第47話 『悪内府』と手桶の贈り物
立ち上がった嵯峨が運んできたのは、蓋のない木製の大ぶりな手桶だった。中には丁寧に打たれた生そばが、これでもかと盛られている。
つい先ほどまで『悪内府』と呼ばれる冷徹な策士の気配を漂わせていた男が、今はどこか人懐っこい笑みを浮かべていた。部下の前で見せる『駄目人間』のそれだ。
「響子さん。実はね、遼帝国から『いいそば粉』が手に入ったんですよ。で、昨日の夜にちょっと気が向いて打ってみた。俺なりの『気遣い』ってやつです」
まるで親戚の親父が気軽に持ってきたかのような調子で、嵯峨は笑った。
「だって、この会合を開こうって言い出したのは俺だし。空腹で議論しても、ろくな結論は出ませんからねぇ。……まあ、小遣い月3万の俺は、賞味期限切れのカップ麺が友達ですけど。皆さんもそうなれば、『敵から恐れられる策士』になれるかもしれませんよ?」
場の空気が凍ったまま誰も声を出せないなか、嵯峨はひとり朗らかに言葉を重ねる。
そんな『場違い』な言葉を受けて、ただ一人残っていた響子は呆然と彼を見つめた。
『まさか、このタイミングでそれを言うとは……』
緊張の糸が切れそうになるのを自覚しながら、彼女は視線を落とし、裾を静かに整える。
「……ええ。ですが、この方々のお気持ちもお察しください」
響子は、周囲に並ぶ西園寺派の武官たちへと目を向けた。
「先ほども申し上げましたが、皆様は内府殿の行く末を本気で案じておられます。少しは、その意を酌んで差し上げても……よろしいのでは?」
やや抑えた声で、そう促した。
「それに今は、まだ食事の時間ではありません。内府殿の作戦についても、詳細を……まだ伺っておりませんし」
地味な紫の小紋を纏った響子は、どこか困ったように眉をひそめた。
……あまりに突拍子のない行動をする嵯峨。その真意を測りかねながらも、彼の臣下の立場を代弁するように努めたのだった。
だが当の嵯峨は、響子の言葉などどこ吹く風といった様子で、下女が手桶を受け取るのを満足げに眺めている。
「まあまあ、これくらいの人数なら、ざるそばを肴に酒を飲むぐらいの量はありますよ」
嵯峨はくいっと醍醐に視線を向けた。
「醍醐さんもどうです? 腹が満ちれば、その怒った顔も緩むでしょう。醍醐さんにはこれからも甲武陸軍の要として長生きしてもらわないと困りますよ。これからは嵯峨家の柱石として俺の義娘となったかえでを支えてもらう役目があるんだから。嵯峨家……いや、日野家の繁栄、あなたにかかってますよ? いずれは、響子様を脅かす存在になってもらわないと」
あからさまに皮肉を込めた口調だ。
隣に座っていた醍醐文隆は、そんな元主君を横目に睨みつけた。
「……なにをのんきなことを!」
醍醐はついに怒りを抑えきれず、立ち上がった。
「この顔は生まれつきですし、そもそもそんな状況を作ったのは、内府殿……あなたでしょう!」
怒気を孕んだ言葉が醍醐の口からあふれ出さずにはおれなかった。
「おっと、それは失礼」
相変わらず真意の読めない笑みを浮かべた嵯峨が醍醐を見つめていた。
「……失礼します。私は陸軍省へ戻ります。アメリカ軍の動きは気が抜けません。赤松中将を、犬死にさせるわけにはいかんのです!」
醍醐の声はわずかに上ずっていた。それに気づいた彼自身が、周囲の目線を意識して俯く。
だが、被官たちは皆ただ黙って座っていた。嵯峨の唐突な行動に困惑していたのだ。
それを見た嵯峨は、肩をすくめて言った。
「まあまあ。高倉さんあたりには伝えておいてくださいよ。『あんたなりにがんばったね』って。それに忠さんなら、陸軍の手なんて借りずとも、米軍の二流の派遣艦隊程度が相手ならそれこそ伝説になるような働きを見せてくれるでしょう。20年前の地球との戦いで『播磨守の女将軍』と呼ばれて恐れられた赤松虎満元帥の秘蔵っ子ですもん。俺がアイツと同期だった高等予科学校でもその勇敢さから『虎の子は虎』って呼ばれてましたからね」
冗談のように言いながら、嵯峨は制服の袖をまくり、軽やかな足取りで廊下へと消えていった。
その背中を見送って、醍醐は我に返るように通信端末を開いた。
「……私だ。高倉大佐の身辺を固めろ。あの男は……責任感が強すぎる。腹を切る可能性がある!それと、監視していた米軍の艦船。今すぐ動向を報告させろ。奴らは……我々に牙をむく気だ!連中はもはや協力者なんかじゃ無いんだ!」
嵯峨が去った広間に、静寂が戻る。
やがて、前田恒厚准将がぽつりと呟いた。
「……まったく奇妙なものですな。我々『民派』と、九条家の大公閣下がこうして取り残されるとは」
響子はその言葉にふっと笑う。
「ええ。ですが、もしかしたら……これも『内府殿』の『配慮』かもしれませんね」
彼女の声はやわらかかったが、そこには少しの自嘲もにじんでいた。
「醍醐さんにとっては、逃げる理由ができて、かえって助かったのかもしれませんけれど」
響子の言葉に、前田は思わず笑った。
「いやはや、まさか響子様とこうして話すことになるとは。……さすが『悪内府』、やることが違う。状況を作ったのは、あのお方の仕業ですな」
前田は、響子の正面に腰を下ろす。
彼女は笑顔を浮かべ、周囲を見渡した。
「私……本当に先代、頼家公の威光にばかり頼って生きてきました。でも、こうして皆さまに囲まれて……ようやく分かりました。私は、一人では何もできない『左大臣』なんだって」
その言葉に、前田の目にかすかな尊敬の光が宿る。
『嵯峨大公。やはり、あの方……底が知れない。『悪内府』、名は体を表すな』
前田は静かに頷いた。
「では、せっかくの内府殿の心づくし。蕎麦が茹で上がるまでの間に、少し話でも」
「響子様、そういえば……娘が、修学院女子においては貴女の後輩にあたります。今では『藤太姫の再来』などと呼ばれておりましてね……高等部には行かせずそのまま『藤太姫』のように軍人にするために高等予科に進ませるつもりです。娘も軍人の娘……あの暴れようはそれを望んでの事でしょう」
前田の言葉に、響子が微笑んだ。
「まあ、それは大変ですね。かなめさんと同じとは……私もかなめさんに会って変わりました。爵位すら持たない貧乏公家の孤児だった私を支えてくれたのはかなめさんです。でもまあ、あの人奔放すぎて……私でもどうすることもできなくて……学院長の胃が心配です」
そばが茹で上がる湯気が立ちこめる中、九条家の広間には、束の間の安らぎが訪れていた。




