第50話 『不死人』の稽古は地獄から始まる
「ブゴッ……!」
胸骨が鈍く砕ける音とともに、嵯峨惟基の体が白壁の土蔵に叩きつけられた。
木製の薙刀で胸部を払われ、あばらが肺を突き刺した。砕けた頭蓋、潰れた肺。血が、赤黒く土間を濡らす。
「義父上!」
縁側から悲鳴のような声を上げて駆け寄ったのは、日野かえでだった。
だがその腕が彼に届く前に、かすれた声が先に彼女を止めた。
「来るんじゃないよ……ここからが、稽古の本番だ……」
木刀を杖代わりに、嵯峨は膝をつきながら立ち上がろうとする。
数10回目の敗北……だが、それでも一太刀、いや、触れるだけでも届かせたい。
それが『甲武の鬼姫』こと西園寺康子に挑む嵯峨の唯一の希望だった。
「無理ですよ!そんな!いくら義父上が不死人でもその状態では回復が追いつきません!その状態、普通の人間なら死んでますよ!」
悲鳴にも近い義娘の言葉に口元だけで笑いを返そうとするが、喉の奥から吐き出される大量の血にむせるとそのまま膝から崩れ落ちた。嵯峨の意識が一時途切れたことをもって今回の稽古は嵯峨の負けに決まった。
今日もまた剣の稽古は一方的な結果に終わった。薙刀の女性は留め袖の襟を正しつつ嵯峨を見据えていた。
「ここまでね。残念とかは思ってないわよね。当然の結果、まだまだ新ちゃんは未熟ってこと。せいぜい精進しなさいな……そんな事じゃ司法局実働部隊なんて遼州同盟の中枢を担う組織の長なんて任せられないわね」
紫の小紋の留袖にたすきがけしている女性、西園寺康子は静かに薙刀を下ろした。
かつての遼帝国の栄光時代を築いた外戚カグラーヌバ・カバラの三女であり、嵯峨の実の母の妹、つまり嵯峨惟基にとっては叔母に当たる人物である。西園寺家に嫁いだ当時は秘匿されていたが、遼州系の移民の中でも稀有なほどの法術の適性を見せ、8年前に起きた貴族主義者の大規模クーデター『官派の乱』においては首都制圧を狙った陸軍のシュツルム・パンツァー一個中隊を薙刀一本で壊滅させたことから、人をして『甲武の鬼姫』と呼ばれることもあった。法術が公然の事実として語られることになった『近藤事件』以降は法術の使い手としても知られるようになっていた。
力の使い方、剣の使い方をすべて彼女に学んだ嵯峨にとっては、彼女は天敵と言えるような存在だった。嵯峨の見立てではおそらくあの『人類最強』を自称するクバルカ・ラン中佐でも康子相手には苦労するほどの強さを持っていた。
血まみれの義父を抱きかかえていたかえでが自分の体が黒い霧に覆われていくのを感じて思わず抱えている義父を突き飛ばしていた。それが不死人が致命傷を負ったときに起きる再生を行う特有の『瘴気』だと言うことは何度も同じ場面を見ているかえででさえも恐ろしい光景に見えた。
「なんだよ……縁側まで連れて行ってくれるんじゃないのか?いきなり放り出すなんてひどいじゃないか……まあ、俺自身この状態になってる自分を想像するとね。怖がるのも無理は無いか。普通じゃ有り得ない光景だもんね……こればっかりは俺もどうしようもないんだな」
言葉を話すことすら辛いと言うように体勢を立て直そうとする義父からその不気味な霧、『瘴気』は発生していた。折れ込んだあばらが次第に元の姿に戻り、額や右肩から流れている血も次第に止まっていった。
「今日も凹殴りか……お互い不死人同士、せめて義姉さんにも自分の身体からこの煙が上がるところを見てほしいんだが……今日は無理でもそのうちいつか同じ目に遭わせてあげますよ、義姉さん」
嵯峨は悔し紛れにそう言うとかえでに手を取られて縁側に腰かけた。
「そうなるには何千年かかるかしら。その日が一日でも早く来るのを待ってるわね。でも、ちょうど東和に暮らしているんじゃないの。良い師匠が二人も身近にいるのになんでそんなに成長が遅いのかしら。むしろそちらの方が心配だわ……サボってるのね」
息も切らしていない康子の言葉に嵯峨は痛みに耐えながら苦笑いを浮かべた。
「二人とも戦うことが嫌いなんですよ。義姉さんとは違う……あなたは戦う人だ、ランは軍人だが戦うことは大嫌いだ。『不殺不傷』を座右の銘にしているくらいだからね。もう一人は……こちらはあくまでも民間人。剣を子供に教えることはあっても本式の剣術なんてする気は端からありませんよ。それに二人の前で俺のこんな様を俺の部下達に見せつけたりしたら俺の隊長としての沽券に関わる。俺自身はプライドゼロの男だけれども、俺も一応一部隊の責任者として連中の面倒を見る義務が有るんですよ。だから連中の前で無様な負け方をして士気を下げるような真似は出来ない。政治が好きな義姉さんならそれくらいの事は分かると思うんだけどな」
次第に治っていく傷跡を見ながら、嵯峨は負け惜しみのようにそう言って苦笑いを浮かべた。
「民間人と言うことなら私もそうなんですけど……」
康子はふざけた調子でそう言った。
「『甲武の鬼姫』がどの口でそんなこと言うんですか。そんな理屈義姉さんには通用しませんよ。政治を闇で操る『闇宰相』と陰口を叩かれている人がね」
嵯峨は治り行く自分の身体を見ながら皮肉めかして康子に向けてそう言った。
「義父上?そんなにしゃべってもうよろしいのですか?」
何度見ても傷跡が見る間に治っていく嵯峨の身体の不思議な有様にかえでは慣れることが出来なかった。自身は法術師であるが、かえでは『不老不死』ではない。怪我もすれば老いもする。いずれ、目の前の二人の不死人より先にこの世を去ることになるだろう。その事実がかえでに嵯峨の回復能力を恐れさせている原因の1つだと彼女は思っていた。
「やっぱ久しく本気で剣を振っていなかったのがいけないんですかね、義姉さん。さっき言った二人の師匠がいくら言っても稽古をつけてくれないものだからこのざまですよ。しばらくはここに逗留して鍛え直してもらいましょうか?」
嵯峨としてはせめてランにだけでも稽古はつけてもらいたかったが、『不殺不傷』を座右の銘としているランは嵯峨との稽古を頑なに断っていた。
「まあ、それも良いですけど。新ちゃんにもお仕事があるでしょう?一応、社会人なんだから仕事をサボっちゃだめよ。どうしてもと言うのなら私としてはいつでも稽古をつけてあげるつもりだけど。それに茜さんからは新ちゃんはそう言うことを言って遊郭のある甲武に長居して遊郭に遊びに行く手はずを整えるはずだから気を付けてって言われてるのよ。本当に娘に信用されてないのね、新ちゃんは」
縁側に腰掛けて先ほどかえでが運んできた玉露をすする康子はそう言ってうなずいた。嵯峨は咳き込んで肺にたまっていた血をすべて吐き出すと何事も無かったかのように立ち上がった。
「茜の奴、余計なことを言いやがって……義姉さんなら、肝心な時はケチな義兄貴と違って、小遣いくらいくれると踏んでたのに」
嵯峨は小声でそうささやいて悔しがった。
「いつもの事ながら……義父上の回復力の早さは不死人の中でもトップクラスですね。もうほとんど傷が治ってる」
かえでは義父である嵯峨がすでに戦える状態まで回復しているのを見てそう言った。法術師の中のごく一部に見られる強力な自己再生能力の発現。その能力を義父が持っていることは物心ついたころに何度か冗談で手に穴を開けてはその直る様を見せると言う少し考えてみれば異常ともいえる義父の芸を見て笑っていた時代から分かっていた。
「私も丁度いい稽古相手が居なくて腕が鈍るんじゃないかと心配で……新ちゃんと稽古するのは久しぶりだから張り切っちゃったわ」
実母である康子の無邪気な言葉にかえでは肩をなでおろした。かえでが二人の勝負を見ていたときは思わず運んできた玉露を落しかねないものだった。
義父の剣術の腕、そして時間軸をずらして得られる、人間の限界を超えた動きですら康子の前には子供の遊びとでも言うべきものでしかなかった。一方的に薙刀の攻撃が嵯峨の急所を狙い放たれる。なんとかそれをかわそうと木刀を繰り出す嵯峨だが、着実にその一太刀一太刀ですぐには回復不能なダメージを受けた。
かえでから見てもその戦いはあまりに一方的すぎた。
そして今、立ち上がってかえでの運んできた湯飲みに手を伸ばす嵯峨だが、その稽古着は朝下ろしたばかりだというのにすでにぼろ雑巾のようになっていた。
「それにしても新ちゃんの回復力は早いわよねえ。私の回復力はもう少し遅いのよ。新ちゃんはアメリカ軍に捕まっていた時、人体実験で何かいじられたのかしら。兵隊さんらしくすぐに戦場に復帰させるために回復力を高める何かの実験とか」
嵯峨のことをいつも母が『新ちゃん』と呼ぶのは嵯峨が故国を追われ、西園寺家に引き取られた時に名乗った『西園寺新三郎』と言う幼名によるものだとは知っていたが、かえではこの抜け目のない策士でもある義父を『新ちゃん』と呼ぶ母の態度にいま1つなじめなかった。ただ、かえでも逆らえない『甲武最強の存在』である母ならば、『悪内府』の異名で恐れられている嵯峨ですら太刀打ちできないことはかえでも分かっていた。
「まあそれも有るんじゃないですか?俺が遼帝国で生まれてすぐに力を封じられていた時もこの力だけは何とか使えましたからね。こうしてアメリカさんに実験動物にされて『壊れた法術師』になった今でも回復能力だけはあの時より早いくらいだ。ただ、回復力は意識に依存するもんで不安定なのが玉に瑕ですが」
そう言いながら照れ笑いを浮かべると嵯峨はかえでが差し出した湯飲みの玉露を飲み干した。




