第38話 日陰の者、光を見送る
ひんやりとした静けさが、威厳を湛えた衣冠束帯越しに嵯峨の身体を包み込んでいた。手入れの行き届いた枯山水が、建物の中庭に静かに広がっている。廊下の角に立つ警護官は、嵯峨の姿を認めるや、崩れかけた直立姿勢を咄嗟に正した。
嵯峨は立ち止まることも一礼することもなく、静かに歩を進めた。向かう先は、金鵄殿のさらに奥にある禁殿……甲武国における最上位の格式を誇る、厳粛な聖域である。
実のところ、嵯峨がこの禁殿の廊下を歩くのは今回が初めてだった。彼の家督相続は、戦争開戦直前の混乱のさなか、義父の独断により極秘裏に執り行われたものだった。戦争反対の意志を政府に悟られぬよう、密やかに、そして迅速に……。それは儀式というには程遠く、忠義深い家人だけを集めた、質素な一室での簡素な通過儀礼に過ぎなかった。
……あれこそが、自分には分相応だった。
元より、自分は日の当たる場所に立つ器ではなかったのだ。
遼帝国を後にした、あの日から……嵯峨はずっと『日陰者』として生きてきた。
それから三十年。肩書が変わり、任務が移ろっても、その意識は揺らぐどころか、むしろ心の奥深くに根を下ろしていた。
今、嵯峨の目の前を進んでいるのは、姪の一人……日野かえでだった。
太刀持ちとして従う副官・渡辺リンを伴い、凛とした足取りで進むその姿に、嵯峨は思わず息を呑んだ。
……自分の代で終わらせるはずだった、四大公家当主としての責務……。
その重荷を、彼女は今、正面から受け継ごうとしている。
嵯峨の胸の奥に、いくつもの感情が静かに湧き上がる。
安堵、悔恨、羨望、そして……拭いきれぬ痛み。
「……やっぱり、俺には似合わねえよな」
ぽつりと、誰に向けるでもなく独り言がこぼれた。
ふと気づけば、頬をつたう一筋の涙。
それは、二度と戻らぬ過去への痛みと、次の世代へ託す誇りとが入り混じった、一滴だった。
一瞬、かえでの視線が嵯峨に向けられた。
そのまなざしに気づいた嵯峨は、はっとしてたじろぐ。頬に熱が宿るのを自覚し、戸惑いを隠せなかった。
けれど、かえでは何も言わず、すぐに前を向いて、凛とした足取りで歩みを続けていった。
かつての甲武を覆っていたのは、狂気と暴力だった。
政治闘争の果てに吹き荒れたテロの嵐は、嵯峨から最愛の妻と、甲武四大公家末席の家督を継がせてくれた義父を奪った。
この地に足を踏み入れるたび、あの日々の記憶が胸を刺す。変えようのない過去であることは、嵯峨自身が一番よくわかっていた。
そしてまた、自分がそんな世界にしか生きられない人間だということも。
嵯峨の人生は、いつだって動乱と隣り合わせだった。
今の嵯峨は、司法局実働部隊……通称『特殊な部隊』の隊長として、日々の雑務に追われる立場にある。
だが、その穏やかすぎる日常は、かつての戦乱に満ちた暮らしと比べると、あまりにも静かで、どこか物足りなさを感じさせるものだった。
嵯峨はそっと目頭を拭い、かえでと、その背を守る副官・渡辺リンのその背に続いて、禁殿へと歩みを進めた。
廊下は果てしなく続いていた。足元の深紅の絨毯だけが、その先へと導くように伸びている。
嵯峨はふと、自分にこの場を歩く資格があるのか疑った。
荘厳すぎるこの空間は、自らを『戦争狂』と認める彼には、まるで光に晒されるように眩しすぎた。
この建物の内部について、嵯峨はほとんど何も知らなかった。ただ、姪を先導する女官の後に続くだけだった。
その前を、堂々と進むかえでの姿が視界に入るたび、胸にこみ上げるものを必死に抑えながら、嵯峨は重い足取りで歩みを進めた。
部屋の前に控えていた女官が、静かに正座すると、慎重な手つきで襖を開いた。
入室しかけたかえでがふと足を止めたのを見て、嵯峨は思わずその奥を覗き込んだ。
五十畳はあろうかという、嵯峨家専用の広間『茶臼の間』には、すでに先客の姿があった。
儀仗服を身にまとい、場慣れた様子で正座するその人物を目にして、嵯峨はほっと小さく息を吐いた。
「遅いぞ、新三郎!今日の主役のひとりが遅れてどうする。お前の遅刻癖は、同盟機構の連中からも苦情が来てるくらいだ。いい加減、何とかしてくれよ。俺の耳がもたん」
そう言って扇子で嵯峨を指していたのは宰相としての儀仗服を身に着けた兄、西園寺義基だった。娘であるかなめに四大公家筆頭の地位を譲って平民となった義基には本来であれば金鵜殿に踏み入れることは許されない。しかし、元関白太政大臣であり現宰相と言う地位に有る事と、宰相の奏上無しには殿上会自体に意味が無くなると言う義基を慕う殿上貴族達の特別の計らいで彼はこの金鵜殿にやってくることを許されていた。
「ご無沙汰しております、父上」
かえでは静かにそう挨拶し、部屋の中央に正座する父のもとへと歩を進めた。
嵯峨もそれに続いて部屋へ入り、周囲を見渡すようにそっと目を配った。
壁には金箔をふんだんに用いた洛中図が描かれ、黒光りする漆塗りの柱が重厚な気配を放っている。
この場にこれまで足を踏み入れなかったのは、やはり正解だった……嵯峨はそう思い、皮肉まじりの笑みを浮かべながら義兄・義基の正面へと腰を下ろした。
「新三郎、その席はもうお前の場所ではないはずだぞ?お前はすでに嵯峨家当主ではなく、四大公のひとりでもなく、ただの一公爵に過ぎん。身の程をわきまえろ……と、まあ、元関白太政大臣の俺が言うべきところなんだろうな」
義基は軽く笑みを浮かべながらも、語調を静かに締めた。
「お前が下した決断には、それだけの覚悟が伴っている。俺も西園寺家の当主の座をかなめに譲ったとき、同じ覚悟をしたつもりだ。ただ……あいつには、まだその覚悟が足りない。関白の器に仕上がるのは、当分先になりそうだな」
義基の言葉に遅れて気づいたように、嵯峨は静かに三歩、後ずさる。
その動きを見て、かえでも場の空気を読んだのか、叔父の正面へと迷いなく歩み出て、静かに腰を下ろした。
「このたびの家督相続の儀……まことに祝着である。元関白として、その儀を正式に引き受けよう」
義基は一呼吸おいて、かえでを見つめた。
「今後は四大公家の末席として、甲武国のために力を尽くすのだ。よいな?」
義基の言葉に応じるように、屏風の陰から白い直垂を着た下官が現れ、三宝に載せた杯と酒を恭しく運んできた。
その所作を見て、嵯峨はようやく理解した。これもまた、正式な家督相続の儀式の一部なのだと。
かつて嵯峨が家督を継いだのは、戦争直前の混乱の只中。すべては書面で済まされ、儀式の舞台など用意されるはずもなく、内乱の影が忍び寄る遼南の地に彼はあった。
本来、四大公家筆頭の当主として家督相続を認める儀は、『関白太政大臣』の専権である。
今はその地位にあるかなめが不在のため、代理として儀式を執り行う義基が、どこか満ち足りた笑みを浮かべていた。
義基は、下官が注いだ杯をそっと取り、正面に座る義娘・かえでへと差し出す。
嵯峨の目には、そのかえでの手が微かに震えているのがはっきりと見えた。
かえでは、差し出された杯を両手で受け取り、静かに飲み干した。
「藤原朝臣楓子、三位公爵・大納言に叙す」
その宣言は本来、かなめが口にすべきものであった。義基はあくまで代行者として、慎ましくそれを告げた。
「ありがたく、お受けいたします」
かえでは静かに拝礼し、頭を深く下げた。
その様子を見届けた下官は、三宝に置かれた酒器をそっと持ち上げ、足音も立てずに襖の向こうへと姿を消した。
下官たちの気配が完全に消えたのを見届けると、義基はふうっとひと息ついて背筋を伸ばし、突如として足をくつろげるように投げ出した。
先ほどまでの厳格な面持ちは跡形もなく消え、そこにあったのは、打ち解けた笑みを浮かべる『平民宰相』……庶民の顔を取り戻した義兄の姿だった。




