第60話 血に汚れた秩序の中で
甲武・鏡都……。
この街で『第一鏡都ホテル』といえば、政財界、貴族、軍部といった上層部の人間たちが密かに会合を重ねる、格式と機密性を兼ね備えた、最高級の社交場である。
赤い絨毯が敷かれたラウンジに、一人の男が姿を現す。異様なほど若い顔立ちでありながら、甲武陸軍少将の制服を着たその姿に、場の誰もが視線を向けた。
嵯峨惟基……元・甲武四大公家末席嵯峨公爵家当主、そして現在は『幽鬼』とも噂される男。
彼は朱塗りの軍刀を無言でホテルマンに預けると、静かにラウンジを歩き始める。その視線の先には、英国式の庭園を望む奥の個室があった。
「あれは、内府殿じゃないですか」
「ええ、間違いありませんわ。でもなんでこんなところに……」
甲武陸軍には『特務大佐』という階級が存在しない。そのため、嵯峨は形式上、二階級上の「少将」の制服を着用するように定められていた……実際には、義娘であるかえでに無理やりその制服を着せられ、このラウンジに現れたのだ。彼の腕に巻かれた『憲兵』と赤文字で染め抜かれた白い腕章が、この場にいた誰の背筋も冷たくさせた。
嵯峨はふらふらとしばらくラウンジを散策していたが、次第に彼の視線が英国風庭園の見える個室に集中していることに、この場の誰もが気づいていた。
ホテルマンが嵯峨のあからさまな嫌がらせとも取れる徘徊を注意しようとした時、嵯峨はようやく決意がついたとでも言うようにその目当ての個室に向かった。
嵯峨はノックもせずにその扉を開いた。
中には白髪の欧州系の顔立ちをした紳士が一人で優雅に庭を見ながら遅い朝食を食べているところだった。老人は嵯峨の侵入にあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「いきなりだね。君らしいと言うか……お互いここ甲武に滞在していれば、いつかは来るとは思っていたがね。しかし、このタイミングとは……時間を考え給え。君も譲ったとはいえ甲武四大公家の当主の身に有った人物だ。その地位にあれば当然守るべきルールが有る事をわきまえるべきだな」
紳士、ルドルフ・カーンは笑みを浮かべて、仏頂面を下げて彼を見下ろす嵯峨を迎え入れた。先の大戦で外惑星系の大国ゲルパルト第四帝国を戦争へと指導したアーリア人民党の幹部として戦犯扱いされている彼が当時の同盟国とは言え人目につくホテルにいることに嵯峨はまるで疑問を持たないというよう見えた。そして嵯峨はカーンに向かい合うようにテーブルのそばに進んだ。そして嵯峨は感情を押し殺したような表情で紳士の手前にある椅子に腰掛けた。
「どうだね、前公爵殿。この国の支柱ともいえる四大公家当主の地位を降りた今の心境は?……いや、その顔を見る限りでは、まだ荷は降ろせていないようだ。私との因縁が重くのしかかっているのかな?まあいい、敵として顔を突き合わせるのは嫌いじゃない」
嵯峨は鼻で笑いながら返す。
「買いかぶりすぎですよ、あんたは。俺にとって、あんたは数多いる敵の一人に過ぎない。ただの『ありふれた老人』だ。それ以上でも以下でもありません」
嵯峨は明らかに敵意をむき出しにした口調でカーンに語り掛けた。カーンの言葉を聞くと少しばかり余裕を得たと言うように微笑んだ。
「そうかね、まあ野蛮な遼州人の山猿の大将より重たい位だと私は思うんだがね。この国のプライドだけは高い貴族やサムライ達を束ねると言う仕事は。まあ、東洋人の単純な思考回路で直情径行で動いてくれるので使う方としては便利な存在だよ、彼らは。近藤君も実に私の思惑通り決起し、思惑通り死んでくれた。彼は単純で良かった。シンプルな人間は信頼に値する。それは1つの美徳だというのを彼は示してくれた。彼の冥福を一緒に祈ろうじゃないか」
そのあからさまに挑発的なカーンの言葉に、嵯峨は逆に笑顔のようなものを浮かべた。ゲルパルト帝国内で行われた大量虐殺の理論的根拠を作り上げた精緻な頭脳は嵯峨と言う遼州人の位を極めた男を興味深げに見つめていた。そしてカーンは笑顔を浮かべながら嵯峨を見つめて言葉を続けた。
「君の理想と私の理想は、根本から違う。君が求める秩序は『相互理解の上の抑制』だろうが、私の秩序は『排除によって得られる静謐』だ。……わかり合うつもりもない。だが理解はできる。君のような『失敗作』を、私は幾人も見てきた」
『ゲルパルト第四帝国』の徹底した『民族浄化』を指導してきたカーンらしい言葉に嵯峨は苦笑いを浮かべた。
「失敗作で結構。少なくとも俺は、あんたの『すべてを排除した上で得られる美しい秩序』より、人の醜さを抱えて生き延びる世界の方が好きだ」
お互いに同じ陣営の『戦友』として戦った二人の心の距離はあまりに根本的に遠かった。
「それにしても、この庭。貴方の趣味には合わないんじゃないですかな?ゲルパルト流にもっと殺伐としたドイツ風の庭の方があんたにはお似合いだ。アンタは美を理解してない。いや、アンタにふさわしい美は非アーリア人を送り込んだガス室の中にある。アンタも一緒に中に入ってくれれば俺も楽が出来たのに」
相変わらず嵯峨の口調には敵意に満ちた棘があった。
「嵯峨君、皮肉のつもりかね?美しいものは美しい。それは君からすれば『ファシスト』にしか見えない私から見ても同じように美しく見える。それだけの話だ」
嵯峨の敵意と軽蔑に満ちた皮肉をカーンは軽く受け流す。そこにはさすがに人生の経験が生かされていた。
「ここの朝食。旨いんですか?俺は月3万円の小遣いで暮らしているもので、こういった高級な場所には、とんと縁がないものですから。まあ、元々俺の育った西園寺家は質素を旨にしていましてね。高級料理は口に合わないから多分食べても大した感想は言えそうにはありませんが」
自虐的な嵯峨の独白にカーンは笑みで答える。
「君は質素を旨とする我々の思想を体現しているんだね。実に見習いたいね。それは1つの美徳と言えるよ。私にはちょっと真似できない一種の『超能力』だ。君の不老不死の身体と同じようにね。うらやましい限りだよ」
カーンは嵯峨が受けてきた虐待に同情するどころか、それを賛美するように言った。
老紳士の前にある嵯峨の表情は彼を知る人ならば見たくはない表情だった。それは敵意を示す前に嵯峨が見せる警告のような意味を持つ表情だと知られていたからだった。口元が引きつり、瞬きもせずに上目がちに相手を見上げる。それを知らない人でもこんな悪意に満ちた表情を向けられればひるむに違いない。
「地球至上主義のスポンジ頭には理解できないかも知れませんがね……いや、地球至上主義なんぞではなく白人至上主義者でしたかあんたは。あんたの国とこの国が同盟を組んで戦争をするなんて……前の戦争で割を食った俺から言わせると狂気の沙汰だ。利害を同じくするとはいえ、あんたを戦友と呼ばなくちゃならない事実には我ながらほとほと呆れ果てますよ」
そう言った嵯峨の言葉に合わせるかのようにドアがノックされた。
「入りたまえ」
静かなカーンの言葉に白いジャケットのウェイターが現れる。嵯峨は首を振る。
「彼は客とは呼べない存在でね。悪いね、無駄足を踏ませてしまって」
ウェイターが言葉を発するまもなくカーンは彼を追い返した。
「でもまあ、あんたのスポンジ頭のスカスカな情報網には今回は感謝しているんですよ。あんたから盗んだ情報は今回の作戦で色々役に立った。おかげであんたの好きな『遼州の秩序』と言う奴は守られたわけだ……いや、あんたの理想とする『秩序』じゃなく、俺の理想とする『秩序』の方を守ったんだからあんたは負けたのかな?」
そう言うと嵯峨は挑発するようにカーンの前で足を組んで反り返り口元を緩めた。そのような嵯峨を見ながらカーンは表情も変えずにコーヒーを飲み干した。
「なに、常に大局を見据えながら行動するならば今回は手を引いた方が利口だと踏んだだけだよ。勝ち負けは別の場所でつけよう。野蛮人の似非公爵殿」
お互いに相手を罵倒する言葉を吐きあう二人。嵯峨の視線もカーンの視線もお互いを憎みあうものの瞳の光を帯びていた。
絶対に和解できない不倶戴天の敵。お互いにそう思っているとカーンは考えていたが、目の前の大柄な遼州の野蛮人の血を引く男がそうは思っていないと感じて顔をしかめた。
「感謝しているなら態度で示すべきだとは思わないかね?似非公爵殿。私の情報網から盗んだ知識をどう生かそうが君の勝手だが、盗みは犯罪だよ。君の盗みには起訴する裁判所が存在しない以上、私は君を責めるつもりは無いがせめて礼の1つも欲しいものだね」
カーンはベーコンをナイフで切りながらそう言って笑った。
「礼ですか?じゃあ、ありがとうございます……と言えとでも?それは御免ですね。あんたも俺も礼を言われるほど立派な人間じゃい。そもそも前の戦争であんたと俺がした行動はとても人間にできるような生易しい非道じゃ無かった。完全に人の道を踏み外している人間同士、礼を言いあう権利などないんじゃないですか?」
そう言うと嵯峨はポケットからタバコを取り出そうとして止めた。さすがに彼も非喫煙者であるカーンの前でタバコを吸うほどにはカーンを嫌ってはいなかった。
お互い戦争犯罪人同士。あの戦争が終わった時の立場は二人とも同じようなものだった。ただ、カーンは逃げ延び。嵯峨は捕らえられて人体実験に供された。それだけが二人の違いと言えた。
「君に盗まれた情報には、確かに価値があった。だが、君は『それを使って自分の理想とする秩序を守った』と自惚れているようだね。秩序とは誰のためにある?私は秩序の守護者を自認する男だ。秩序は異種の排除によってのみ守られる……違うかね?」
カーンが問いかける。嵯峨はカーンの余裕のある問いに笑いを返した。
「少なくとも、あんたの『秩序』には、俺の娘の居場所なんてなかった。例え半分アーリア人の血を引いていたとしてもアンタの『民族は純粋でなければならない』というエゴによって俺の娘は行き場を失い今は東和で暮らしてるよ。東和共和国は遼州人の国だ。遼州人の辞書に『差別』や『区別』と言う言葉は存在しないんでね。まあ、その二つの言葉を愛してやまない元地球人のアンタには理解できない話でしょうがね。それにそんな純化によって得られる秩序?そんなものに俺は興味ないね。むしろ、もっと殺伐とした場所で、あんたと決着をつけたいとすら思っている。それが……今の俺の仕事だ。『武装警察』ってやつのな」
嵯峨の声音には微塵の迷いもなかった。かつて罪を背負い、今なお血の秩序の中を歩く者として、彼は自らの道を静かに宣言した。




