第70話 『許婚』なんて聞いてない!
『なんだか怖いよ』
冷や汗が誠の額を伝う。
駅のロータリーを抜け、そのまま商店街裏のわき道に入る。ちらちらと誠はバックミラーを見てみるが、そこでは黙って誠を見つめるかえでの姿が映し出されていた。まるで会話が始まるような雰囲気ではない。しかもかえでも連れの大尉も話をするような素振りも見せない。
沈黙に押し切られるように誠はそのまま住宅街の抜け道に車を走らせた。
豊川北高校の脇を抜けても、産業道路に割り込む道で5分も待たされても、菱川重工豊川の工場の入り口で警備員に止められても、かえでたちは一言もしゃべらずに誠を見つめていた。
「あの、僕は何か失礼なことをしましたか?」
大型トレーラーが戦闘機の翼を搬出する作業を始めて車が止められたとき、誠は恐る恐る振り向いてそうたずねた。
「なぜそう思うのかな?」
逆にそう言うかえでに、誠はただ照れ笑いを浮かべながら正面を向くしかなかった。とりあえず怒っているわけではない、それが確認できただけでも誠にとっては儲けものだった。
バックミラーに映るかえでの瞳はまっすぐに誠を捉えていた。目が合うたびに、心臓がひとつ跳ねる。
『しゃべらない……ていうか、何かの尋問?拷問?』
沈黙のまま十数分。誠の背中に汗がじっとり滲む中、突然……。
「ふふっ」
笑った。かえでが、急に笑い出した。
「……な、何か可笑しいことでも?」
「ごめんごめん。実は母さんから君のことを聞いていてね。君の母さんと僕の母さんは古い知り合いなんだ」
かえでは自分が突然笑い出した理由をそう説明した。
「え、うちの母が?そんな甲武のファーストレディと?」
誠は誠の母、神前薫の交友関係になぜ甲武の宰相婦人がいるのか理解できずに固まっていた。誠の母は東和の首都である東都の下町のどこにでもあるような剣道道場の道場主に過ぎない。それがなぜ甲武貴族の頂点に立つ女性と知り合いなのか?誠の疑問のループは果てしなく続いた。
「母さんも武術をたしなむ口だから。君には自覚は無いかもしれないが君の実家の『神前一刀流道場』は甲武でもちょっと知られた存在なんだよ」
『あの母さんが、そんな……』
心の中にあった『普通の家庭』という認識が崩れはじめていた。
「そうか、君の母さんはそのことを君には秘密にしているんだね。でも、時々君の母さんは長電話をする習慣は無かったかな?」
かえでの指摘で確かに夕食の支度が遅いと思って部屋を出てお勝手に行ったら、薫は誰かと楽しそうに電話をしている姿をたびたび見る事が有ったのは事実だった。
「確かに……時々誰か女の人から電話がかかってきて長く話していました。誰と話していたのかは個人情報なんで聞かなかったんですが……でもうちは普通の高校教師の家庭ですよ。そんな星間電話で長電話ができるほどの財力はうちにはありません」
誇るべきことではないのは分かっていたが、何度か見た誠の家に送られてくる電話料金の請求書に不審な金額は記されていなかった。
「それは僕のお母様が気を利かせて電話代は自分持ちにしていたんだろうね。そのくらいの気遣いは僕の母さんはやってみせるさ」
かえでの説明で甲武一の貴族にとってその程度の出費は大したことではないことは誠にも分かった。
「すまないが案内をしてもらえないだろうか?僕も第二小隊小隊長の任務に早く馴染みたい。それと君を理解したい……良いかな?」
車から降りるとかえではそう言いながら自分で荷物を下ろし始めた。そしてそれが終わると誠も動揺するような美の化身という感じの流し目を誠に向けてきた。
「僕はこの車を戻さないといけないんで」
誠はかえでに関わるとろくなことにならないと自分の本能が告げているのが分かり、そう言ってその場を離れようとした。
「それで、君にはもう1つ伝えておかねばならないことがある」
「……何ですか?」
「僕は、君の『許婚』なんだ」
「……え?」
心のどこかで『またかよ!』という悲鳴が聞こえた。脳内で鐘が鳴った。走馬灯が走った。
「ちょ、ちょっと待ってください!誰がそんな、いつのまに……!」
誠の脳の容量はアンとの再会ですでに限界に達していたが、かえでの言葉で完全にその許容力を突破してしまっていた。
「うちの母と、君の母で決めたそうだ。正直、僕も驚いたよ。でもね……君の母君、『誠は立派な子ですが、女性に全然縁がなくて……』と嘆いていたと聞いている……僕もそう感じた……それじゃあ君には不満かな?」
『……確かに心当たりはあるけど、そんな『縁談ブースト』は聞いてない……というかそんなこと誰が頼んだ?母さん、勝手すぎるよ……』
今日は驚くことばかりだった。誠はここまでくるとすべてがどうでもよく思えてきていた。
「あの……それって先ほどのうちの母さんとかえでさんのお母さんで決めたことですか?」
念を押すように誠はそう言った。
「そうだよ。君のお母さんにとって、君は自慢の息子なんだそうじゃないか。ただ全くモテないのが問題だって君の母さんは思っているらしい。そのことを僕の母の康子も聞いて詳しく君の事を聞いたら君の事を大変気に入っていてね。君にならかえでを預けられると喜んで君の母さんの提案を受け入れたらしい」
かえでは満面の笑みでそう誠に返した。
「僕の母さんが言い出したんですか!聞いてないですよ!そんなこと!」
誠はすでに何度目かの心の死に直面していた。母からはかえでとの『許婚』関係の事は愚か、かえでの存在すら知らされていない。
「そんな僕の知らないところで決められたことなんて無効です!僕は……」
反抗しようとする誠のそばにかえでがたおやかな手を差し伸べて近づいてくる。
「そんなに僕が嫌いかい?今回の『許婚』の件は無かったことにしたいと君は言いたいのかい?少なくとも僕はそれは嫌だな……」
誠の耳元まで顔を近づけてきたかえでは誠の耳元でそうささやいた。
「アンから聞いたけど、君の……その、男性的な特性は非常に……立派だったとか」
かえでは獲物を狙う雌豹のような目で誠を見つめながらそう言った。
「な、なんでそんなことを他人に吹き込まれてるんですかぁっ!」
誠は目を剥いた。羞恥、怒り、恐怖、あらゆる感情が一気に顔に出た。
「冗談だよ。でも、僕はそういう話題も平気で言える性格なんだ。貴族のサロンって、そういう場所だろ?」
『違う、そういうこというのは貴族じゃない、変態だ』
誠の貴族への畏怖の念はすでにかなめにより大半が破壊済みだったが、この一言で完全に崩壊した。この人は危険だ……『性的な意味で』。誠の本能は彼にそう告げていた。
「君が純情なのはお母様からも聞いている。今の話題はちょっと君には刺激が強すぎたようだ。僕達はここで待っているから」
そう言うとかえでたちは正面玄関に降り立った。誠はそのまま車を公用車の車庫に乗り付けた。
「なんだかなあ……でもあんなこと言われたの僕の人生初だな。というかなんで僕の男性器の話になるんだよ。確かに中学生のころよく『でかちん』とか『馬』とか言われていじめられた思い出があるけど……女の人って大きい方が好きなのかな。これが『モテ期』って奴?ただ……なんだかあの人からは危ない雰囲気がするんだよな……ふつう女性がいきなり男性器の話をするか?まあ西園寺さんならしそうか。でもお姉さんの西園寺さんと同じで関わるとろくなことにならない雰囲気があるな。深入りはしないようにしよう」
そう言いながら誠は公用車のキーを箱に戻した。誠は苦笑いを浮かべながらかえでたちのところへと走り出した。
「お待たせしました」
誠はそう言ってかえでたちに作り笑顔を向けた。ただ、誠のかえでへの警戒感はひくつくこめかみを見ても隠すことはできていなかった。
「大した時間では無いよ。ただ、これから君の事を知れるとなると僕も楽しい気分になる」
「そうですか……それは良かった」
引きつった笑みを浮かべながら誠はそう答えた。誠の視界の中で、かえでが持って来た唯一の荷物らしい荷物である旅行鞄を持とうとするリンの姿が目に入り、誠は代わりにそれを持とうとした。
「荷物くらい持ちますよ」
誠はそう言ってかえでの手荷物を持つリンに声をかけた。
「いいですか?」
そう言ってリンから渡された旅行鞄はその体積のわりに重たく感じられた。
「じゃあ、隊長室は二階ですから」
誠はそう言うとそのまま階段を上る。かえでも渡辺も相変わらず黙って誠のあとに続いた。
「ここが更衣室です……」
かえでは特に気にならないというような顔をして黙っている。誠もとりあえず彼女と同じように黙っていようと思いながら廊下を右に折れた。
「ここが茜お姉さまの執務室か」
かえでが口を開いたのは彼女の従姉妹である嵯峨茜警部が常駐している遼州同盟法術犯罪特捜本部の部屋だった。
「挨拶していきますか?」
こわごわ尋ねる誠を気にせずかえでは首を振りそのまま歩き出す。誠はそのまま彼女の前に出て隣のセキュリティーシステムを常備したコンピュータールームを指差すが、かえではまったく関心も無いというようにそのまま嵯峨がいる隊長室の前に立った。
「しかし、君は僕には必要なことしか言わないんだね。自分に対して好意を持っている女性にはもう少し優しい言葉をかけるものだよ」
かえでは少し困ったような表情を浮かべて誠にそう言った。
「そんな……僕は純血の遼州人なんでモテたこと無いんです」
とりあえず誠は自分が遼州人であることが女性の扱いに慣れない理由にしておけばこの場は丸く収まると判断した。
「そうなのか……遼州人の生涯未婚率は80パーセントを超えているからね……なら、これからそれを学べばいい。なんなら、僕が教えてあげても良いんだけど……僕じゃあ不満かい?」
いたずらをした少年のような笑顔でかえでは誠に向けてそう言った。誠はとりあえずこの場をなんとかしようと隊長室のドアをノックした。
「おう、いいぞ」
嵯峨の声を聞くとかえでとリンは当然のようにドアを開けて入った。誠は徒労感と疲労感に苛まれながらこれも嵯峨が狙っていたのかとあの『駄目人間』の悪意にまた騙された自分を責めた。
「それじゃあ、僕は戻りますんで」
部屋にかえでとリンが入ったのを確認すると誠はそう言った。
「おう、ご苦労さん」
嵯峨はそれだけ言って誠を送り出した。その顔にはしてやったりの笑みが浮かんでいた。これは完全にいつもの『駄目人間』の罠だった。そう悟った誠はかえでの魅惑的な視線とリンの刺すような視線を浴びながら隊長室を後にした。




