
「初めから諦めた上での告白でした。明石先生の気持ちに負担を掛けてしまって申し訳ない」
「そんな…」
「ただ、一度だけ…」
金谷先生はすごく言いにくそうな顔をしている。
「明石先生のこと、一度だけ抱きしめていいですか」
…どうしよう、どうするのが正解なんだろう。僕の頭には暁人さんの顔が浮かんでいる。でもなぜか、答えを出す前に頷いてしまった。僕は金谷先生に力強く抱きしめられた。暁人さんへの罪悪感で胸が苦しかった。
「あの時のお弁当、すごく嬉しかったです。本当においしかった」
お弁当というのは、三輪春祭のチケットのお礼に1度だけ僕が金谷先生に作ってきたもののことだ。時間の経過はわからなかったが、なんだかすごく長いような気がした。金谷先生は僕の体を離すと、もう何も言わなかった。言わなかったけれど口の動きが「ありがとう」と伝えていた気がする。
僕は金谷先生が部屋を出た後、施錠して職員室に戻った。
(泣いちゃダメだ。まだ他の先生も生徒たちも残っているんだから)
僕はできるだけ平静を装って、職員室の自分のデスクに着いた。
もちろん僕はこの事を暁人さんに話すつもりはなかった。金谷先生のプライバシーにも関わってくる。その日は暁人さんが先に帰宅していて、僕の方が帰りが遅かった。
「お帰り、実央」
暁人さんは僕にハグをしてきた。それ自体はいつものことだ。だがその日のハグはずいぶんと長かった。どうしたのかなと思っていると、
「…違う匂いがする…」
「え?」
「いつもの実央と違う匂いがする」
暁人さんの顔つきが険しくなった。
「汗の匂いじゃ…」
「違う、実央の汗の匂いじゃない。何があった」
問い詰めるような言い方に、僕は怯んでしまった。
(まさか…金谷先生?確かに力強く抱きしめられたけど…でも金谷先生は煙草も吸わないし、香水も付けていない。匂いが移るなんてことは…)
「何があった、実央」
暁人さんは再び聞いてきた。高圧的な暁人さんの物言いにさすがに僕も少しムッとしてしまった。
「何もありません。今日は新年度に備えて体育館の倉庫を職員で整理したので、ボールとかマットとかネットの匂いが付いたんでしょう」
これは噓なんだけれど、なんとか納得してもらうしかない。それにしてもそんな微妙な匂いの違いがわかるのかな(※わかるみたいですね)。
「違う、そういう匂いじゃない、誰かの…」
どれだけ嗅覚がいいんだ、暁人さんは。
「暁人さんは、僕のことが信用できないんですか」
そこからは押し問答だった。お互い同じ言葉の応酬になってしまった。僕も金谷先生の告白で動揺していたから、ついカッとなって言ってしまった。
「しつこいです、暁人さん!そんな暁人さんは大キライです!」
よりによって「大」を付けてしまった。暁人さんは黙ってしまった。
―実央3日前の回想 終わり―
それから3日間ずっとぎくしゃくしたままだ。食事もなんとなくバラバラだし、ほとんど口も利かない。嘘をついたことは申し訳ないと思うけど、本当の事が話せない時もある。部屋割りの件は結局僕の希望が通って別々になっているので、この時ばかりは本当にそうしてよかったと思った。これで寝室が同じだったら、いたたまれない。実家に帰るにしても、実家から三輪春学園はちょっと遠くて、現実的ではない。
実は暁人さん以外の男性に抱きしめられたのは、金谷先生が初めてではなかった。去年の秋生徒会室で3年生の御幸君に告白されて抱きしめられ、キスされそうになった。その時はちょうど2Bの沢田君がやって来て何事もなく済んだ。御幸君にも色々事情があったらしい(※『実央先生とある腐男子の日常』参照)。その日は暁人さんが残業で僕は先にお風呂に入っていたから、匂いには気づかれなかったのかな?人の匂いなんてそんなに簡単に付くもの?
(今日も残業なのかな…)
こんな状態でも暁人さんは最低限の連絡をくれる。一人で夕飯を食べた後暁人さんからラ〇ンが来た。
(あ…)
「遅くなる。今日は帰れないかもしれない」というラ〇ンだった。返事はしなかった。既読が付けばわかるだろう。僕は暁人さんの分の生姜焼きにラップをして冷蔵庫に入れた。暁人さんがおいしいって言ってくれた生姜焼き…ご機嫌を取るつもりはなかったけれど、なんとなく作ってしまった。
僕はリビングのテーブルで一人ぼんやりとしていた。
(帰れないって…仕事だよね、まさか誰かと一緒に…)
そんなことを考えた瞬間愕然とした。目の前が真っ暗になるって、こういう事なんだ。
(僕、暁人さんに捨てられるのかな…)
そうなったらどうしよう。男同士はもう面倒くさいと別れを切り出されるかもしれない。別れたらここでは暮らせないから、どこか学校の近くにアパートを借りないと。今の時期から見つかるかな。僕のお給料では、まだマンションは無理だし。
でも生活圏が近いと暁人さんに偶然会ってしまうかもしれない。その時はどうしたらいいのかな。普通に「お久しぶりです」って挨拶?いや、僕泣いてしまうかもしれない。暁人さんが一人じゃなくて、隣に誰かがいたら?暁人さんは学生時代からずっとモテてる。社会人になってからも、きっと告白されている。男でパッとしない僕なんかより、素敵な女性が暁人さんには相応しい。それでかわいい赤ちゃんを連れてたりして…。僕はどう頑張っても赤ちゃんは産めないから、やっぱりこれでよかったと暁人さんに思われるかもしれない…そこまで考えた時、涙がぼろぼろ零れて止まらなくなった。
(男なのに情けない…こんなだから見限られるんだ…)
僕はテーブルの上に突っ伏した。綾乃さんや篤紀君たちにももう会えない。暁人さんのお父さんにも…みんな僕たちの事応援してくれたのに…暁人さんのお母さんには最後まで認めてもらえなかったけれど、最近は少しだけ?当たりが柔らかくなってくれた気がしてた…許してほしかったな、お母さんにも…
(暁人さんが帰ってきたら、許してもらえなくても謝ろう。匂いの違いは説明できないけれど、とにかく謝ろう、そして何を切り出されても受け入れよう)
でも暁人さんと離れたら、生きていける気がしない。ちゃんと仕事もできなくなるかもしれない。暁人さんと一緒にいたい…僕は一生分の涙が流れ出ている気がした。
(とりあえず明日は住宅情報をネットで検索しなくちゃな…)
そんなことを考えているうちに、僕はいつの間にか泣きつかれて眠ってしまったらしかった。
時間の経過はわからなかったが、頬に何かが触れて僕は目が覚めた。ボロ泣きしたまま眠ってしまったので、すぐには目が開けられなかった。でも誰かの手が優しく僕の頬に触れているのに気が付いた。
「実央…」
暁人さんの声がした。一瞬夢かとも思ったが、そうではないことに気が付いて跳ね起きた。
「あ、暁人さん…お帰りなさい…」
外はまだ暗い。帰って来てくれたんだ。僕はどうしていいかわからずに、
「あの…ご飯食べますか?生姜焼きが冷蔵庫に…」
そう言って立ち上がったが、そんな僕をすぐに暁人さんが抱きしめてくれた。
「実央…ごめん…」
眠りに落ちる直前まで「暁人さんとお別れする」という思考に囚われていた僕は混乱したけれど、暁人さんの胸にそのまま顔を埋めた。
「暁人さん、僕もごめんなさい…僕…」
「何も言わなくていい、俺が悪かった」(※そう思います)
そう言うと暁人さんは僕にキスをした。びっくりするほど激しいキスで、僕は呼吸ができなかった。気が付くとリビングの床に二人寝転がっている。暁人さんの手の動きに
(えっ、まさかここで…?)
理性が飛んでいた僕だったが、少し我に返った。
「あ、暁人さん…」
暁人さんの動きが止まらない、止まってくれない(赤面)。
「暁人さん!!」
僕はありったけの力で暁人さんの肩の辺りを押し返した。暁人さんはちょっと悲しそうな顔をしている。
「ええと…まずお風呂に入りませんか…?よかったら、一緒に…」
恥ずかしかったが、言ってみた。しばしの沈黙の後
「うん、入ろう、一緒に」
暁人さんは素早く立ち上がって僕の手を取り、バスルームに向かう。
「あ、待って、追い焚きしないと…」
暁人さんに引っ張られて僕もバスルームに入る。
(お別れしなくてもいいのかな…)
ふと洗面所の鏡を見ると自分の泣きはらした顔が映っていて、僕は本当に恥ずかしかった。
おしまい
3 腐女子会です
「いいなあ、紗弓ちゃんは広瀬さんと一緒の広報部で」
私は思いっ切り大げさな感じで言ってみた。
「まあねー、色々と観察できて楽しいわよ、岩城さんもよく顔出すしね」
「ウラヤマ~」
ここは私たちが勤める大室精密(株)本社ビル近くのレストラン。みんな部署は違えど共通の趣味で集まっている。
「真理ちゃん、声は控えめに」
最年長の金沢さんが辺りを見回しつつ、注意してくる。
「でも紗弓ちゃんは今べスポジですよ。2年前広瀬さんと岩城さんが入社して私たち一気に盛り上がったのに、その後はパッとしなくて未だに二人頼みですよ」
広瀬暁人さんと岩城諒さんは同期入社で現在3年目。2年ちょっと共に営業部で働いていたが、今年5月からの異動でバラバラになった。二人は採用試験の最終面接でも一緒のグループだったそうで、金沢さんはその時の面接官の一人だった
この二人、そりゃあもう絵に描いたような高身長・高スペックイケメンで女性社員の人気も当然高い。でも私たちが騒いでいるのはそんな低俗なレベルの話ではないのだ(※低俗って…)。
「それで、広瀬さんの『彼氏』情報は?」
「岩城さんの話だと『カワイイ系』らしい。会ったことあるって言ってたし」
「ええ~、好きな人の彼氏に会っちゃったんだ」
「真理ちゃん…それはあなたの妄…想像で…」
「金沢さんも岩城さん情報もっと下さいよ、今秘書課で直属の部下でしょう!?」
わかりやすく説明しますと、今ここに集まっている計6人は大室精密社内の「腐女子会」。長老…もといお姉様・秘書課の金沢冴子さん・広報部城下紗弓さん・庶務課市川有彩さん・海外営業部松本レイナさん・経営企画部諸星葵さん、そして私経理部の湯浅真理というメンバーである。金沢さん以外は20~30代でわりと年齢が近い。
私と金沢さんはBL漫画のコラボカフェでばったり会って、同好の士だとわかった。他のメンバーは漫画の話題から入って、それとなくジャンルを絞っていってお互い探りを入れて…見つけたメンバーだ。きっとまだ社内には仲間がいるハズ。
「営業部でのツーショットが見られなくなったのは残念だけど、別々になればそれはそれで観察しがいがあるものね」
「金沢さん、二人とも秘書課に引き抜こうとしたんですって?」
「引き抜きって…さすがに二人揃って異動先まで同じにはできないって、人事の堀越さんに言われちゃったわよ」
「でもわかりますよ、広瀬さんも似合いそうですよね、秘書が」
「あの二人には永遠に色々な部署を巡ってほしいですよね」
「それじゃなかなか希望部署に行きつけないじゃないの…」
「それより紗弓さん、広瀬さんの情報をもっと詳しく」
私は彼女に催促した。私たちは二人が入社した当初、二人の関係でBL妄想をしていた。「岩城×広瀬」か、「広瀬×岩城」かで解釈の違いを巡り、そりゃあもう大激論だった。ところが…入社1年目の夏、なんと広瀬さんに「彼氏」がいる事が発覚したのである。そりゃあもう大騒ぎだ(※彼女たちだけ別の意味で)。噂はあっという間に社内中に広まった。
最初は「人気のある広瀬さんを妬んでのデマではないか」という懐疑的な見方もあった。ところが当の広瀬さんがあっさり事実だと認めたのである。しかも、しかもよ、ノンケ同士ですって!?今まで妄想でガマン?していた私たちにリアルBLが降臨したのである。いや、これが…まあ人の見た目をとやかく言うのはよろしくないとは思うけれど、あんまり「映えない」人ならそこまで盛り上がらない。
でも広瀬さんだよ!?岩城さんと社内の女子人気を二分する高スぺイケメンの広瀬さんですよ!?(※ちょっと評価し過ぎでは…)こんなことある!?(※興奮しすぎです)聞けば噂の出どころは彼らの面接を担当した、当時の広報部長だった馬場だという(※呼び捨てちゃってるし)。この人は評判が悪くて紗弓さんもよく嘆いていた。使えなくても「いるだけ」ならまだましだが、パワハラ・セクハラ・モラハラ・アルハラと悪行の数々、それでも社長の縁故入社とかでふんぞり返っていたのだ。
どうやら同じく面接官だった金沢さんも広瀬さんの事は知っていたらしい。
「どうして教えてくれなかったんですか」
と、みんなで詰め寄ったが
「話せるわけないでしょう、個人のプライバシーに関わるのよ、守秘義務ってものがあるのはあなたたちもわかるでしょう」
そう諭されて、納得するしかなかった。馬場の言動は許せないが、広瀬さんの「彼氏」の存在が知れたのは私たちにはちょっとだけ?ありがたかった(※コラコラ)。馬場は今沖縄支社で働いているらしい。金沢さんは沖縄大好きで毎年旅行に出かけては沖縄イケメンとのツーショットを見せてくれるが、一度国際通りで馬場を見かけたらしい。「少し瘦せていた」ということだが、私たちにはどうでもいいことだ。
話を元に戻します。今年5月から岩城さんは秘書課、広瀬さんは紗弓さんと同じ広報部に配属されている。私からの催促に紗弓さんは応じた。
「いやー、広瀬さん相変わらず嬉しそうに愛妻弁当広げてるわよ、毎日じゃないけどね」
「お弁当作ってるってことは一緒に住んでるんだよね。毎日じゃないってことは専業主夫ではないのか。歳はいくつだろう、どこで働いてるのかな」
金沢さんは何かしら知ってはいるようだが、さすがに教えてくれない。
「距離を詰めるにはもう少し時間がね…でも広報部は明るくなったわよ。馬場さんが抜けただけでも御の字だけど、今年から広瀬さんの加入だもの」
「そうだよねー、天地の差よね」
「でも私、真理ちゃんの推測あながち外れてないような気がするの」
「それは、つまり?」
「岩城さんて、広瀬さんの事好きなんじゃないかな。よく顔出しに来るわよ、広瀬さんに会いに。それで広瀬さんだけに差し入れ置いてくの。ちょっと皮肉ったら次は広報部全員に差し入れてくれたけどね」
みんな興味津々という感じで紗弓さんの話を聞いている。
「この間有休使ってBLアニメの再上映に行った時、たまたまカフェで岩城さんに遭遇したの。向こうは仕事で待機中だったみたいだけれど。強引に相席して話をしたのよね。その時に広瀬さんの彼氏が「カワイイ系」だって聞いたんだけれど」
「へえー」
「この間のCM撮影現場でもね、依頼したデザイン事務所の人が広瀬さんと知り合いだっていうのは聞いてたんだけれど、岩城さんも知ってたみたい」
「共通の知り合いってこと?」
「そう、それでその人オネエなのよね」
「オネエ!?」
「紗弓ちゃん…あまり個人情報は…」
金沢さんがストップをかける。
「ここでしか話していないですよ、その人と知り合いだってことは広瀬さんも岩城さんも隠してないですし。私がオネエだって気付いただけです」
「金沢さんこそ岩城さん情報ないんですか?」
レイナさんが話を向けた。レイナさんはハーフで、語学が堪能。
「いや情報って言われても…」
その日はその辺でお開きになった。
後日たまたま社食で紗弓さんと話をする機会があった。
「これ、まだ誰にも言ってないんだけれどね」
紗弓さんは周囲に注意を払って、小声になる。
「なになに」
「岩城さんて、相当女癖悪いみたいなんだよね、かなり遊んでるらしいの」
私はちょっと気分が萎えた。
「え、それどこ情報?」
「去年入社した別部署の知り合いがS大出身の子でね、かなりとっかえひっかえしてたらしいよ」
「…広瀬さんは知ってるのかな」
「さあ、大学は別だしね。でも同期入社で3年目の仲良しさんなら、知ってるんじゃないの」
そっかー、女好きかあ。まあそんな感じはするよね。広瀬さんは真面目そうだけれど、岩城さんは若干?ノリが軽そうだし。
「でもかえって萌えない?」
紗弓さんは言う。
「女好きの男がある日仲のいい親友を好きになっちゃうって。しかもその親友には恋人がいて、それまで散々好き放題していたクズ男が、ままならない思いに苦しむのよ」(※ほぼ当たっている…)
「確かに…エモい…」
「まあ真理ちゃんの『岩城さんは広瀬さんを好き』という予想が正しければの話だけれど」
「うんうん」
そしてさらに数日後、腐女子会の時のことだ(※定期開催してるの?)。
「広瀬さんの彼氏さんの名前がわかりました」
紗弓さんが勝ち誇ったように言った。
「ちょっと…」
金沢さんが止めようとしたが、それには構わず紗弓さんは続けた。
「『実央君』です」(※字はわかってないけどね)
一同「おお~」と感嘆の声。
「名前まで可愛いじゃないの」
「ほんとだねー、ますます見てみたいわ」
「紗弓ちゃん、あなた…」
金沢さんは頭を抱えた。
「ご心配は無用です。腐女子の良識は弁えてますよ。ヘンなルートで仕入れたんじゃありません。広瀬さんが社内の廊下で電話しているのが聞こえちゃったんです。お相手は彼氏さんじゃなくて、多分ご家族かな。『またうちに来るのか。実央に都合のいい日を聞いておくから』って言ってました。聞かれても気にしてない感じでしたよ」
「なんかうちの会社って、家族を呼んでもいいイベントってないんですか?」
有彩さんが金沢さんに確かめる。
「昔はあったのだけれど…景気が落ち込んだりパンデミックがあったりで久しくないわね…」
「でもあったとしても、さすがに彼氏は連れて来れないんじゃない?」
「いやー、案外広瀬さんてアピりたい方なんじゃないの」
みんなでワイワイ言っている横で、
(確かに見てみたい…あの広瀬さんをあそこまで虜にする「実央君」を…)
私はそんな気持ちが強くなった(※「あそこまで」ってどこまでだろう)。
某日私は有休を取得した。BL関連のイベント以外ではほぼ使ったことがない有休を。
(まあこれもBL関連のイベントみたいなものだけど)
紗弓さんに協力を仰ぎたかったが、さすがに自分がやろうとしていることに後ろめたさを「少しだけ」感じたので、巻き込むのをやめておいた。
(広瀬さんの後を付ける…今日一日だけならストーカーじゃない!多分…)(※どうだろう…)
広報部はCM撮影が終わって一段落しているハズ…そこまで長時間の残業はないだろう。広瀬さんは私の顔は認識していないと思うし…私は当社本社ビル近くのカフェから出入り口を凝視した。
(あ、岩城さんだ…今日のところは用がないや)
と、思ったら続けて広瀬さんが出てきた。
(えー、まさか二人で飲みに行くとかじゃないよね)
取り敢えずカフェを出て、急いで後を追う。事前に広瀬さんの目撃情報はそれとなく確認しておいたから、利用駅は大体目星がついていた。駅に着いたところで二人が別れた。
(別方向か別路線?)
岩城さんは広瀬さんの後ろ姿をじっと見つめている。広瀬さんが見えなくなったところでくるりと向きを変え、元来た方に歩き出した。
(これって…わざわざここまで広瀬さんと歩いて来たってこと?)
そちらの追及もしたかったが、二兎を追う者は一兎をも得ず、電車が来る前に私は広瀬さんを追って、急いでホームに駆け上がった。今日は一応マスクと伊達メガネを付けている。こういう時交通系ICカードはありがたいな。
広瀬さんと同じ車両に乗って少し離れた所で様子を見ていると、何やらスマホをいじっている。
(「実央君」と連絡を取っているのかな)
広瀬さんは2駅目で降りたので私も続く。そのまま家に帰るのかと思ったら、駅構内のカフェに入った。
(え、ここで寄り道?)
仕方ないので、柱にもたれて待ち合わせをしている風を装った。広瀬さんはコーヒーを飲みながらスマホを見ている。私もスマホを眺めつつ、広瀬さんをチラ見した。
(あ、お気に入りのシリーズの新刊が出る、もちろんBLの)
いやいや、ここは広瀬さんに全集中しなくちゃだめでしょう。
(あ)
15分くらいそこに立っていただろうか。一人の男性が広瀬さんに近寄って行った。男性にしては小柄な方か?広瀬さんは立ち上がると、満面の笑みで彼を迎えた。
(あれが「実央君」だ!)
確かに岩城さんが言った通りカワイイ!!女の子みたいっていうのとは違うんだけど、カワイイわ!広瀬さんは実央君が締めている紺のネクタイを手にして何か言っている。
(広瀬さんからのプレゼント?「良く似合ってるよ」とか言ってるのかしら)(※大当たりー)
二人はカフェを出て歩き出した。そうか、帰宅時間が合いそうだったから、待ち合わせをしていたのか。
(いい、二人のビジュアルすごくいい!)
私は気付かれないようにゆっくりと二人に付いて行ったが、反対に脳内はものすごく興奮していた。昨今BL作品のカップルも様々で、ガチムチ同士とか年上受けとか可愛い方が攻めとか色々あって、それぞれの良さがある。もちろん好みに合わなくて地雷の場合もある。
(王道中の王道…)
私の中では広瀬さんたちはそういう感じだった。しばらく歩いていくと二人は通りに面したスーパーに入って行った。私も続いて入った。
(二人で夕飯の買い物?お弁当の食材?場所柄ちょっとお高めのスーパーだけど、私も何か買わないとな)
私はカゴを持って、少し離れて二人を見守った。すると
「ご試食いかがですか?」
マネキンのおばさんが私に試食を勧めてきた。おいしそうなハムだったけれど、マスクしてるんだから空気読んでよ!試食を断り何気なくスーッと二人の横に行く。ドキドキ。何やら肉を選んでいるようだ。
「ダメですよ、暁人さん、高すぎます」
(声もかわええ~)
「母さんが野菜を送ってくれた分食費が浮くから、肉が高めでもいいじゃないか」
「ダメです、浮いた分は貯金です」
え、なにコレ、夫婦の会話?そのうち私は周囲のお客さんや店員さんが、二人をちらちら見ていることに気が付いた。まあ、広瀬さんは目立つしな。時間的に仕事帰りのサラリーマンもそこそこいたが、やはり圧倒的に女性客の方が多かった。
「また二人で来てる」
「見られてラッキー」
小声でそんな話が聞こえてきた。このスーパーの名物なのか!?二人はいくつか食料品をカゴに入れてレジに向かった。私もお菓子を2,3コ買って後ろに並んだ。
(大丈夫、広瀬さんは実央君しか視界に入っていない)
お会計が済むと二人はサッカー台に行った。実央君がカバンからエコバッグを取り出す。私は手持ちの袋がなくて仕方なくレジ袋を購入。今度からちゃんと持ち歩こう。
(たっか!お菓子3コで税込み千円越え?)
思わぬ出費になったが、まあいいものを見せてもらっているのでこれくらいは必要経費?だ。
「俺が持つから」
広瀬さんはエコバッグを持って、実央君の肩を抱き…抱き!?スーパーの中でスキンシップ!?私は二人に遅れまいとスーパーを出ようとしたが、その時
「お客様、商品をお忘れですが」
店員さんに声を掛けられフリーズした。買ったものをサッカー台に置きっぱなしだったのだ。店員さんの呼びかけに、広瀬さんたちもこちらを振り向いた。
(やばっ)
私は慌てて顔を背けると
「すみません」
一言言って袋を持ち、外に出た。
少し距離を取って私は二人の後ろを歩いて行く。カモフラージュに時々スマホを覗きながら(※歩きスマホは危険なのでやめましょう)。何を話しているかはわからないが、実央君は笑っているようだ。たまに横顔が見えたが、広瀬さんは本当に愛おしいものを見つめているようだった。
(なんかいいなあ、この二人の関係性…)
こそこそなんてしてないし、本当に自然体で二人の時間を過ごしているようだった。そのうち広瀬さんの手が実央君の手を取ったのが分かった。
(手、繋いでるよー、写真撮りたいなあ)
もちろん、そこは自重しました。多分実央君はちょっと恥ずかしがっている。やがて二人はとあるマンションに入っていった。部屋番号は確かめなかった。さすがにそこまでやってしまうのは、ヤバい。私は暫くそのマンションを眺めていたが、方向転換して駅の方へと戻って行った。いつまでも眺めていたら、それこそ職質されてしまいそうだったから。
(いいもの見られた…)
帰りの電車の中でも私はトランス状態だった。こんな素晴らしいリアルBLがあるだろうか。私は今日広瀬さんを付ける直前まで、うまくいったら得意満面でみんなに報告しようと思っていた。でも黙っていようと心に決めた。
(みんなゴメンね、一人だけおいしい思いしちゃって。でもなんか今日のことは心にしまっておきたいんだ)
もちろんプライバシーの問題もある。腐女子会のみんなはこのことを言いふらしたりはしないだろうけれど、私が教えるのは何か違うような気がした。金沢さんにも怒られそうだしね。こんなことは最初で最後にしよう。
私はその日税込み千円以上のお菓子を、電車の中に置き忘れてしまった。
それから暫くして紗弓さんがまた新たな情報を仕入れてきた。
「実央君の職場がわかりました。男子校です」
「紗弓ちゃん、あなたはまた…」
金沢さんは前回と同じように頭を抱える。
「だって広瀬さん、私が近くにいるのをわかってて電話でお話ししてるんですよ?隠す気ゼロですよ?」
「だからって…」
「他の人だって近くにいたし、みんな聞いてますよ。学校行事がどうとか、だから男子校はとか話してました」
(男子校…てことは私立か。あの辺で男子校といえば…三輪春学園か!)
男子校…BL素材の宝庫…(※偏見です)。…ちょっとくらい見に行ったらダメかな。体育祭とか文化祭とか入れないかな…でも、もうあんなことはしないって決めたし…
私の心は広瀬さん・実央君カップルを静かに見守りたいという気持ちと、大室精密腐女子会の一員としての好奇心との狭間で大きく揺れ動いていた(※会社名を冠するのはやめましょう)。
おしまい
4 事件ですよ<綾乃SIDE>
その日の晩、弟の暁人が真っ青な顔をして、実家である我が家をいきなり訪れた。さすがの私も驚いて
「ちょっと何よそのしんだような顔は、いや、あんた生きてる!?」
「……」
「だから、何があったのよ、実央君は?一人で来たの?」
「…実央に嫌われた…」
「は?」
「実央に『大っキライ』って言われた…」
25歳にもなる大の男が、今にもべそをかきそうである。
「何よ、実央君とケンカでもしたの!?」
「ケンカですって?」
そこに楽しそうな顔をしてお母さんが入ってきた。この人はまだこんな感じか…しょうもな。
「暁人、いいから私の部屋に来なさい。お母さんは絶対来ないでよね」
私は弟の腕を掴むと、2階の私の部屋へ連れて行った。私はこいつ・広瀬暁人の姉綾乃である。
「ケンカしたのはなんとなくわかったから、事情を説明してよ。でないと相談にも乗れないわよ」
「……」
「暁人」
「…匂いが違った…」
「は?」
「実央の匂いがいつもと違ったんだ…」
エ?何言ってんの、コイツ。
「もうちょっとわかりやすくお姉様に説明してくれないかなあー」
暁人は3日前にあったことをポツポツ語り始めた。
「つまり実央君が帰って来て、いつものようにあんたがお帰りのハグをしたら違う男の匂いがしたと」
「男の匂いかどうかは…」
「でもあんたはそう思って実央君を問い詰めたんでしょう?」
実央君というのは弟の彼氏だ。大学時代に知り合って交際し、この春暁人は社会人4年目・実央君は社会人2年目を迎える。実央君が就職した年に二人は同棲を始めている。二人の交際に関してはうちの母親だけが反対しているから、さっきのような反応になるのだ。
「実央君はなんて言ってるの」
「…汗だろうって…でも実央の汗の匂いはわかってるから」
「…(コイツ…ちょっとやばいわね)それで?」
「体育館倉庫の整理をしたから用具の匂いだろうって」
「じゃあ、そうなんじゃないの?」
「違う…そういう匂いじゃない…」
「じゃあタバコや香水の匂いでもした?」
「してない」
あんたは臭気判定士か!?
「電車で他の乗客にオヤジ臭でも付けられたんじゃないの?それで押し問答になった挙句、『大っキライ』だと言われたと」
「う…」
暁人はまた絶望的な表情になる。人って恋をするとアホになるのか?
私は末の弟篤紀にはしょっちゅう言っている言葉を、珍しく暁人に使った。
「バカなの?」
二人の喧嘩ネタはちょっと面白いと思ったけれど、さすがにくだらなすぎて呆れてしまった。
「仮によ?実央君が誰かに告白されたかして、ぎゅーーーっと強―く抱き締められたとしましょう」
仮の話だけで暁人はまたしにそうな顔になる。
「それを正直に実央君の口から聞かされたら、あんたはどう思うわけ?」
「それは…」
「仕方ないねって笑って済ませられるの?」
「……」
理論武装くらいしてきなさいよ、バカ弟が。
「あんただって入社して丸3年、女性社員に何人か告白されたんじゃないの?」
「…されたけど…」
「何人よ」
「…5人くらい…かな」
え、そんなにいるの?社内じゃ暁人に同性の恋人がいる事は周知されてんのよね?恋人が同性ならワンチャンありとか思ってんの?これだから全く女は…
「中には『広瀬さんが好きなんです~』とか言って、しなだれかかってきた女もいるんじゃないの?」
「…」
いたのかよ。
「あんたはそれをいちいち実央君に報告したわけ?今日○○課の△△さんに告白されましたって」
「…してない…」
「じゃあ実央君も暁人に報告する義務はないわよね」
「…」
「あんただって実央君を傷付けたくないから黙ってるんでしょ、実央君だって同じじゃないの?そんなこと気にしてたらキリがないじゃないの。暁人は昔実央君に恋人がいて深い関係だったって知ったら、それまで問い詰めるわけ?」
「実央は…俺が初めてだって…」
初めてって何がよ、まあわかるけど。
「でもあんたは違うわよね、女性と『そういう事』した経験あるわよね」
「それは…昔の話だし…」
「実央君だって黙っているだけで、昔誰かと『そういう事』してたかもよ?」
「違う!実央は俺に嘘はつかない!」
「でもあんたは噓をつかない実央君の言葉を信じなかったんじゃないの!?」
暁人は「あっ」という顔をした。だから理論武装をして来いっていうのよ。感情だけで動いているやつには無理だけどね。お姉様を言い負かそうなんて、100年早いわよ(※言い負かそうとしている訳では…)。
「なんでもかんでも正直に話すことが正義とは限らないのよ」
私は暁人にダメ押しの一言を放った。
弟の暁人は今大手の大室精密(株)に勤めている。彼氏の明石実央君は私立三輪春学園という男子校の社会科教師をしている。暁人にしてみれば実央君が男子校に勤めるなんて、パニックを起こしそうなほどあり得ないことなのだ。暁人は実央君周辺の女性はあまり気にならないらしいが、男性に関しては敵意が剥き出しになる。弟の篤紀ですら、実央君にじゃれると凄い顔で睨んでくる。
(まあ『溺愛執着攻め』だからねえ…)
それはそれで「オイシイ」のではあるが…。私に論破?されて暁人は意気消沈している。
「わかったらさっさと帰って実央君に謝りなさいよ」
「…今日泊まったらダメかな」
「は?」
「今夜帰らないかもってラ〇ンしちゃって…ここで俺が使ってた部屋、ベッドそのまま置いてあるし」
「…帰りなさいよ…」
「え、泊まったらダメなのか?」
「…じゃあゲストルーム使いなさいよ」
「いや、実家に帰って来てなんでゲストルーム…」
チッ、面倒くさい弟だな。実は今、元暁人の部屋は私と篤紀の私物でかなり混雑している。私の私物はまあほぼBL関連の本やグッズだ。私は「腐女子」なので。篤紀の私物がなんであんなに多いのかはナゾだけれど、お互い相手の持ち物には一切触れないように取り決めを交わしている(※どちらの私物もほぼBL関連です)。
(ここはなんとか追い返そう、何か話題を変えて…)
「暁人は実央君と別れるわけじゃないのよね」
「わ、別れる!?そそそそんなこと、するわけないだろう!!」
わー、わかりやすく動揺してる。こいつ実央君に捨てられたら出家でもするんじゃないか?
「前から気になってて、聞こう聞こうと思ってたんだけどさー、あんたたちって指輪してないわよね」
「指輪?」
暁人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした(※表現が古すぎる…)。え、まさかこいつ、頭の片隅にも「指輪」の文字がなかったわけ?親への挨拶とか同棲の準備とかそういう事はソツなくこなすくせして、「指輪」が抜け落ちてたの?同性だからその発想がなかったとしたら、間抜けすぎる。数々のBL作品で彩りを見せる指輪のシーン…あれをスルーしていただと?
「バカなの?」
「…だって、俺はともかく、実央は職場で付けるわけには…」
「ほんとーにバカなの?」
優秀な暁人がこれだけバカバカ言われたのは初めてだろう。
「二人の強い絆の象徴じゃないの。たかが指輪、されど指輪。お互い持っているだけで心強く感じるってもんでしょう?今回みたいに喧嘩したって、それが支えになるってこともあるじゃないの。指輪だから指に嵌めなきゃってわけじゃなくて、ネックレスにするとか色々あるでしょうが」(※自分は経験ないくせに…)。
「指輪…」
「ちなみに水族館デートはした?」
「水族館?…は行ってないかな…動物園なら行ったけど」
こっちもか。水族館はBLの定番デートコースだろうが。暗がりで手を繋ぐとかキスをするとか(※BLに限らないのでは?)
私はふかーいため息をついた。
「とにかくいろいろ抜け落ちているようだから、今日は帰りなさい暁人」
「抜け落ちって…」
「こんな状態で外泊されたら、実央君が不安になるってわからないの?」
「…でももう電車が…」
「タクシー使えば?」
「…無駄遣いすると実央が怒る…」
「あーっもう、タクシー代くらい出してやるわよ、ホラッ、足りない分は自分でどうにかしなさいよ!」
私はスマホでタクシーを配車すると、ほとんど追い出すような形で暁人を実央君の元に帰した。
(謝るなら早い方がいいのよ)
元暁人の部屋への出入りも防げたし。よしよし。
「あら、暁人は帰っちゃったの?喧嘩がどうとか聞こえたけれど…」
暁人が家を出た後お母さんが聞いてきた。
「犬も食わないナントカよ。こういう事があって二人の仲が本物になるってこと」
お母さんはそれには答えず、キッチンの方へ行ってしまった。いつもならとっくに寝ている時間なのに、暁人が来たから気になったのだろう(父はとっくに就寝中)。
(さてと…このネタを早速アイミに知らせないと…)
アイミは私の親友でBL漫画家。私は一応OLをしているが、彼女のサポートやアイディア出しにも協力している。
(大体匂いなんて見えるもんじゃないし、どうせ暁人の思い込みだろうけれど、ネタとしては使えるわね。受けが恋人以外の男に告白されて抱きしめられる、なんならキスまでされちゃう、微妙な雰囲気の違いに気付いた攻めが嫉妬に狂って受けを責め立てる…と。あとはアイミの力でうまく脚色してもらって…)
そこに暁人からラ〇ンが入った。
(はあ?ジュエリーショップを教えてくれだあ?)
早速指輪を用意するつもりか。タクシーの中で何考えてんのよ。そんな事より実央君への謝罪文を考えなさいよ。全く世話の焼ける弟だ。まもなくまた面倒なことが起きるってのに。
私は取り敢えず思いついたジュエリーショップの名前を暁人に知らせ、その後アイミにゆっくりメールを送ったのだった。
おしまい
5 みい先生の独り言
「サイン会に参加される方は当選はがきかメールで通知している番号順にお並び下さーい」
(うわぁ。結構並んでるわ。私のサインもらってそんなに嬉しいのかな?今日もずいぶんと暑いのに)
私は控室の戸の隙間から会場の様子を眺め、そんなことを思っていた。
「どお、順調そう?」
私の親友で、仕事上のパートナーでもある広瀬綾乃が聞いてくる。
「うん、物好きな人多いんだね」
「何言ってんのよ、人気BL漫画家会川みい先生の初サイン会なんだから、当然でしょ」
「当然て…こういうの苦手なのよね、そもそも顔出ししたくなかったし。綾乃影武者やらない?」
「バカなこと言わないで、ファンを騙すつもり?」
「…冗談です」
綾乃みたいに明るくてハキハキした性格なら、こういう事も向いているんだろうけれど。
「会川先生、一人ずつの時間は手短かにお願いします。手土産は一旦こちらで引き取り、安全を確認してからお渡ししますので」
「はい」
「もし長々と居座るファンがいたら、その時はこちらで対応します」
「お願いします…」
編集部の担当田島さんに言われて頷いた。さっき綾乃が言ったとおり、私はBL漫画家の会川みい。この名前はペンネームだ。本名は吉川愛美。もともとは同人誌専門で、初期は「アイミ」というペンネームを使っていた。途中から「会川みい」に変更して今に至る。数年前商業誌から声を掛けてもらい、プロデビューした。
「そろそろ時間なので始めましょう、遅れてきた人がいたら当選者かどうか確認して最後尾についてもらって下さい」
田島さんが書店員さんにてきぱきと指示を出す。今日は編集部からも数人出張ってくれている。
(はあ、いよいよかあ、笑顔笑顔)
「アイミ、がんば」
綾乃が励ましてくれた。
「うん、行ってくるね」
私が表に出ると、会場がワッと盛り上がった。
(恥ず…)
田島さんが私の紹介と注意事項をアナウンスする。
「会川先生、一言ご挨拶を」
「はい、皆様初めまして。BLを描かせて頂いている会川です。本日はお忙しいところわざわざお運び頂いてありがとうございます…」
サイン会が始まった。
(あ…さっきは気付かなかったけど、男性が2,3人いる…腐男子?)
サイン会が進んでいくうちに、順番がそのうちの一人に回ってきた。
「は、初めまして会川先生、同人誌時代からのふぁ…ファンですっ!先生のコミックス全部持ってます!あ、あのこれ…よろしかったらお仕事の合間に召し上がって下さいっ!」
「ありがとう、わあ、”メルティア”の焼き菓子だ、うれしいな、高校生?」
「はっはい、三輪春学園2年生の上杉ですっ」
詳しく聞くつもりはなかったのに、その男子は自己紹介までしてくれた。
「上杉君…為書き入れる?」
「おっお願いします」
私が渡した本を、その子は胸に抱えて列を外れて行った。
(ん…三輪春学園て…)
サイン会は無事終了し、私が控室に戻ろうとした時のことだ。
「すっすみません、遅れましたっ」
高校生くらいの女の子が飛び込んできた。
「すみません、新幹線が地震で緊急停止して…どうしても時間に間に合わなくて…」
「サイン会はもう終了しましたので、申し訳ありませんが…」
書店員さんが断ろうとする。確かに時間厳守のお知らせはしてあったが…。
(でも、新幹線…)
私はがっかりして項垂れている女の子のところに近付いた。
「いいよ、書くよ、本まだ残ってるよね」
「は、はい…」
書店員さんが振り向いて頷くと、
「会川先生!」
明らかにストップをかけているような田島さんの声が響いた。
「あ、会川先生ですか」
女の子がびっくりして私の顔を見る。
「うん、遠い所をありがとうね、新幹線大変だったね」
「はい…」
女の子は半泣きになっている。立ったままだったが、簡単なイラストを添えて
「お名前は?」
と聞いた。
「も、萌です…『萌す』の萌…」
「萌ちゃんか、いい名前だね」
「あ、ありがとうございます。一生の宝物にします!これ…地元の名物なんですけれど、よろしかったら」
萌ちゃんは私に紙の手提げを渡すと、深々とお辞儀をした。高校生が新幹線を利用して都内まで出てくるのは大変だったろう。
「ありがとう、気を付けて帰ってね」
彼女はもう一度頭を下げて会場を出て行った。
(涙の跡…?)
彼女が立っていた床は少しだけ濡れていた。
(サイン会も悪くないか…)
控室に戻った私に向かって
「会川先生、やるねえ、めっちゃカッコよかったよ」
開口一番、綾乃が言った。
「そんなんじゃないわよ」
私がごまかすと
「困りますよ会川先生、ああいう特別扱いみたいなことは…」
田島さんが苦言を呈してくる。
「特別扱いじゃないでしょ、ちゃんと当選メール持ってたし、不測の事態だし。こちらも引き上げる前だったんだから」
田島さんは30代男性で頼りになる人ではあるが、ちょっと口うるさい所がある。
「田島さん」
書店員さんの一人が彼に声を掛けた。
「あ、新刊本のことで書店さんと相談があるのでちょっと失礼」
「どうぞごゆっくり」
田島さんが離れたところを見計らって
「あの人、相変わらずね」
綾乃が笑う。
「まあね、悪い人じゃないんだけど」
私を見出してくれたのは田島さんだし、プロデビューが決まった時尽力してくれたのも彼だ。ただはじめ作品作りやサポートに綾乃が関わることには難色を示してきた。編集部以外の人間が深く関わるのを嫌がるのはわからないではないけれど。でも私の今までの作品は綾乃抜きでは考えられない。アィディア出しから環境づくりのサポート、印刷所さんとの交渉…コミュ力の低い私を助けてくれたのはいつも綾乃だった。何なら二人分のペンネームにしてもいいくらいだし、お給料が発生していいレベルだ。でも綾乃はそれを頑なに断った。
「私が勝手にやっていることで、自己満だから」という。せめてもの感謝の気持ちでいつも作品のあとがきには「Special thanks」として「アヤ」の名前を記させてもらっている(本人が本名は嫌なようなので)。もちろん本やその他特典、グッズ類は無償提供させてもらっているけどね。それくらいしかできないっていうか。
アシスタント枠に収まらない綾乃の関与を最初は快く思わなかった田島さんだが、綾乃と会った途端態度が翻った。わかりやすい人だ。綾乃はとても美人だからね。私も「綾乃がスタッフに加われないならプロにならなくていいです」って、言っちゃったし。
「綾乃も表に出ればよかったのに」
「私はあくまで『裏方』だから。ここにいられるだけでも光栄よ」
まあ綾乃が会場にいたら「あの美人は誰だ」って騒がれそうだしね。
「そう言えば、三輪春の男子高校生がいたよ、2年生だって」
「あら、ほんと?」
「実央君のクラスだったりしてね」
明石実央君は今年から三輪春学園に社会科教師として着任した男の子で、綾乃の弟暁人君の「彼氏」である(※「男の子」って…)。暁人君の方が2つ年上で、大学の頃から付き合い始めてそろそろ…4年?綾乃に二人の話を聞いたときにはそりゃあ驚いたわよ。いくら綾乃と私が「腐女子」だからって、そんな面白…劇的なことある?
「いやー、てっきり私からヘンなオーラが出て暁人に影響しちゃったのかと」
綾乃は笑って話していた。私と綾乃は高校からの付き合いだが、お互い腐女子歴はそれより長い。綾乃はいつも笑顔で二人の話を聞かせてくれるが、やはり現実は2次元の創作のようにはいかない難しさも色々あるようだ。まず家族。実央君のご両親も広瀬家のお父さん・末っ子の篤紀君も現在二人と良好な関係である。実央君のお父さんは初めは受け入れられなかったようだが、今では二人のことをお認めになっているようだ(これに関しては私もちょっぴりアドバイスをした)。(※『息子が彼氏を連れてきた!』参照)
実央君のお母さん実和子さんがこれまた腐女子で、なんというか私たちとバッチリ話が合う。合い過ぎる。締め切り前の修羅場では料理・洗濯・掃除など家事をサポートして下さる。まさしく仕事場の「お母さん」といった風格で、アシさんたちにも慕われている。私は小学生の時両親が離婚していて、姉は母に私は父に引き取られた。だから母よりは少し若いが、勝手に実和子さんをお母さんのように思っている。BLの話ができるお母さんて最高じゃない?
サイン会の後、打ち上げをお断りして私と綾乃は場所を変えて食事をした。
「三輪春って男子校だよねえ、よく暁人君が許したね」
「決まってから教えられたからね、もそりゃあもう大騒ぎよ、あれは実央君周辺の男はみんな敵だから」
「…でも…ゴメン、私たち的にはオイシイ話よね…」
「そうなのよー!!6月の体育祭は内部だけってことだったけど、秋に文化祭があるらしいの。なんとか潜り込もうと思って」
「(潜り込むって…)でも最近は入場制限とかあって厳しいんでしょ」
「そんなもん、どうにかするわよ」
綾乃が言うと、ほんとにどうにかなりそう…
「でも二人が順調そうで安心したわ、今の日本じゃまだ同性カップルには居心地いいとはいえないもんね」
「そうよねー、私たちが生きてるうちに同性婚が認められないかしら。同性婚の可否が少子化にはなんの影響も与えないって理解できない政治家が多すぎるわよね。子供を作ったってまともに育てられないどころか命を奪う親までいるっていうのに。親に恵まれなかった子供たちを同性カップルが育てることが、普通の社会になってほしいわ」
これは綾乃の持論だ。
「うん、そうね…」
それに関してはきっと異論もあるだろうし、結婚していない私たちが語るのはちょっと気が引けるけど。まあ結婚も「しなくちゃいけない」ってものではないけどね。
「それにねえ、うちも順調と言えば順調なんだけど…」
綾乃の眉が少し斜めになった。
「あー、お母様?」
私は面識がないが、綾乃のお母さんの静子さんだけはいまだに二人の事をお認めにならないらしい。
「まあねー、少し柔らかくなったかなーと思わないこともないんだけれど…」
「何かあったの?」
「んー、去年の秋の終わり頃だったかな、ちょっと…アイミには話していなかったんだけど…」
「あ、別に無理に話さなくていいよ、ご家族のことだし」
綾乃は思案顔になって、少しずつ語り始めた。
「去年の秋、うちの父が帰国したでしょ?」
綾乃のお父様は商社にお勤めで、5年くらいアメリカに赴任されていた。去年の秋にようやく日本に戻られたのだという。
「まあ帰国祝いパーティをしようってことになって、父がそれなら実央君の内定祝いも兼ねて明石さん一家を呼ぼうってなったんだけれど」
「ナルホド…」
両家のお父様同士は仲がいいと聞いている。
「母は初めから『家族だけがいい』とか『私は何も作らない』っていう態度で、暁人もそれが不満で雰囲気悪かったのよね。当日は私が自腹で色々お取り寄せはしたわよ。実和子さんも差し入れてくれたし」
そこは「自分が作ります」とならないのが、綾乃らしい。私は長いこと綾乃のサポートを受けているが、彼女の手料理だけは食べたことがない。
「その席で母が実央君に嫌味を言っちゃったものだから、もう暁人が烈火の如く怒っちゃってさ」
「それは…」
かなり深刻な状況なのではと思ったが、その時綾乃がスマホとイヤホンを渡してきた。
(えー、撮影してたの!?)
確かに壮絶と言えば壮絶な状況だったが、感動的でもあった。他人の私が観てしまうのは申し訳ない気持ちだった(※『息子が彼氏を連れてきた!Short stories -4篤紀の憂鬱』参照)。さすがの綾乃も、これを私にすぐには見せられなかったのだろう。
(暁人君、大泣きして実央君を抱きしめてる…いや、これ抱きしめてるのは実央君の方か…)
「今年に入って母にもこれを見せたのよね」
「え…お母様、これ観たの?嫌がらなかったの?」
「当然嫌がったわよ、でも私が強引に見せたの。途中で母が逃げ出してるでしょ?その後の経緯もしっかり観てもらったわ」
普段は明るい綾乃だが、こういう時は真剣で怖い顔になる。
「それで…お母様はなんて?」
「何も言わないし、あまり変わらないわ。でもG.Wに篤紀と暁人たちの新居に行ったんだけれど、その時『煮物作りすぎちゃったけど捨てるのは勿体ないから持ってけ』って私たちに持たせたのよ。ひねくれてるわよね」
私は思わず笑ってしまった。
「あ、ゴメン、笑っちゃって」
「いいのよ、母にしてみたら最大限譲歩したつもりなんでしょ、私に言わせればまだまだだけどね。それより今度アイミも二人のうちに行ってみない?」
「え、いいの?」
一応私は暁人君・実央君とは面識がある。
「いいに決まってるじゃない、暁人の見合いをぶっ壊した時はアイミだって助けてくれたんだから、まあ…真相は話せてないけど」(※『弟の恋の話』参照)
「でも…頻繁に行き過ぎだって言われてるんでしょ、綾乃と篤紀君」
「そんなことないわよ、姉弟が足繫く行ってあげてるんだから、感謝してほしいくらいだわ」
広瀬姉兄弟は仲が良くて本当に羨ましい。私は離れて暮らす姉とはたまにしか会えないから。ただ広瀬姉兄弟の場合、確かに仲はいいが綾乃が一方的に弟たちを従えているという風に見えないこともない…。
9月になって私の住むマンションで、新刊の表紙についての打ち合わせが行われた。お陰様で収入がアップした私は以前より少しいい所に住めるようになっている。打ち合わせのメンバーは私の他編集部の田島さんに新人の女性編集者、綾乃の4人だ。
「表紙に人物を描かない、ですか?」
田島さんが驚いて言う。
「ええ、そうです」
綾乃が答える。表紙に人物を描かないというのは、綾乃のアイディアだ。
「しかし…それではインパクトが…」
BL漫画の表紙は大体カップルの二人か、受け攻めのどちらかの場合が圧倒的に多い。動物とかコラージュ風とか例外もないではないが、圧倒的に人物像だ。「表紙買い」という言葉もあるくらい、表紙というのは大切な要素。ビジュアルが魅力的ならそれだけで読んでみようという気になるし、そういう作品には外れが少ない。エ〇い表紙なら、そういうシーンが多いだろうと期待する。私自身読者の立場でもあるから、よくわかる。
「BLはやはり魅力的なキャラクターあってこそですよ」
田島さんは綾乃の考えに懐疑的だ。
「もちろんです。それは作中で存分に描かれています。だけどアイミは漫画は当然うまいけれど「絵」も上手なんです」
「綾乃…」
実は高校時代私は美術部とマンガクラブに掛け持ちで入っていた。漫画も大好きだが、普通に絵を描くことー静物画や風景画―なんかも好きなのである。
「アイミ…会川みいの作風はすでに読んだことのある読者ならわかっています。もちろん試し読みもOKにして頂きます。人物画を確認したい読者には試し読みで見てもらえばいい。今回の作品は紆余曲折あったカップルが、ようやく二人だけの暮らしを始めて愛を深めていくストーリーです。それを象徴するような家とか窓とか何でもいい、それはアイミに任せます。読者が表紙を見て「その先」を想像できるようにしたいんです。私はいつか彼女のイラスト集を作りたいと思っているので、その観点からもチャレンジしてほしいんです」
綾乃は熱く語った。私以上の熱量にちょっと感動してしまった。
「イラスト集ですか…」
考え込む田島さんの横で
「あの…」
おずおずと新人編集者の女性が口を開いた。
「斬新な発想ですごくいいと思います。もし不評なら時期を見て差し替えたっていいじゃないですか」
「まあ、そうだな…」
「田島さん、私やってみたいです。素敵な表紙を描くことをお約束します」
ちょっとハッタリかましてしまった。
「わかりました、それで編集長にかけあってみましょう。私はすぐ編集部に戻ってこのことを報告します。後は笹北と細かいところを詰めて下さい」
「お願いします」
私と綾乃は頭を下げた。田島さんは編集部へと戻って行った。
「OK出るといいですね」
新人編集者笹北さんが笑顔でそう言った。
「援護してくれてありがとう」
私がお礼を言うと
「そ、そんな…私たとえサブでも会川先生と関わらせて頂けて、うれしくて」
笹北さんはそんなふうに言ってくれた。
「わたし、感動したんです、サイン会の時の話」
「サイン会?」
「遅刻してきた女の子へサインしてあげた話です」
「ああ…」
もちろん私が自分で発信したわけではないが、あの時の事が誰かのSNSで取り上げられて「会川みいの神対応」とかで、軽くバズッたのだ。恥ずかしい。発信したのは女の子ではなく、どうやら書店員らしかった(もちろん身分は伏せていたが)。あの時あの場所にいたのは、私と女の子と田島さんと書店員スタッフだけだった。
「表紙、楽しみにしています」
笹北さんに言われ、私も頑張らねばと思った。
後日新刊が発売され、私の表紙は大評判…とまではいかなかったが、けっこう好評だった。「一枚の絵として美しい」と評価されたのは、私もものすごくうれしかった。
「口コミでじわじわ人気が上がってますよ。実は取材の申し込みも来ています」
笹北さんがそう教えてくれた。
「え、ホント?うれしいけど取材はカンベンしてほしいなあ」
「私がサポートしますから、任せて下さい」
笹北さんは最近何やら自信がついてきたようだ。
「あの表紙、私大好きです」
「ありがとう」
新刊の表紙は綾乃のアイディアをもとに「窓」にした。人物そのものは描かなかったが攻めと受けの腕を描いて、左右から二人で窓を開く構図にした。インパクトはないが全体的に水彩調で優しい色使いにして、窓の向こうに明るい未来が広がるイメージにしている。モデルが誰かはご想像にお任せします。
おしまい
6 ある店員の独白
<香水専門店にて>
ここは都内の有名百貨店1階にある香水の専門店。私はこのお店で販売員を務める鹿内洋子と申します。今は平日の夕方、女性のお客様がお二人ほど商品をご覧になっている。私は基本的にお声が掛かってから、お客様のお手伝いをするタイプ…なのだが、珍しくこの時間帯に若い男性のお客様が来店された。もちろん男性用の香水もあるのでおかしいことではないのだが、ポロシャツにパンツという軽装で、お見かけしたところあまり香水をつけるようなタイプには見えない。しかも可愛いし(※そこ、関係あります?)。
慣れないご様子でキョロキョロされている。
(彼女へのプレゼントかしら)
あまりに頼りなげな感じだったので、
「何かお探しですか?」
と、つい声を掛けてしまった。
「あっ、はい、ええと…その、体の匂いを消すような…あまり強くなくて、爽やかな感じの…」
体臭が気になるってこと?ドラストで売っているような制汗スプレーとか消臭スプレーとかじゃ、ダメなのかしら。
「お客様がお使いですか?」
「はい」
…今そこそこ近い距離にいるけれど、お客様の匂いは気にならない。仕事柄けっこう鼻は利くのだけれど。
「ちょっと失礼いたしますね」
少し顔を近付けさせてもらった。いやむしろいい匂いなんだが?
「私が言うのもなんですが、お客様に香水はご不要かと…もちろん香りをお楽しみになるためお使いになるのであれば、お手伝いさせて頂きますよ」
「僕の匂いというより…他の匂いが付いた時に消したいというか…」
ああ、そういうこと。
要するにお客様の恋人もしくは妻が、この人の匂いの変化に過剰反応するという事か。化粧品・香水・タバコ…他の女の匂いが付いただけで、嫉妬して問い詰めてくるわけだ。いるのよねえ、そういう女。このお客様からすると、年上ね。年上の女が年下の彼氏を若い女に盗られないように、ガッチリチェックしているんだわ。ヤダヤダ、そんなのごまかしておけばいいのに。電車の中で付けられたとか、酔っ払い女に抱きつかれたとか。
「仕事柄常につけているのも難しいので、誰か…他の匂いが付いた時だけなんですけれど…」
このお客様、見かけによらず遊び人なのかしら。そんなにしょっちゃう移り香もらってるの?
「あ、この先他の人の匂いが移るかどうかはわからないんですけど…念のためというか…」
「はあ…」
このお客様の説明、イマイチ要領を得ないな。
「あの…どういうことを気にされているのかわかりかねますが、今まで香水をつけなかった方がいきなりお付けになると驚かれる場合もあるかと…」
一応異性関係に限定しないで確認してみた。
「あっ、そうか…」
「まあ、なんといいますか、どういう心境の変化で付けたのかなと気になる方も…。それに香水も使わないまま年数が経ちますと劣化いたしますよ」
なんだか言葉選びが難しいわね。色気づいたとか言えないから、遠回しな言い方になってしまうわ。
「少々お待ちくださいね」
私はレジの方へ行って、引き出しからサンプルを取り出した。
「こちら2種類、サンプルになりますのでどうぞお持ち下さい。柑橘系のあまりきつくない爽やかな香りです。男女の別なくお使い頂けるかと」
「えっ、いいんですか?」
「はい、『デパートでたまたまサンプルをもらったけれど、付けてみようかな』みたいな感じで、身近な方に聞いてみてはいかがですか」
なんだか人生相談みたいになってない?これ。
「ありがとうございます、色々教えて頂いた上にサンプルまで頂いてしまって…」
いや、たいして教えていないけどね。お客様は恐縮されているようで、かわいくなってしまった。まあ彼女の気持ちがわからないではない。こんな人なら誰にも盗られないように、しまっておきたくなっちゃうわよね。
「もしお気に召したらまたご来店下さい。『サンプルをもらったから何か買わなきゃいけない』なんて思われなくても大丈夫ですよ」
「はい、本当にありがとうございます」
そのお客様は丁寧に頭を下げて売り場を離れて行った。
(可愛いお客様だったな、買わなくてもいいからまたいらしてくれないかしら。彼女と一緒でもいいわね)
私はそんな、店員にあるまじきことを思ってしまった。
<ジュエリー専門店にて>
ここは銀座にある高級ジュエリーショップ。私はここでサブチーフを務める田丸八千代と申します。
(なんだか店中の視線がこちらに集まっているような気がする…)
土曜日の午前中ということもあって、店内はそれなりにお客様が入っている。場所柄カップルと思われる二人連れのお客様も多い。でも…
(そのカップル客の女性までこちらを見ちゃってるのよね。後で揉めないかしら)
「こちら」というのはもちろん私のことではない。私の向かいでショーケースを熱心にご覧になっている男性のお客様のことだ。
(銀座ともなればそれなりにステータスの高そうな、垢ぬけたお客様はよくお見えになるけれどさすがにこのレベルは…)
私もなかなか遭遇しない。お休みなのかラフなジャケットを羽織っての軽装だけれど、なんというかこう…はっきり言ってめちゃくちゃカッコイイ!!めちゃくちゃイケメン!!背も高くて久しぶりに芸能人のご来店かと思っちゃったわよ。御一人でのご来店でお連れ様はいらっしゃらない。
「指輪をお探しですか?」
お客様が思案顔で見入っていたのは指輪のショーケースだったので、思い切って声を掛けてみた。
「あ、はい、そうなんですけれど…こういう買い物は初めてなのでよくわからなくて…」
声も素敵だわ。
「サイズはお分かりですか?」
「あ、はい、ええと…これです」
そのお客様は数cmのひもをポケットから取り出して、私の目の前に置かれた。6cmあるかないかくらい?
(あ~、彼女が寝ている間にこっそり…ってやつね。つまりはサプライズ)
多分プロポーズのためだろう。羨ましいわ、こんなイケメンにサプライズでプロポーズしてもらえるなんて、さぞかし素敵な女性なんでしょうね。
「僕の方はこちらで測って頂けますか」
え?ペアリングなの?もしかして結婚指輪なのかしら?それならお二人で来店されればいいのに…
「失礼ですが、ご結婚指輪でいらっしゃいますか?」
私は聞いてみた。
「はい、ええと、そんな感じです」
そんな感じ!?結婚指輪に「そんな感じ」とかあるの!?…いやいや、お客様のご事情だって色々おありだろう。内縁関係かもしれないし、結婚当初は経済的に苦しくて何もできなかったけれど、余裕が生まれたから指輪くらい…とか?んー、でもこのお客様まだお若いわよね。そういうのもなんかピンとこないというか…
「ペアリングということでよろしいでしょうか」
「はい」
「失礼ですが、ご予算は…」
「予算…」
お客様はまた考え込む。
「僕は高くてもいいと思っているんですが、あまり値が張ると実央…あ、相手がどう思うか…」
ハイハイ、「ミオちゃん」ね、可愛いお名前ですこと。彼女、もしくは奥様にお財布握られてるってことかしら。
「ご結婚指輪ですとプラチナ素材でシンプルなデザインを選ばれる方が多いですね。この辺りとか…もちろんお客様のお好みで石が付いたものでもカーブのあるものでもよろしいかと思いますが」
「…そうですね、シンプルな方がいいかな。僕は仕事中も付けるつもりだけれど、実央…おそらく相手は職業柄普段は付けられないから、ネックレスとかに…」(※職業柄っていうか、探られると面倒だからというか)
職業柄付けられないってことは、既婚者バレがまずいとかハードな作業現場でキズが付きやすいとかかしら。まあお客様のプライバシーだから、詳しくは聞けないけれど。
「リングと合わせたネックレスもお選び頂けますが、どうなさいますか?」
「一緒にお願いします、一応二人分」
「かしこまりました。刻印はどうなさいますか?」
「刻印…」
「ご結婚指輪ですと日付ですとかイニシャルですとかを刻印される方がほとんどです。当店ではお買い上げいただいたお客様にはサービスで承っておりますが、万一サイズのお直しが発生してその後に刻印のし直しとなりますと別料金になります」
お客様はまたまた考え込んでしまった。
「イニシャルって言うのは二人のってことですよね」
「さようですね、失礼ですがお客様とお相手様のイニシャルは」
「AとMです」
「(お相手がMね)それでしたら、それぞれにA to M、M to Aといった感じです」
「A to Mはいいけど…」
え、逆はダメなの?
「贈るのは俺の方だし…」
なんか細かいこと気にし出したわね。夫婦だったらどちらでもいいんじゃないの?ああでも結婚指輪「みたいな感じ」っておっしゃってたわね。何か込み入ったご事情があるのかしら。まさか…不倫!?でもさすがに不倫で結婚指輪は…そう言えばネックレスって…自分は付けられるけど、相手は人妻だからネックレスってこと?こんな素敵な人なら不倫なんかしなくても、いくらだって選べるじゃないの。
不倫かどうかは置いといて、こういうタイプの男性たまに見かけるわね。「俺が選ぶ」「俺が贈る」「俺が仕切る」みたいな人。たとえ支払いは男性でもアクセサリー系は女性の意見をちゃんと聞いた方がいいわよね。こういうお客様って後でうまくいかなくなって、キャンセルになることがあるのよねえ。
「例えばですけれど、『A&M True Love』ですとか『Eternal Love』とかはいかがですか?」
私が提案して差し上げると、お客様はお顔を上げてパッと笑顔になった。うっ、眩しい。
「ああ、いいですねそれ、すごくいい!さすがです!」
褒められてしまった。
「どちらがいいかな…真実…永遠…」
お客様はまたそこで、暫く悩まれていた。
結局お客様はシンプルなデザインのプラチナリンクを選ばれたが、ふちが少し丸みを帯びた柔らかい印象のものだった。
「色々相談に乗って頂いてありがとうございます。こういう物を贈るのは初めてで、勝手がわからなくて…こちらのお店も姉に教えてもらったんです」
「さようでございましたか、ありがとうございます。お受け取りはご来店になさいますか?」
「はい、伺います」
「ではこちらの引換証をお持ち下さいませ。万一ご変更がありましたらなるべくお早めにお知らせ下さい」
「わかりました、変更はないと思います。よろしくお願いします」
そのお客様はご機嫌なご様子だった。
(どうせなら彼女さん?奥様?とお見えになってほしいけど…)
私はお客様をお見送りしながら
(お相手様にも気に入って頂けるとよろしいですね)
心の中で、そんなことを呟いていた。
おしまい
*おまけ ある日の新婚家庭 again
ここは広瀬暁人・明石実央が暮らすマンションの一室。二人は同性ながら交際して愛を育み、実央の就職を機に同居を始めた。「新婚生活」もそろそろ1年になろうとしている。実央は三輪春学園という男子校で教師をしており、ちょうど春休みになったばかりのタイミングだった。暁人と同じ会社に勤める岩城諒と、大野・山下という二人の先輩が今日この部屋を訪れたのである。
岩城は暁人の同期で、二人は2年ちょっと大室精密(株)の本社営業部に所属していたが、去年の5月から別部署に異動になり、現在暁人は広報部、岩城は秘書課で働いている。大野と山下は二人が営業部にいた時の先輩で、大野は暁人・山下は岩城の教育係だった。岩城は2度ほどここを訪れているが、先輩たちは初めてである。
「いらっしゃい、初めまして、明石実央です。暁人さんがいつもお世話になっています」
実央は暁人より2つ下で、この中で一番若い。緊張した面持ちで頭を下げ、挨拶をした。
「初めまして、俺が大野でこっちが山下。おじゃまします。これどうぞ」
大野が実央に紙袋を渡した。
「ありがとうございます。どうぞ中へ。大したおもてなしはできませんが」
実央が先に中に入っていく。大野と山下はニヤニヤしながら
「いい嫁さんだな」
と、からかうように暁人に言った。
「いい嫁ですよ、さあどうぞ」
暁人は笑顔で応じる。
「こいつ、いきなりノロケかよ」
色々な経緯があって、暁人に同性の恋人がいる事はほぼ本社中の人間が知っていた。同期の岩城に至っては、採用面接の時から知っている。
「コレ、俺が贈った置時計です。いいでしょ」
岩城がちょっと自慢気に言う。
「実央のお気に入りなんですよ」
「俺たちも知っていたらなあ、なんかタイミング外しちゃって…岩城が教えてくれたらよかったのに。これ色気なくて悪いけど俺たちから」
山下がバッグからのし袋を取り出す。
「いいですよ、そんな…かえって申し訳ないです」
「まあ大して入ってないから、気持ちだけな。なんか二人でうまいもんでも食ってくれ」
「お気遣い頂いてありがとうございます」
「それに俺もお前と岩城からご祝儀もらったし」
大野が付け加えた。大野は最近結婚したばかりである。披露宴には営業部部長の佳山と長年の相棒山下だけが職場から出席した。営業部全員だとかなりの人数になってしまうので、部からは連名で大野にお祝いを贈ったらしい。その時すでに暁人と岩城は別部署だったが、お世話になった先輩の結婚ということで連名でお祝いを贈っていたのだった。
「実央、これ先輩たちから頂いたよ」
料理を運んできた実央に暁人が声を掛けた。
「わあ、すみませんお気遣い頂いて…ありがとうございます。今日はたくさん召し上がっていって下さいね」
「なんかすごいおもてなしだなあ、これ二人で作ったのか?」
山下が暁人に聞いた。
「…ほぼ実央ですかね、俺はレタス千切ったくらいで…」
「お前なあ、俺だって味噌汁くらい作るぞ。あんまり甘えてると愛想つかされるぞ」
大野がダメ出ししてきた。
「それにしても今日は特にすごいな…」
岩城が感心する。
「母さんがよく野菜とかを送ってくるんだよ、旅先の道の駅で買ったとかで」
「えっ、お母さんてお前たちのこと反対してるんじゃなかったっけ。少しは折れてくれたのか?」
「おい岩城、あんまりそういうことは…」
山下が窘めたが
「いいんですよ、隠してないし。俺も初めはそう思ったんだけどね、姉さんが言うには違うらしいんだよ」
「違う?」
「そう、嫌がらせだってさ。男二人の所帯でどうせ料理なんかしないからもて余すだろうって嫌がらせ。捌き切れなくて腐らせて困ればいいってことだろ」(※食品ロスはよくないです)
暁人は諦めたように言う。
「なるほどねえ、オフクロさんも芸が細かいな」
岩城が笑った。
「お母さんがどうしたの?」
ビールの追加を持って来た実央が聞いた。
「母さんが送ってきた野菜を実央が無駄にしないでちゃんと使ってるって話してたんだよ」
「ああ、たいしたものは作ってないですけどね。すごく助かってます、食費が浮いて」
実央は素直に笑って頷いた。
「実央君、天使…」
「見つめるな岩城」
暁人は岩城をけん制したが、実は岩城が好きなのは自分であるということはもちろん知らない。
食事が一段落して、お茶を飲んだりデザートを食べたりのくつろぎタイムになった。山下と暁人・実央の3人はベランダに出て遠くを指さしながら歓談している。テーブルには岩城と大野が残っていた。
「うまかったなあ、実央君の手料理。広瀬のやつ幸せ者だよ」
「そうですね、会社でも満面の笑みで愛妻弁当食ってますし」
「実央君、可愛いよなあ」
「…可愛いですよね」
「可愛いけど…」
大野が口ごもった。岩城はなんとなく大野が言いたいことがわかった。
「いつまでも可愛いわけじゃないってことですか」
岩城ははっきり口にした。
「うん、まあ…難しいこともあるんじゃないかと思って」
大野がこんなことを口にしたのには訳がある。実は大野にはゲイの兄がいる。以前たまたま医務室で二人きりになった時、岩城は大野からその話を聞かされていた。大野はカミングアウトできない兄のことがあるから、暁人のことも他人事ではないのである。
「あの二人がゲイじゃないのは知ってるけど、それはそれで大変なんじゃないかって」
大野なりに心配しているのである。
「それ、俺も広瀬に言ったことがあって。まあ一蹴されましたけど」
岩城は笑った。
「『そんなことは100万回考えた。実央ともちゃんと話し合っている』そうです」
「そうか…やっぱりすごいな、あいつは」
「お兄さんの方はどうですか、前におっしゃってたでしょう?お兄さんのこと、奥さんに伝えるかどうか迷ってるって」
「うん、お前に言われた通り、兄貴に直接聞いてみた」
「お兄さん、なんて?」
「もう少し待ってほしいって。様子を見て大丈夫そうなら自分から話すってさ。悪かったな、報告しないで、岩城には相談に乗ってもらったのに」
「相談なんて大げさっすよ」
岩城はベランダで話をする暁人と実央を見て
「あーあ、もうデッレデレですよね、広瀬のやつ」
「だな」
「でも、まだまだですよ」
「まだまだって?」
「喧嘩して初めて本物の夫婦になるってもんです」
「あー、それはうちにも言えるな、ってか、独り身のお前が言うか、それ」
「これくらい言ってもいいでしょ、いつもあてられてるんですから」
岩城は少し皮肉を込めてそう言った。
(たまには喧嘩でもすりゃあいいんだ)
岩城は内心そんな意地悪なことを考えていた。
岩城たちが遊びに来た数日後、暁人と実央は本当に喧嘩をした。他愛もないといえば他愛もないのだが、実央に他の男の匂い?を感じ取って嫉妬に狂った暁人が大騒ぎしたのだ。岩城の呪いだろうか。(※エピソード2「事件ですよ<実央SIDE>」参照)
冷戦状態は3日ほど続いた。暁人は実家に戻って姉の綾乃に相談し、その日はそのまま泊まろうとしたが、「実央君が不安になるでしょ」と諭されて自分の家にタクシーで強制送還された(※4「事件ですよ<綾乃SIDE>」参照)。
タクシーの中で暁人はぽろぽろと泣いた。大の男が声を立てて泣くものだから、タクシーの運転手が「お客さん、大丈夫ですか」と声を掛けるほどだった。
「大丈夫です…」
泣きながら暁人は綾乃にラ〇ンを送った。「ジュエリーショップを教えてくれ」と。暁人は綾乃に「指輪も作っていなかったのか」と叱られたのである。
(指輪か…そうだよな、俺たち結婚したんだ、なんで思いつかなかったんだ…)(※結婚ではないのでは…)
マンションに着き、暁人は静かにドアを開けた。実央がすでに寝ていると思ったのだ。「今日は帰れないかもしれない」とラ〇ンを送り、既読は付いたが返事はなかった。
(リビングの明かりが点いてる…)
見ると実央はリビングのテーブルで、自分の腕を枕代わりに眠っていた。頬には明らかに涙の跡があった。
(相当泣いたな、これは…)
暁人は胸が締め付けられた。自分の浅はかな嫉妬が実央を悲しませてしまったのだ。
「実央…」
暁人は優しく実央の頬に手で触れた。実央は気付いて飛び起きた。
「あ、暁人さん…お帰りなさい…」
どうしていいのかわからない実央は、
「あの…ご飯食べますか?生姜焼きが冷蔵庫に…」
とちょっとピントがずれたことを言ってしまったが、暁人はそんな実央をすぐに力強く抱きしめた。
「実央…ごめん…」
その日二人は仲直りした。とても濃厚?な仲直りだったようだ。
それから暫くして、暁人は熱を出した。4月の頭に急な交代で海外出張が入ってしまい、疲れが出たらしい。疲れというか、多分数日間実央と離れていたストレスだろう。喧嘩をしたり指輪を選んだりと、慣れない事を色々したのも災いしたのかもしれない。会社は海外出張後に与えられる2日間の休暇を使って欠勤した。ただ暁人が熱を出した当日、実央は勤務先の学校が入学式で休むわけにはいかなかった。
「熱…下がりませんね。僕やっぱりお休みを…」
「ダメだ実央…入学式で、しかも一年生の担任だろう…先生が欠席なんかしたら…」
苦しそうに息をしながら暁人が言う。
「綾乃さんは仕事だし、篤紀君も…篤紀君、就職できたのかな、何も聞いてないんだけれど…僕のお母さんに来てもらいますか?それとも往診してくれるお医者様を探して…」
「実央の実家からは時間がかかるから…大丈夫、休んでいればきっと落ち着く…」
それでも実央は心配そうだった。
「暁人さんのお母さんにお願いして…」
実央が言い終わる前に
「それだけはやめてくれ」
弱っているはずの暁人が、やけにはっきりと言い放った。
「…お粥を作ってありますから、食べられそうなら食べて下さいね。スポドリも冷蔵庫に入っていますから、水分補給して下さい。ラ〇ンしますけど既読が付けばわかりますから、無理に返さなくていいです、あと…」
「実央、遅刻する…」
「…行ってきます、本当に苦しくなったら救急車呼んで下さいね」
「大げさだよ」
暁人は無理に笑顔を見せた。
暁人の頭はどこか意識が混濁している感じで、熱からくる体の痛みが辛かった。
(あの時実央を傷付けたから罰が当たったのかもな…)
苦しさで、ハアハアと声が出てしまう。自分が眠れているのかどうかもよくわからなかった。
(指輪、いつ渡そう…)
そのうち市販薬が効いてきたのか、暁人は少し眠ることができた。どれくらい時間が経ったのか、額にひんやりと冷たいものが触れた。すっかり温まってしまった熱さまし用のシートは剥がしたままだ。
(実央の手か…?帰って来てくれた?)
ホッとして思わず声が出た。
「実央…」
返事がない。
(ああ、俺夢を見ているのか…)
「まったく…せっかく母親が来てあげたっていうのに、他の名前を呼ぶなんて」
聞き覚えのある声がした。
(母親…!?)
その声でしっかり目が覚めた暁人は起き上がろうとしたが、ふらついて上半身を少し起こすことしかできなかった。
「母さん!?」
ベッドの横に座っていたのは、暁人の母親静子だった。
「母さん、なんでここに…」
暁人の母がここに来たのは初めてだった。父親は姉の綾乃や弟の篤紀と一緒に2度ほど来てくれたが、その時も母はここへ来ることを拒んだという。(そういう人だ…)と暁人はもう諦めていた。
「なんでって…呼ばれたからよ。鍵はポストに入れておきますって、暗証番号も教えてくれて」
「誰に…」
わかりきったことだが、暁人は尋ねた。母は答えない。
(実央か…実央が俺の実家に電話したのか…)
「何か食べられそうなの?キッチンにお粥が作ってあったけれど…」
「少し…食べられるかも…」
「温めてくるわ」
母はそう言うと暁人の部屋を出て行った。
(実央…なんで母さんに…)
暁人はこんな情けない有様を母親にだけは見せたくなかった。暫くして静子がお粥におかずを二品ほど添えて持って来た。一つは実央の作り置き、もう一つは多分母が持って来たものだろう。お粥には高級そうな梅干しが乗せられている。
「暁人は甘めの梅干しでないと食べられないものね」
母が持って来たか、買って来てくれたかしたのだろう。
「ありがとう…」
暁人はベッドで起き上がって腿の辺りにトレーを乗せ、お粥を食べた。
(実央のお粥、おいしい…)
少し熱が下がって食欲が出たのか、おかずの塩味も美味しく感じた。
「この薬買って来たわ、昔から暁人は熱が出るとこれが一番効くから」
「そうだっけ?」
「そうよ、食べたら薬を飲んでまた眠りなさい。その前に着替えてね。下着や寝間着の替えは引き出しから適当に選んだわ」
母は少し冷ました白湯と薬を暁人に渡した。母が空になった食器をキッチンに下げている間に、暁人は汗をかいた下着と寝間着を替え、ゆっくり起き上がった。体の節々がまだ痛かった。
「あら、起きてこなくてもいいのに」
母はキッチンで洗い物をしている。
「洗濯カゴにこれを入れるだけだよ。あとスポドリ持ってく」
暁人は汗をかいた衣類を脱衣所のカゴに入れると、冷蔵庫からスポドリを1本取り出した。よく冷えていて気持ちがよかった。
「お野菜…ちゃんと使ってるのね」
「え、ああ…いつも送ってくれてありがとう。実央は食品ロスを嫌がるからね。食費が浮くっていつも感謝してるよ」
暁人は皮肉を込めて言ったつもりだった。壁に寄りかかりながら、ゴクゴクとスポドリを飲む。
「そう…」
母はそれ以上何も言ってこなかった。まだ熱が下がりきった訳ではないが、少し食事をして薬を飲み、着替えた事で気分が良くなって心地よい睡魔が訪れた。
「ごめん、また寝るわ」
「私ももう暫くしたら帰ります」
「うん、今日はありがとう」
暁人は部屋に戻った。
ベッドに横になると先程よりは楽になった気がした。
「また熱が上がるかもしれないから、貼っておきなさい」
部屋に入ってきた母が熱さまし用のシートを額に貼ってくれた。冷たくて気持ちがよかった。
「母さん…」
「なに?」
「…いや、何でもない…」
暁人はだんだん眠くなってきた。
「そういえば…篤紀のやつ、どこに就職…」
気になっていたことを聞いた。篤紀は就職が難航していたのか、聞いてもなかなかいい返事が返ってこなかったのだ。
「あらやだ、聞いてないの……よ」
「え…どこだって…?」
目が開けられないくらい眠くなってきた。
「もう寝なさい、実央さんに伝えておくから」
「うん…」
暁人は音痴だという母の子守歌というものを聴いたことがない。それでも母の最後の言葉は子守歌のように心地よく暁人の耳に滑り込んできた。
(実央さんに伝えておく…実央さんに…伝えて…実央…)
「あ、暁人さん、目が覚めましたか」
次に目が覚めた時、暁人の目の前に実央の顔があった。額のシートを取り換えようとしていたのだ。実央は暁人の額に手を当てて
「熱、だいぶ下がったみたいですね、お母さんの持って来てくれた薬が効いたのかな」
実央が嬉しそうに話す。
「実央…母さんに電話したのか」
「はい、暁人さんの事を一番わかっているのはやっぱりお母さんですから。僕が帰った時はもういらっしゃらなかったけど、暁人さんが具合が悪い時にどうしたらいいか、メモに書いて残してくれてありました、ホラ。麦茶がいいみたいだからさっき買ってきました。ペットボトルのを買ってきちゃったけど、今度から煮出して常備しておきましょうね、その方が経済的だしゴミも少ないし」
そう言って実央は静子が書いたメモを暁人に見せた。「実央さんへ」と書いてある。
(実央さん…俺が寝落ちる直前にもそう言っていた気がする…母さんが実央を名前で呼んだ事があっただろうか。一度だけあったかな、初めて実央を実家に連れて来た時…ええと…そうか、一緒に来てもらったお母さん…実和子さんに向かって「実央さん…のお母様でしたわね」、そんなふうに言ったんだ。でもあの時はきつい言い方だった…さっきは普通というか…少し優しい感じがしたか?気のせいかな。珍しく母さんが実央の名前を呼んだから…)
暁人はそんなことを考えながら、母が書いたメモ書きを見た。
(麦茶…そういえば子供の頃母さんがよく作ってくれて、いつも冷蔵庫に入ってたっけ)
「はい、暁人さん、麦茶飲みますか」
そう言って実央がコップに注いだ麦茶を差し出す。暁人はそれを受け取って一気に飲み干した。
「うまい」
最近はのどが渇くとスポドリを飲むことが多かったので、新鮮な感じがした。
「お母さんに来てもらって良かったですね、暁人さん」
「『暁人』って言ってよ」
「え…」
実央は困ったような顔になる。
「あ…暁人…」
暁人は実央を優しく抱きしめた。
「そういえば母さん、篤紀の就職先、実央に伝えておくって言ってたけど」
暁人は急に思い出して、実央に聞いてみた。
「ああ、お礼の電話をした時に伺いました。お母さんも僕に電話を下さるつもりだったみたいです。聞きましたよ、篤紀君の就職先、実は…」
実央はおかしそうにわざと暁人の耳に口を寄せて囁き始めた。
おしまい
終わり
お読み下さりありがとうございます。前作からの流れで暁人と実央には初ケンカをしてもらいました。拙い文章ではございますが、ストーリーをお楽しみ頂けたら幸いです。おまけの後半、ナレーション部分の「静子」と「母」の使い分けに悩みましたが「静子=母」です。暁人との対話中は「母」がしっくりくるかなと思いそちらを使いました。わかりにくかったら申し訳ありません。




