第41話 ちゃぶ台の向こうに立つ影
ちゃぶ台の中央から、すき焼き鍋の湯気がゆらりと立ち上る。
年季の入った電熱器の赤く焼けたコイルが、簡素な鍋と皿、それに向かい合う男たちの顔を、赤みがかった光で淡く照らしていた。
「いい具合に煮えてきたな。肉は遠慮するなよ。今日はひと仕事終えた後なんだからな」
西園寺義基がそういうと、嵯峨惟基は無言で、硬そうな人造肉の切れ端を鍋に投げ入れた。
酒も肉も底の見えた安物だが、『平民の暮らしを忘れるな』という西園寺家の家訓の前では、これでも十分すぎる贅沢だった。
「ところで……康子姉さんは?」
皮肉とも、照れ隠しともとれる笑みを口元に浮かべながら、嵯峨は鍋を見つめたままそう尋ねた。質素を旨とする西園寺家のすき焼きの割り下には、純米酒でも最低品質の酒が使われるのが慣わしだった。嵯峨も、兄である西園寺基義もそのまま割り下に使った残りの燗酒を使って手酌で飲み始めた。
「それなりに食って英気を養おうってもんだ。お前が四大公家末席を降りて『自由』になったことで、動き出した連中がいる。九条響子の周囲にもな……。まあ、しばらくはおとなしくしてくれ、頼む。特に九条の嬢ちゃんの警護。お前の差配で何とかしてくれ。憲法改正にあれだけあっさりと同意してくれた以上、『官派』の自称『志士』連中が黙っているとは思えない。そこは……司法局の公安機動隊の出番になるだろうな」
義基の声が、酒の湯気よりも熱く、鋭く響いた。
西園寺義基のその言葉を聞くと、嵯峨は殿上貴族が食べるものとは思えない筋張った安物の肉をぐらぐらとゆだる鍋に放り込んでいった。
『殿上会』に初めて顔を出した嵯峨はそこで浴びた冷ややかな視線を思い出して皮肉めいた笑みを浮かべながら、鍋を暖める電熱器の出力を上げた。年代モノの電熱器のコイルの赤く熱せられた光がちゃぶ台を赤く染めた。
「義兄さん、安心してください。九条のお姫様の件はすでに手を打ってありますよ。ああ、そう言えば康子姉さんはどうしたんすか?こっちには相変わらず顔を出さないんですか?俺に来いと言っておいて留守にするとは義姉さんも勝手だな」
嵯峨の言葉に西園寺義基にんまりと笑う。西園寺義基と妻の康子は同じ西園寺御所と呼ばれるこの広大な敷地の土地には暮らしてはいた。しかし、庶民的な古風な木造の二階家と言う雰囲気の西園寺義基の暮らすぼろ屋とは別に、貴族達の応接も可能なそれなりの豪華な屋敷で康子は多くの召使とともに暮らしていた。
別に夫婦仲が悪いと言う訳ではないのだが、庶民気質で贅沢が嫌いな西園寺義基と康子は表向きは物静かな元貴族夫人、裏では『官派』の諜報網にすら顔を出す女狐……義基との生活は自然と別居になった。
「ああ、今日は出かけてる。なんでもかえでの家督相続の披露のことで相談があるとか言ってたな。かえでや赤松夫妻なんかと一緒だそうだ。残念だったな。立派な『お師匠様』にその成果を見せることが出来なくて」
そういうと西園寺は煮えた肉を卵の溶かれた取り皿に移していった。
……この国は嫌いだ。
だが、この義兄貴と過ごす時間だけは、少しだけ懐かしくて、心地いい。
そう思ってしまう自分に、苛立ちすら感じる。そんな自分に嵯峨は複雑な表情をして肉を頬張った。
「面倒くさいねえ。家督相続にあんな手間がかかるとは思いもしなかったよ。俺の時は開戦直前だからってことでまったくなんにも無かったのに。義父が『明日から嵯峨惟基と名乗れ』の一言で終了だ。全く平和ってのも考えものだね。面倒くさいったらありゃしない」
嵯峨は皮肉めいた笑みを浮かべて義兄である西園寺義基を見つめた。その右手にはいつも通りタバコが有り、その隣には安物の灰皿が転がっていた。
「そりゃあ、お前さんの家督相続の時は開戦直前だったからな。しかもうちは売国奴扱いされた家だ。派手な披露なんてできる状態じゃなかったろ?それに理由は……いや、このことは言わねえ方がいいか……まあ、親父は前関白太政大臣であり、太閤殿下だったからな。この国では関白太政大臣や太閤の言うことがすべてだ。そして関白を引退した太閤殿下の御意がその国の命運を左右する。その太政大臣が決めたことに文句を言う貴族なんてこの国には居ないよ。だからかなめにはもう少し大人になってもらいたいと思ってお前のところに預けてるんだ。どうだ?少しはマシになったか?」
「あれにマシになる見込みがあると思うか?義兄さん」
嵯峨の言葉1つで、西園寺義基はすべてを理解してがっくりとうなだれた。
かなめの話題に飽きて顔を挙げた西園寺の顔は笑っていなかった。反戦政治家の最後の抵抗が嵯峨家の相続と言うあまり格好のいい話では無かったことは二人とも十分承知していた。
そしてその結果が父と嵯峨の妻、エリーゼの死とかなめの義体化という結果を招いたことは事実だったので黙り込むしかなかった。
「それにしても今日はお前さんに居てもらって助かったよ。『官派』の武家の連中が俺が出て行った途端に斬りかかってくると思ったが……静かなもんだった。あれだけ枢密院じゃ俺の事をぼこぼこに殴ってきたのに隣にお前さんが居ると言うだけであの様だ。法術師相手に喧嘩を売るほど連中も馬鹿じゃ無かった。そういうことか」
西園寺はそういうと春菊を手にした卵を溶いた椀に移す。
「俺もあそこまで法術師が恐れられてるとは思わなかったね。これじゃあアメリカさんが俺を生体解剖してでも法術師の秘密を知りたかった理由が分かるってもんだ。でも、義兄さん。少しは感謝して……金貸してくんねえかな。せっかく甲武に来たんだ。久しぶりに遊郭で遊びたいと思うんだが……」
いつもの『駄目人間』の表情が嵯峨の顔には浮かんでいた。
「駄目だ駄目だ!茜には強く言われている。『お父様が遊郭に近づく金を手に入れないよう監視してください』とな。お前さんの行動なんぞ娘にはすべてお見通しだ。まったく、貴様は男には強いが女には全く勝てないんだな」
笑顔で西園寺は嵯峨に向けて茜の嵯峨にとっての死刑宣告に近い言葉を伝えた。がっくりとうなだれる嵯峨だが、すぐに顔を上げてその表情を笑顔に変えた。
「そういう義兄さんも義姉さんには頭が上がらないじゃないですか。すべてを意のままにされて……義姉さんが『官派』の連中と会ってるのは昔の諜報部の仲間から聞いてるんですよ。『官派』の連中も義姉さんを使って何がしたいんやら……まあ予想では逆に利用されてお終いってのが俺の読みですがね」
嵯峨に痛いところを突かれて義基は渋い表情を浮かべた。
「俺と康子はオシドリ夫婦って呼ばれてるんだよ。喧嘩をしたことはこれまでだって一度も無い。あれにはあれの考えが有るんだ。まあ、『官派』の連中も大変な『鬼女』と会ってたって後で後悔することになるだろうな。自業自得さ」
妻を信用しきっている義基はそう言って今度は鍋の白滝を椀に移した。
「しかし……いつまでも貴様に独身でいられると俺や茜の身が持たない。なんとかならんのか……と言っても無理か。貴様はエリーゼさんにぞっこんだったからな。忘れられねえんだろ?彼女の事を」
嵯峨の部隊での『駄目人間』ぶりを娘のかなめから聞いている義基は、安酒を煽る嵯峨に向って真面目な顔をしてそう言った。
「まあ、あの『悪女』に引っかかったのが俺の運の尽きですよ。それもようやく思い出になるかもしれない……と思いたいですね」
嵯峨はコップを畳の上に置かれた盆に置くと、再びタバコに火をつけた。
「おう、思い出か?そりゃあ良い事だ。それでどうなんだ?公安機動隊の隊長の安城少佐との関係は……」
西園寺義基の顔が微笑みに満たされる。その娘、かなめとよく似たタレ目を見つめると、つい嵯峨は本気の笑いに飲み込まれていった。
「よしてくださいよ。彼女とはただの同僚です。いや、俺としては同僚以上の関係になりたいが向こうにその気は……俺は遼州人なんでモテないんで」
そういうと嵯峨は静かにタバコをふかした。
「何を言うか。エリーゼさんはきっちり落としたじゃないか。まあ、彼女は同時に五人の男と付き合っていてたまたま子が出来たのがお前さんだったと言うのが本当のところだが」
皮肉を込めた調子で西園寺義基は下卑た笑いを浮かべた。
「よしてください!その話!俺が馬鹿みたいじゃないですか!俺だっていきなりDNA鑑定書を突き付けられて『あなたの子供が出来たの。結婚して!』なんて言われたんですよ。普通プロポーズってのは男からするもんでしょ?それをまあ……恥ずかしいやらなんと言ったらいいやら」
いつもならからかう立場の自分がからかわれている事実に当惑して嵯峨は苦笑いを浮かべた。
「それよりこっちの春菊。苦くなる前に取っとけ」
そう言って西園寺義基は春菊を取る。嵯峨もそれに合わせるように春菊と白滝を取り皿に移し変える。弟のその手つきを見ながら西園寺義基はちゃぶ台に取り皿と箸を置くとゆっくりと話し始めた。
「まあ、お前さんも日々明るくなってきている。ここまで来るのに二十年だ。でもなあ、俺の苦労もわかってくれよな。今回のお前のわがままを通すのにどれだけ俺が苦労したか。嵯峨家を辞めて本格的にこの国と縁を切りたいだなんて……そんなにこの国が嫌いか?」
西園寺義基の言葉に嵯峨は思わず目をそらしていた。
「そうか、嫌いか。仕方ないか」
その嵯峨の嫌いな国の宰相を務める西園寺義基はため息をつきながら肉を頬ぼった。
「それにだ、四大公の籍を抜くってことの意味はわかってるだろ?議会やら野党やらがお前さんが今後どうするかってことでいらん憶測が流れて困ってるんだ。自分のケツくらい自分で拭けよ。俺は知らんぞ」
実際『殿上会』では嵯峨の法術を恐れて刀を抜く者は居なかったが、庶民院と枢密院は嵯峨の四大公家をかえでに譲ると言う件に関して相当に揉めたのは事実だった。
初めは『悪内府』と呼ばれて甲武を離れても睨みを利かせている嵯峨が力を失うのではないかとの憶測から『民派』の貴族達が次々に西園寺の下を訪れて泣き言を繰り返していた。
それがひと段落すると今度は『官派』の貴族達が四大公の身分を捨てて自由になった嵯峨が何かを企んでいるのではないかとの妄想に駆られて、嵯峨の隠居に反対する法案を庶民院、枢密院に提出し、それが否決されると内閣不信任案を提出すると言う混乱状態に陥った。
そんな政治的混乱を分かった上でいつもと変わらぬ抜けた笑顔を浮かべて嵯峨はタバコをくゆらせていた。
「そのくらいのことは分かってますよ……俺の『あそこ』への帰還はしばらくは無いですよ。そっちの方はあの国が勝手になんとかするでしょ」
嵯峨は兄の言葉を聞きながら春菊を頬張った。
「今回の『殿上会』前の国会だって九条の嬢ちゃんの取り巻きが騒ぎ立てて大変だったんだぜ……オメエのことをいちいち調べて回ってる連中が多くてな……困ったもんだ。ただ、かなめと気が合うくらいだからという軽い気持ちで実際宰相官邸で九条の嬢ちゃんに会ってみるとは意外と俺とは意見が合ってね。今の甲武の現状についての認識はほぼ一致していると言っていい。取り巻きの『官派』の連中の顔を立ててその領袖を演じてくれているんだ。今の状況は俺にとっては最高に都合のいい状況だ。また『官派』の士族共に反乱を起こされたらたまったもんじゃねえ」
西園寺義基はそれだけ言うと静かに自分の猪口に酒を注ぐ。皇帝のいない帝国。『鏡の国』と言う現状に不満を漏らす民が多くいることは噂では聞いていた。そこに現座は行方不明とされている遼帝国皇帝、献帝が遼帝国の『翡翠の玉座』に舞い戻るのではないかとの憶測は甲武にも常に流れていた。
元々自国に敵の多い嵯峨が四大公家に君臨することを恐れる勢力による宰相西園寺義基への圧力を想像できないほど嵯峨は愚かでは無かった。だがそれを梃にどう動くか。政治的位置の違う兄弟のいざこざをこの十年余り繰り返している義弟を見ながら西園寺義基は諦めたようなため息をついた。
「九条の嬢ちゃんは苦労人だからね……九条家の分家は本家からかなりひどい扱いを受けていたらしい。そこで常人なら『我が世の春』と家督相続と同時に『官派』の取り巻きを利用して偉ぶるんだが……そういうところが無い。できた御仁だよ、まだ若いのに。かなめの奴とは大違いだ。いっそのことあれとあの嬢ちゃんを交換したいくらいだ」
西園寺義基はそういうと再び取り皿を手に取った。嵯峨は自分の皿に取り置いていた安い肉をゆっくりと口に運ぶ。
「肉ばかり食べるなよ。焼き豆腐。もういいんじゃないのか?」
西園寺義基はそういうと鍋の端に寄せてあった焼き豆腐とねぎを自分の取り皿に盛り上げた。そしてその箸がそのまま卵に絡めた肉に届いたときだった。




