第1話:甘い香りの裏側には
「……はぁ、落ち着く」
土の匂いと、少し青臭い葉っぱの香り。
私、結城紬は、薄暗い温室の隅っこで一人、しゃがみ込んでいた。目の前にあるのは、ギザギザした葉っぱが特徴的な見慣れないハーブ。指先でそっと撫でると、レモンとユーカリを混ぜたような、ツンとした香りが鼻をくすぐる。
ここがどこなのか、なんで私がこんな中世ヨーロッパみたいなヒラヒラの制服を着ているのか。細かいことを考えるとパニックになりそうだから、今は脳の隅っこに追いやっておく。
とにかくここは、異世界の『王立魔法学園』らしい。
元の世界でも、教室のきらきらしたグループに入れず、いつもイヤホンをして壁の花をやっていた私。異世界に来たからっていきなり勇者になったり、ヒロインみたいに誰かと楽しくおしゃべりできるわけがない。
人間関係なんて、どこに行っても疲れるだけ。本音と建前が入り混じったドロドロした空気は、息が詰まる。だから私は、嘘をつかない植物と一緒にいるのが一番ラクなのだ。
「きゃあああああっ!!」
突然、温室の外から耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
ビクッと肩を揺らし、恐る恐る温室のガラス越しに外を覗き込む。
中庭の噴水の前で、ふんわりとしたドレスみたいな制服を着た女の子が倒れていた。周りを取り囲む生徒たちは、口を揃えて騒ぎ立てている。
「まただわ! また『呪い』よ!」
「ああ、おいたわしい……。あの悪魔の仕業に違いないわ!」
呪い。悪魔。
この学園に来てから、何度も耳にした言葉。最近、身分の高い令嬢たちが次々と原因不明の湿疹と呼吸困難に倒れる事件が起きているらしい。魔法だの呪いだの、異世界っぽい物騒な単語に、みんな怯えきっていた。
(……呪い、ねぇ)
私はそろりそろりと野次馬の端っこに近づき、倒れている女の子を観察した。
顔や首回りに、真っ赤な発疹ができている。息は荒く、苦しそうに胸を押さえていた。
そして、私の鼻は確実に「それ」を捉えていた。
(……甘ったるい、ローズに似た香り。それに、かすかに混じるピリッとした刺激臭)
女の子の首元に巻かれている、美しい紫色のスカーフ。そこから匂いが漂ってくる。
私の頭の中で、元の世界で読み漁った植物図鑑と毒物学の知識がカチリと音を立てて繋がった。
「あれ、ただの接触性皮膚炎……重度のアレルギー反応だ」
呪いでも魔法でもない。あのスカーフの染料に使われているのは、たぶん『ウルシ』に近い成分を持った毒草だ。それに、香水代わりにつけている精油の成分が化学反応を起こしている。
早く洗い流して、気道を確保しないと本当に危ない。
「あの、お水で、首を洗って……」
勇気を出して声を絞り出したつもりだったけれど、ざわめきにかき消されて誰にも届かない。
どうしよう。私なんかが前に出ても、変な目で見られるだけだ。でも、このままじゃあの子が――。
「――お水で洗えば、呪いが解けるのかな?」
ふわりと。
私の耳元で、甘くて、でも少しだけ冷たいミントの香りがした。
「ひっ」
振り返ると、そこには絵本から抜け出してきたような男の子が立っていた。
色素の薄いサラサラの金髪に、作り物みたいに整った顔。透き通るような青い目は、私を面白そうに覗き込んでいる。
学園の生徒会長であり、この国の王太子でもある、ルカ先輩だ。
きらきらすぎて、私みたいな陰キャが直視したら目が潰れてしまうレベルの存在。
「あ、えと……ちが、呪いじゃなくて……」
「呪いじゃない? じゃあ、何?」
ルカ先輩は、ニコリと完璧な笑顔を浮かべた。でも、その瞳の奥は全然笑っていない。まるで、私の底の底まで見透かそうとするような冷たい目。
「あ、あのスカーフの染料に使われてる植物の成分が、肌をかぶれさせてて……だから、早く外して水で流さないと、呼吸が……」
早口でボソボソと呟く私の言葉を、彼は一つも聞き逃さなかったらしい。
ルカ先輩はスッと立ち上がると、群衆を掻き分けて倒れた女の子の元へ歩み寄った。そして、迷うことなくそのスカーフを引きちぎり、「至急、水を持ってきて! 患部を洗い流すんだ!」と的確に指示を出した。
あっという間に処置が施され、女の子の呼吸は落ち着きを取り戻した。
周囲が「さすがルカ様!」「呪いを退けられたわ!」と沸き立つ中、彼は私の元へと戻ってきた。
「君の言う通りだった。すごいね」
「いえ、私はただ……匂いが、したから」
「匂い?」
彼はスッと顔を近づけてきた。整った顔が目の前にあって、心臓が跳ね上がる。
間近で嗅ぐ彼の香りは、やっぱり爽やかなミント。でも、その奥に隠しきれないくらい、苦くて渋い、複雑な計算の匂いがした。
「君、名前は?」
「……結城、紬です」
「ツムギ。ねぇ、君、僕と一緒に来ない?」
「へ?」
完璧な笑顔の裏側で、彼が何を考えているのかは分からない。
でも、私の平穏な引きこもり植物ライフが、今この瞬間、音を立てて崩れ去ったことだけは、嫌というほど理解できたのだった。




