来店者 20代男性 一人客
カランカランと扉を開くと、
「いらっしゃいませ」
180はある高身長の女性が拭いていたグラスを置き、席へ手を出す。入ってきたのはそれなりに背の高いスーツを着たサラリーマン。革靴をコツコツと鳴らして窓際の席に座った。
バー”雲隠れ”雑居ビルの三階に入っているこの店は、名の通り地図アプリや名前検索では出てこない。常連もここの情報はネットに上げたりしない、表札もない。見つけるのは至難の業だ。そんなこの店は常連さん以外にふと、迷い込んでくるお客さんもいる。今入ってきた男性もそうだ。
男性は目の前の線路をぼやっと見つめており、一向に注文する気配がない。マスターは静かに冷凍庫を開け、氷を削り始める。店内にカタンカタンと鈍行列車が加速し、線路のつなぎ目を走る音が聞こえる。防音仕様の店内では外で聞くとやかましいだけの通過音は、小さく鼓膜を揺らす。
男性がため息をつくと、いつの間にやら近づいてきたマスターがそっと飲み物を差し出す。
「ライムはお嫌いですか?」
豆鉄砲をくらったように振り返る男性に、横からグラスを差し出す。
「あ、いや。平気です…これは?」
「モヒートと言うカクテルです。疲れた体のリフレッシュにいかがですか?」
男性はカクテルを見て、そっとグラスを手に取り一口飲む。爽やかなライムとミント、シュワっと喉を通る時の微炭酸。目の前を通過する特急を背景にグラスを持つ男性。マスターは静かにカウンターに戻り、また、グラスを拭き始めた。
数十分後コツコツとカウンターに近づく足音がする。
「これ、ごちそうさまです。追加で別のを作ってもらえますか?」
「もちろんですよ。お席どうぞ、それとモヒートはサービスですので…何になさいますか?」
「やる気の出る1杯を…欲しいかなって」
聞くと、彼は大手企業に勤めており毎日どこかへ出向しては出向先で教えられていないことを注意される毎日を送っているそう。今日もここには出向で来て、勤務時間後に1時間説教をされた後らしい。ふらふらとホテルへ帰る途中、偶然ここにたどり着いたそうだ。
「ここに来る初めての方は皆さんそんな方が多いんですよ。なにせ看板も出してませんから、はい…お待たせしました」
「これはなんていうカクテルですか?」
「ダイキリと言います。キューバの鉱山労働者が疲労回復に呑んだのが最初とされる、ダイキリ鉱山から名前が付けられています。先ほどもライムのカクテルでしたのであまり味を変えすぎるのも…と、思いまして」
マスターが笑顔で差し出す。飲みながらしばしば男性は、マスターと談笑していた。彼は飲み終わってお会計をお願いする。マスターは会計をして、レシートの代わりに自身の名刺をプレゼントした。
「常連さんでも持ってる方は少ないんです。いつかまた会いましょう」
その言葉を贈られ、後ろ髪を引かれながらホテルへ帰った。
次の日、8時に目が覚めた男性。今日は1日有休をとっている。明日からは再び別の地に飛ばなければならない。
「お礼しなきゃかな」
もらった名刺を表と裏、両面を見回す。しかしお店の所在地はどこにも書かれていない。チェックアウトして、帰りの特急の時間まで時間があったので、昨日の道を逆戻りしてみる。確かに高架の路線が見える雑居ビルの中だったと思うが…ついに見つけることは出来なかった。
『いつかまた会いましょう』
マスターの言葉が脳裏に浮かぶ。眩しい笑みに、そのスタイリッシュな風貌から容易に想像できる爽やかな笑顔に確かに元気をもらった。
「明日も頑張るか…!」
彼は駅へ歩き出す。彼の貰った名刺には、店のロゴと、ガーベラが描かれていた。




