聖女は還る
いつもお読みいただきありがとうございます!
魔王が四人の勇者パーティーによって討伐されてから三年。
魔王軍による襲撃の爪痕は各地に残っているが、徐々に復興が進んでいた。
「我が領も軌道に乗り始めました」
「まぁ、では来年はアシュベリー侯爵領のワインを楽しめるかしら」
「えぇ、期待していてください。ボーデン伯爵領の茶葉はいかが?」
「順調です。すでに商会を通じて出回り始めているはずですわ」
王宮で私が主催する、仲のいい貴族たちを集めた小規模の茶会では明るい会話が増えてきた。無論、茶会や夜会が開催できるということも平和になった証である。
「本日は、先に分けていただいたボーデン伯爵領の茶葉を使っています」
侍女たちが紅茶を注いだタイミングで私が言うと、夫人たちは頷く。
「まぁ、やはりですか」
「この豊かな香り、なんて懐かしい。魔王の脅威が迫る前はよく飲んでいました」
「襲撃の被害から立ち直られて……」
「これも王妃様の支援のおかげです」
夫人たちに視線を向けられて、私は微笑む。
「すべては陛下の采配です」
私は勇者パーティーの聖女として、魔王討伐の旅に出た。
メンバーは勇者、聖女、戦士、魔法使いというたったの四人だ。この四人は大陸の各国から神託により集められた四人だった。
私も勇者も戦士も魔法使いも、全員出身国が違う。
皆、元気にやっているだろうか。去年までは手紙のやり取りはあったが、戦士は放浪の旅に出ていて、他の二人は後進の育成に忙しいので頻繁には返事がこない。
魔王討伐は、神託があっても当たり前だが容易なものではなかった。
最終的に私は癒しの力を使いすぎて力を失った。魔法使いも魔力のほとんどを無理して使い果たし、今ではうまく歩けず車いす生活になっているという。
戦士は戦いの最中で片腕を失い、勇者は片目を失った。
私の聖女の力が残っている間に、皆を治癒しきれなかったのだ。
魔王討伐後、私は教会で一生を過ごそうと思っていた。勇者エルウィンへのほのかな恋心を押し殺して。
エルウィンは隣国の王子だ。隣国よりも劣る国の男爵令嬢だった私が思いを告げるなんておこがましいと、魔王討伐後も心の内は黙って普通に別れた。魔王討伐で世界中が歓喜に包まれる中、ムードに流されて思いを告げなくて本当に良かった。
まさか、自国の王妃になるとは思ってもいなかったのだけれど。
「聖女様!」
私の思考が過去の海に沈みかけていると、茶会の会場である王宮の庭に明るい声が響いた。
貴族夫人たちしか招いていないお茶会でこんな大きな声が響くのは、完全に場違いだ。
私の背後に視線を滑らせた夫人たちは、皆一様に同じ表情をする。
教科書に「困った時はこの顔をしなさい」と書いてあるのかと聞きたいくらい、皆同じ顔だ。同じ角度に上がった口角、やや細めた目、いつの間にか取り出した扇を優美に広げて口元を隠しながらも、冷ややかな空気が漂っている。
その空気を感じて安心してしまった。
まだ、私の立場はそこまで奪われていない。まだ、あの子よりは王妃にふさわしいと思われている。大丈夫、大丈夫だ。
私は浅ましい安堵を顔に出さないようにして振り返る。
「どうしたの、ベル。吐き気は大丈夫なの? あぁ、走ってはダメじゃないの。あなた一人の体ではないのだから」
駆け寄ってきたのは銀髪の若い女性だ。
その後ろから使用人たちが血相を変えて追ってきた。もっと足の速い使用人をつけなければいけないのだろう。
「聖女様がお茶会をしているって聞いて。アタシ、お茶会って見たことしかなかったから。側室になったら参加してもいいんじゃないかと思って」
ベルは私に飛びつくと無邪気に笑う。
周囲の温度は下がっているのだが、私はどうしても彼女のこの笑顔を嫌いになれない。
「ごめんなさいね、ベル。あなたの体調を心配したのよ。もう少し落ち着いたら今度あなたも茶会を開くといいわ。ここにいらっしゃる皆様は、教会に協力をしてくださっている方々なのよ」
今日招待している夫人たちは、私の後ろ盾である教会と関係が深い。
そう伝えてはみたものの、ベルはあまり分かっていないようだった。
「えっと、アタシとは話が合わないってことですか?」
「それは、私たちが年上だからあなたと話が合わないと言いたいの?」
ベルの問いに、最も若い伯爵夫人が反応する。
私は諫めようとしたが、夫人たちに視線で止められてしまった。
ベルは夫人たちの冷ややかな空気が怖くなったのか、私の後ろに半身を隠す。そんなベルの様子を見て、夫人たちは扇を閉じてさらに冷ややかに笑った。
「なんだか、雨が降りそうですわ」
「えぇ、せっかくのお茶会でしたのに残念です」
「これでは虫が飛びますわ」
「え、よく晴れてますよ? 虫?」
夫人たちの遠回しな嫌味にベルは呑気に答えているが、夫人たちはすでに誰も相手にしていない。
使用人たちはベルを取り押さえたいが、国王の子供を妊娠中のため手を出しあぐねている。
「あら、そのドレス。見覚えがあるわ。王妃様のものではなくって?」
夫人たちはベルにもう話しかけないのかと思ったが、ファッションに並々ならぬこだわりがある公爵夫人がそう発言した。
言われてから気がついたが、確かにそうだ。すっかり忘れていた。
この前ベルが「新しい服が欲しい。着る服がない」と言い出し、商人を呼ぶように指示したのだが商人が持ってきたものでは気に入らず、私のドレスが欲しいと言い出したのだ。
これからお腹も出てくるのだし、着心地の良い新しいものを側室の予算内で仕立てた方がいいと言ったのだが聞かずに不安定になったので、一度着用してもう着ない私のドレスを何着か譲ったのだ。
「はい! 王妃様から譲っていただいたんです! 綺麗でしょう!」
ベルは気づいてもらって嬉しいのか、その場で無邪気に一回転する。五歳児のような挙動だ。
夫人のうち数人は片方の眉のみ軽く上げた。
「サイズが合っていなくってよ。胸は余っているし、裾も長くて踏んだら危ないわ。なんてみっともない。そのあたりの豚に着せた方がよろしいのでは? なぜ、豚よりも礼儀がなっていない方がそんなものを着ることを許されているのかしら。ここは王宮でしょう?」
「豚は綺麗好きと聞きますからね」
「そうですね。豚なら招待されていないお茶会に乱入などせず、小屋に大人しくいるでしょう」
年長の侯爵夫人が厳かに告げると、他の夫人たちも続く。
さすがに複数の夫人たちから発言されて、ベルはやっと現実に気づいたようだ。
「ベル。お部屋に戻って使用人とお医者様に茶会開催の日程を相談なさい。お茶会の準備には時間がかかるわよ」
ベルを促すと、使用人たちが取り囲んで彼女を連れて帰った。
私はとても嫌な人間だ。どうして、私のような人間が聖女だと神託で出たのだろう。
癒しの力を持っている者は教会に預けられて訓練をする。中でも私の力は飛びぬけていたが、あくまで田舎の教会での話だと思っていた。
私は、さっきベルが乱入してきてすぐに追い出すという手段を取らなかった。
こんなことになってもベルのことはまだ嫌いではない。それなのに、ベルが貴族夫人たちに受け入れられないのを見て安心している。
最低だ。とても、聖女とはいえない。
「王妃様、なぜあのような珍しい獣を王宮にのさばらせておくのです?」
「あら、獣ですか? うるさい虫ではなかったのでしょうか」
ベルが完全に去ると、夫人たちの視線は私に突き刺さる。
冷ややかではないが、ベルの存在に怒っているのは伝わってくる。
「……彼女を王宮で雇ったのは私です。しかし、手を出して側室にするとお決めになったのは陛下です。陛下のお決めになったことに異議を唱えることはできません」
「王妃様、側室の管理はあなた様の管轄です」
「元聖女様なのですから、あのような女狐はしっかり追い払ってしかるべきです」
獣なのか女狐なのか、それとも虫なのか。
元聖女だったことと、側室と神経戦を繰り広げることに何がどう関係があるのだろう。教会のコネを使えということか。あるいは、魔王討伐よりも側室を追い出すことは楽だろうと言いたいのか。
そんな疑問を押し隠して、私は夫人たちにゆっくりと微笑んだ。
「陛下と相談します」
国王相手に私が何か言って意味があるのだろうか。
ベルは、魔物に目の前で両親を殺された娘だった。当時のベルは十五歳。魔王討伐の道中で私は彼女に出会った。
自分の悲しみに蓋をして、ベルは教会で身寄りのない子供たちの面倒を率先して見ていたのだ。私はそんな優しい彼女を支援したいと思い、魔王討伐が終わって王妃になると決まった後で私の使用人として試験的に雇うことにしたのだ。
ベルは綺麗な女の子だ。今年二十歳になる。
だから、夫である国王も酔ってうっかり手をつけたのだろう。
ずっと教会で過ごすと言っている私に「国民のために復興を手伝ってほしい。聖女が王妃になれば国民はこの上なく安心できる」と真摯に頼んで求婚してきた夫は、これまでの三年間は優しかった。
建国記念パーティーで深酒をして、ベルに手をつけるまでは。
おそらく、夫もそれまで気が抜けなかったのだろう。復興が目に見えて成果が出始めてやっと気を抜いたのだ。
不思議なものだ。魔王討伐にかけた年数は三年。夫との結婚生活が破綻し始めるのも三年。
夫は最初こそ、私が可愛がるベルに手をつけたことを謝った。
しかし、ベルが妊娠していると分かると彼女と過ごす時間が増え始め、とうとう先日貴族の子女でもないのに側室にしたのだ。
私と夫の間に子供はいない。
もしかすると、私は聖女としての力を失った時に妊娠もできなくなったのかもしれない。
私が悪いのか、夫が悪いのか。
夫は今、自分が種なしではない証明されて嬉しいだろう。陰でコソコソ言われていたことは当然気づいている。
私の使用人として働き始めたベルは、一生懸命で可愛かった。
夫に手をつけられた時は酷く取り乱して泣いていた。私にも申し訳ないとずっと言い続け憔悴していた。
でも、夫と過ごすようになってベルは変わった。
贅沢も人に傅かれることも覚え、私のドレスを欲しがり、茶会にも勝手にやって来る。私のことを「王妃様」ではなく「聖女様」と呼び、当てつけのように腹を私の前で撫でることもある。
それでも、私の中のベルは出会った頃のベルの印象が大きい。夫が酔って手をつけなければ、ベルはあのままだったはずだから。
それに、私も聖女から元聖女、そして王妃になって変わった。あのままの私では生きていけなかった。
魔王軍による被害で身寄りがなくなった子供たちの支援を大々的にやるには、王妃という立場はとても便利だった。
教会ではできないことも国の政策としてできる。貴族たちも寄付してくれる。
貴族と付き合うと、茶会のような無駄な神経戦がついてくるけれども。
でも、今の私は自分に満足しているはずだ。
勇者エルウィンへの恋心にちゃんと蓋をして、子供たちがこれから飢えることも、魔物に親や大切な人を殺されることもない世界を作っていく。苦労した子供たちもこれから幸せを感じて生きていけるように。
「ベルに使用人をつけてやれ」
「すでについているはずです」
「専属の侍女が欲しいそうだ」
「陛下が見繕ってさしあげればいいのではないですか?」
夫である国王とベルについて話し合おうと思ったら、これだ。先に使用人のことを持ち出されてしまった。
教会が後ろにいる私よりも、ベルといる方が気が休まって可愛がりやすいのは分かる。
私は最初から、妻としてこの人に求められていなかったのだ。
それでも三年間、優しかった彼には感謝するべきだろうか。
「誰もなりたがらないから王妃が見繕ってくれ」
「ベルは平民出身ですから、そこから声をかけてみましょうか。妊娠中ですし、気を張らない方がいいでしょう」
「しかし、貴族の方がいいとベルは言っている。王妃の使用人を一旦送ればいいのではないか」
ベルはそんなことに拘る子だっただろうか。もう、よく分からない。
ベルには特に目をかけていた。そんな子が側室になって私と夫を共有する。
私の代わりにベルが子供を生んでくれると思えばいいのだろうか。生めない、聖女としての力も失った私の代わりに。
「では、一旦はそれで対応しましょう。その間に面接も進めますし、貴族家に話を持っていってみます」
私に付いてくれる使用人を何名か、ローテーションでベルのところに送った。
子供を生めないという負い目、ベルのことを可哀想だと思っている感情が、私をこんなに甘くさせるのだろう。
あるいは、公爵家・侯爵家といった有力な家の令嬢が側室になるよりもマシだと自分に言い聞かせたのかもしれない。
心の中で私はベルを見下していた。ベルのような身寄りのない子なら、私と関係性がある子なら大丈夫だろう。私の立場を奪うことはないだろうと、そう思っていた。
ベルが妊娠して、私の後ろ盾である教会は焦ったのか、私に「これで夫を誘惑しろ」と媚薬を渡してきた。私の心は冷えたものの、壊れるほどではなかった。
「王妃が指示したのか」
「そんなことはしません。神に誓って」
私が送った使用人がベルに対して問題を起こしてしまい、夫が話を聞きに来た。しかし、その目には疑念が浮かんでおり、私がやったのだろうとすでに決めつけているようだった。
「では、なぜ王妃が送った使用人が堕胎薬を所持していたんだ?」
「分かりかねます。私は指示もしておりませんし、渡してもいません」
「先に子供ができたベルのことが妬ましくてやったのではないのか」
「私の仕事は、魔王軍の被害からこの国を復興させることです。くだらない嫉妬でベルの子供を堕胎させることは復興につながりません。それに、私の使用人を送れと指示されたのは陛下です」
ベルは堕胎薬の入った紅茶を味が変だと吐き出したため、今のところ問題はないらしい。
その事実に私は安堵している。自分が悔しがらずに安堵した状況にさらに安心する。
ベルがまた悲しむ事態にならなくて良かった。そして私の送った使用人がなぜ堕胎薬など所持していたか分からないが、最悪なことにならなくて良かった。誰かに嵌められたのだろうか。まさか、教会関係者の指示?
「私はもう信用できないでしょうから、ベルの専属の侍女については陛下が何とかされてください。私が声をかけた貴族家のリストは後ほどお渡しします。しかし、問題のある家からしかいい返事はもらえていません」
平民出身でしかも身寄りのないベルが側室になったのだ。
自分の娘もぜひ側室にと考える貴族たちがいるのは当たり前だろう。王妃である私には教会の後ろ盾があるため、今のところ静観している家が多いようだが、野心のある家はベルの侍女に立候補してあわよくばお手つきを狙うはずだ。
夫はそれ以上何も言わなかったが、目には最後まで疑いがあった。
もう彼の中では、嫉妬に狂った私がベルを堕胎させようとしたことになっているのだろう。
そう思われることは別に問題なかった。
「聖女様は──アタシのことを恨んでいらっしゃるのですね」
ベルとたまたま廊下ですれ違った時にそう言われた方が心に響いた。
彼女は腹に手を当てて、まるで何かから守るようにしている。
「それはどうして? あなたのことを恨んでいないわ」
正直に言えば、酔って手をつけて妊娠させた夫が悪いのだ。妊娠してしまったベルは贅沢を覚えて変わったといっても、私の中では夫の方が悪いという認識だったのだ。
「だって、薬で赤ちゃんを殺そうとしたじゃないですか……。アタシが先に妊娠したから恨んでいらっしゃるんですよね。最近、陛下はアタシのところにばかりいらっしゃいますから」
「いいえ、違うわ。私はあなたを恨んでなんかいない。ただ、心配なだけ。あの件の調査は陛下がするから安心して」
「……聖女様は陛下のことを愛していらっしゃらないのですか?」
「愛よりも何よりも、私は国の復興のために王妃になって欲しいと陛下に頼まれたのよ。だから、私はあなたのことは恨んでいないの」
私がベルにあんなことをするなんてベル本人に思われる方が、心が痛かった。夫よりも彼女の方が古い知り合いだ。
人通りのある廊下でこんな会話をしたせいか、否定したにもかかわらず私がベルのお腹の子を堕胎させようとしたなんていう噂が大いに流れ始めた。
教会が力を持つことに反対する貴族たちの仕業だろうか。
事実ではないことを囁かれ、疑いの目で見られることは私の精神を思いの外蝕んだ。「なんだ、神託で選ばれた聖女様も所詮人間なのね」「世話していた子にその座を奪われるなんて可哀想」などという囁きが城内を歩くと耳に入る。
そんな折、事務的な会話しかしなくなった夫から呼ばれた。
私のことを疑いの目では見ているものの、すぐさま処罰するわけではないらしい。
「王妃のやっている仕事を一部、ベルに回してほしい。そちらの方が王妃もやりやすくなるだろう。児童養護施設の支援についてはベルに任せてもいいのではないか? 彼女も教会で子供たちの世話をしていたのだから、その辺りはよく知っているだろうし」
「……それは陛下のお考えですか? ベルは妊娠中ですから、出産後でも良いかと思っておりました」
「ベルがやることが欲しいと言い出してな。児童養護施設への支援なら自分もできると言っていた。王妃もその方が時間ができていいだろうと。あんな騒ぎがあったのに健気なことだ」
頭を殴られたような気分だった。
堕胎薬を私が指示したなんていう証拠を捏造され、糾弾される方がマシだった。
あの子は、ベルは、変わってしまった。
もちろん、夫も。
私がどれほど児童養護施設への支援に力を入れていたか、知らないのか。復興には子供の笑顔が必要だとひたすら頑張ってきた。
それなのに、それをベルにやらせろと? しかも、ベルが言い出した?
夫の子供を生むという役割は、別に私が果たさなくても問題なかった。
夫の気持ちがベルに向いたとしてもそれは仕方がないことだ。でも、私の生きがいにしてきた仕事まで奪うのか。
手足が急激に冷えてくる。
ベルは、私に成り代わろうとしている。私の座をすべて奪おうとしているのだ。
私にはそうとしか見えなかった。でなければ、私をわざわざ廊下で呼び止めてあんな話はしなかった。
私はベルを見誤っていたのだ。そして同時に気づく。聖女の力を失って、私はそこにしか縋るところがなかったのだ。
「それでは妊娠中ということも考慮して、まずは一部地域をお願いしましょう」
声はかろうじて震えなかった。
ここで断れば、また難癖をつけられるのだろうから。
「そうしてくれ。王妃は今度開かれる夜会の準備に尽力してほしい」
国内貴族を集めた夜会は行っていたが、二週間後の夜会は大規模なもので周辺国の王族・主要貴族もやって来る。
準備に手は抜いていないつもりだったが、夫からは真剣でないように見えたのか。
夜会の準備なんて、私でなくてもいいではないか。
それなら、支援だって私でなくてベルでもいいのか。私が王妃として存在する意味なんて、あるのだろうか。もう聖女の力も使えないのだ。
ベルが仕事を全部できるとは思っていないが、補佐をつければ済む話だ。
私でなくてはいけない理由もない。
虚しい、とても。魔王討伐の道中は虚しくても希望があった。魔王を倒せば平和がやってくるんだって。でも、今はどうだろう。確かに、平和にはなった。ひりひりした、死と隣り合わせの日常はもうない。でも、平穏も希望も私にはない。
そんな私に告げられたのは、意外な来客だった。
「アラナ! 久しぶりね!」
「あんたもね、ルナマリア」
ハスキーな声と砕け気味の口調が、忘れかけていた自分の名前を呼ぶ。王妃あるいは聖女としか呼ばれないので、自分の名前がルナマリアだと忘れそうになっていた。
魔王討伐以来久しぶりに会う、紺碧の髪を持つ女性に私は思わず駆け寄った。
魔王討伐で一緒に旅をした魔法使いアラナだ。
車いすに乗る彼女の周りには弟子だという魔法使いたちがたくさんいる。私が駆け寄ると、彼らは恭しくお辞儀をした。
「なんだかまぁ、王妃っぽくなっちゃって」
「王妃だもの」
まだ私は王妃だ、まだ。王妃という脆い足場に立っている。
「でも、急にどうしたの? アラナは忙しいんじゃなかったの? 手紙の返事だって全然くれないし」
「私が手紙書くの苦手って知ってるでしょ。ほら、今度の夜会に勇者も来るでしょ。久しぶりに集まろうかなって思って。魔王討伐の後はバタバタして私たち適当に別れたから。オーランドも呼んだのよ。どこにいても強制召喚するから、魔法で」
「王太子殿下が毒を盛られるという事件があったものね。オーランドも来るの? なら迎える準備をしておかないと」
「私たちはどこでも野宿できるんだから大丈夫よ」
「王宮の庭にテントを張れるわけないでしょ」
魔王討伐に湧く中、勇者エルウィンの兄で隣国の王太子が毒を盛られて一時危篤状態に陥るという事件があった。そのため、エルウィンは転移魔法ですぐに自国へ帰ってしまい、きちんとしたお別れができなかったのだ。
聖女の力を失っていなければ、勇者エルウィンの兄も癒せたのに。
「それに、あんたが困ってるって噂で聞いてね。筆不精だから手紙書くより会いに来た方が早いかなって」
「魔法で手紙も送れるでしょうに」
「あはは、ごめんごめん」
「相変わらず、魔法の研究に没頭したら寝食を忘れてるの?」
アラナにではなく、後ろの弟子たちに聞くと深い頷きが返ってくる。
「まぁ、そんなことはいいのよ。あんた、困ってるんでしょ」
「別に困ってないわよ」
「王宮では女の争いってやつがあるんじゃないのぉ?」
「あるけど、普通よ。王妃になって子供ができなかったら側室は覚悟していたわ」
車いすのアラナの前では、自分の悩みなどちっぽけに感じたから言えなかった。
アラナもそれ以上は聞いてこなかったが、夜会まで滞在するというので部屋を用意した。弟子の分までは急遽用意できなかったが、弟子たちは宿をとるらしい。
三年間、命を預け一緒に旅をした仲間だ。
王妃や元聖女という立場を忘れて、私は久しぶりに裏表のない会話を楽しんだ。
アラナの宣言通り、翌週には戦士オーランドがやって来た。
大柄な体に赤褐色の髪という特徴は彼の出身国にとても多いらしい。最初に会った時は彼の身長が二メートルほどあるので驚いたものだ。高位貴族の三男なのに、気さくで話しやすかった。
そんなオーランドは腕以外変わっていない。
「オーランド、その腕……どうしたの」
魔王に切られて失ったはずの彼の片腕がしっかりと存在した。しかし、肘から下は真っ黒だ。
「これな、ある国の魔道具技術で義手なんだ。神経につなげてあって、ほら、ちゃんと動く」
オーランドは私の目の前で指を曲げたり、肘を曲げたりしてみせる。
「放浪の旅に出てたまたま見つけてさ~。面白いだろ」
「私、後でそれ中見たい」
「アラナ、壊すなよ。高いんだから」
魔王を倒した後は皆、満身創痍だった。
特に勇者と戦士は傷が酷く、必死で治癒したものの途中で私は聖女の力を失ったのだ。
「オーランドは、義手になっても良かった?」
「うーん、どうだか。便利は便利だけど、腕がない方が女の子たちが『魔王に腕をやられたのは本当だったんですね!』ってちやほや世話を焼いてくれたから。あっちの方が良かったかも」
「うわ、変態」
アラナとオーランドは昔のように軽口を言い合っている。
オーランドの腕とエルウィンの片目を治す前に私は血を吐いて倒れてしまった。力が残っていれば、アラナだって車いすでなかったかもしれない。
自分だけが見た目の上で何も怪我を負っていない。そんな罪悪感が私にはある。
罪悪感が心の中に淀んでいても、久しぶりに会うオーランドとも楽しい時間を過ごした。
***
「ふーん、この銀髪女が愛人か」
「正確には元々ルナマリアのメイドで可愛がられてて、国王が酔って手をつけて愛人、妊娠して側室になったのよ。ほら、魔物に両親殺されて教会にいた子よ」
「うへぇ、ルナマリアに世話になっといて寝取るのか。やることエグイな」
「寝取ったとは言えないかもしれないけど、そうなるように誘導した可能性もあるわね」
元聖女ルナマリアは王都の児童養護施設を訪れているため、アラナとオーランドは二人で鏡を覗き込んでいた。
鏡には、アラナの弟子の魔法によりぼんやりとベルの姿が浮かび上がっている。
「なぁ、もうちょいハッキリ見えねぇの?」
「これが限界。この女と鏡の距離があるみたい。この魔法では、鏡のある場所の光景を全部これで見れるのよ」
「すげーな。覗き放題じゃん」
「そういう下世話なこと言わない。ねぇ、魅了の気配はあった?」
アラナが斜め後ろの弟子に問うと、弟子は首を横に振る。アラナは魔力をほとんど失っているため、弟子が魔法をすべてかけているのだ。
「つまり、あの女が魔王軍みたいに魅了を使って国王に取り入ったと疑ってんのか」
「まぁね。薬物ももちろん疑っているけど、メイドじゃ定期的に摂取させるのは難しいでしょうね……惚れ薬だって時間制限があるし」
「ルナマリアからだと偽って国王に渡してた可能性は?」
「あるけど、そういう薬物って定期的な摂取が必要なんだってば。だから、何度も渡してたなら国王とルナマリアの会話で出てバレたはずなのよ」
「ふーん……じゃあ、魅了も薬物もないとして、あの国王はルナマリアに求婚しといて、酔って他の女に手を付けて妊娠させて、んでその女の方に情が傾いてるっていうわけだ?」
「あんただって貴族なんだから、愛人なんてよくある話でしょ」
「まぁな。なんなら、エルウィンだって側室が生んだ王子だし。でも、世間の一般常識だとへぇ~で終わるんだが、友達がそんな目に遭ってるなら話は別だろ。だからアラナだってここに来たんだろ」
「あのアホでヘタレのエルウィンを尋問しないとね。この日のために尋問魔法を弟子に仕込んできたわ」
「エルウィンがさっさとルナマリアに求婚しとけば、こんなことにならなかったんだよ。王太子が倒れて仕方なかったとはいえ」
「ルナマリアだって縋らなかったじゃないの。あの女みたいに甘えるとか涙浮かべるとかしちゃえば良かったのよ」
「いや、兄が倒れてる時に縋るのは迷惑……俺たち、魔王討伐を経験してこのくらいじゃ泣けないし……それに、お前も毎晩ルナマリアの祈りを聞いてるからわざわざこんな面倒なことしてんだろ。何企んでるのか、そろそろ言えよ」
鏡を覗き込んでいたアラナはやっと顔を上げる。
「やっぱり、あんたもルナマリアの祈りが聞こえるんだ?」
「毎晩聞こえる。俺やお前やエルウィンのために祈ってる内容が。ルナマリアの治癒を受けたことがあるから聞こえるのかと思ったら、そうでもないらしい」
「多分、私たちが一番ルナマリアからの治癒を受けたからよ、それでルナマリアが私たちに意識を合わせて祈っていると聞こえるのよ。あくまで推測だけどね。魔法を使って弟子に聞かせようとしてもできないもの」
「で、何するつもりだ?」
「んー、というかエルウィンと会わせればいいかなって。エルウィンだってどう見てもルナマリアのこと好きだったのに、あんなことが起きてすぐ国に帰っちゃったし……。会ったら会ったで、なんかあるでしょ。引き裂かれた二人の反応が」
「恋の炎が燃え上がるとか?」
「あんたがそんな表現するなんて気持ち悪いからやめて」
「そぉか? 俺はアラナがわざわざ呼びつけてくれて嬉しいけど。俺の求婚を足蹴にした後で口も聞いてくれないかと思ってたから」
オーランドはアラナとの距離を詰めようとするが、アラナはさっと鏡を盾にする。
アラナの弟子は二人の様子を見ないようにフードを軽く引っ張って顔を隠した。
「ルナマリアには感謝しないとな」
「バカ」
「それは俺も期待していいってこと?」
「私みたいに魔力がカスカスの車いすの女に言い寄るとか暇なわけ?」
「それ言ったらルナマリアが悲しむぞ。お前が断るからって治癒を後回しにしなきゃ良かったってずっと嘆いてるんだから。俺たちは魔王を倒した。んで、皆生きて戻ったけどそれぞれ傷ついた。それだけだろ。あの恐怖と傷は、俺たちにしか分からない。いくら国王でもな、これは分からなねぇよ」
アラナが眉根を寄せるのと、オーランドが鏡をひょいと取り上げるのは同時だった。
「で、俺たちはどうする? エルウィンが来るまでお前を口説いていいってこと?」
「ふざけてんじゃないわよ。とりあえず、あの側室についてもう少し調べるんだから」
アラナは顔を背けたが、頬は赤かった。
***
夜会の日がやって来た。
ベルには一部の仕事を割り振った。また言いがかりをつけられるかと思ったが、現時点では来ていない。
ということは、この夜会で何かあるのだろうか。
招待状を送った時点で側室ではなかったベルに参加資格はないはずだが、国王が許可して、かつふさわしい格好をしてくれば問題なく参加できる。
ベルに夢中になっている国王の良識を信じるならば、あのマナーで国外の招待客の前に出すのはかなりマズイ。教育係はつけたのだろうか。
エルウィン一行は予定していたルートが大雨で使えなくなり、遅れて到着したから準備がまだなのだと聞いている。
私は国王と入場し、挨拶を受けながら会場の様子を時折眺めていた。
今のところ問題はないようだ。
アラナとオーランドを招待しようとしたが、堅苦しいのは苦手だから夜会の翌日くらいに会おうと言われている。
あの二人が来てくれて本当に良かった。夜会に参加はしなくても、心無い噂で蝕まれかけていた私の心はあの二人のおかげでかなり浮上していた。
ダンスの時間が近くなってきて、夫に手を取られて中央に進む。
ふと入り口を見ると、真っ赤なドレスを着たベルが入って来たところだった。
やはり、夫が夜会に参加することを許可したのか。茶会に乱入したのなら、夜会にも来たがるだろうとは思っていた。
それにしても、夫がベルにつけた使用人はダメだ。
赤を不幸の色としている国の方を招待しているから、あれほど鮮やかな赤は避けた方がいいのに。
一体、夫は何を考えているのか。
復興の目途が立てば好きに振舞いたいのか。
音楽が始まってしまったので、ステップを踏む。
最低限のマナーしか習得せずに教会に入り、聖女になって魔王討伐に出たので、求婚された後は教育を詰め込まれて大変だった。ダンスはそれほど苦労なく習得できたけど、他の勉強は大変だった。
ベルはあんな教育を受けるのだろうか。
側室だから受けなくていいのであれば羨ましい。私は元聖女ということでかなり大目に見てもらっている部分はあるだろうけれども。
そんなことを考えてぼんやりしていたのがまずかったのか。
夫の手が急に離れた。
「え?」
思わず漏れたのは小さな小さな声だった。
夫は私から離れてどこかへ足早に向かっている。
エルウィン一行が来たわけではないようだ。
呆然と見送っていると、夫の向かう先にベルがいるのが見えた。
貴族とトラブルを起こしたのか言い合いをしており、夫の姿を認めるとハッとしてお腹を押さえて蹲った。
「まぁ、なんて白々しい」
一緒に踊っていた高位貴族の誰かが側でそう呟いたので、我に返る。
夫はベルのところに向かい、貴族に注意をしてベルを抱き上げて奥へ引っ込んだ。私をフロア中央に一人残して。
このままではいけない。
どうしよう。突っ立ったままでは私は笑いものだ。
でも、どうすれば?
夫はわざわざ私を放置してベルのところへ行った。夫の方がマナー違反も甚だしい。
でも、私も責められる。
子供も産めない、力も失った元聖女。可愛がって世話していた女性にその座を奪われる王妃。
ねぇ、私は責められて笑われることをしたの?
ここまで頑張ってきた結果はこれだ。
自分の立場と夫の立場を守るためにここで何か行動する意味はあるの?
息がうまくできない。
当てつけのように真ん中に突っ立っていようか。あるいは、一人で踊ろうか。
ふと視線を上げて、こちらを心配そうに見ている貴族と笑いを堪えている貴族が見えた。
あぁ、私はもう無理だ。
魔王を倒して、大好きな人達の怪我を癒せなくなって、努力してもこうやって報われずに笑われる。
もう、無理──。
胸の奥で何かが引き絞られる音がした。
「そのまま踊って」
急に温度を感じた。
決して強引ではない力で手を引っ張られ、視界が深い青色に染まる。
「ルナマリア」
懐かしい声に視線をさらに上にやる。片目に眼帯をつけた男性が柔らかく笑っていた。
「……エルウィン」
「間に合って良かった」
襟足の長い金髪をなびかせて、エルウィンは軽くステップを踏む。私もリードされてついていく。
「夜会の開始には間に合っていないけど、連絡を受けていたから大丈夫よ」
「アラナの弟子が力を貸してくれてね。着替えや移動は一瞬だったよ」
アラナの弟子が転移魔法を使ってくれたのだろう。
「久しぶりね」
「あぁ、この国はかなり復興したな。来る途中で見た」
「あなたの国はどう?」
「利権が絡んでなかなか。でも進んでいるよ」
おかしな気分だ。
命を預けて、背中で守られて、血だらけの彼の手を握って治癒した日々は簡単に思い出せる。そんな彼とこんな風に煌びやかな衣装を着て、明るく広い会場でこんな風に踊るなんて思ってもいなかった。
魔王討伐の頃が日常で、今が非日常みたいだ。
「もう一曲踊ろう」
曲の途中で放り出されていたので、すぐに音楽は終わってしまった。
「……それは……いけないわ。あなたは婚約か結婚されているんじゃないの?」
「してない、してない。忙しくってね」
「でも、二曲連続は……」
「さっきは三分の一も踊ってないじゃないか。二曲連続じゃなくて、一と三分の一を一緒に踊るだけだ。それに、国王不在の今、勇者と聖女でこの場を盛り上げているだけだよ」
そうこうしているうちに次の曲が始まってしまい、エルウィンにリードされてまたステップを踏む。
二曲連続で踊っていいのは、婚約者や配偶者とだけだ。
こういうことは良くないと口では言いながらも、私の心は正直だった。怪我を治すために握るのではなく、ダンスのためにつないだ手からは彼の体温をはっきり感じて、心が浮き立った。
彼を見上げると、衣装と同じ深い青色の目が細められる。
「アラナとオーランドも来てるんだって?」
「えぇ、あなたに会いにね」
「それは会わないとな。なぁ、老けてないよな? エルウィンって分かる?」
「分かるわよ、もちろん」
老けてなんかいない。
相変わらず、私にとってはカッコいい。
「お兄様の具合はどう?」
「無事即位したよ。俺は王弟としてびっくりするくらいこき使われてる」
音楽が終わると、好奇の視線が突き刺さった。
先ほどまではエルウィンと二人きりで会話をしている感覚に陥っていたが、ここには国外の招待客も含めてたくさんの人がいるのだ。
「後で話せる?」
「私は明日以降なら。アラナもオーランドも待ってるから」
エルウィンは私を王族席の近くまでエスコートし、私から離れた瞬間、すぐに貴族たちに囲まれた。
彼は元勇者で、隣国の王弟なのだ。彼に娘を紹介したそうな貴族もいる。
先ほどまでは夢のようだったが、これが現実だ。
久しぶりにエルウィンに会って浮ついた心が急速に冷えていく。視界の端で国王が戻ってきたのが見えたが、言葉を交わしたくなかったので私は他国からの来賓たちに積極的に挨拶に行った。
その日は何とか夜会を乗り切り、翌日は来賓をもてなす。
すぐに帰国する人々は見送らなければいけない。
夜になって時間がやっと空いたので、アラナが泊まっている部屋に行こうとしたが、夫に呼び出された。
まさかベルの体調不良を私のせいにするつもりだろうか。
昨夜の真相は分かっている。貴族はベルの赤いドレスを咎めただけだ。それにベルが反応して口論になり、最終的にお腹に手を当てて蹲ったのだ。
「勇者と踊ったようだな」
「はい。陛下がベルのところに行かれたので、ちょうど会場に遅れていらっしゃった勇者様が同情して踊ってくださったのです」
「二曲もか?」
「正確に言えば、一曲と三分の一です」
何がしたいのだろう、この夫は。
怒っているようだが、発端は夫がベルのところにダンス中にもかかわらず向かったからだ。私は夫とのダンスを途中で拒否してエルウィンと踊ったのではない。
「ベルは私の子を生む。大切にするのは当たり前だろう」
「左様でございますね。実は先日、教会で調べてもらいました。私は子供を生めないようです」
先日、児童養護施設の帰りに教会に寄ったのは本当だ。しかし、検査はしていない。
夫がさっき言った理論でいけば、子供を生めない私は大切にしなくていいということになる。
「復興の目途もついてきましたし、ベルも妊娠しました。もう、私は約束を果たしたでしょう。離婚してください」
ダンスの途中で置き去りにされて、私の心は砕けたのだ。
淡々と離婚を切り出したのに、夫は驚いている。
「勇者と再婚など認めないし、離婚はしない」
「私は再婚などと言っておりません。離婚をお願いしたのです。勇者様は隣国の王弟ですよ。私など娶らずともいいご令嬢が多くいらっしゃいます」
「ベルの存在が気に入らないのか? 子供はできなくても、ベルの子を王妃の子として育てればいい」
気に入らないのは夫のどっちつかずの態度だ。
「それでは、出産後のベルはどうされるのですか。自分の子供を取り上げられるなんて可哀想です。あの子は目の前で両親を殺されていますから家族が欲しいはずです」
「では、王妃の子として届け出てベルが養育すればいい」
夫に手を出されてベルは取り乱して泣いていた。でも、徐々に変わっていったのは家族の形を見たせいかもしれない。夫に縋りつけば、切望した家族が手に入る。そう信じたのかもしれない。
やっぱり、私はベルに甘い。そして夫にはもう何も思わない。
この人は何がしたいのだろうか。子供が欲しいのは分かるが、ベルを諫めようともしない。
夫との不毛な会話の後でアラナたちと喋ろうと思っていたが、夫が指示したのか私は自室に軟禁状態にされてしまった。アラナたちには会えず、残っていた他国からの来賓のもてなしはどうなっているのか分からない。
部屋で護衛騎士に張り付かれて開かないようにされた窓の外を眺めながら、現在の状況を考える。
まさか、夫は世間体が悪いから元聖女の私と離婚しないでおくのだろうか。ベルもずっと手元に置いて、ベルにも飽きたら他の側室を入れるかもしれない。私の子供だと届け出て。
そんな風に良いように使われるのは、もう嫌だ。元聖女として良いように使われて、自分の立場も仕事も奪われるのは。
あるいは、これは夫から私への「死ね」というメッセージなのか。
元聖女と離婚すると外聞が悪い。しかし、もう復興の目途は立ったし、平民出身のベルは貴族に受け入れられなくても平民から人気が出るだろう。補佐さえつければベルを王妃にすることもできる。ある意味、平和の象徴だ。私だって教育を受けてなんとかなったのだから、王妃なんて誰にでも務まるのかもしれない。
「王妃様、髪が乱れておいでです」
「どこにも出られないから問題ないわよ」
「そうは参りません。結い直します」
結婚してからずっとついてくれている侍女がそう言うので、仕方なく彼女が手渡してきた手鏡を自分で持つ。
鏡台に移動するのも億劫だった。
『あ、ルナマリア。良かった。聞こえる?』
急に鏡からアラナの声が聞こえた。
手鏡を取り落としそうになって、なんとか持ち直す。
侍女は私の髪の毛を結い直しながらそっと片目を瞑った。彼女がアラナの弟子の魔法で話ができるようにしてくれたらしい。来客にも会えず、手紙類も私の手元には届かないようにされていたのだ。
『聞こえたら鏡に向かって頷くだけでいいわ。こっちは見えてるから』
「今日は午後から雨が降りそうです」
私は頷いた。侍女はわざと私に話しかけながら、アラナの声が騎士たちに聞こえないように誤魔化してくれている。
『閉じ込められてるんでしょ? 王妃は病気だって発表されたけど、あんた病気なんて討伐中一回もかからなかったもんね。嘘だってすぐ分かっちゃった。今夜助けに行くから。一緒に来るなら、動きやすい服に着替えて持ち出す宝石やお金を身に着けて部屋で待ってて』
私が頷くと、手鏡から声は聞こえなくなった。
鏡に向かって頷いたものの、私は迷っていた。
このまま国を見捨てるようにして逃げて良いのか。でも、留まれば使い潰される。
聖女の力が使えるならまだ良かった。外に出て教会で癒しを施す機会があるだろうし、こんな風に軟禁なんて教会が許すはずもなかった。
今の私は、軟禁されてもいい存在なのだ。
侍女の言った通り、午後から雨が降り出した。
護衛騎士がいるので、侍女とアラナについての話をすることもできない。
でも、気づかわしそうな視線はずっと感じていた。
就寝の時間になると、騎士たちもさすがに部屋の中までは張り付かない。扉の前に立っているだけだ。
私はベッドに入り込んだ振りをして騎士たちが出て行くのをやり過ごし、動きやすいドレスに着替える。
最後に侍女が明かりを消して引っ込む前、彼女は私の手を一度だけ強く握った。
うまく笑えたか分からないが、この侍女は私を案じてアラナの計画に乗ってくれているのだ。
部屋に一人になってしばらくして、中央の床にうっすら魔法陣が浮かび上がる。
やってきたのはアラナとエルウィンだった。
「オーランドは?」
「門のところで弟子と一緒に問題起こしてるわ。で、軟禁されてんの?」
「そうなの。離婚を切り出したらこうなってしまって……」
「こんなこと言いたくないけど、あんたの夫おかしいわよ。何がしたいの? 魅了の影響もないし、あの女が薬物使ってる感じもないんだけど」
「……アラナ、調べてくれたの? ありがとう」
とっくに帰国したと思っていたエルウィンは何も言わない。
「でも、ふふ、面白いわね。魅了でも薬物でもないなら、夫は本当にベルが好きなのね」
「ルナマリア……」
アラナが暗い部屋でも唇を噛みしめているのが見える。しかし、アラナはどこまでいってもアラナだった。
「てゆーか、ルナマリアだって悪いよ」
「私が?」
「浮気じゃない」
「私は、浮気なんてしてないわ」
「うそつき。結婚したくせにあれだけ毎晩エルウィンのために祈っておいて。あんなん毎晩聞かされる私たちの身にもなってみなさいよ」
「え?」
「しかもオーランドと私を勝手に応援するんじゃないわよ」
アラナの言う通り、私は毎晩一緒に旅した三人のことを祈っていた。
アラナは素晴らしい魔法使いだから幸せに生きられるように、車いすで調子に乗って走って転ばないように。オーランドは腕をなくしたけれど、彼が生活に困らないように、あとアラナに彼の気持ちが通じますように。そしてエルウィンは──。
頬に熱が集まる。
暗い部屋だからバレていないはずだ。
「あんたが勝手に私とオーランドを応援するから、オーランドがその気になって困ってんの。だったら、私も勝手にあんたとエルウィンを応援する。いい? 魔法使いアラナ様は浮気に厳しいのよ。なのに応援してあげてるんだからね」
アラナに指を突き付けられて、言葉に詰まる。
オーランドがアラナを好きなことはとっくに分かっていた。アラナも多分分かってる。
でも、私の場合は違う。
だって、言えるわけがない。エルウィンは隣国の王子だったし、あの時は兄が倒れて大変そうで、彼を国王に担ぎ上げようとする勢力までいた。そんな人に「好き」なんて自分の気持ちだけを押し付けるようなことを言えなかった。
今の私なんてあの頃よりもっと酷い。王妃としても聖女としても価値がない女なのに。
「ルナマリア」
アラナが扉の外に注意を払い始め、エルウィンが話しかけてくる。
私は思わず一歩後退した。
「あの時は兄のことでいっぱいいっぱいで、君に何も言えなかった」
「い、言わなくていいから」
「結婚したと聞いていたから幸せなんだろうと思ってた。ずっとあの時、気持ちを伝えておけば良かったって後悔した」
どうしよう、私は毎晩エルウィンについて何と祈っていた? あれが聞かれていた?
「ルナマリアのことが好きなんだ。ずっと、魔王討伐の道中から」
「エルウィン、早くして。時間がない」
「散々アラナが時間取ったのに? ごめん、こんな風に告白が巻きで。結婚してルナマリアが幸せならいいと言い聞かせてた。でも、毎晩俺のために祈ってくれているのを聞いて……この間ダンスの途中で一人取り残された君を見た時に──どうしても黙っていられなかったんだ」
部屋に魔法陣が浮いて、アラナの弟子が姿を現した。
弟子はブツブツ何か唱えてさらなる魔法陣が部屋に展開されていく。空中に浮く魔法陣は美しかった。でも、アラナの魔法陣ほどではない。
これは私に都合のいい夢だ。
「もう君を一人にしない。君から何も奪わせないから、俺と行こう。ここにいたら君は使い潰される。俺はそんな君を見たくない」
「……私は、そんなことをしていいの? 皆を治すこともできずに、聖女としても王妃としても中途半端なのに」
「エルウィン」
床に出現した魔法陣の上に乗ったアラナの急かす声がする。
知らなかった。私は自分がこんなに嫌いだったのだ。
本当に好きな人を前にしたら自分の醜さが湧き出てくる。
私は自分が嫌いだから、あれほど必死に子供たちを、ベルを助けようとしていたのだ。少しでも自分を好きになりたくて。でも、全然好きじゃない。
「ルナマリア。中途半端でも何でもいいんだ。今度こそ君に言える。俺と一緒に行こう。俺はもう勇者でも何でもない。ただ、好きな人と一緒に残りの人生を送りたいバカな男なんだ」
自分のことは全然好きじゃない。
でも、エルウィンの側にいれば自分のことも好きになれる気がした。
エルウィンの差し出した手に自身の手を重ねる。
引き寄せられ抱き上げられて、エルウィンはアラナの立つ魔法陣の上に飛び込んだ。
これは転移魔法だ。
景色が変わる瞬間、真っ赤な炎が部屋を包んだように見えた。
「王妃で元聖女のルナマリアの自室が火事になり、あんたは死ぬのよ。ちょうどいいわよね、窓も開けられないようにしてあって逃げ場はなかったのよ。あの侍女がそうやって証言してくれるわ」
「城には魔法防止の細工がされていたはずだけど……」
「このアラナ様の弟子にかかれば簡単よ。あの細工を破るために二週間先に滞在してたの」
「死体とか……は?」
「準備済よ」
私たちは見慣れぬ宿に転移していた。
アラナの弟子たちが取っていた宿らしい。
「さぁて、魔力をだいぶ消費してるけど、これからは転移魔法を駆使しながら国境を越えなきゃね。まずはオーランドと合流してっと」
「国境は俺たちと一緒に越えよう。馬車に潜んでいればいい」
「じゃあ姿をくらます魔法を一瞬だけかけていればいけるわね。うふふ、魔王討伐の道中を思い出すわねぇ。お金ケチるために密入国したでしょ」
「そんなこともあったな」
「あの……アラナもエルウィンも……ありがとう。ここまでしてくれて」
私の言葉に二人は振り返る。
「エルウィンは当たり前よ、ヘタレがしなかった三年越しの告白をしただけ。で、私とオーランドはあんたの祈りに応えただけ。浮気男から私たちの聖女を還してもらったの」
エルウィンが私の手を取る。
「なんだっけ。祈ってくれてたの。正確には言えないけど、俺の目の傷が痛みませんように、誰か癒してくれる人が現れますように、それから──」
慌ててエルウィンの口を手で塞ぐ。
「あ、オーランド。遅かったじゃない」
「爆竹鳴らすのが面白くって」
転移魔法でオーランドも戻ってきて、部屋が少し賑やかになる。
私はエルウィンの口を手で塞いだまま見つめ合っていた。
「どうか、エルウィンが幸せに、悲しむことも傷つくこともなく人生を送れますように。私たちを守ってくれた分だけ、彼に幸せが降り注ぎますように」
私が毎日祈っていた内容だ。そこまで私は口ずさむと、エルウィンから手をどける。
彼は私の両手を取ると、キスを落とした。
「今、それが叶ったよ。俺たちの聖女が還ってきたんだ」
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