空白の記憶
白い天井。
薬草の匂い。
遠くで誰かの足音。
ゆっくりと、瞼が開く。
「……ここは」
喉が乾いている。
身体が重い。
腕に包帯。
胸に鈍い痛み。
医療棟だと理解するのに数秒かかった。
記憶を辿る。
城門。
樹の魔物。
氷を撃ち込んだ。
歓声。
それから――
城壁。
ゼノ。
セラフィナが押されていた。
間に入った。
氷壁が砕けて。
拳が。
そこから先が、ない。
「……止められたか?」
声が掠れる。
扉が開く。
入ってきたのはリシェルだった。
「目、覚めたのね」
どこか安心した顔。
だが、少しだけ探るような視線。
「ゼノは?」
「退いたわ」
短い答え。
「セラフィナは?」
「生きてる。重傷だけど」
胸の奥の緊張がほどける。
それだけで十分だった。
「……よかった」
リシェルは腕を組む。
「ねえ、最後のこと、覚えてる?」
「最後?」
首を傾げる。
「止められなかった、って思ったところまでしか」
それ以上は、真っ白だ。
何か大事な瞬間が抜け落ちている感覚。
だが、思い出せない。
リシェルはじっと彼を見る。
やがて小さく息を吐く。
「そう」
それだけ。
それ以上は言わない。
「俺、何かやったのか?」
「さあ?」
わざとらしく肩をすくめる。
「城壁、まだ一部凍ってるけどね」
「……え?」
「真夏なのに、氷が溶けないの。魔導班が大騒ぎ」
胸がざわつく。
だが、実感がない。
魔力は空だ。
身体も重い。
第三覚醒の気配など、どこにもない。
「俺は……まだ弱い」
ぽつりと零れる。
あの拳を、止められなかったはずだ。
守れなかったはずだ。
そういう感覚だけが残っている。
リシェルの目が、少しだけ柔らぐ。
「本当に、鈍いのね」
「何がだ?」
「なんでもない」
彼女は窓の方へ歩く。
外を見る。
城壁の一角が白く凍りついているのが見える。
兵士たちが近づけずにいる。
「王都、ざわついてるわよ」
「氷の異変、って」
その言葉が妙に引っかかる。
だが、やはり思い出せない。
扉が静かに開く。
セラフィナが立っている。
包帯を巻き、腕を固定し、それでも背筋は伸びている。
目が合う。
一瞬だけ、空気が止まる。
グレイスは安堵の息を吐く。
「無事か」
それだけ。
彼女は小さく頷く。
「ええ」
沈黙。
ほんの僅かに、視線が揺れる。
だがすぐに戻る。
「無茶するな」
「それはこっちの台詞よ」
淡い火花のようなやり取り。
以前と同じ。
なのに、どこか違う。
セラフィナは一歩だけ近づく。
彼の顔を見つめる。
本当に覚えていないのか。
その瞳に、あの氷の光はない。
(覚えていない)
胸が少しだけ、寂しくて。
少しだけ、安心する。
「ゆっくり休みなさい」
それだけ言って、踵を返す。
扉が閉まる。
グレイスは天井を見上げる。
自分が何かを失った気がする。
何かを掴み損ねた気がする。
だが分からない。
窓の外。
溶けない氷が、白く輝いている。
戦争は、まだ終わらない。
そして彼はまだ、自分が触れた領域を知らない。




